池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

1200回

2021-01-31 17:04:25 | デイサービス池さん

31日、日曜日。

1月も最後の日。

 

今月もいろんな出来事が満載だった。

お休みするスタッフ、大事な人を見送った人、骨折・手術・入院・自宅療養から普通の感じで復帰した95歳、急にお泊りをすることになったおばあさん、困難な状況から利用再開した人、何か月も入浴してなかった新しい利用者、お誕生日を迎えた2人、そして危険な状態の人も。

何もない日はないのだけれど、こう毎日出来事満載だとそれもそれで結構キツイ。

でもみんなが頑張ってくれて、いろんな悩みがあってもいつも笑顔で働いてくれて、本当に感謝。

最初は「これは大変かな」と思っていても、時間が経って、だんだん慣れてきて、そのうち「何とかできる」自信みたいなのがついてきて、全部は無理でも皆で力をカバーしあっていくうちに、気がついたら「なんとかなってきた」みたい。

皆の気持ちが一つになってくると、パワーは3倍くらいになってきて、いつの間にか自分の器もでっかくなって、大丈夫と思えるようになってくる。

お互いを信頼して心を開く時、より強い力が生まれて、しっかりと地に足をつけて考えることができてくる。

3本の矢の例えのように。

忙しくても、ちょっと大変に思えても、ここを乗り越えたらまた皆にでっかい「器」が与えられると思って、一緒に生きてゆこう。

力を合わせて。

池さんは皆の居場所。

じい様にとっても、ばあ様にとっても、私たちにとっても。

そう思っている。

 

そう思って生きてきた私自身の人生の時間。

15年と少し。

ブログ開設から5723日目。

最近ちょっとサボり気味のブログ、

開設から今日は1200回目の日。

私自身がここで生きた証。

 

 

 

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向こう側

2021-01-26 18:07:11 | デイサービス池さん

ばあちゃんたちを挟んで、こっち側が私たち、向こう側にいるのは家族。

出会ってしばらくの間は、ちょっと離れた場所にいる私たち。

月日を過ごして、気がついたらいつの間にか距離が近くなっている。

 

「もう昨夜はじいちゃん寝ずにずっと暴れて大変だったんよ~」とか、

「その服よく似合うよ~」とか、

「ばあちゃん、今日の昼ご飯は何を食べたん?」とか、

「孫の家に行くんよ~」とか、

「最近、ご機嫌悪くてどうもならん!」とか、

「・・・ああ、もう、しんどい!」とか、

「これからどうしたらいいのかわからん。」とか、

「髪を切りに行きたいけど、時間がない・・・」とか、

 

時節の話だけでなく、天気の話だけでなく、

普通の送迎の風景とは違って、

毎日のいろんな出来事を、

家族と一緒に感じて、考えて、悩んで、迷って、

そして、いろんなことを決断したり、進む道を選んだり、

一緒に生きてゆく。

 

真ん中にいる年寄りたちは、

自分のことでありながら、

自分の進む道を家族の言葉を借りて表現したり、

家族の生き方に映し出された自らが歩いてきた道を、その時々に振り返り、

そう生きるしかないのかと諦めたり、

周囲を困らせるほどに自己主張したり、

緩やかに現実を受け入れて生きたり、

いつまでも身勝手に生きたり。

 

家族とはいつも対岸にいるように感じたり、

離れていると思っても、いつの間にか繋がっていたり、

心から想い合える関係になったり、

どこかで心が離れてしまったり、

一緒に生きているような気がしたり。

 

長い時間を過ごすうち、

心を通じあうことができたら、

たとえ、それがたくさんの人でなかったとしても、

胸を張って、

その人たちと生きてゆきたいと思って過ごしてきた日々。

 

この小さな事業所で、

僅かな人々の暮らしの中で、

笑って過ごしてゆきたいと、

いつまでも生き続けたいと思う日々。

1月も残りわずか。

明日は満月。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この国の先

2021-01-21 23:05:52 | デイサービス池さん

いかん、いかん、だめ、だめ・・・

今年こそは日記代わりに書こうと思っていたはずのブログが、あっという間に鏡開きから大寒へ。

そう言ってずっと近年は時間の経つ速度の速さを気にしていて、だから今年こそと思っていたけど、はてさてすでに3日坊主状態。

代わりにと言っては何ですが、本は、読んでます。

出会える時に出会える本。

心に必要な時に、出会える本たち。

与えられた時に、出会える本たち。

 

