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池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

生き様を想う

2017-10-23 23:59:47 | デイサービス池さん

どの人も、その人にしかない生き方を生きている。

どんな家に暮らし、どんな生活をし、何を大切に想い、生きているのか。

人それぞれ。

人によってさまざま。

今日、壊れかけた家が潰されている場面に遭遇した。

重機が小さな家を壊していく。

おそらくアッという間に壊れてしまうだろう弱弱しい骨組みの小さな家。

かつて知っている人の家。

ボロボロになり瓦も落ち、壁も崩れかけていた家。

ここで生きた人は、美しい人だった。

初対面の時から優しくて、私のことを大切にしてくれた人だった。

深い認知症状を抱えていたが、近くの施設に保護されてからはそれなりに暮らしていた。

池さんのデイに嬉々として通って来てくれていた。

けれど、いろいろな時を経て彼女はてんかんという診断名と介護困難という大義名分のもとに、日常の中の暮らしから医療の世界へ追いやられていった。

心から彼女を愛してくれる親族がいない中で、その後どうなったのか、彼女が今どうしているのか私にはわからない。

いつの時からこうなったのか、どこでそうなったのか、私にはわかるはずもないが、ただそこで生きていた人の人生の最後が、彼女が望んだであろう良きものでないだろうということだけは確かなことのような気がする。

どこでこうなったのか、私にはわからない。

池さんという場で生きているばあさんたちの、うるさいほどに賑やかで楽し気な声を耳にしながら、どこが違うのかどこが分かれ道なのか、今も悩む。

その人らしく一生懸命きちんと生きていても、その人の老いや老後の生活が等しくない場面に出会う度に分からなくなる。

自我が強くてどうしようもないと思われる人が家族に大切にされ、優しくて穏やかで何も問題がないように思える人が、介護が必要になったとたん誰からも愛されることなく生きていかなければならない。

そんな場面に出会うたびに、その生き様に想いを馳せる。

どんな家で暮らしていたのだろう、どんな家族を作ってきたのだろう、どんな人生を生きてきたのだろうと。

家を見て暮らしを想い、家族を見て生き様を想う。

想い続けてもわからないことだらけで、わからないからこそ余計に想いを馳せる。

堂々巡りの私の心。

どうにもならない私の心。

 

台風が過ぎ久々にお日様に会えた気がする一日です。

部屋干し続きで湿った匂いのするシャツを着ている今夜のワタクシ。

またまた頭が堂々巡りのせいなのか、シャワーのあと眼鏡が見当たらず大頭の家をあちこちと歩き回っておりましたが、ふと気が付くと眼鏡はかけておりましたがな。

あ~今夜もどうなることやら。

これ以上堂々巡りにならないように、どうか静かな夜になりますように、天の神様にお願いしたいと思うわけで。

「世の中は娘と嫁が花咲いて、かかとしぼんで ばばと散りゆく」

諸行無常の教えです。形あるものは常に変わってゆきます。老人の姿は明日の自分だと知った上で自分のこととして生きてゆかなければならないと故高田好胤管主は述べています。

かかは早くもしぼみ切ってはおりますが、ばばと散ってしまう前にもうひと踏んばりしたいものです。

と言いつつ、記憶力に自信がなくなってきた自分の有様に、人の生き様を想うまえにわが身を想い、もっとしっかりせんといかんなあ~と反省しきりのお泊りの夜です。

皆様、お休みなさいませ。

 

 

 

 

 

