池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

夕浪のじいちゃん

2006-10-25 23:45:16 | デイサービス池さん
1年半前に選挙を通じて出会ったじいちゃん。夕浪のじいちゃん。
長いお付き合いでもないし、いつも逢うわけでもないじいちゃん。
でも、逢うといつも私の心を暖かくしてくれるじいちゃん。

選挙の挨拶にいったのが始めての出会い。
その時じいちゃんは、山の中で仕事をしていた。
小さな体。90度に曲がった腰。初めて逢う気がせずに、挨拶にいったときも長話をして帰った記憶がある。

じいちゃんの目はとても温かくて、じいちゃんの目を見ていると、いつも心の中を見透かされているように感じる。

選挙の日、じいちゃんは誰よりも早く、まだ投票所が開く前から集会所に行ってくれて、一番乗りで私の名前を書いてくれたそうだ。

そして、選挙に落選してすっかりめげている時、じいちゃんは朝早く車を運転して、私を励ましに来てくれた。

「お金をいっぱい使う人がいる中で、あんたは信念を通して、まっとうな選挙をしたのだから、きっといいことがある。あんたの後姿を子どもが見て、きっとまっとうな生き方をしてくれるだろう。悲しむことなんかない。」とお茶を飲みながら話してくれた。

そのタイミングの良さとじいちゃんの生き様が、その時の私の心に深くしみて、私は救われた気がしたのを覚えている。

それから今日まで、何ヶ月かに一度、じいちゃんが柿を持ってきてくれたり、私たちがお弁当を持っていったりという関係が続いている。

今日、利用者さんと秋の話をしているうちに突然、夕浪へ行こうということになった。「行こう行こう」といつものようにすぐに決まって、ありあわせのものでお弁当をつくり、フミちゃん達といっしょに、3台の車に分乗して出発。

いつものように、じいちゃんは山にいた。「じいちゃ~ん」と呼ぶと、山の中腹からいつものように腰を曲げてスタスタと降りてきてくれて、「お~お、久しぶりじゃな」と喜んでくれた。「事業はうまくいきよるか?」と仕事のことを一番に心配してくれ、「芋があるけん、ちょうどよかった。もって帰れ」と言ってくれた。

総勢10名の突然の訪問にも、いやな顔もせず、利用者さんの1人とはすっかり話も合って、いつものように皆で長話をして、じいちゃんの夕食用にとけんちん汁とお弁当を置いて、かわりにおイモやキノコをどっさりもらって帰ってきた。

いろいろな出会いがあり、いろいろな別れがある。
仕事を通じて知り合う人、池さんに利用者として来てくれる人、タムタムやたぁさんのように永遠のお別れをした人、池さんから他の施設へと移っていった人・・・

多くの出会いを重ねて、出会った多くの人たちから、生き様や考え方を学ばせてもらっている。お年寄りだけでなく、障がいをもった人、そして子ども達・・・
悩みや苦しみが何にも無い人など、1人もいない。
みんな何かしら苦しみを抱えつつ、それでもなお懸命に生きている。
周囲に感謝し、前を向いて歩んでいる人たち。

夕浪のじいちゃんに逢う時、
私はいつも「人と人との出会い」の偶然さと大切さを思わされる。

そして「出会えたこと」を素直に感謝する謙虚な気持ちを、いつも思い出させてくれる。

じいちゃんは私にとってかけがえのない人。
また、お弁当つくって逢いに行きますね。じいちゃん。










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たぁさんのこと

2006-10-24 00:01:32 | デイサービス池さん
たぁさんと初めて出会ったのは、3月の末。
まだ、寒い頃、池さんの家の中にもコタツがある季節だった。

病院から「退院をせまられているのに、受け入れ先が決まっていない。1週間お泊りを頼めないか?」という依頼に、大ちゃんと一緒に入院先の病院へ面接に行った。「大変な人」という説明に、「どこが?」という第1印象だったのを記憶している。

そして、1週間のお泊り。
車椅子に乗って、1人で立てないため、夜間のスタッフは2名体制をとった。

会話が成立しないわけではなく、耳が聞こえないわけでも、食事が大変なわけでもない。

ただ、2~3分おきに訴えるトイレと、「寒いから布団をかけてほしい」という訴えに、スタッフは一睡もせず、ひたすらトイレへ連れて行き、布団をかけなおすという関わりを1週間続けなければならなかった。

夜もほとんど寝ずに、「誰か~誰か~トイレへ連れて行ってください。お願いします。」と訴え続けるたぁさん。やっとトイレから帰り、コタツに寝かせ(ベットは嫌がったから)やれやれと思うと同時に「おしっこです。誰か~誰か~お願いします。」・・・昼は昼で、「寒い寒い」を連発し「誰か~誰か~」を繰り返す。でも私たちはとにかくたぁさんの訴えを聞こうと決めて1週間。付っきりで介護した。

