河渕じいちゃんという人がいた。
何だろう。
じいちゃんを思い出すと寂しくて悲しくてどうしようもないけれど、なぜだか穏やかで柔らかくて暖かい気持ちになる。
遺影は、着古した前開きのシャツにはんてんを着たじいちゃんの写真。
少し前までのじいちゃんそのまま。
見慣れたじいちゃんそのままの遺影。
「これが一番じいちゃんらしかろ~」と笑う娘さんに、「本当やね~」と笑う私。
じいちゃんがいつも座っていたリビングの椅子。
その椅子があった場所に置かれた祭壇。
お菓子か何かの缶の蓋の上に用意された線香立て。
元気だった頃よく飲んでいた缶コーヒーと、孫さんが送ってきたお饅頭が5個。
その横にある写真立てには、家族と一緒に写ったじいちゃんがいる。
両面になった写真立ての裏側には、池さんのパンフレットが。
池さんのテラスでじいちゃんたちがおしゃべりしているあの表紙。
遺影と位牌。
補聴器とメガネ。
花入れには小さな一束の菊。
それだけ。
質素に簡単に、見事に整えられた祭壇は、お葬式の2日後だとは思えないほどの潔さで、私を迎えてくれた。
心のこもった暖かい祭壇。
じいちゃんの新しい居場所。
今も普通に、ずっとじいちゃんがそこにいるような空気が漂う空間。
まるで、じいちゃんが生きた姿そのままに、
じいちゃんが、今も同じ空間に「ある」
たった4年ほどの時間。
時間は短かったけれど、でも濃い時間を一緒に生きた。
わからんことが増え始めた頃、マイピーで町内を徘徊、信号無視に危険運転。
最初の担当者会は、でっかい会議室がいっぱいになるほど。
交番・自治会・同級生・近隣の住人・クロッケー仲間・・・満員になった会議室で「どうじいちゃんを見守るか」という話をした。
人数の多さは、じいちゃんが関わった地域の人たちの多さを表す。
人の世話や地域のことに、自分の時間を尽くし続けたじいちゃんの生き方そのまま。
最初に来たのはいつだっただろう。
はっきりとは思い出せないが、最初から、じいちゃんは意思を持って池さんに遊びに来ていた。
じいちゃんにとって「池さん」は、デイサービスではなく、あたりまえに「立ち寄る場所」
マイピーを運転し、国道を信号無視で渡り、池さんの自動販売機でコーヒーを買い、当然のように「お~!」とやってきた。
日曜日もやってきた。
「じいちゃん、今日は休みやけんだれもおらんよ~」というと、「構わん構わん。」とコーヒーを持って上がり込み、テレビを見て帰って行く。
デイの日もやってきた。
玄関の前にマイピーを横付けし、「お~!」とやってきた。
普通にソファーに座り、コーヒーを飲んで帰って行った。
利用者じゃないけど、じいちゃんは池さんのソファーに座り、皆と話しをしていく。
池さんは居場所。
じいちゃんらしく、そのままで、じいちゃんは池さんにいた。
時が経ち、じいちゃんはどんどん老いてゆく。
じいちゃんは一人で出かけることが難しくなり、池さんの利用者として来るようになった。
いつの間にか毎日、デイに来るようになったじいちゃん。
自由に一人で来ていた頃と同じように、当たり前のように毎日池さんで過ごす。
毎日通うのが当然のように、やってくる。
肺炎を患い、食べる物が制限されて、歩けなくなって、車いすになって、入院するたびに弱ってゆく。
家での暮らしはさぞかし大変だったろうと、娘さんに心を寄せる。
調子が良い時は、夜昼関係なくガタガタと物を動かし、ズルズルとお尻移動。
聞く気がない時は、人の話を全く聞かない。
部屋は、眠らないじいちゃんが夜中に暴れるものだから、ガムテープやロープでいろんな物が固定されていて、畳はおしっこで大変な状態。
けれども家族は普通に受け止めている。
じいちゃんを当たり前に見守る。
じいちゃんはじいちゃんとして生き続ける。
そのままで、いる。
何度目かの肺炎で入院中。
高熱の間はじっとしているけれど、熱が落ち着けばまたまた動く。
いつもと同じように動く。
だから、夜中も車いすでナースステーション滞在。
パジャマはつなぎ、車いすから動かないようにベルト着用。
笑顔が消えて、食べることが好きだったじいちゃんの楽しみはなくなった。
「じいちゃんらしく生きてほしい。」「夜中に大変でも、やっぱり家で過ごさせてあげたい。」
家族はじいちゃんを家で看る決心をする。
「これから先、再び肺炎になったとしても、もう病院生活には戻したくはない。」
じいちゃんは車いすのベルトから解放された。
食べ物や飲み物に、細心の注意を払いながら日々を過ごす。
体調に小さな変化が起きると、
決心はしていても。
心を決めていたとしても、
病院での治療と家での看取りの狭間で揺れる。
家族のだれもが、じいちゃんの命を想うが故に、揺れる。
不安な気持ちになりそうな家族に、これでいいのだと何度も語る。