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動くばあさん

2017-10-21 00:03:07 | デイサービス池さん

ばあさんが動く。

自由に勝手気ままに、思いのままに。

コインランドリーにタオルを乾かしに行こうかと話していたら、足が痛いと言っていたばあさんが即座に立ち上がる。

ばあさん前のめりに歩くもんだから、転倒を心配して慌てて走り回る私たち。

ばあさん、置いて行かれないかと急いで前に倒れそうになりながら歩くものだから、自分でもおかしくて顔が真っ赤になってる。

それ見て、私は笑いがこみ上げてくる。

ネコが床下にいるかもしれない・・・と言ったとたん、ソファーからさっと立ちあがり、床を踏み鳴らしながら部屋中を駆け回るばあさん。

それでもネコが出てこないと思ったら、今度は椅子を持ち上げて部屋中をドンドンと大きな音を立てて歩き回り始める。

ドンドン、ドンドン・・・。

床下に潜むネコを追い出そうと頑張っている。

思いもよらない行動を堂々と繰り返す元気なばあさんに、今日も呆れながら付き合う。

でも、でも、うるさいことこの上なし。

ばあさんは知らん顔!

「出てきたか?」「まだか?」と頭をかしげながら部屋を歩き回る。

そんなことをしてもうるさいだけで、ネコなど出てくるわけもなく・・・

それでも、ばあさんは当たり前のような顔でテラスの確認に行き、ネコがいないとわかると椅子に腰かける。

「おかしい?」「出て来んのか?」

ばあさんたちの考えることは、いつだって予測不可能。

なので、私たちは、ばあさんを止めることもなくカメラを片手に動画のスイッチを入れて、笑いをこらえてカメラを向ける。

池さんの日常は、いつもそんな感じ。

予測不可能な人たちと、予測不可能な日常を過ごすことに幸せを感じる。

人はだれも、予測などできない思考回路の中で生きている。

自分自身を制御できず、イラついたり焦ったり落ち込んだり。

でも、ばあさんたちの呆れかえるほどの自信に満ちた行動に出会う時、ひょっとしてそれでいいのかもと限りなく曖昧な思考を肯定している自分がいることに気づくのだ。

それでいい、それでもいい。

そんなことはおかしいと正論を振りかざすことさえも、どうでもいいと思えてくるのだ。

そんな気にしてくれるここでの日常。

限りなく緩やかな時間に、今日もなんだか理由なく癒される自分がいる。

和顔施という言葉がある。

和やかににこやかな顔で人に接するということ。

微笑む人に接することで、相手の人も安らいだ気になっていく。

ばあさんの思考や行動は、間違いなくその場を暖かくしてくれ、私たちを笑顔にしてくれる。

笑う私たちを見て、ばあさんも笑う。皆で笑う。訳がわかろうとわかるまいと、笑う人を見て笑う。

場を作ろうと必死に考えている私たちより、自然に生まれるこうした出来事の方が、はるかに大きな空気を生み出してくれるということを心にとどめておきたいと思う。

自然に生まれるウフッと笑える笑いこそが、本当は大切なものなのかもしれない。

 

それにしても降り続ける秋雨。

扇風機とヒーターが混在する自宅と現場。

その上台風までやってくる。

どうか被害のないように。

今回もお山の神様にお祈りしつつ、早や10月も半ば。

月日の速さに驚きながら、今夜も賑やかな夜を過ごすことになりそう。

やっぱり今夜も、ばあさんが叫んどります。

「おかあさあああん~~~!」

リンちゃんが歌っております。

「ここはお国の何百里~~」

私の顔は現在、和顔施ではなく、確かにひきつっていると思われますが。

皆様、良き夜を。

 

 

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祈る

2017-10-17 20:39:14 | デイサービス池さん

雨のお祭り。

氏神様が神輿に乗ってきてくれる。

家族や事業の繁栄を願い、安全を祈り、そしてばあさんたちの長寿を願う神主さんの祝詞が、今の私の心に響く。

最高齢98歳のばあさんをはじめ、本日来てくれていた人たちがお出迎えし、祈るお祭り。

手を合わせ、祝詞を聞き、お神酒を頂き、お札を頂く。

だれもかれもが祈る。

神様にむかって、祈りを捧げる。

毎年行われる地元のお祭り。

祈りの時。

年寄りたちにとって、祭りは祈りの時間。

若者たちの描く祭りのイメージとは異なる時間。

心から神様に祈りを捧げる、日本人としての大切な時間。

年を重ねるほどに、そうした年寄りの気持ちがわかるような、そんな気がする今年のお祭り。

 

