池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

「自立支援」

2018-01-27 23:36:05 | デイサービス池さん

本日発表と相成りましたのは、「自立支援を重点化」の介護報酬の改定なり。

2018年からの3年間、この方針でいくとのお達しなり。

リハビリによって高齢者の自立支援や重度化防止を進める事業所に配分を重点化するらしい。

デイサービスは利用者の状態が改善するなどの成果がでたら加算。

看取り対応する介護施設への報酬を加算。

夜間・早朝に医師が駆けつける体制を整えれば加算。

団塊世代が75歳以上となる2025年へ向けての介護費用の抑制するのが目的だそうだ。

しかも、3年前の改定で報酬引き下げをされて利益率が悪化した特養を引き上げ、利益率のよい大規模通所介護を最大5パーセント引き下げるのだと。

 

またまた、一体どこへ行く介護保険。

自立支援で加算をとろうとしても、年と共に下降していく年寄りをどうするのだろう。

加算が見込めない(状態の改善が見込めない)年寄りは、やっぱり介護施設からはじき出され・・・介護保険は、元気で筋力の回復維持が可能な年寄り優先。

介護困難な問題老人をケアするより、回復の見込みのある年寄り集めたほうが効率がよい・・・効率と利益優先。

3年ごとに、改定ばかりで、一体何が、どうなるのやら。

一体どこへ向かうのでしょう、私たちの介護保険。(報酬のうち8~9割は税金ですよ~!40歳以上は保険料収めてるんですからね~!)

2025年になった時、団塊世代の人々は、皆元気に介護施設へ。

トレーニングマシンに乗っかって、自立するために、健康維持に努めている。

それを支える若者たちは、不安定な報酬で働く介護職、法律が改正されるたび、賃金の上下に冷や冷やしながら一生懸命働く若者たち。

そりゃ、離職者も増えるわけだわ。

効率優先だから人手不足を補うために、ロボットも導入せんとね。

問題行動をいっぱいする人は、加算もとれないし効率悪いから「対応できません」と断らんとね。

あ~~~、どこへ行く。

私たちの介護保険。

介護保険とは、一体なんでしょう。

誰かを介護しなければならなくなった時、何が必要になるでしょう、どんなことを望むのでしょう。

自分が介護される立場に立った時、何が必要になるでしょう、どんなふうに介護されたいでしょう。

加算減算で右往左往する現場と、自立を期待される高齢者。

安心して年をとるのは難しそうで・・・

回復の見込みなく、下降線をたどる大変な老人は、どこにも行き場所はなくなるかもね。

だって効率悪いですからね~~~ってか!

あ~~~介護保険、すべて机上の空論なり。

現実は、現場は、年寄りは、介護している家は、家族は・・・

何をどう考えるか、何が必要か、何を支えるのか、何のために、誰のために・・・

介護保険、どこへ行く。

 

 

 

 

 

 

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「ほどほどの」

2018-01-23 23:40:00 | デイサービス池さん

超巨大な寒波襲来で、都市圏は大変なことになっているようで。

池さんに繋がる方も都市圏に居住しておられる方が多くいるので心配でたまりませんが、週末には全国的な寒波が再びやってくるらしく、無事な春の訪れを心待ちにしたくなるような、そんな気がする今日この頃。

寒波も冬の寒さも、「ほどほど」がよさそうに思うのだけれど。


愛媛新聞にこんな記事を見つけました。

「ビックデータのリスク」に切り込んだ憲法学者の意見を書いた記事。

漠然と違和感や不安を抱えている人に、これは憲法の問題なのだと『言葉』を渡したかった。
・・・
日進月歩の技術革新の中、効率性や経済合理性中心に突き進む現状に、「このままでは『個人の尊重』という憲法の基本原理が侵食され、変質してしまう可能性がある」と危ぶむ。
・・・
個人の行動や好みを把握するだけでなく、適正判断や行動予測することまで可能になる中で、特に懸念するのが、就職や融資の審査などにおいて、ビックデータの解析に基づいて人工知能(AI)が対象者を評価するAIプロファイリングだ。
・・・
人間同様、AIにも完璧はない。補い合いながら、ほどほどの正確性と、プライバシーや個人の尊重といった価値を常に較量していく考え方が必要だと思う。
・・・
ビックデータが描き出すのは「40代」「男性」「東京出身」「会社員」といった「属性」の集合体だとくぎを刺す。「どんなにデータを集めても『類型』であって、実際の『個人』とは違うことを忘れてはいけない。」
・・・
私たち国民が主権者として、立ち止まって考え、選択していく問題だと思う。

 