私たちにできることは、これでいいと言い続けること。
じいちゃんらしく生き切るために、これでいいのだと。
1月29日、金曜日。
この日、驚くほどしっかりしたじいちゃんが池さんにいた。
一日しっかり覚醒していて、気持ちよく朝のお風呂に入り、イノシシ肉のおでんの大根を食べ、とろみのお出汁もズルズルと平らげた。
じいちゃんらしく、いつものようにたらふく食べた。
午後の時間をテーブルでおしゃべりして過ごし、いろんな話に盛り上がった。
かつて住んでいた徳山の話もした。
帰る時間になった。
じいちゃんは足で車いすを漕ぎ、部屋のソファーに座った皆の前に行き、「ありがとうございました。」と手を合わせた。
全員に。
車に乗ってからも両手を合わせて、頷きながら「ありがとう。ありがとう。」と何度も同じ仕草を繰り返して出発した。
車の窓越しに、じいちゃんが手を合わす姿が今も脳裏に焼き付いている。
見送った皆が声をそろえた。
「なんか怖いね~。皆に挨拶して。」
なぜか、ザワザワと心が動く。
翌日1月30日、土曜日8時。
朝娘さんから電話。
「様子がおかしい。起こしても目を覚まさんのよ。」
すぐに駆け付ける。
じいちゃんは顔色も悪くて、呼吸も浅いし、全身が脱力していて全く意識がない。
主治医に連絡して往診をお願いする。
河渕じいちゃん、95歳。
覚悟はできているけれど、目が覚めてほしい。
娘さん、「もう1回、ご飯を食べさせてあげたいな~。」
2月になった。
意識ははっきりしないものの、少しだけ動き始めた。
毛布を自分で引っ張る仕草をする。
完全に覚醒してはいないけれど、少し目を開けお茶を飲む。
ペーストにしたものを少し食べる。
じいちゃんは自分の家のいつもの布団で眠っている。
動き回ってどうにもならなかったじいちゃんが、じっと布団で眠っている。
無呼吸の時間が増えていた。
2月5日、金曜日。
じいちゃんは朝、便が出た。
見に行った時、じいちゃんは娘さんの手からかぼちゃをつぶしたもの、リンゴを煮たものを食べ、お茶を飲んだ。
娘さんは涙を流しながら、じいちゃんの口にご飯を運ぶ。
私と大ちゃんは、ただ黙って見守る。
「食べることが、好きやったけんね~。」
じいちゃんはいつもする仕草、頷くように飲みこむ。
確かに、頷きながらゴクッと何度か飲み込んだ。
午後は遠方の孫さんがじいちゃんにと送ってきたお饅頭を、食べた。
孫さんの気持ちのこもったお饅頭を、確かに飲み込んだ。
2時間後、じいちゃんは逝った。
「もう一度だけご飯を食べてほしい。」と思った娘さんのことを想って、
じいちゃんは最後にちゃんとご飯を食べた。
孫さんが送ってきたお饅頭を食べた。
この時、おそらくじいちゃんには意思があった。
残る家族の想いを、ちゃんと受け止めて、意思を持って食べた最後の食事。
じいちゃんが家族にできた最後のこと。
最期の支度をする。
いつも着ていた下着に、いつも来ていたシャツに、マイピーに乗っていた頃から穿いていたズボンに靴下。
いつもの、じいちゃんがいる。
「どこで寝る?」
「ここがじいちゃんの部屋だから、ここでいいよ。」
冷たくなったじいちゃんは、おしっこのシミのついた畳の部屋に眠っている。
穏やかなすっきりとした顔で。
一つ一つが、じいちゃんそのもの。
何もかもが、じいちゃんそのもの。
じいちゃんの作った家族、そのもの。
じいちゃんの暮らした生活、そのもの。
見事に、何もかもが、そのもの。
遺影のじいちゃんも、じいちゃんの祭壇も、じいちゃんがいなくなった部屋も、じいちゃんそのもの。
部屋に、家に、娘さんの心に、家族の中に。
たぶん、ずっと、そこに、ある。
見送った私たちの心にも。
池さんにも。
じいちゃんが好きだった池さん。
毎日来てくれた池さんという場所。
河渕じいちゃんの姿と、そのぬくもりを抱いて、
この場所で、また、頑張ってゆきたいと思う。
生きざまと死によう。
人が死にゆく時間の中で、見せてくれるかけがえのない姿。
命をかけて表現してくれるその姿は、残る人に励ましと力を与えてくれる。
穏やかなぬくもりを与えてくれる。
ただ「死ぬ」のではない。
ただ「亡くなる」のでもない。
死はまぎれもなく、
「死に至る時間をどう生きたか、という生きざま」に他ならないのだと、
河渕じいちゃんの最後の7日間を見て思う。
今日も、皆がじいちゃんのいた空間を想って過ごした。
来てくれた人たちにいろんな話をしながら、暖かい気持ちで過ごした。
じいちゃんは、今からもそのままで、そこに、ある。
形はなくなっても、じいちゃんの存在が、
そこに、ある。
じいちゃんがじいちゃんのままで、最後まで生きたことを、ずっと心に留めておきたいと思う。
たくさんのことを教えてもらった。
皆を大きく育ててくれた。
心から、ありがとう。
感謝します。