さてさて、本日の池さん的ジブリコーナー(もう聞きたくないって?まあ、ちょっとだけね。)

お神輿が来る予定の時間が雨で遅れて、今か今かと待っている池さん軍団。

「お神輿来たよ~!」

「急がないと手遅れになるよ!」

「出かけるよ!いつまで食べてるんだい?」

「はい!ママ!」

「私も一緒に連れて行ってくれないか!お神輿が見たいんだ!」

「甘ったれるんじゃないよ!そういうことは自分の力でやるもんだ!」

「もうご飯なんかいらない!お神輿が見たいんだ!」

ほ~泣かせる~

おだまり!

「二度とここへ帰れなくなるよ!」

「わかってる!」

「覚悟のうえだね!」

「はい!」

「40秒で支度しな!!!」

とまあ、歩けないばあちゃんが走る!走る!飛ぶように走る!

朝は調子悪そうに下を向いていたばあさんが、杖を振り捨ててさっと立ち上がる。

いつもは寝てばかりいるばあさんが、目を見開いてお神輿を待つ。

40秒で支度して、あっという間に玄関前に全員整列。

どうやら避難訓練よりも、お神輿の方がはるかに短時間で脱出することができそうで、非常時には「火事だ!」ではなく「神輿が来た~~~!」と叫んでみようかと思ったりした本日の祭り。

寒くなりました。

皆さまお風邪など召されませんように。

 

 

 

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お祭り週間

2017-10-14 23:58:52 | デイサービス池さん

西条のお祭りがいよいよ始まります!

先週の安井の祭りに始まり、本日妙口近辺と氷見。

明日は未明の西条の宮出しと大頭周辺。

月曜日に小松の宮出しと火曜日が本祭り。

と、忙しい1週間が始まってます。

「祭り」は年寄りにとって、家内安全や大地の恵みに敬虔な気持ちで感謝し手を合わせる厳かなイベント。

年寄りたちと一緒に今年も感謝を込めて、氏神様に祈りを捧げたいと思います。

 

さて、業務連絡です。

合言葉は「丁寧に」

心を込めて、人を看ましょう。

イライラしたり、困った時には大きく深呼吸して、一歩下がってちょっと離れた所から自分を見てみましょう。

客観的に自分を見る習慣をつけるということです。

自分の姿がどう見えているか、自分の声掛けがきつく聞こえていないか、自分の心が集中できているか、少し振り返ってみましょう。

目の前の年寄りは、自分を映し出す鏡だと思ってください。

雑に関われば落ち着かなくなり、不安な気持ちや迷いながらで手を出せば、おそらくその手を放してしまうのです。

毎日が同じだと思わないでください。

同じように見える人たちも、私たちの気持ちが毎日違うのと同じで、決して同じ毎日を生きているのではありません。

その上、残された時間は、私たちよりはるかに短いはずです。

丁寧にその姿を見て、心を込めて向かい合い、一生懸命ケアを考えていくことが、年寄りたちの気持ちを安定させ、穏やかな一日を生きてもらうことに繋がるのです。

だから、決して「これでいい」と考えることをやめてしまわないようにしましょう。

池さんの手拭いに書いてある文字を胸に叩き込んで、池さんとしての介護を胸張ってやっていきましょう。

上っ面だけのお世話介護や耳障りのいい言葉を並べるような介護など、やってないのです。

だからと言って、皆友達みたいな仲良し適当介護でもありません。

人が人として生きてゆけるように、最後までその人らしく生きてゆけるように、泥臭くシビアに考え抜くのが池さんの介護なのですからね。

皆と一緒にこれからも、考えることを諦めず、丁寧に考え続けてゆけたらと思っています。

悩みながら頑張っている皆の気持ちは、よくわかってますからね。

だから、「丁寧に」一緒に生きてゆきましょう。

スタッフも、年寄りも、私自身も、みんながいきいきとした時間を丁寧に生きてゆけたら嬉しいです。

池さんとはそういう場所です。

ゆっくりとよろしくね。

 

