池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

新聞記事より

2019-03-28 23:58:12 | デイサービス池さん

本日の新聞記事より

大正時代、日本人女性が書いた半生記がアメリカでベストセラーになったそうだ。

杉本鉞子さんという人の「武士の娘」という本。

越前長岡藩の元家老の家に育ち、25歳で渡米した女性。

本に書かれた武家の美風や品格がアメリカの人たちの心をつかみ、日本理解を助けたとされているらしい。

それは例えばこんな場面か。

鉞子の母が、嫁ぐ娘に毎日鏡を見るように説く。「心にわがままやおごりがあれば、それは顔に表れるものです。」

・・・・・

という記事。

NHKのドラマの影響もあって、今流行の「武士の娘」という言葉に目がとまったけれど、娘へ送る言葉として「鏡を見なさい」という言葉は、確かに胸に響く。

鏡に向かって自分の顔を正面から見た時、どんなふうに感じるか。

自らの顔を目をそらさずしっかりと見ることができるのだろうか、自らの心にきちんと向き合うことができるだろうか、ごまかしていないか、適当にやっていないか、おごっていないか、裏表があったのではないか、うそをついていないか・・・いろんな問いかけが自らの心に浮かんでは消える。

リフレクション、「内省」という言葉があるけれど、確かにこういう気持ちで鏡を見る習慣は大切なことなのかもしれない。

と思った今日の新聞記事。

 

その上、更に本日の新聞に「藤田家族」の藤田さんの記事が見開きで掲載されていた。

先日の有機農研の会を池さん本店でしてくれた時、本当に久しぶりにお会いして嬉しくなったけれど、またまたでっかい記事で登場してて嬉しくなった。

タイトルは「食と平成」ー「普通のご飯」が一番難しい時代ーとあった。

流通過程が複雑になりすぎて「食の道筋」が見えない時代。

グルメの先にたどり着いたのは、飽食と貧困、過食に拒食、食料の6割を輸入しながら年間646万トンを廃棄する社会の現実。

そんな社会の中で、生産者と消費者の関係を大切にしたいという藤田さん。

その先には、多少手間でも豊かな生活があるんじゃないかと信じて。

藤田さんは就農14年目。

簡単なようで難しい「普通の暮らし」を積み重ねる生活者だと記事は結んであった。

 

まさに同感。

インスタのために食べ物を探したり、お金や時間を使ったり、食事は画一的コンビニメニュー、なぜならどこも同じ味で安心だとか・・・

「普通のご飯」と「普通の暮らし」こそが大切だといろんな人が気づけば、ひょっとして流通や販売や料理法やいろんなことが変わっていくかもしれないと思いつつ。

グルメはグルメでしかなく、流行は流行でしかなく、大切なことは、きっと毎日の小さな手仕事や食事に隠されているのになあと思う。

一番難しいと書かれている「普通のご飯」は(この前のブログにも書いたけど)、顔の見える人が大切に心を込めて作ったお野菜を、食べる人のことを想いながら手間を惜しまずに料理して、大切な人たちと同じ食卓で頂きますと感謝して頂くのが「普通のご飯」

地産地消・知産知消なり。

 

もうすぐ改元。

平成という時代は、明らかに社会自体が大きく変化を遂げた時代。

時代と共に変化してゆくものもあるだろうけれど、反対に変わってはいけないものも確かにあるはずで、でも変わるしかないのだろうかと、そういう時代になってしまったのだろうかと、心の中で考える。

世の中と世界が、間違った方向に進んでなければよいのだけれど・・・と思いつつ。

 

 

 

 

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それはない!

2019-03-23 23:48:34 | デイサービス池さん

ちょっと真面目なお話が続いておりましたので、今日は「池さん面白ネタ」でいってみたいと思います。

題名「それはない!」

 

その1、手を骨折したおじいさんの場合

おじいさんが手を骨折してやってきました。

さつきちゃんは看護師さん。

優しい優しい看護師さん。

優しく話しかけ血圧を測ろうといつものようにおじいさんの腕にカフを巻き測定を開始しました。

けれど、200超えまでシュポシュポしても機械の反応がありません。

とうとうカフのマジックテープがはじけるようにはがれてしまいました。

一体どうしたのでしょう!