そして、1週間後、たぁさんは別の施設へと移って行った。
「お世話になりました。本当にありがとう。」と言う言葉を残して。

しばらくして、新しく行った施設も出ることになったと聞かされた。

その後、また月日がたったある日、たぁさんがまた、お泊りにやってきた。

たぁさんは以前と違い夜間は眠薬できちんとコントロールされていて、頻繁に訴えていた「トイレ」もほとんど手がかからずに、普通に日常生活が送れるようになっていた。お泊りスタッフも大ちゃん1人でなんとか大丈夫。

「もう一度、池さんへ来たかったんです」「ここは本当にいいところです」「ここのご飯が食べたかったんです」と何度も言ってくれたたぁさん。本当に満足して次の朝、笑顔で帰って行く・・・夜間だけの預かり。

他のデイサービスを利用しながら、1ヶ月に2回くらいのペースで、池さんに来るのを楽しみに過ごし、在宅での生活を送っていたたぁさん。

家族の方の体調が悪化して、在宅で介護することできなくなって施設へ入所することになった。でも、入所してからも1度だけ、たぁさんは池さんに来てくれた。

「会いたかったよ~」「あ~嬉しい」「小松のお母さん(私のこと)の美味しいかぼちゃの煮物を食べたかったんですよ」「あ~美味しい」・・・

「たぁさん何歳?」と聞くと、「え~もうすぐ283歳ですね」と答え、「すごいね~。300歳までもうすぐやね」と言うと、「いや~、それはちょっと無理かもしれませんね~」と言うたぁさん。

以前いた病院で暴れたことや、元気だった頃行った外国の話、得意の料理の話。いろんな話をいっぱい聞かせてくれて、たぁさんと話すのはとても楽しかった。

ポーランドから来たお客様に会った時、たぁさんは「アイム、チーフエンジニア」と自己紹介し、私たちを驚かせた。

・・・・・・そして・・・・・

昨日、たぁさんが亡くなった。

入所していた施設で。

今日、仕事が終わった後、スタッフ皆でお別れに行ってきた。

お宅に伺った時、ちょうどお通夜の読経の最中。

私たちは、以前喫茶店をされていたお店の方で、しばらく待たせていただくことになった。(いつもお迎えに行く時には、ベットのあるお部屋に行くから、この部屋に入ったのは初めてだった。)

その部屋の中には、外国船の乗組員だったたぁさんがいろいろな国で集めた装飾品が所狭しと並べられていて、ちょっとした美術館のよう。インドの象の置物、中国のお人形、エジプトのお皿、ロシアの靴・・・私たちの知らなかったたぁさんの思い出のコレクション達。

そして、最後のお別れをしたたぁさんの前で、私は涙が止まらなかった。

祭壇の中央にあるたぁさんの写真は、病気になる前、お元気な頃のたぁさん。
そこには私たちの知らない恰幅の良いふくよかな紳士のたぁさんが笑っていた。

たぁさんの生きてきた歴史。歩んできた人生。数多くの思い出。

私たちの知っているたぁさんとは明らかに違う、誇り高く自信に満ち溢れたたぁさんの顔。

・・・・・・

私たち介護の現場にいる者は、常に「死」と隣り合わせで生きている。
私たち介護に携わる人間が日々向かい合うのは、病気をしたり年をとったりした人たち。

けれど、

すべての人に、歩んできた人生の歴史があり、生きてきた足跡がある。
他者に決して踏みにじられるべきではない誇りや生き様がある。

他人に、「年寄りだから」「どうせわからんだろうから」と軽々しく扱われ、「面倒な人」とレッテルを貼られる理由はどこにもない。1人の人間の体の状態を、数字に換算してレベルで判断される理由などどこにもない。

生きている全ての人は、その人なりの尊厳と誇りと歴史を持っているのだ。

人間の尊厳に敬意を払いたいと思う。

私たちの目指す「介護」とは、1人の「人」と向き合うこと。

・・・

ほんの半年あまりのたぁさんとの縁。
けれど、たぁさんは本当に沢山のことを私たちに教えてくれた。
介護することの意味を、人と正面から向き合うことの意味を、そして、私たちの限界を。

ありがとう。たぁさん。
あなたと出会うことができて、本当によかった。
心から感謝しています。





















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ケイさん

2006-10-18 22:59:23 | デイサービス池さん
我が池さんの中で、ちょっと異色の存在。ケイさん。
スタッフはじめ、池さんに出入りする人は、もともとちょっと変ってる人が多いから(・・・おっとごめん。決してこれ読んでくれてるあなた、あ・な・たのことじゃありませんよ~!)利用者のケイさんも性別不明だとか、車椅子に乗れないくらい太っているだとか・・・そういうわけではありません(・・・イヒッ)

