山で生きたヒイちゃん。
時々お泊まりを利用しながら、息子さん2人の家を行ったり来たりしながら、在宅での生活を続けてきたヒイちゃん。
1月からヒイちゃんは、腰を悪くしていた。
他のお年寄りと同様、腰の軟骨が弱り痛みを感じるようになったヒイちゃん。
1月半ば、2週間の安静を医者に指示されてヒイちゃんは池さんに泊まり始めた。
歩くたびに「痛い痛い」と訴えがあり受診したヒイちゃんだったが、池さんに泊まり始めてから「痛い」ということはほとんどなかった。(もちろん痛み止めの薬を服用していたからかもしれないが・・・)
ヒイちゃんは元気にいろんな所へ出掛け、夜になると大頭の池さんでみよちゃん夫婦と一緒にご飯を食べ、大好きな晩酌を楽しみ、朝までぐっすり眠っていた。安静を指示された2週間の間ずっと。
そして元気になって家に帰ることになったとたん、また腰が痛みだし、今度は歩くこともままならないほどの痛みを訴えたので、以前からかかっていた病院にしばらく様子をみるということで入院することになった。
それから2週間がたつ。
大ちゃんが様子を見に病院に行った。
あまりにも衝撃的な光景に、大ちゃんは言葉を失いかけたらしい。
その話を聞いた私は信じられなかったほど。「行った時間帯が悪かったのだろう」と思いたいほどその話は衝撃的だった。
そして今日、休みだった私はヒイちゃんに会いに出かけた。
大きな病院の一室にヒイちゃんの部屋があった。
病室にはマットが4つ。ベットさえ置いてない(危ないからだそうだ) 一人2つのマットが二人分、部屋の隅に置いてあった。ヒイちゃんが2つ。別の人が2つ。4つのマットに2人が寝ていた。
ヒイちゃんは壁にぴったりくっついて、体を丸めて寝ていた。いえ寝ていたのではなく、何やらぶつぶつ言いながら、壁に向かって話していた。
部屋の中は、4つの(二人分の)マットだけ!
な~んにも他のものはない!
テレビや日用品を置く消燈台も何にもない。
のどが渇いてもお水も置いてない。鼻が悪いヒイちゃんはいつもティッシュを抱えているのにティッシュもない。
ただ、一人2つのマット。その上に壁ギリギリに寝ているヒイちゃん。
大ちゃんが「なんじゃこりゃ~!ここは刑務所か!」と思ったと話してたけど、刑務所ならトイレはある!
ここでどうしろというのか! 明らかに人のいる空間ではない!
ヒイちゃんは、(おとなしく)壁に向かってしゃべっていた。
2週間前まで、一緒にお酒を飲み、笑い、遊んでいたおちゃめなヒイちゃん。
そのヒイちゃんが今、入れ歯も外されたまま(どうせ多分関係ないから)手の届くところにお茶もなく(どうせ水分は補給の時間まで飲まないだろう)鼻水が出ても拭くティッシュさえ手の届かないところに置かれ(どうせ自分ではできないだろう)ただ壁に向かってじっと寝ていることだけを要求されている。
部屋に入りこの状況を目の当たりにしたとたん、私は怒りがこみ上げてきた。(たぶん大ちゃんも同じだったと思う)
「ヒイちゃん」といつものように話しかけた。
ヒイちゃんは、びっくりした顔で顔だけを私のほうに向けて、「ありゃ~誰かい?」と言った。
「ヒイちゃん、わかる?この顔わかる?」と尋ねると、しばらくして「あ~」と言って、「見たことある人じゃ!」と言った。ヒイちゃんが本当に私のことを思い出したかどうかはわからないけど、何やら見たことがあるくらいは思い出してくれたようだった。
「ヒイちゃん、こんなとこで何しよるん?」と私は聞いた。
ヒイちゃんは、「腰が痛いけんの。動いたらいかんのよ。こうしてこっちを向いとかないかんのんよ。」と言った。
そう医師に言われているのか、看護婦に言われているのか、ヒイちゃんが勝手に思い込んでいるのかは、わからない。
私は言った。「でもヒイちゃん。こんな恰好でじっと寝とったら、歩けんようになってしまうよ。ボケてしまうよ。」
ヒイちゃんの部屋は、真向かいのナースステーションからいつも見えるように(動き回っていないか見えるように)ドアを開けたままになっていたので、私はわざと聞こえるように大きな声で言った。
ヒイちゃんは、「そうよの。ボケたらつまらんの。」と壁を向いたままで言った。
今までのヒイちゃんとは確かに違う別のばあさん。表情もなく、歯のない口をパクパクさせ、目は別のところを見ている。
私は急いで冷たいジュースを買ってきてヒイちゃんに飲まそうとした。消燈台は部屋の外の廊下に出されていたので、その台から吸い飲みを持ってきて、ジュースを入れてヒイちゃんに渡した。(本当はヒイちゃんの好きな熱いお茶をあげたかったけど、そんなものはここにはない)
ヒイちゃんは、冷たいジュースを一気に飲んでこう言った。「ありがと。ありがと。こんなおいしいもんがあるとは知らなんだ。」
それからこう言った。両手を合わせて拝むようにして。「どこのどなたか知りませんが、本当にありがとう。おいしいものをありがとう。ありがとう。ありがとう。」
焦点の合わない目で私のほうを見ながら、こういうヒイちゃんに涙があふれた。
2週間前は、一緒にお酒を飲んだ。一緒にしゃべった。笑った。梅が咲いたからと梅見にでかけいっぱい歩いた。
たった2週間。病院にいただけでここまで老いるのか!ここまで人間でなくなるのか!ここまで・・・!
