本日鏡開き。
お正月に来てくれた年神様が居所としておられた鏡餅を砕いて頂き、その力を頂き一年の良運を願う行事。
お飾りを降ろし、お供えしていたお鏡餅(最近は個包装になっているお餅を使ってるので)を切らずに頂きました。
お飾りは近くの畑に建てられている「とうどさん」に持って行き、小正月の15日の早朝に燃やします。
その時に焼いたお餅を頂くと一年間元気で過ごせるとか。
こうして、今年もお正月に関する一連の行事が終わります。
お餅つき、しめ縄、鏡餅、お節料理、新年の挨拶、お年玉、初詣、七草、鏡開き、小正月、
この国に生きた人々が願い続けてきた家族の健康と幸せと安寧。
信仰や信心と関係なく、人々の生活に根差した「願い」や「祈り」を次の時代に伝えるという意味で、ずっと大切にしたいと思う行事です。
これらの新年を迎える行事の区切りが終わり、また新しい一年が始まります。
寒波も少し落ち着いたようです。
山は雪を被っています。
今だ勢いを衰えさせないウイルスに成人の日の行事も中止が多く、新成人たちの想いも揺れる休日です。
「ステイホーム」は当たり前。
街頭インタビューでは、だんだん平気になってゆく人々の様子が映し出され、いろんな人々の様々な想いが駆け巡っています。
で、休日を利用して読んだ養老孟司さんの本の中の一節。
おおざっぱに紹介すると、「平成は万事が煮詰まった時代」という内容の章から一部。
国策と信じて進んできたエネルギー政策も、原発の事故が起きてから政策の転換点を迎えているし、人口は減り始めた、経済は煮詰まって停滞を通り越して縮小の方向へと向かい、実質賃金は大きく減少傾向、貯金に利子はなく、資本主義は終焉へと向かう。
技術的な発展のゆえに、すぐに煮詰まってしまう経済の市場。
(そういえば、携帯電話なんて本当にこの30年ほどのものでしかない。私が初めて携帯を持った時も、わずか25年ほどでしかない。たったそれだけの時間の間に小学生までが当たり前に携帯を持つ時代がやってきた。携帯は電話機能だけでなく、今や個人の情報や口座までを内蔵する生活必需品になってきた。)
これほどの短期間に、ここまでの社会変革を続けてきたのだから、まさに飽和状態。
進化と発展のスピードが速すぎる。
生活が豊かになる意味での実体経済も飽和した。
いくらお金があっても、食物がなければ飢え死にする。なのに、お金のために畑や作物を貧相にしてゆき、グローバル化した食物の収奪も煮詰まりつつある。
にもかかわらず、(自然を破壊しつつ)まだそれを続けようとしている人々がいる。
が、自然は必ず報復する。
それを自然災害と呼んでいるが、地震はともかく気候変動は人為によると考えられる。
飽和の時代。
豊かな生活を一度は手にした時代。
(バブルだとか、なんだとか、発展、発展、成長、成長と浮かれ続けている間に、気がつけば、自然は壊れて牙をむき、人々は疲れ、ウイルスはパンデミック。)
何のために生きるのか、どう生きるのかを見失った時代。
地球規模での変化は日々生起し続け、今またウイルスという脅威の前にヒトはたたずむしかない。
解決すべき問題は、常に目の前にある。
先人たちが培ってきた知恵を紡ぎ直し、我々一人一人が置かれた現実と進むべき未来を丹念に考えるしかない。
というメッセージ。
「どう生きるか」という問題は、今までの社会の中においての疑問とは意味が違うだろう。
コロナというパンデミックの中においては、どう社会が変わってゆくのか、どう生き方を変えてゆくのかということと繋がってゆく。
「この社会」で、「何を想い」「どう暮らすか」
ここで生きるしかないとしたら、どう生きてゆくのか、その分岐点にいるのは確かなようだ。
今までの社会ではない。
今までの経済でもない。
今までの地球でもない。
新しい時代にふさわしい生き方を、ヒトは自ら探ってゆかなければならないのではないだろうか。
この分岐点を間違うことなく進むことができるかどうか、地球に生きる人類が、ヒトの真価が、問われるときかもしれないと思う。
こうやって何度も何度も地球は危機を迎えながら、いろいろな時代を、私たちの想像をはるかに超えて幾億年も過ごしてきたのだろう。
だとしたら、やはり・・・やはり・・・(いつものセリフね)われわれ人間は滅びるしかない運命なのだろうか・・・ねえ、教えて~~~、ナウシカ~~~。
と最後は、いつものようにこんな感じですみません。
お正月を迎える時に先人たちが願ったように、つつましく、小さな規模の社会で、丁寧に、優しく、お互いを想いながら、暮らして行けたら。
穀物を大事にし、全てのモノに命が宿ると考えて八百万の神々を敬ったように、願いを込めて祈りを捧げる時、その願いの中にこそ、この困難な世の中を生きるすべが見つけられるような、そんな気がしてくる。
かつての日本のヒトの暮らしは、確かに不自由だったかもしれないし、貧しかっただろう。
だが、地球の危機は感じなかったはず。
そして、今の世の中を想う時、
果たしてこれでこの社会が続くことが正解だったのだろうかという気がしてくるのだ。
ウイルスのパンデミックがなければ、ヒトが分岐点に立つこともなく、社会の飽和も話題にならなかったかもしれない。それゆえ、世界にとって更に歪んだ方向へと向かい続けていたのかもしれない。
だとしたら、やはり、「生き方を考えるべき時の訪れ」と考えるのが正しいのだろう。
コロナ後の社会が、地球や人に優しい「新しい社会」であってほしい思う。
自分や人や社会や地球を想うことができる、何かに謙虚に祈ることができる社会であってほしいと願う。
年神様がすべての人々の安寧を願ってきてくれる穏やかなお正月のように。