血圧計が壊れたのでしょうか?

答えは・・・

おじいさんのギブスの上から血圧を測ろうとしたらしい。

・・・

それはない!

さつきさん!

それはない!!

 

その2、年取ったおばあさんの場合

おばあさんは年をとっていますが超元気です。

でもやはり高齢からか季節的なものなのか、血圧が大きく変動するようになりました。

急に血圧が高くなったりするものですから、おばあさんも苦しそうなので、病院で薬をもらうことになりました。

いつも行く病院へ行ったのですが、いつもはおしゃべりなおばあさんは黙ったまんま。

診察の時もいつもなら「どうですか?」とか聞くのに何も言わず黙ったまんま。

体調が悪いのか、機嫌が悪いのか心配しながら薬をもらって帰りの車に乗ったとたん・・・

おばあさんが聞きました。

「妊娠しとんか?」

・・・

「子ができたんか?」

・・・

それはない!

おばあさん!

それはない!!

絶対に

それはない!!

 

面白いネタ満載の池さんです。

さてさて春休みがやってきます。

たまちゃんもやってきます。

賑やかな春がやってきます。

桜ももうすぐ咲きそうです。

 

 

 

 

 

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「食」を想う

2019-03-18 22:54:27 | デイサービス池さん

光合成を行える植物は別として、人も動物も誰もかれも生きている限り何かを食べなければならない。

しかも生きている何らかの命を食することで、生物はその命を繋いでいくことができる。

米・魚・野菜・果実・肉・・・もともとそれらどれもが、誰かに食べられるために生まれてきたわけではなくて(長い長い歴史の中で人が食べるために育てたり増やしたり変化させたりしてきた命はあるけれど)人が「食物」として位置づけてきた気がする「命」の数々。

だからこそ私たちは食べ物を前にして「命を頂きます」と謙虚に手を合わせる。

食べ物に対して、命を繋ぐということを日々意識しているわけではないけれど、何かの時にふと心に浮かぶこうした習慣や意識を大切に忘れないで生きてゆきたいと思う。

 

で、先日の池さん本店の会。農業関係の会。

食材や食べるということに真摯に向き合う人たちが集まった会。

講演は大ちゃんの「池さんのことや老いや死についての話」

「農業と介護」、異質な気がするかもしれないけれど実は考え方の原点はとても良く似ている。

重なり合う想いを感じつつ、出会った人たちも大切に想える縁を感じる人たちばかり。

私たちが池さんを始めた頃、時期を同じくして有機農業に取りくんだ人たちや、みかちゃんを通じて知り合った人たちや池さんを応援してくれている方々ばかり。

講演の後は「池さんのごはん」の時間。

ほとんどが知産知消。

池さんに頂いたお野菜やお肉、果物でいつもの池さんのご飯。

切干大根・高菜・大根・かぼちゃ・文旦・黒豆・チシャや新玉ネギ・・・いつも頂く季節のお野菜がテーブルに並び放題。

恒例のテーブルバイキングで、お子様含む合計36人の胃袋満杯。

残菜ゼロ。

「大切に丁寧に作ったお野菜たちを、食べる人たちの事を想いながら手間暇かけて料理して、想いを込めて食卓に並べる」私が大事に想う料理のあり方。池さんのご飯の原点。

命あるものを食さなければ生きてゆけないのが人間だとしたら、食さなければならない命に対して、その命がよりよくあるべくよりよく働くべく、命自体の持つ力を最大限に頂くことを考えてみたいと思う。

農薬や化学に頼らず自然が本来持っている力を大切にした農業の方法を選んだ人たちと、薬や医療を過信することなく人が生きる力を信じて老いや死を受け止める介護のあり方は重なり合う部分を多く持つ。