医療は人を生かすためにあるのではないだろうか。
たった2週間で、廃人同様になったヒイちゃんを前に、私は思う。
「腰の痛み」という疾患を治すために、ヒイちゃんが寝たきりになったとしたら、何も分からなくなったとしたら・・・それでも医療の意味はあるというのだろうか?
「こっち向いて、私の顔見てや」というと、「じっと寝とらんと治らんけん」と壁を向いて言ったヒイちゃん。
「ここは静かじゃろ~。だ~れもおらんけんの。」「だ~れもおらんとこで、寝とったらそれでええんよ」「黙って寝とるだけ!」
ヒイちゃんは、すべてを知っているのかもしれない。
何もかも。
看護師がやけに多いと感じたその病院を後にして、私の腹立たしさは虚しさに変わる。
・・・・・
「人を生かす」ための「医療」を、
「人間を(ヒイちゃんという人間を)殺さない」医療を、
心から望みたいと思う。
日野原重明氏は言った。
「一人の人間の今をおろそかに扱う医師であってはならない。病に苦しむ患者の「いま」を否定することは、その人にとって、これまで耐えてきた過去をも否定されることであり、さらに、この先病状が改善しない時のことを想うだけで、未来のすべてを失ってしまう恐怖にさらされることを意味しています。人が生きていくなかで、これほどの深い孤独があるでしょうか。病む人を孤独にさせない。その覚悟を持つ医師でありたいと私は思うのです。
介護という仕事に携わる私も思う。
「人が生きる」ということの意味と深さを想う時、「いま」という時がいかに大切で取り返すことのできない時間であるかを。だからこそ「いま」を大切に、一瞬を大切にしたいと心から思う。
ヒイちゃんの「いま」が、取り返せるものであるのかどうか・・・
本当の医療を、
人を生かす医療を、
人間を生かす医療を、
のぞみたい!
心から!
時々お泊まりを利用しながら、息子さん2人の家を行ったり来たりしながら、在宅での生活を続けてきたヒイちゃん。
1月からヒイちゃんは、腰を悪くしていた。
他のお年寄りと同様、腰の軟骨が弱り痛みを感じるようになったヒイちゃん。
1月半ば、2週間の安静を医者に指示されてヒイちゃんは池さんに泊まり始めた。
歩くたびに「痛い痛い」と訴えがあり受診したヒイちゃんだったが、池さんに泊まり始めてから「痛い」ということはほとんどなかった。(もちろん痛み止めの薬を服用していたからかもしれないが・・・)
ヒイちゃんは元気にいろんな所へ出掛け、夜になると大頭の池さんでみよちゃん夫婦と一緒にご飯を食べ、大好きな晩酌を楽しみ、朝までぐっすり眠っていた。安静を指示された2週間の間ずっと。
そして元気になって家に帰ることになったとたん、また腰が痛みだし、今度は歩くこともままならないほどの痛みを訴えたので、以前からかかっていた病院にしばらく様子をみるということで入院することになった。
それから2週間がたつ。
大ちゃんが様子を見に病院に行った。
あまりにも衝撃的な光景に、大ちゃんは言葉を失いかけたらしい。
その話を聞いた私は信じられなかったほど。「行った時間帯が悪かったのだろう」と思いたいほどその話は衝撃的だった。
そして今日、休みだった私はヒイちゃんに会いに出かけた。
大きな病院の一室にヒイちゃんの部屋があった。
病室にはマットが4つ。ベットさえ置いてない(危ないからだそうだ) 一人2つのマットが二人分、部屋の隅に置いてあった。ヒイちゃんが2つ。別の人が2つ。4つのマットに2人が寝ていた。
ヒイちゃんは壁にぴったりくっついて、体を丸めて寝ていた。いえ寝ていたのではなく、何やらぶつぶつ言いながら、壁に向かって話していた。
部屋の中は、4つの(二人分の)マットだけ!
な~んにも他のものはない!
テレビや日用品を置く消燈台も何にもない。
のどが渇いてもお水も置いてない。鼻が悪いヒイちゃんはいつもティッシュを抱えているのにティッシュもない。
ただ、一人2つのマット。その上に壁ギリギリに寝ているヒイちゃん。
大ちゃんが「なんじゃこりゃ~!ここは刑務所か!」と思ったと話してたけど、刑務所ならトイレはある!
ここでどうしろというのか! 明らかに人のいる空間ではない!
