いよいよ10月、あっという間の10月、そしてお祭りで盛り上がる10月。
月日の経つのが早すぎて、顔のシワまで急激に増える気がする秋の夜。
またまた台風到来の情報に、いつになったらスッキリした秋晴れが見えるのだろうかと思う今日この頃。
秋の夜長を利用して、おそらく長くなると思いますが来年還暦を前にして、少しだけワタクシ自身のことを書き記しておきたいと思っています。
ワタクシは岡山県の倉敷市生まれ。
父は小学校の教師をしておりました。給料はほとんどが酒代に消えてしまうという飲んだくれで名を上げた人でしたが、それでも教師としては結構評判がよかったようで、近隣で父の名前を知らない先生はいないと言われたような人でした。
母は結婚前、洋裁学校で縫物を教えていた人で、とても器用で几帳面で賢い人ですが、あいにく父がそんな人でしたので(お見合いした時には酒は飲まないと仲人さんに言われたそうです)、結婚した時から苦労をしたようです。
(ワタクシのアルバムを見た人は知っていると思いますが、几帳面すぎる母の作ったアルバムは、それはそれは細かくて素晴らしいものです。そして、そのアルバムを見るたびに、ワタクシはきっと大切に育ててもらったのだろうと、今でも胸が温かくなります。)
ワタクシが4歳になった頃、弟が産まれました。
その少し後から、複雑な家庭の事情(少し複雑すぎるので書きませんが)により、ワタクシ達親子は父方の親戚の家に同居することになります。
親戚の家は豊かでした。
その家のお手伝いさん的な役目を母が担うことになり、ワタクシ達はその家の2階の部屋に間借りをして暮らすようになりました。おそらく8畳と4畳半ほどの部屋だったと思います。
家族4人で暮らしていた時の記憶も、引っ越しも、その後のことも、ほとんどワタクシの記憶にはありません。同居するようになってから後の幼い頃の暮らしが、どんなものだったのか、全く覚えてはいません。
ただ、物ごころついた後、ワタクシの記憶にあるのは、いつもお酒を飲み夜中に帰ってくる父と、足音を忍ばせて戸を開ける母の記憶。
家財道具を置けばいっぱいになる狭い部屋で、親戚に気を使いながら暮らした記憶しかありません。
間借り暮らしなので友達を家に招いたこともなく、いつも誰かに気を使い続け、誰かの目を気にした貧しい生活を送っていたように思います。
親戚の家は、お店をしていたせいで、人の出入りの多い家でした。その大人の中で育ったワタクシですし、時間を忘れて友達と遊んだりすることもなかったせいか、きっと子どもらしくない子どもだったに違いないと今思います。
いつだったか、数少ないお友達が、おやつを食べに行こうと誘ってくれたことがありました。「トコロテン」を食べにつれて行ってくれたのですが、ワタクシはそんな物を見たこともなくて、これはなんじゃ、どうやって食べるのじゃ、と内心驚いたことを覚えています。
皆はお誕生会に招待してくれるのですが、ワタクシは誕生会をしてもらえず、子ども心に淋しかったことや、たまに友達を家に連れて帰ると、親戚にうるさいと怒られたことや、寝るのも食べるのも一部屋なのでごちゃごちゃとした空間で過ごすことが悲しかったことや、いつも親戚のご飯が終わらないと食事ができなかったことや、親戚が食べるものとワタクシ達が食べるものには大きな差があったことや・・・何より辛く感じたのは、親戚の人たちの機嫌を損なうことがないように振る舞わなければならないこと。そうでないと、住む場所がなくなってしまうという現実でした。
当時のことで、今でもワタクシの記憶に残っているのは、嫌だったことの記憶ばかり。
お友達の少ないワタクシにとっては、学校も楽しい所ではなく、できれば行きたくない場所でした。どの先生にも「お父さんは元気か?」と聞かれ、父の存在の大きさと現実の父の姿に、子ども心に苦しみや憎しみを抱きながら過ごした幼い日々だったような気がします。
思春期を迎る頃には、引っ越しをして間借り生活からは解放されましたが、更に複雑な事情により、ワタクシと弟の反抗は続くのです。
そうした状況をただ黙って、お酒で紛らわそうとする父への憎しみ。家族という単位を守りきれない父への葛藤。家庭という場所を安住の場所にすることのできない両親への恨み。
