その6。「問題行動」
明らかな病変によって、その人格が崩壊している場合も確かに存在する。
しかし「認知症」という状態が、すべて病気のせいで手に負えないどうしようもない状態なのかと言うと、実はそうではない場合もある。つまり、老人が「ボケ」という手段によって、老いてゆく自分自身と葛藤を繰り返していたり、あるいは「ボケること」によって、移り変わってゆくわが身と周囲との折り合いをつけているように感じる場面に何度も遭遇した経験があるからだ。
ボケによって問題行動を起こすと考えられているが、そもそも問題行動とは何か、何が問題なのか、誰にとって問題なのか・・・を考えてゆくと、何一つ問題はないという場合もあるのだ。私たちは自分たちに都合のいい解釈で、老人を「問題」だと思ってはいないだろうか?
オープンしてすぐに、たあさんという人と私たちは出会った。
みごとに「問題老人」のレッテルを貼られたおじいさんだった。
入院していた病院では、看護師に向かって便を投げつけたり、暴言を吐いたりする行為が続き、退院を迫られていたが、家にすぐに連れて帰ることも困難で、なんとかしばらく預かってもらえないかという相談だった。
そしてたあさんはやってきた。色白でちゃんと挨拶もしてくれて、ちょっと見たところ「問題老人」ではない「普通の」老人に見えた。
そして・・・一日中、たあさんは言い続けたのだ。「トイレに連れて行ってください」と。特に夜はひどかった。病院のベットを思い出すから、コタツで寝たいというたあさんのためにコタツを用意し、私たちは一緒に寝ることになる。そして言うのだ。「トイレに連れて行ってください」と。
車椅子を用意し、トイレに連れていく。そしてやっとまたコタツに寝かせたと思うと、また言うのだ。「トイレに連れて行ってください」と。朝昼夜と関係なく、延々続く同じ要求とトイレ介助。何日も続く要求。
私たちはどう考えればいいのかわからなかったが、とにかく全ての要求にとことん答えてみようと思った。そして、何も言わずにもくもくとトイレ介助を行った。
しばらくして、たあさんは言った。
「病院では、言いたいことがあっても誰も聞いてくれない。だからわざと便を投げつけてやったのです」と。
ポーランド人の娘の友人がやってきた時も、「アイム チーフエンジニア」と自己紹介して私たちを驚かせたこともあった。
どこまでボケていて、どこまでが意図的な行為なのか、もちろん今でもわからない。ただ、私たちはたあさんによって試されていたのだと感じる。どこまで本気で自分と関わってくれるのか?どこまで見捨てずに向き合ってくれるのか?・・・確かにたあさんは試していた。私たちが信用できる人間かどうか。心を許せる人(場所)かどうかを。
いろいろな経過があって、自宅で介護できる状態になっても、お泊まりを利用して時々たあさんはやってきた。「小松のお母さん(私)の所へ行くのは楽しみです。かぼちゃの煮物が美味しいです」と言ってくれ、ここへ来るのを本当に楽しみにしてくれていたのだ。
「問題」は確かにあった。社会との関係という点において、ひどく不器用な人だった。周囲との関係の構築がうまくできないために、力ずくで(たとえば便を投げたり壁になすりつけたり)自分を保とうとしていたのだが、それは認知症によるものというよりも、たあさん個人の性格によるものだったと、あとでご家族のお話を聞いて感じたのだ。つまり、元気な時から気性の激しい人で自己中心的で、ご家族もずっと家族間で葛藤を抱えながら生きてきたという話だった。「問題」ではあるが、「問題老人」なのではなかった。
たあさんの「問題行動」は、その性格から考えてただの「自発的コミュニケーション」であったと今思う。
一般的には問題行動は、脳の病気にともなう「中核症状」から派生する「周辺症状」であり、治療や介護、特別な人間関係技術によって解消するべきものといわれている。
けれど、たあさんの場合を考えても、それは決して解消すべき課題なのではなく、ただありのままに「受け止めること」が結果、たあさんの葛藤や想いを落ち着かせることに繋がってゆく。
そして私たちがありのままのたあさんを受け止めようとしたことが、たあさんの心を開き落ち着かせることになった。
たあさんは言った。「トイレのことを何度言っても、いやな顔をせずにつれて行ってくれた」と。
一見暴言と思う言葉も、問題行動だと思う行為も、考えてみると社会に拒否され抑圧された気持ちを、ただ素直に表現したにすぎないのかもしれないのだ。
だとしたら、私たちは老人のその行為が「一体どんな意味を持ち、何を訴えようとしているのか」を知る努力をしなければならないと思う。
目に見える現象や行為だけをみるのではなく、その心の奥に潜む「言葉にならない言葉」に耳を傾け真摯に聞こうとする姿勢が、介護の現場にいるものには求められているのではないかと思っている。
かぼちゃの煮物を美味しそうに食べて笑うたあさんの笑顔は、フェイスシートのように「問題老人」ではなく、わがままで自分勝手に頑固に生きたただの年寄りの笑顔でしかないように思えた。