確かに、確かに、違和感も不安感も持っていました。

時代は本当に急激に変化し続けています。

ほんの少し昔、私の子どもたちが育った頃は携帯などない時代だったし、まだパソコンもなかった時代だったのに、孫たちは当たり前にスマホを操作できるわけで。

いつか見た手塚治虫の描いた漫画のような世界観の中で、AIというなんだか知らない生き物に、私たち人間が操られていくような・・・そこにはかつてのような「人」の営みはなく、ロボット対ロボットの社会しかなく、そもそもそんな世の中を社会というのかさえもわからないような時代が、もうすぐそこまでやってきているようなそんな不安感。

何かをするたびに個人なんちゃら番号というのを聞かれ、すべてを誰かに管理される時代。

私個人は、類型でもデータでもなく、あくまで私個人として生きたいし、私の行動の予測などしてほしくないし、社会が社会として存在していくために必要なデータは、あくまでデータでしかないのだという原点を忘れてほしくないし。

このデータだらけで管理されている世の中に、ほどほどの正確性や個人の尊重など、存在するのだろうかと思ってみたり。

何もかもが変わりすぎて、新しいものに期待しすぎて、変わることがよいことだと思い込みすぎて、利益やスピードを優先しすぎて、社会を効率化しすぎて、効率化するために生き方を変えすぎて、そうして人間は一体どこへいくのだろうと考えてしまう。

社会は人と人が生きてこそ成り立つもの。

そこには限りなく曖昧でゆるやかな関係やグレーの部分が存在する。

ぶつかり合ったり、抱き合ったり、人の心が織りなす微妙なバランスの上に、時間をかけて関係が築かれてゆく。

個人が尊ばれ、人が生き、人が暮らしてこそ社会と言えるのではないかと思うのだけれど。


更に考えてみると、介護の世界も同様なり。

効率化の嵐は、必ずやってくるわけで。

コンピューターによる一律の(公正な?)介護認定の調査が行われ、データ化された疾患によって利用可能な施設に振り分けられ、高性能なロボットが時間を決めてオムツを交換、入浴はもちろん機械で、食事も疾患に最もよい栄養価のものが計算されて提供され、病気になってもそのまま病院へ移動できますから、安心して幸せな老後を送れます・・・こわっ!

賃金や社会への貢献度など、あなたのあらゆる個人データをAIが評価し、あなたにぴったりの施設を探せますからどうぞご安心を・・・余計なお世話!

そんな世の中が、近い将来やってくるようで、怖くてたまりません。

 

ビックデータ、確かに必要かもしれない「もの」ではあるけれど、決して絶対的なものではないのだという意識を、しっかりともっておかないと、『個人の尊重』という憲法の基本原理が侵食され変質する可能性があるというこの人の意見に頷いた私です。

同時に、この混とんとした変化の時代をどう生きるべきなのか、たとえどう生きることになろうとも、やっぱり、時代の変化に振り回されることなく、「集合体としての老人を」ではなく、「○○さん」を大切にし続けてゆきたいものだと思います。

 

強風が吹いています。

1月の嵐は寒々しくて寝苦しいのか、大頭はなかなか静かになりません。

大雪、何事もなく過ごせますように。

 

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風邪にも負けず

2018-01-17 22:50:48 | デイサービス池さん

インフルエンザがあちこちで猛威を振るっていますが、皆さまお変わりありませんか?

毎年のことながら、冬のこの時期は(ワタクシ自身も)体調の管理が難しくて大変です。

池さんは今日も、朝から大鍋に湯を沸かして加湿に努め、時折窓を開けて空気を入れ替え隙間ケアを行い、フーフー言いながらアツアツのスープを飲み、食後はしっかりミカンを食べ、蒸気一杯のお風呂で身体を温め、ヤギの物まね合戦でヒーヒー笑い、ゆっくり昼寝をし、たらふくおやつを平らげることぐらいしか対策をとってませんが、どうか風邪引きばあさんがでませんようにと願うばかりです。

 

さて1月17日。阪神淡路大震災から23年。

かつてなかったほどの都市直下型地震のテレビ映像が放送され、画面を見るたび、息苦しくなったのがついこの間のように思い返されます。

地震直後に発生した大火災の映像やリアルタイムでの被災の映像は、今この瞬間にも画面の中のその場所で、命を失ってゆく人が確かにいるのだという事実を目の前に突き付けられたようで、何とも言えない苦しみが心に湧いてきました。

あれからもう23年も経つのですね。

亡くなられた方が6434人。

両親を亡くした子どもたちが400人。

ただただ、祈りを捧げたい思います。

 

 