 

 

 

 

 

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ばあちゃんがやってきた

2017-10-11 22:39:45 | デイサービス池さん

「池さんものがたり」に登場する山のばあちゃん。

ピタゴラスの定理のばあちゃん。

池さんがオープンしてすぐからのお付き合いだから、出会ってからかれこれ13年近くになる。今は自宅とよその施設のショートを利用しているので長い間利用もなく、もう縁はないのかなと思っていた。

なのに、家族が怪我をして入院することになり2年近く会っていなかったのに、急に池さんにやってきた。

101歳になったばあちゃん。

もう会えないと思っていたから、私たちはソワソワ・ワクワクで出迎えた。

101歳のばあちゃんは身体の肉を削ぎ落し、年齢相応に小さくなってはいたものの、やっぱりばあちゃんそのものだった。

「生きとる!」「動いとる!」と思わず感動するほどに、ばあちゃんそのものだった。

手をスリスリしたり、パンパン叩いたり(もう力はあまりないから音は小さくなっていたけど)、何かを拝むかのように手を合わせていた。

モグモグと口を動かしてご飯を食べた。

視線が合うと「ありがとう」と言い、そして「えらいねえ~!」と褒めてくれた。

「おはよう」と言うと、はいはいと言うように目を合わせ「おはよう」と言ってくれる。

何一つ変わっていない。

ただ、月日が流れただけ。

懐かしさと嬉しさで心が満たされる。

夜は大頭の宅老所のリビングで、お泊り当番と一緒に眠った。

ずっと前、一緒に眠ったように隣で眠った。

部屋の中が、ばあちゃんの空気の色に染まる。

穏やかで軽い空気。

静かで緊張のない空気。

ばあちゃんの持つ空気は、心地よくて暖かく、柔らかで心地よい。

それはばあちゃんの生き方そのものかもしれないと、改めて思う。

身を粉にして山で働き、子どもを育て、常に感謝の気持ちを忘れず、一生懸命生きたばあちゃんだからこそ、年老いてもなお目の前の人に対して感謝の言葉を伝えることができるのかもしれない。

弱さを見せまいと固い自我で自己を守り続ける人もいる。

世の中に抗い続け、自分の今の姿を受け入れられず抗い続け、自ら緊張の中に生きる人もいる。

ばあちゃんのように、素直に身を任せて柔らかく生きる人もいる。

素直に周囲を頼り、暖かい時間の中で生きる人もいる。

自らが「どう生きるか」という命題を、ばあちゃんのその姿によって改めて指し示されたような気がする。

101年という長い年月を、人としてちゃんと生き続けているばあちゃんの姿に尊敬の念を抱きつつ。

自らの生き様を省みて反省や後悔だらけの自分に、もう一度「これから先をどう生きるのか」と突き付けられたような気がする。

過去は変えられないが未来は変えられると言った人がいるが、ならば還暦過ぎの私も、もう一度これから先の自分自身の生き方を考えてみようと思う。

ばあちゃんと過ごしたわずかな時間は、大きな意味を持って私たちの心の中に確かに刻まれた。

池さんという場所で、もう会うことはないかもしれない。

かつてここで生きた人たちと同じように、ばあちゃんもまた、私たちに大切なものを伝えてくれたことに、感謝。

秋の日に、もう一度会えた運命の優しさに、感謝。

ばあちゃんに感謝。

 

 

 

 

 

 

