山は雪。
風は冷たい。
それでも梅の花は開き始めた。
少し咲いて冷え込み、少し咲いて冷え込み、梅の花もためらっているように、ちらちらとまばらな花を咲かせている。
大きく育った梅の木を見ていると、暖かい日差しを待ちながら、咲きそろう穏やかな日を待っているような気がしてくる。
相談事や調整事や、会議や日常の煩雑さに、二月の逃げる時間を追いかけながら過ごし、気がつけば今月も後半。
煩雑な日常の中にも、いろいろな出来事が存在する。
毎日、毎日。
命の最終章を生きる時。
病院でなく在宅でと決心していても、病状の変化に揺れる時を過ごす。
医療と看護と介護
どこにも正義が存在する。
家族の心は揺れる。
これが普通だ、これが当然だ、と大きな声で言われたら、それを受け入れてしまうのはごくごく当たり前なのかもしれない。
「どの正義が重んじられているか」考えてゆくと、それはごくごく平坦な日常の、無意識の中に積み重ねられた根拠のないものだったりする。
絶対的な信頼を持ってしまいがちな医療、年齢に関係なく施される標準治療という壁、死の間際の状態への認識の差。
小さな認識の差は、大きな分かれ道へと繋がっていく。
少しの選択の違いで、生活の質も生きる意味も、死に方さえ変わってくる。
例えば肺炎で入院した高齢者の場合。
主体であるはずの「人」は、治療のため、今までと異なる意識の変化を押し付けられる。治療のために、治癒の為に、不安を押し殺すこと、納得を迫られ、我慢を強いられ、あげく意識を曖昧にすることで、環境に順応し治療を受け入れることを求められる。
病院・治療というレールを疑わない無意識さこそ、疑うことのない正義として、多くの人の心の中に存在する。
主体はだれか。
病む人も、死にゆく人も、その人こそが主体であるはず。
心の中の常識を少し疑い、ひょっとして違う道も存在するかもしれないと気づいたら、立場の違う正義のありかが見つかるかもしれない。
さまざまな考え方やその信念に生きる人たちの存在を知るということが、あるいはより良き道を知るきっかけになるかもしれないかもと思う。
社会の変容に気づく時。
いつの間にこれほどの変化を遂げていたのか、と思うほどに、行き慣れた小さなスーパーでさえ、しばらくぶりに立ち寄ると、自動支払機が導入され、当然のようにカード支払いは当たり前になっている。
中学校の授業はリモート化され、都会に住む孫は在宅学習で進級する。
いいねのボタンを押すために大切な時間を使い、映える画像をとることに夢中になる。
アップされた出来事に、考察する時間もなく即座に感覚で反応を求められる。
そして仮想の世界で生きる若者たち。
暮らしという現実の中にある時間や思考は、仮想世界の中に埋もれてしまっていく。
このまま、安易な思考が正義になってしまったら、一体社会はどうなってゆくのだろう。
熟慮とか、考察とか、迷いとか、反省とか、そんな面倒な人間臭い感覚はいずれ消えてゆくのだろうか。
AIによって簡単に導き出された正解だけを記憶する人が増えてゆくのだろうか。
泥臭く、人間臭く、汗臭く生きてきた私たちの方向性は、次の世の中でどう評価されるのだろう。
そんな新しい社会の正義に、私は馴染んでゆけるのだろうかと考えてしまう。
毎日、毎日、
いろんなことを考える。
いろんなことを考えすぎて、いつも疲れてしまう。
梅が咲くのが楽しみだ。
希望が、未来が、見えてほしい。
いつまでも付きまとうウイルスも、未来の見えない社会も、曖昧な正義も、年寄りたちの理由のない本能による行動も、春の日差しに照らされて、見える希望に変わってほしい。
そんなこんな如月の徒然。
明日は月曜日。
全力で頑張っている皆と一緒に、
じいさんばあさんと笑ってすごしていたい。