「希望の一滴 中村哲、アフガン最後の言葉」より

実際、東洋的な「治水」とは、決してflood control(洪水制御)と同義ではない。「治水」の語は、その自然観を含みに持つが故に、英訳できない語の一つである。これに対してflood controlは純然たる技術用語で、自然を操作の対象としか眺めない。たかが言葉の問題と言えばそれまでだが、我々近代人の意識から自然が遠ざかったのは、言葉の問題も少なからず関与していると思われる。

東洋的な治水は、一般的に自然地形に則り、人と自然、彼我の立場を総合的に見て、徹底した減災を目指している。・・・もっと言えば安全と欲求は両立しないので、欲望を減らして危険な冒険を極力避け、力を尽くして天に祈る。

気の遠くなるような長い自然史の中の、瞬時を私たちは生きている。だが大きな動きは人間には見えにくいので、近視眼的になりやすい。自然の生成一発展一消滅のサイクルの中で人間だけが無限に発展するかのように思ってしまうのだ。

 

アフガ二スタンで中村哲医師が凶弾に倒れたと同時期に中国でコロナウイルスが発生。

その後世界は変わり続けている。

今も。

「見捨てられた小世界で心温まる絆を見出す意味を問い、近代化のさらに彼方を見つめる」

どんな思いで、アフガンの景色を見ていたのだろう。

途中だった道のりは、心残りだったにちがいないが、

その命と引き換えに、

誰もマネができないほどの偉大な足跡と引き換えに、

アフガンの地には平安が訪れただろうか。

 

無残に切り取られたその命と、成し遂げた偉大な業績が、あまりにもかけ離れていて、悲しくなる。

 

「議論は無用、実行あるのみ」

「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく 誰もしないから、我々がする」

「だが、絶望はしない。希望はある。それは温かく人を見守る自然のまなざし中にある。」

「人ごとではない。辺境から垣間見る文明社会もまた、大きな転機に立っている。我々は何処に流されるのか。次の世代に残すべきものは何か。それが戦争や経済成長でないことは確かである。過去30年の現地活動が、日本にとっても、ささやかな希望となることを祈る。」

 

心の中でリフレインする無念の中で凶弾に倒れた大いなる人の言葉と、

テレビ画面から流れる国会のおざなりな質疑の声に、

議場の中の眠気を振り払えない方々の映像に、

あまりの危機感のなさに、

虚しさを感じる夜。

 

平和を装うこの国の行く末にも、

どうか、年神様、見捨てないでくださいと、

祈りたくなる夜。

 

そんなこんな事情や虚無とは何の関係もなく、

今日も一日、ケラケラと笑って生きたばあ様とじい様の心模様に、

やっぱりそれでいいのかもと、

なぜか思える今日の夜。

長いこと風呂に入ってなかったじい様が久しぶりの入浴で、

湯に浸かったとたん、

「あ~~~~~~~」と自然に出た声で気づく。

水も湯も溢れるほどに当たり前にある毎日が、

本当はとても幸せなことなのだと、

そんな日常を送ることができることが何よりも幸せなことだと、

改めて思うことができたことに心が動く。

同じ時間を生きながら、

様々な命を生きねばならぬ人びとの暮らしに、

思いを巡らす

そんな夜。

 

 

 

 

 

 

 

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時代の先

2021-01-11 18:08:03 | デイサービス池さん

本日鏡開き。

お正月に来てくれた年神様が居所としておられた鏡餅を砕いて頂き、その力を頂き一年の良運を願う行事。

お飾りを降ろし、お供えしていたお鏡餅(最近は個包装になっているお餅を使ってるので)を切らずに頂きました。

お飾りは近くの畑に建てられている「とうどさん」に持って行き、小正月の15日の早朝に燃やします。

その時に焼いたお餅を頂くと一年間元気で過ごせるとか。

こうして、今年もお正月に関する一連の行事が終わります。

お餅つき、しめ縄、鏡餅、お節料理、新年の挨拶、お年玉、初詣、七草、鏡開き、小正月、

この国に生きた人々が願い続けてきた家族の健康と幸せと安寧。

信仰や信心と関係なく、人々の生活に根差した「願い」や「祈り」を次の時代に伝えるという意味で、ずっと大切にしたいと思う行事です。

これらの新年を迎える行事の区切りが終わり、また新しい一年が始まります。

 