 

食は命に直結している。

人の命も、野菜の命も、ものの命も、この世の中のすべての命は、「よりよくある」ことを願っている。

よりよくあるために、よりよく生きるために、今日も一生懸命ご飯づくりに精を出したいと思う。

美味しいご飯を届けたいと思う。

 

 

 

 

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嗜好と思考

2019-03-15 23:03:19 | デイサービス池さん

最近気がついたのですが、ワタクシ嗜好がすっかりかわってしまいました。

甘いものが好きではなかったのにチョコレートにお饅頭にビスケット、買い物の時についつい買ってしまうようになりました。ひっきりなしに飲んでいたブラックのコーヒーがハチミツ入りの紅茶に変わり、ビールとはすっかり疎遠になってしまいました。更にほとんど好きではなかったお餅まで食べたりするようになって、自分の身体が一体どうなっているのか分からない状態です。

ただの嗜好の変化なのか、年をとっていく過程の変化なのか、それさえも不明です。

じいちゃんやばあちゃんたちを見ていて、年を重ねていくということがどういうことなのかわかったつもりでいましたが、わが身に降りかかってはじめて「なるほど」と感じてみたりしております。人は緩やかにカーブを描いて年を重ねていくのではなく、何かの出来事や変化をきっかけに、階段を降りるようにガタンと下降し、それからしばらく平坦な時期を送り、そしてまたガタンとレベルが低下し、また安定期を送り・・・そうしてだんだんに老いてゆくわけですが、この変化の中には「嗜好」も含まれているのでしょうか。

今までにもいろんな人の嗜好の変化に出会ってきたワタクシではありますが、これほど顕著に変わるものかと我ながら驚いております。

そして考えています。頭では「年をとる」ことがどういうことかわかっているつもりでしたが、こうやって少しづつ変わっていくいろんな変化を「自分で確認していく」ということが「年をとる」ということではないかと思ったりします。

なんでもなかった場所でつまずいたりぶつかったり、当たり前にできていたことを忘れたり、好きではなかったものを食べてみたり・・・今までとちょっと違う自分を見つけて「あ~ふむふむ」と驚いて、心の中でこっそり「なるほどね~」と納得し、誰にもわからないところで「年とったかな~」と諦めて・・・老いへの確認を続けていく作業。

現実を突きつけられて「そんなはずはない」と自らを拒否したりせずに、ちゃんと受け入れて暮らしていけたらいいなと今の所思っていますが・・・はてさてどうでしょう。

嗜好の変化と共に、思考の方も年と共に変化します。

20台の頃に考えたことと、30台に思ったこと、そして40・50と年を重ね、60になった今思うことは、生きてゆく環境や生活スタイルが変化するわけですから違って当たり前。

以前は肩肘貼って生きていたのに気がつけば自分も丸くなったな~と思う人は多いと思いますが、やはりそうやって時間が経つほどに思考も変化してゆくのでしょう。

社会への関心や子どもや孫たちのこと、家庭のあり方も変化しますし、交際の方法や趣味なども年と共に変化します。何も変わらずに昔のままというわけにもいきませんし、誰もがそういう変化を受け入れつつ生きているのだと意識するようになりました。

 

 

時代は流れ、人は年齢を重ね、何もかもが変化してゆきます。

変化を恐れることなく、変化に戸惑うことなく、しなやかに受け入れて生きてゆきたいと思う毎日です。

3月も半ば。

今日は中学校の卒業式。

小松タイムで授業を行った子どもたちも卒業してゆきました。

人生の大きな変化を柔軟に受けとめて、新しい道へ向かって、豊かにしなやかに歩んでくれることを願っています。

これから始まる新しい日々が幸多い日々であるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

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8年の歳月に

2019-03-11 22:55:24 | デイサービス池さん

残念な梅の花がなんとかそれでも一応頑張って咲いてくれて、その後同じ時期に咲き始めたサクランボの花。

毎年たっぷりと実をつけてばあちゃんたちを楽しませてくれるけれど、このサクランボの木の花が今年は少ない。

去年木を伐りすぎたのか、スズメたちにつつかれてしまったからか、気候のせいなのかわからないけれど、今までで一番花が少ないから今年のサクランボは早い者勝ちになってしまいそうな予感がする。(まあ、いっぱい実をつけても早い者勝ちではあるのだけれど・・・)

