どの人も、その人にしかない生き方を生きている。
どんな家に暮らし、どんな生活をし、何を大切に想い、生きているのか。
人それぞれ。
人によってさまざま。
今日、壊れかけた家が潰されている場面に遭遇した。
重機が小さな家を壊していく。
おそらくアッという間に壊れてしまうだろう弱弱しい骨組みの小さな家。
かつて知っている人の家。
ボロボロになり瓦も落ち、壁も崩れかけていた家。
ここで生きた人は、美しい人だった。
初対面の時から優しくて、私のことを大切にしてくれた人だった。
深い認知症状を抱えていたが、近くの施設に保護されてからはそれなりに暮らしていた。
池さんのデイに嬉々として通って来てくれていた。
けれど、いろいろな時を経て彼女はてんかんという診断名と介護困難という大義名分のもとに、日常の中の暮らしから医療の世界へ追いやられていった。
心から彼女を愛してくれる親族がいない中で、その後どうなったのか、彼女が今どうしているのか私にはわからない。
いつの時からこうなったのか、どこでそうなったのか、私にはわかるはずもないが、ただそこで生きていた人の人生の最後が、彼女が望んだであろう良きものでないだろうということだけは確かなことのような気がする。
どこでこうなったのか、私にはわからない。
池さんという場で生きているばあさんたちの、うるさいほどに賑やかで楽し気な声を耳にしながら、どこが違うのかどこが分かれ道なのか、今も悩む。
その人らしく一生懸命きちんと生きていても、その人の老いや老後の生活が等しくない場面に出会う度に分からなくなる。
自我が強くてどうしようもないと思われる人が家族に大切にされ、優しくて穏やかで何も問題がないように思える人が、介護が必要になったとたん誰からも愛されることなく生きていかなければならない。
そんな場面に出会うたびに、その生き様に想いを馳せる。
どんな家で暮らしていたのだろう、どんな家族を作ってきたのだろう、どんな人生を生きてきたのだろうと。
家を見て暮らしを想い、家族を見て生き様を想う。
想い続けてもわからないことだらけで、わからないからこそ余計に想いを馳せる。
堂々巡りの私の心。
どうにもならない私の心。
台風が過ぎ久々にお日様に会えた気がする一日です。
部屋干し続きで湿った匂いのするシャツを着ている今夜のワタクシ。
またまた頭が堂々巡りのせいなのか、シャワーのあと眼鏡が見当たらず大頭の家をあちこちと歩き回っておりましたが、ふと気が付くと眼鏡はかけておりましたがな。
あ~今夜もどうなることやら。
これ以上堂々巡りにならないように、どうか静かな夜になりますように、天の神様にお願いしたいと思うわけで。
「世の中は娘と嫁が花咲いて、かかとしぼんで ばばと散りゆく」
諸行無常の教えです。形あるものは常に変わってゆきます。老人の姿は明日の自分だと知った上で自分のこととして生きてゆかなければならないと故高田好胤管主は述べています。
かかは早くもしぼみ切ってはおりますが、ばばと散ってしまう前にもうひと踏んばりしたいものです。
と言いつつ、記憶力に自信がなくなってきた自分の有様に、人の生き様を想うまえにわが身を想い、もっとしっかりせんといかんなあ~と反省しきりのお泊りの夜です。
皆様、お休みなさいませ。