寒波も少し落ち着いたようです。

山は雪を被っています。

今だ勢いを衰えさせないウイルスに成人の日の行事も中止が多く、新成人たちの想いも揺れる休日です。

「ステイホーム」は当たり前。

街頭インタビューでは、だんだん平気になってゆく人々の様子が映し出され、いろんな人々の様々な想いが駆け巡っています。

 

で、休日を利用して読んだ養老孟司さんの本の中の一節。

おおざっぱに紹介すると、「平成は万事が煮詰まった時代」という内容の章から一部。

国策と信じて進んできたエネルギー政策も、原発の事故が起きてから政策の転換点を迎えているし、人口は減り始めた、経済は煮詰まって停滞を通り越して縮小の方向へと向かい、実質賃金は大きく減少傾向、貯金に利子はなく、資本主義は終焉へと向かう。

技術的な発展のゆえに、すぐに煮詰まってしまう経済の市場。

(そういえば、携帯電話なんて本当にこの30年ほどのものでしかない。私が初めて携帯を持った時も、わずか25年ほどでしかない。たったそれだけの時間の間に小学生までが当たり前に携帯を持つ時代がやってきた。携帯は電話機能だけでなく、今や個人の情報や口座までを内蔵する生活必需品になってきた。)

これほどの短期間に、ここまでの社会変革を続けてきたのだから、まさに飽和状態。

進化と発展のスピードが速すぎる。

生活が豊かになる意味での実体経済も飽和した。

いくらお金があっても、食物がなければ飢え死にする。なのに、お金のために畑や作物を貧相にしてゆき、グローバル化した食物の収奪も煮詰まりつつある。

にもかかわらず、(自然を破壊しつつ)まだそれを続けようとしている人々がいる。

が、自然は必ず報復する。

それを自然災害と呼んでいるが、地震はともかく気候変動は人為によると考えられる。

飽和の時代。

豊かな生活を一度は手にした時代。

(バブルだとか、なんだとか、発展、発展、成長、成長と浮かれ続けている間に、気がつけば、自然は壊れて牙をむき、人々は疲れ、ウイルスはパンデミック。)

何のために生きるのか、どう生きるのかを見失った時代。

地球規模での変化は日々生起し続け、今またウイルスという脅威の前にヒトはたたずむしかない。

解決すべき問題は、常に目の前にある。

先人たちが培ってきた知恵を紡ぎ直し、我々一人一人が置かれた現実と進むべき未来を丹念に考えるしかない。

というメッセージ。

 

「どう生きるか」という問題は、今までの社会の中においての疑問とは意味が違うだろう。

コロナというパンデミックの中においては、どう社会が変わってゆくのか、どう生き方を変えてゆくのかということと繋がってゆく。

「この社会」で、「何を想い」「どう暮らすか」

ここで生きるしかないとしたら、どう生きてゆくのか、その分岐点にいるのは確かなようだ。

今までの社会ではない。

今までの経済でもない。

今までの地球でもない。

新しい時代にふさわしい生き方を、ヒトは自ら探ってゆかなければならないのではないだろうか。

この分岐点を間違うことなく進むことができるかどうか、地球に生きる人類が、ヒトの真価が、問われるときかもしれないと思う。

 

こうやって何度も何度も地球は危機を迎えながら、いろいろな時代を、私たちの想像をはるかに超えて幾億年も過ごしてきたのだろう。

だとしたら、やはり・・・やはり・・・(いつものセリフね)われわれ人間は滅びるしかない運命なのだろうか・・・ねえ、教えて~~~、ナウシカ~~~。

と最後は、いつものようにこんな感じですみません。

 

お正月を迎える時に先人たちが願ったように、つつましく、小さな規模の社会で、丁寧に、優しく、お互いを想いながら、暮らして行けたら。

穀物を大事にし、全てのモノに命が宿ると考えて八百万の神々を敬ったように、願いを込めて祈りを捧げる時、その願いの中にこそ、この困難な世の中を生きるすべが見つけられるような、そんな気がしてくる。

かつての日本のヒトの暮らしは、確かに不自由だったかもしれないし、貧しかっただろう。

だが、地球の危機は感じなかったはず。

そして、今の世の中を想う時、

果たしてこれでこの社会が続くことが正解だったのだろうかという気がしてくるのだ。

ウイルスのパンデミックがなければ、ヒトが分岐点に立つこともなく、社会の飽和も話題にならなかったかもしれない。それゆえ、世界にとって更に歪んだ方向へと向かい続けていたのかもしれない。