大学入学を機に京都方面へ、その後ほとんど実家での生活をしないまま、この西条へと嫁いだワタクシと、高校へと進学したものの退学し、その後家を出て早くから自活した弟の心の中には、「家」ということへのわだかまりがずっと消えることはありませんでした。
父も母も、望んでその暮らしをしていたわけではなく、(丁寧にアルバムを作ってくれたように、)時間があればどこかへ連れだしてくれたように、ワタクシ達姉弟を大切にしてくれたことは理解しています。
けれども当時は、ただただ悲しかった。子ども心に悲しかった。
ワタクシの子どもたちが産まれた時、父はとても喜んでくれて、里帰りを心待ちにしてくれていました。孫の前では、父は今まで見たことのないような笑顔の人でした。いつも不機嫌そうに黙ったままで座ってお酒を飲んでいた父とはまるで違う父が、そこにはいました。
父も母も、いろんな事情を抱えながら、その生き方やそうした暮らしを受け入れるしかなかったのだろうと、心から許せる気がしたのは、父が亡くなる時でした。
「そうするしかなかった」とワタクシ自身が納得することができた時、すべてのわだかまりが解けていくような気がしたのを覚えています。
父が亡くなった時はまだ小さかったワタクシの子どもたちもそれぞれが伴侶を得て、母に5人の曾孫を抱かせてあげることができました。苦労を重ねてきた母にとって、きっと今が一番幸せだと思うのです。
夫とはお見合い結婚でしたが、池内の家に嫁いだ時、ワタクシにとって本当に幸いだったのは、義父と義母は本当に穏やかな人たちだったことです。大きな声を出すこともなく、いつも物静かで優しく、穏やかな家庭でした。物を大切にし、質素に暮らし、日常を丁寧に生きる人たちでした。
そこには、かつてワタクシが夢に描いていた「家」というちゃんとした単位が成立していました。
「家」という言葉の響きの素晴らしさ。
家族が暮らし、つつましくても安心して穏やかに暮らせる場所。
ずっと長い間、ワタクシがあこがれ続けた「家」という場所。
ワタクシが作る「家」は、いつも誰でも遊びに来ることができ、子どものお友達もいつもいっぱいで、ご飯を一緒に食べたり、ゆっくり話をしたり・・・そして、丁寧に「暮らし」を作りたい。手をかけてきちんと食事をつくり、居心地のよい空間で暖かく暮らしたい。
必要な物だけを持ち、大切に使いたい。
だから、今でも私はお嫁入りの時のお鍋やオイルポット、お皿を使っています。かつて義母の両親が使っていたお皿を、義母も大事に使っていたように。
思い出を大切にして、暮らしたい。
だから、今でも子どもたちの想い出ケースには、いろんな思い出がしまってあります。好きだった服やお手紙や保育園で書いた絵や、よく遊んだオモチャ。かつて義父母が大切にしまってくれていた夫の子どもの頃のお弁当箱のように。
「家」を大切にすることは、そこに住む人の「生活」を慈しむことだと思います。ワタクシは小さい頃、悲しいことにその実感を持つことができませんでしたが、丁寧に暮らすことを改めて意識して大切に考えていきたい。
生活や暮らしやそこにいる人を大切に想うことは、ワタクシ自身の生き方として存在していますが、池さんという場所も、限りなくその延長線上にあるのだと。
池内の義父母が残してくれたこの地で、綺麗に玄関先を掃き整えて、きちんと丁寧に人を迎え、しっかりと想いを届け、少し大きな家族のように、一緒に生きてゆく、これが池さんそのものなのだという想いがしています。
介護だけでなく、お弁当だけでもなく、人と人が繋がっていく場所として、(幼い頃のワタクシの暮らしとは真逆の暮らしです)今日も池さんが存在してほしいと。
その場所は、いつも暖かくて心地よい場所であってほしいと、そういう場所を作りたかったのだと、はっきりと思えるのです。
もしかしたら、幼い頃の苦しい記憶があるからこそ、今まったく違う形の生きたかを、自分で選択することができているのかもしれません。
鮮烈に心に残る記憶が、より鮮明に新しいイメージを与えてくれているような気がします。
だとしたら、ワタクシの幼少の頃の出来事も、ひょっとしたら感謝に値するものなのかもしれないと、このブログを書きながら思えてきたような秋の夜長です。
つまらない告白に、最後まで付き合ってくださってありがとうございました。
なんだか秋の夜はやっぱり、センチメンタルな時間を運んでくるようです。