ただ、ちょっと表を歩き回るのが大好きなおじさま。
しかも、超早足。
その上、予告なし。
おまけにとっても元気。

眼光鋭くて、いつも私は心の中を見通されているように感じてしまう、そんな紳士のケイさん。

「本当に心から話しているのか」
「本気で向き合っているか」
「適当なことでごまかしていないか」

ケイさんと話す時、いつもそんな風に思ってしまう。
ケイさんと目を合わせていると、時々、「あっ、今、私、真剣じゃなかったかも」という思いを感じることがある。

・・・
だんだんといろいろな状況がわからなくなり、日常生活を1人で送るということが不自由になっていく場合がある。

けれど、いろいろな人と関わってみて思うことは、「理解する力」が衰えたとしても「感じる力」が衰えることは多分ないのだろうということ。

その人に関わる人が、本気かどうか、きっと誰よりも敏感に感じているのだろうと思う。

だからこそ、どうせわからないからといういい加減さや、その場限りの適当さを感じ取り、不機嫌になって、不安定になってしまうのだと思う。

池さんの皆は、いつも決していい加減でいいとは思ったりはしない。

けれど、一日のうちの、ほんのちょっとした気持ちの揺れや、緩みを感じ取ることができるお年寄りは、けっしてケイさんだけではない。

私たちは、
その人が歩いてきた重い人生の経験を学ぶだけではなく、
本当に敬意をもって人に接することの大切さを、日々利用者さんから学ばせてもらっている。

ケイさんといると、いつもそんな気にさせられる私。

お年寄りだけではなく、障がいをもった子ども同じ。
心の傷ついた子どもや大人も同じ。
わんぱくな子どもも同じ。

関わる人の大切さ。関わるタイミングの大切さ。そして、関わる人の心の大切さ。そんなことを改めて考えさせてくれるケイさん。

明日も一日、よろしくお願いしますね。
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運動会

2006-10-08 01:16:36 | デイサービス池さん
ぱるちゃんとじゅりくんの保育園の運動会へ行ってきた。

久しぶりに見る(・・・って言っても、たった3日ぶりだけど)ぱるちゃん。
保育園に通い始めて、ほんの、たった、1週間。
でも、
すっかり
ぱるちゃんは、元気に保育園の空気に馴染んでいた。

障害物競走。
小さな小さな跳び箱とマットを上手に飛び越え、走って、ゴールのお菓子をゲットした。そして、ちゃんと皆のところへ帰って行った。

あっという間の時間。

でも、
でも、
でも、
嬉しかった。

けなげで、頼もしくて、可愛くて・・・

池さんで過ごした時間。
抱っこした時間。
いろいろなことを思い出しながら、ぱるちゃんを見ていた。

大きくなったね。ぱるちゃん

そして・・・

昨日来た時、「絶対見に来てよ」と約束したじゅりくん。
「大ちゃんと大ちゃんママとみかちゃんと社長さん、来てよ」と指きり。

いつもはお風呂は入らないけど、明日は運動会だから早く寝なきゃ、と大ちゃんママとお風呂も入って帰ったじゅりくん。

だから、皆で行った。

最初、じゅりくんは、私たちに気付かずに踊っていた。でも、踊りが終わって帰るとき、私たちを見つけたじゅりくん。

照れたように、嬉しそうに、いつものように笑う笑顔。

かけっこも転ばずに走れてよかったね。ビリだったけど、一番嬉しそうに走ってたよ。平均台も上手だったし、踊りも、たぶん練習時間が皆より少なかっただろうに、上手にできてたよ。

よく頑張りました

・・・・・・・

運動会を見てて思った。
なんで、パパやママは本気で運動会しないのかな?

私たちが若いママだった頃は、何日も前から子どもと一緒に練習して、当日は張り切ってお弁当をこしらえて、競技のたびに大声で声援を送り、親子競技なんかは、子どもが転ぼうが泣こうが、引きずってでも一番にゴールしたかったもんだ。

久しぶりに見る運動会は、パパはみんなビデオの係り?
応援もあんまり盛り上がらずに、親子競技に至っては、走ったりせずに皆ぶらぶら。
あんまりゆっくりするもんだから、園長先生から何度も「ほら、走って、走って・・・」とマイクで叫ばれていた。

子どもは育てるもの。
勝手に育つものではない。

「親はどうするのか。」いつも見ている。
「見て」子どもは、社会で生きる価値観を自分の中に作っていくのだ。

運動会みたいな行事の時には「よ~しゃ、今日は頑張るぞ」と思い、かけっこでは「絶対勝つぞ」と気合を入れて、張り切りすぎて転んだら「次は転ばずにきっと勝つぞ」と思い、いっぱい練習したリズムが上手にできて、親に誉められたら「頑張ってよかった」と思う。

決して勝つことが目的ではない。
こうした行事に向けて気持ちを高揚させること、行事が終わった達成感を味わうことが大切なのだと思う。

少しずつ大きくなって行く過程をみんなの前で、披露する運動会。

日常の生活の中の「試練」という意味での運動会という行事が、ただ「成長ビデオや思い出写真」という映像を残すための「イベント」に終わりつつある気がする。

子どもの演技やかけっこに、声を枯らして声援を送り、写真を撮るのも忘れて拍手をして、一つ一つの演技をいっぱい誉めてあげて、保護者競技でも全力で駆けるパパやママの子どもなら・・・
きっと、いろんな事に一生懸命な、前向きで人生を楽しめる子どもに育つことだろう。

たった半日の運動会。
でも子どもにとっては、一生に一度の今年の運動会。

いっぱい頑張って、帰ってからも家族でいっぱい今日のお話して、小さな心を「豊かな思い出と溢れる愛情」で満たされる運動会であって欲しいと心から思う。





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