だとしたら、やはり、「生き方を考えるべき時の訪れ」と考えるのが正しいのだろう。

コロナ後の社会が、地球や人に優しい「新しい社会」であってほしい思う。

自分や人や社会や地球を想うことができる、何かに謙虚に祈ることができる社会であってほしいと願う。

年神様がすべての人々の安寧を願ってきてくれる穏やかなお正月のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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雪です

2021-01-07 18:16:48 | デイサービス池さん

池さんインスタ始めたらしい。

でも、何しろワタクシ高齢者ですので、インスタが何やらかもわかりませんな(泣)

ブログとどう違うのかもわかりませんな(笑)

でも、このブログ開設してからなんと(!)1195日目らしい(う~んたぶん!?)

なので、15年、長い時間の間にはいろんなことがあったな~と思いつつ、

新しいことを始めることも大事だし、続けることも大事だし、

いろんなことの大事さを改めて感じる七草の日ですな。

 

もう何年も前、みちおさんが大鍋のおかゆを南天の箸で混ぜてくれました。

毎年、皆が同じ南天の箸で、七草粥を混ぜてくれます。

今年は皆で混ぜました。

みんな元気で過ごせますように。

七草は、大根やカブやセリ。

全部知り合いの畑で育ったもの。

大切に育てた野菜の葉を、心を込めて叩きます。

トントン トントン

「七草ナズナ 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン」(各地でいろんな言葉に変わってる)

  

雪が降っています。

気温3度。

北の方では大雪。

寒さにもめげずにウイルスは拡大を続け、これから先も不安だらけでも、

ばあさんたちもじいさんたちも、な~んも変わらんと、今日も元気にやってきてくれる。

生きてゆけるかと心配する私たちをよそ眼に、「おぶ~こ(お茶)ちょうだ~い」とあっけらかんと言って笑っている。

食事量が少なくて、ちょっとでもカロリーをと思ってお汁粉をわざわざ用意しても、「あま~いのはいらん。から~いのを頂戴」と言って笑う。

体力温存と思って横にしても、目が覚めたらゴソゴソと動いてじっとしていない。

いろんなことを考えても、いろんな想いを抱えて向かい合っているはずなのに、いつもマイペースな人たち。

完全に自分ペースの人たちを毎日目の前にして、

この年になると、ただただ、羨ましい。

あ~私も絶対にこうなってやる。

「おぶ~こいらんから、ビ~ル頂戴!」

「甘いもんいらんから、刺身頂戴!」

「果物いらんから、つまみ頂戴!」

と言ってやる。

絶対に絶対に言ってやる。

そう思いながら、

今日も一日終わりました。

つつがなく。

1196回目。

 

 

 

 

 

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新しい年の始まりに

2021-01-01 20:29:10 | デイサービス池さん

予報では大雪に極寒。

でも、おかげさまでこの地方は穏やかで暖かいお正月となりました。

 

皆様、明けましておめでとうございます。

いろんな出来事に翻弄された一年が終わりました。

社会が変わり、生活が変わり、何もかもが始めてのこと、人の気持ちまで変わらなければならなかった一年。

だれもが望むはずもない毎日を強いられた一年。

苦しい決断や諦めや、絶望の中で生きなければならなかった一年。

それでも、そんな日常の中にあっても希望は消えてしまったわけではなく、

新しい道を見つけたり、新しい生き方や暮らしを見つけたり、

何かを見つけることもできたに違いない一年。

苦しみの中にいる人も、悲しみの中にいる人も、新しい一歩を踏み出した人も、

すべての人々の暮らしの上に、

どうか、暖かい日が差しますように。

どうか、穏やかな風が吹きますように。

新しい年がどうか、優しい年となりますように。

 

今年は大ちゃんの指導の下、池さんのスタッフ全員しめ縄つくりと水引きつくりに初挑戦。

大ちゃんの編んでくれたしめ縄、一足早く咲いた美香ちゃんの家の庭の「梅」と「ロウバイ」

デイに来てくれているおじいちゃんの家から頂いた立派な南天の実。

決して派手ではないけれど、心を込めて玄関を飾りました。

年神様の訪れを寿ぎ、穏やかな一年を、どうか健やかに過ごせますようにと、

願いを想いを込めて、いつものように、お節料理も用意しました。

 

どうか、すべての人々が、心安らかに過ごすことができる一年でありますように。

 

 

 

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