ヒイちゃんは、(おとなしく)壁に向かってしゃべっていた。
2週間前まで、一緒にお酒を飲み、笑い、遊んでいたおちゃめなヒイちゃん。
そのヒイちゃんが今、入れ歯も外されたまま(どうせ多分関係ないから)手の届くところにお茶もなく(どうせ水分は補給の時間まで飲まないだろう)鼻水が出ても拭くティッシュさえ手の届かないところに置かれ(どうせ自分ではできないだろう)ただ壁に向かってじっと寝ていることだけを要求されている。
部屋に入りこの状況を目の当たりにしたとたん、私は怒りがこみ上げてきた。(たぶん大ちゃんも同じだったと思う)
「ヒイちゃん」といつものように話しかけた。
ヒイちゃんは、びっくりした顔で顔だけを私のほうに向けて、「ありゃ~誰かい?」と言った。
「ヒイちゃん、わかる?この顔わかる?」と尋ねると、しばらくして「あ~」と言って、「見たことある人じゃ!」と言った。ヒイちゃんが本当に私のことを思い出したかどうかはわからないけど、何やら見たことがあるくらいは思い出してくれたようだった。
「ヒイちゃん、こんなとこで何しよるん?」と私は聞いた。
ヒイちゃんは、「腰が痛いけんの。動いたらいかんのよ。こうしてこっちを向いとかないかんのんよ。」と言った。
そう医師に言われているのか、看護婦に言われているのか、ヒイちゃんが勝手に思い込んでいるのかは、わからない。
私は言った。「でもヒイちゃん。こんな恰好でじっと寝とったら、歩けんようになってしまうよ。ボケてしまうよ。」
ヒイちゃんの部屋は、真向かいのナースステーションからいつも見えるように(動き回っていないか見えるように)ドアを開けたままになっていたので、私はわざと聞こえるように大きな声で言った。
ヒイちゃんは、「そうよの。ボケたらつまらんの。」と壁を向いたままで言った。
今までのヒイちゃんとは確かに違う別のばあさん。表情もなく、歯のない口をパクパクさせ、目は別のところを見ている。
私は急いで冷たいジュースを買ってきてヒイちゃんに飲まそうとした。消燈台は部屋の外の廊下に出されていたので、その台から吸い飲みを持ってきて、ジュースを入れてヒイちゃんに渡した。(本当はヒイちゃんの好きな熱いお茶をあげたかったけど、そんなものはここにはない)
ヒイちゃんは、冷たいジュースを一気に飲んでこう言った。「ありがと。ありがと。こんなおいしいもんがあるとは知らなんだ。」
それからこう言った。両手を合わせて拝むようにして。「どこのどなたか知りませんが、本当にありがとう。おいしいものをありがとう。ありがとう。ありがとう。」
焦点の合わない目で私のほうを見ながら、こういうヒイちゃんに涙があふれた。
2週間前は、一緒にお酒を飲んだ。一緒にしゃべった。笑った。梅が咲いたからと梅見にでかけいっぱい歩いた。
たった2週間。病院にいただけでここまで老いるのか!ここまで人間でなくなるのか!ここまで・・・!
医療は人を生かすためにあるのではないだろうか。
たった2週間で、廃人同様になったヒイちゃんを前に、私は思う。
「腰の痛み」という疾患を治すために、ヒイちゃんが寝たきりになったとしたら、何も分からなくなったとしたら・・・それでも医療の意味はあるというのだろうか?
「こっち向いて、私の顔見てや」というと、「じっと寝とらんと治らんけん」と壁を向いて言ったヒイちゃん。
「ここは静かじゃろ~。だ~れもおらんけんの。」「だ~れもおらんとこで、寝とったらそれでええんよ」「黙って寝とるだけ!」
ヒイちゃんは、すべてを知っているのかもしれない。
何もかも。
看護師がやけに多いと感じたその病院を後にして、私の腹立たしさは虚しさに変わる。
・・・・・
「人を生かす」ための「医療」を、
「人間を(ヒイちゃんという人間を)殺さない」医療を、
心から望みたいと思う。
日野原重明氏は言った。
「一人の人間の今をおろそかに扱う医師であってはならない。病に苦しむ患者の「いま」を否定することは、その人にとって、これまで耐えてきた過去をも否定されることであり、さらに、この先病状が改善しない時のことを想うだけで、未来のすべてを失ってしまう恐怖にさらされることを意味しています。人が生きていくなかで、これほどの深い孤独があるでしょうか。病む人を孤独にさせない。その覚悟を持つ医師でありたいと私は思うのです。
介護という仕事に携わる私も思う。
「人が生きる」ということの意味と深さを想う時、「いま」という時がいかに大切で取り返すことのできない時間であるかを。だからこそ「いま」を大切に、一瞬を大切にしたいと心から思う。
ヒイちゃんの「いま」が、取り返せるものであるのかどうか・・・
本当の医療を、
人を生かす医療を、
人間を生かす医療を、
のぞみたい!
心から!