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雪帽子

2018-01-12 22:06:13 | デイサービス池さん

石鎚山・笹ヶ峰・亀ケ森・高縄山・・・

昨日からどの山も雪帽子で美しい。

こんな時の送迎は、心が弾む。

車の中で「見て見て、山が!」とばあさんに言うと、

「?」とあちこち見まわしているので、

「あそこよ!」とスピードを落として石鎚山の方を指さすと、

「ほにゃほにゃ!」

といつものようにとぼけたので、いつものように期待していたら、

「ほ~雪かい?」と答えてくれたことが、

当たり前の会話過ぎて面白くなかった朝。

どうしてだか、がっかりする自分。

何を期待していたのかわからないけれど、

とりあえず、なんとかかんとか一日過ごす。

最近どうも視力が悪くなって困っているけど、

眼鏡はこの前作り直したところだし、これが老化現象なのだと自分に言い聞かせて、

ぼやけたテレビを見ていたら、63歳の人が登場し、画面の説明をアナウンサーがしゃべっていた。

「63歳の高齢者が・・・云々」

ありゃ、もう高齢者なんだと気が付いたけど、

毎日100歳に近い人たちと生きていると、

そんなことはどうでもいい気がしないこともないし、

考えてみると、するような気もして、

なんだか年取った気分になってきた。

毎日いろんなことがあるけれど、

いろんなことを考えて、

いろんなことを話しながら、

状態や状況が変わるたびに、生じるであろう問題や課題を

投げ出さずに考えながら、

効率でも能力でもなく、

ばあさんたちといるのが楽しいなと思いながら、

今日も一日終わりました。

 

 

 

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人生からの問いかけ

2018-01-08 22:55:17 | デイサービス池さん

学生時代に出会ったヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」

テレビの番組でも取り上げられたのをきっかけに、久しぶりに開いてみる。

「人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて人生に問いを発するのでなく、人生からの問いに答えなければならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。」

人生から問われるとは、何を意味するのだろう。

自分自身の気持ちや想いとかけ離れたところにあっても、人生の中での生きる意味や自分の使命は、もともと自分を超えた所から与えられているものだとフランクルは言う。

固有の使命(ミッション)を全うするという人間本来のあり方へと立ち戻り、日々直面する人生の状況から発せられる問いかけに精いっぱい答えることが大事だと。

行うべきことやなすべきことが見つからず、悩むことはない。もはやその答えは足元に与えられているのだと。

 

人間は、「人生から問われている」

まるで自分が行ったかのように思えることも、そもそも人間という存在の本質は、自分ではない誰か、自分ではない何かとのつながりによって生きる力を得ているのだと知ることができる。

親鸞のいう「他力」という言葉の意味にも通じる自分ではない「大いなる力」によって、人は生きることができている。

だとしたら、人生の転機となる出来事に遭遇した時、その出来事が自分の人生に指し示してくれる道が一体何なのか、何を問いかけられているのか、自分に与えられた使命が何なのか、何をなすべきなのか、そのことを想っていかなければならないのではないか。

おそらく「転機」は、「他力」によって与えられた大きなチャンスに違いない。

人生から問われた自らの生き方を省みて、「人生」から問われる質問に、正面から向かい合っていかなければならない。

人生のあらゆる場面から生じる問いかけに対し、

大きな視野を持ち、

自らの姿を客観的に見ることを忘れず、

慢心と驕りを戒めつつ。

 

 

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初春に

2018-01-04 23:25:28 | デイサービス池さん

長らくご無沙汰しております。

皆様お変わりございませんでしたか?

ご挨拶遅くなりましたが、今年もどうぞよろしくお願いします。

なんだかかんだかと思っているうちに、あっという間に早くも1月4日で仕事始め。

今日、自宅前の梅の木の蕾が少し膨らんでるのを発見、「春が来るよ~!」というと「まだ冬はこれからだ」と言われ、でも、冬がやっと終わったらあっというまに花見も終わり、すぐに暑い暑いという夏が来るし、夏が暑いと思っていたらすぐにお祭りでトンチキトンチキと喜んでいたらすぐにお正月で、一年早いな~と思っていると・・・っていうか、いえいえまだ今年の正月終わってないし・・・

 

というわけで、今年も無事に年神様がやってきてくれました。

1月1日に訪れてくれる年神様。

今年も1年恵みをもたらしてもらえるようお迎えします。

家を掃除し、しめ縄で清め、鏡餅をお供えし、お節料理をつくり、心を込めてお迎えします。

家族が1年間無事で過ごせますように。

今の世の中、いろんなことが簡単になっていく時代。

手間暇かけるよりも、お金を使って簡単な方を選んでしまう時代。

手を抜く方法がいくらあっても(どんなに手が痛くても)これだけはキチンと整えたいと思うので、やっぱり今年もお節料理を作りました。

今年1年健やかに暮らすことができるように幸を祈りつつ、昔からの言い伝えやいわれを語り継ぎながら、お正月という日本人としての区切りの日を大切に迎えました。

そして、今年1年が池さんにとっても良い年となるよう、心を込めて氏神様にお祈りしました。

お正月。

どうか皆様にとってもより良い年となりますように。

新しい1年、どうぞよろしくお願いします。

 

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