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中秋の月に

2017-10-04 23:03:54 | デイサービス池さん

中秋の名月。
正確には満月は6日で、満月前の月夜です。

美しい月夜です。

月の周期は29.5日。

命の周期と同じです。

産み・育て・終わり・再び生まれ変わる・・・

満ちる月は孕んでゆく豊穣の月、母なる月と言われ、欠けゆく月は衰えゆく月、老成の月と言われ、闇の中に飲み込まれた月は再び新たな若い月となって生まれ変わります。

永遠の繰り返しによって、月はいつからか豊穣と再生の神として存在してきました。

満ちてゆく月は枝葉を茂らせ伸ばし、地上に実るものを豊かに太らせ、欠けてゆく月は枝葉を痩せさせる代わりに地下に育つものに実りをもたらすと言い伝えられているそうです。

更に、月は地上の水を司ると言われています。生きるものの体内の水へ影響を与えます。つまり私たち人間のホルモンのバランスも月の周期に影響されているらしいのです。

満月は精神状態にも影響を及ぼしているとか。不安定になったり落ち着かなくなったり、勘がさえたり眠れなくなったり。思い当たることも多いので、考えてみると月によって体内の水のバランスが変化し、本能が呼び起こされているのかもしれません。

柔らかく思える月の光は、じつは創造と再生に繋がる偉大な力を持っているようです。

だったらやっぱり私の大好きな月光浴で、疲れた体を癒して再生し、新たなる日に向かう力を与えてもらいたいと思います。

それにしても美しい月でした。

4年前、大頭の宅老所ができた時、ヒイちゃんやリンさんと見た月。

今夜も大きな美しい月を、この家から見ることができました。

あらゆることのバランスを図り、関わる人たちの心を整えて、静かで強い母なるエネルギーを与えてほしいと今日の月に祈りました。

 

今日もいろんなことがありました。
毎日毎日、エピソードだらけです。どれもこれも書き留めておきたいと思うことばかり。

忘れるのがもったいないと思うほど、面白いことや嬉しいことだらけの現場は間違いなく魅力的です。ここで働く職員たちも、イキイキとしていて溌溂としていて輝いています。

 

それにしても月日の経つのが早いこと。

そろそろお祭りの支度をしなければなりません。

彼岸花が終わり、どこからか金木犀の香りがしてきます。

季節の移り変わりを身近な自然から感じることができる環境で暮らせることに感謝の気持ちを持ちながら、よい職員に恵まれて気持ちよく仕事ができることにも感謝しつつ、与えられた役目をしっかりと果たしていけるよう、明日も精いっぱい「生きること」を頑張りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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情報とは

2017-10-02 23:29:32 | デイサービス池さん

政治の世界でさえ、どこかの偉い人のようにツイッターやらで情報を発信する時代。

民主的な手順を踏まずして世論が動く。

世論はマスメディアからの発信で左右され、無責任に投稿される動画を駆使して、どこの誰だか知らない評論家風の芸能人たちに論評されつつ世の中に拡散されていく。

真実ではないかもしれない情報に踊らされているかもしれないという不安感を持ち合わせることもなく、安易に受け入れてしまう危うさ。

一体いつからこんなに世の中が無責任になったのだろう。

ケータイがただの電話機から、小さなパソコンに進化したあたりからかもしれない。

「いいね」がお金で買える時代。

画面の向こうにいる不特定多数の人たちに対する自己満足の世界に没頭する人たち。

異次元を漂う情報ではなく、しっかりと時代に足をつけ将来を見据えた正しい情報を選択し判断できるだけの賢さを失ってはならないと思う。

情報を発信するのも、受取るのも、利用するのも、判断するのも、実は日々の自分の生き方そのものなのかもしれないと思ったりする。

とかなんとか言いながらブログで池さん情報を発信しているワタクシではありますが、どうぞ笑って読んでいただければ幸いです。

雨が降り急に冷え始めました。

皆様風邪ひかないようにご自愛ください。

 

 

 

 

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