そうこうしているとどこからか桃の枝が届き、「やっぱり春やねえ~」とか何とか言ってると、どこかでレンゲの花を見つけたりして・・・もうまったく季節がどうなのかわからんようになってしまう今日この頃。

 

今年も大切な一日を過ごし、記憶の片隅に追いやってはならない事実を胸に刻んだ。

黙とうの時間を静かに待ち心を落ち着けて過ごすつもりが、その時間に合わせたような来客にあたふたしつつも、8年という歳月と今だ不安の中で生きる人たちのことを想い、綺麗ごとではない現実の厳しさを想う。

シリーズで放送されているテレビでの番組によってしか復興の情報を得ることができない自らを省みる時、この自分に何ができるのか再度問うてみる。

更にこれほどの事実と現実を前にしてもなお、人は・政治は・社会は、原子力の力に拠らなければ成り立たないものなのかと現実を憂う。

社会の行く末に不安を抱えつつ、8年目の一日を終える。

 

 

 

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弥生三月

2019-03-05 23:04:01 | デイサービス池さん

あっという間に2月が終わり・・・そして弥生。

なんと1年の6分の1が終わってしまった計算?時間が過ぎるのが早すぎて頭が痛くなるけれど、「時間が過ぎるのが早いのはなぜか」とやっぱりチコちゃんに聞かなければならないかもと思いつつ、ボーっと生きているわけではなく、意味深い一日を今日も生きる。

 

老いを生きる人もさまざまで、同じ時間を生きながらもそれぞれが異なるスピードで命を刻む。

この間まで理解できていたのに、1か月も立たないうちに何度も同じことを聞くようになり家族との関係が危うくなる。

確かに聞こえていたのに会話が聞き取れなくなり孤独感が大きくなる。

歩くの危ないな~と思っていたら、転んで骨折し一人暮らしを断念するしかなくなってしまう。

だれもかれも同じ時間を生きているはずなのに、その時間を生きた先にあるのは、まったく異なる生活や空間。

それでも、望むと望まざるに関わらず人は誰もがその時間を生きてゆくしかないのだといつも思う。

必死に家族のために生きてきたとしても、真面目に一生懸命働いてきたとしても、老いた先にある生活がいつも幸せに輝くものであるという保証はどこにもない。

反対に家族を顧みることもなく自分勝手に生きていたとして、だから最後の時間がどうかと言えば、案外穏やかな時間を生きていたりする人もいる。

どこでどう道がわかれるのだろうといつも不思議に思うけど、それが運命というものなのかもしれない。

想像だにしなかった時間を生きることになったとしても、それはそれでしかたないのだから黙って受け入れるしかないのかもしれないが・・・

それでもその道に抗って、抵抗し、暴れ、自らの人生の最期を、諦めきることもできず、ただ憤懣とやるせない想いの中で生きるしかない人の心の中を想像してみた時・・・

仮にその姿が自分だったらと想像した瞬間に、なんだか心臓のあたりが締め付けられて息が苦しくなった。

決してそう生きたいと思っているわけではないだろうと思うだけに、どこに分かれ道があったのだろうと、番組のタイトルではないけれど「アナザーストーリー」を思い描いてみる弥生の初め。

それぞれの人の人生に想いを馳せる一日。

ばあちゃんの顔のしわに刻まれた時の長さとものがたりの大きさに想いを馳せる一日。

杉の花粉はなかったはずなのに、なぜか鼻水が止まらない弥生の初め。

 

 

 

 

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