その10。「老いと家族」
「どう老い・どう生き・どう死ぬか」を考える場合、課題は本人と私たちの関係というよりも、家族の考え方に起因しているということを何度か経験した。
社会的入院といったように、家で介護することを選択できない家族もいる。家族に愛情がないわけではないだろうし、家で看ることができない状態でもないだろうが、「とても家ではムリ」「退院の許可がでないから」という表向きの理由によって、転院を繰り返しながら(預かってくれる病院を探しながら)医療サービスに最後まで親を託す。
反対に「どんな状態であっても、何とか生活の場へ連れて帰りたい」と願う家族もいる。できるだけ早い段階で、家に帰ることを前提に考え始める。家族は医療ではなく介護サービスを選択し、様々なサービスを使い家での暮らしを続けることを願う。
どちらがいいとか悪いという問題ではなくて、こうした究極の選択をしなければならない時は、誰にも訪れるということである。もし、あなたの親が突然介護が必要な状態になった時に、その親が自分の思いを訴えることができなくなった時に、その生き方を選択しなければならないとしたら、周囲の家族がどういう生き方や死に方を選ぶのかということだ。
例えば、疾病により手足の動きが鈍くなった親がいる。病院の処方した薬を飲むと確かに身体の動きは良くなった。足も動くし手も上がる。わがままも言わないし、夜もよく寝る。しかしボ~とした表情が続き、人格が変化して幻覚や幻聴が出現する。介護するには、明らかに身体の動きの良い方が助かるし、夜眠る方がありがたいのだが・・・あなたならどうするだろうか?
どんなことがあっても「親は家で看取りたい」と思っていた家族がいた。以前から病により食べることは困難だった。けれども何とか口から好きなものを食べて欲しいと家族は願い、時間をかけて食べさせ努力を続けていた。けれども発熱で、ある日病院へ運ばれる。もちろん熱はすぐに下がったのだが、病院は退院の許可を出してはくれない。医療の現場から考えて、その人は「食べることが難しい」と診断されて、イロウの提案をされる。家族はしかたなくイロウを選択した。そしてその後入院生活を続けることを余儀なくされてしまう。今までもその人は確かに「その人なりに食べていた」のに、「医学的には必要量食べることができない」と医師に言われた時。・・・あなたならどうするだろうか?
親を家で看取ることは、大きな覚悟がいる。いつも介護している人だけではなく、兄弟や親戚や近所の親しい友人。責任のない(直接介護していない)人は必ず言うだろう。「どうして病院へ連れて行かないのか?」「見捨てる気か?」「検査をしてみた方がいい」「病院を変えてみてはどうだろう?」などと。いくら決心したとはいえ、いざ食事をとらなくなったりオシッコの出が悪くなったり、呼吸が荒くなったりする状態を目の当たりにすると、平静ではいられないかもしれない。周囲の反対を押し切って、本当によかったのだろうか?なぜ皆はわかってくれないのか・・・あなたなら迷わないでいられるだろうか?
老人の生と死は、常に老人一人のものではない。老いてゆくにつれて、子どもや嫁や親せきなど、いろいろな人たちを巻きこんで家族の問題として現れてくる。
家族にとって「その人はどんな存在なのか」「その人のことをどう考えているのか」「その人にどう生きて欲しいのか」「その人にどういう死に方をしてほしいのか」それらを考える基準が、すべて家族の思いの中にあるのだ。複雑な思いの中に。
そしてその命が終わった後に、その人は家族に何かを残してくれるに違いない。大きな安らぎと暖かい思い出を与えてくれる時もあるだろうし、困難に立ち向かう強い心を与えてくれる時もあるだろうし、見送ったことで家族の絆を与えてくれることもあるだろう。反対に深い後悔だけを残すこともあるだろう。
老いと家族のこと。決して避けては通れない大きな問題。本人にとっても、家族にとっても、私たち事業所にとっても。
その人が老いてゆくことを受け入れることができて、自然に終わることができるようにもし選択するならば、それまでの時間を池さんで過ごしたいと願うならば、私たちはどんなことがあっても「その人」と「その家族」を支えていきたいと思う。
それまでの時間を、楽しく笑って過ごしてほしい。今日も一日が終わった、また明日も生きていたらよろしくねと笑って毎日過ごしていけるように、全力でおバカになりたいと思っている。
ここで生きたいと願う人たちと共に、私たちも生きてゆきたいと思う。
あなたがもし、その立場になった時のことを、ぜひ考えてみて欲しいと思う。
その時、あなたは本人としてどの選択をするのか?ということを。
家族として、どう選択するのかということを。