池さんで働くおばさんの日記

デイサービス池さんを通して、夢の持てる地域づくりに情熱を傾けているおばさんのブログです。

ストレスマネジメント

2018-09-19 23:23:55 | デイサービス池さん

ストレスを感じている方へ、ストレスに関する心理学的なちょっとしたお話です。

生理学や医学の領域においては、ストレスは「反応」としてとらえられることが多いわけですが、心理学的に言うと「汎適応症候群」と名付けられ、生体を有害刺激にさらすと、副腎皮質の肥大、胸腺、リンパ腺の萎縮、胃・十二指腸潰瘍などという生理的変化が生じることが20世紀中頃にセリエ(Selye,H)によって定義され、そのような状態をさすものとして「ストレス」という言葉が使われ始めました。

それ以降、ストレスに関する生理学的研究が進展し、内分泌系や自律神経系、免疫系などに及ぼす影響について様々なことが明らかにされてきましたが、心理学的には初期の研究ではストレスを「刺激」ととらえて健康との関連について検討を続けてきた歴史があります。

ストレスを単に「刺激」や「反応」ではなく、両者の相互作用ととらえるトランスアクショナルモデルを提唱したのがラザルスという人でこのモデルでは、環境と人間の双方向的な影響過程が重視されています。

環境と人間とが互いに原因や結果になるという双方向的影響プロセスをトランスアクションと言い、このプロセスが活性化している状態がストレスと考えられていて、慢性的に持続するようになると不適応的でなおかつ安定的な反応が形成され、精神疾患や心身疾患への罹患可能性が高められるというのです。ちなみにこの考え方は人間の内的過程を説明する心理学的モデルとして広く認知されています。

こうしたストレスによる心身への悪影響を緩和し、疾病を予防するための活動を「ストレスマネジメント」と言いますが、その目標は、全てのストレスを取り除くことではなく、ストレスが個人の生活の質を脅かさないように、その強さや期間を適度なレベルにコントロールするための方法を身に着けることで、その方法にはいろいろなものがありますが、現在では自律訓練法や呼吸法など、リラックスするためにいろんな技法が考案されています。

という小難しいことはさておきまして、要するに、ストレスには強いはずだと自分を過信していた私が、大いに反省をしたという話の結末であります。

ストレスマネジメントは行えているはず、私の場合はポジティブ心理学介入できているし、だってビール飲んでストレス解消しているしと高を括っていたものですから、ストレスにやられてしまった自分をちょっと情けなく思ったりして、そしてまたまたビールが増えるという悲しいスパイラルに陥ってしまった今日この頃。

あの夏の暑さや豪雨などの例年にない気象状態の中にあっても、彼岸が近づいたら彼岸花が咲きます。お祭りが近づけば、金木犀が咲くでしょう。自然はいつも気負うことなくありのままで、時に荒々しく私たちに襲い掛かってきます。

自然の力を前に、所詮人間の力など小さなものなのだから、自分たちの悩みなど取るに足りないものなのかもしれないと思いつつ、それでも人が人である以上、人は悩みと無縁では生きてゆけないものなのかもしれません。

まったくストレスを感じることなく生きて行ける人などいないだろうと思っていても、自分の周囲を取り巻く多くの出来事に打ちのめされているうちに、負の感情に支配されてしまう人は多いはず。子どものこと家のこと、両親のこと、体調のこと、お金のこと・・・悩む材料は山のように私たちを取り巻いているのですから。

でも悩んでいる自分自身をちょっと離れた所から客観視できるようになったら、もう大丈夫。

悩んでいる最中はぐるぐるした渦の中に巻き込まれているから、何が問題なのかさえも分からずにただジタバタしてしまって「何もかもイヤ」みたいな状態に陥ってしまっているけど、そんな自分に気がつくことができたら、大丈夫。自分が何で悩んでいるのかということがはっきり言葉にできたら大丈夫。原因が見えたら、解決方法も見つかります。

ということがわかっていても、渦の中心にいる時は辛いですよね。出口のないトンネルはないのだから、必ずきっと出口は見つけられると思って、リラックスできる方法をいろいろ試してみるのもいいかもしれません。ずっと考え続けても良い結果が見つかるとは限りませんからね。

などと、悲しいことに、今更自分に言い聞かせてみるお泊りの夜。

夏の終わりに飛ぶ蚊を捕まえられず、マイ線香を焚く大頭の夜。

 

 

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会話

2018-09-15 23:59:46 | デイサービス池さん

私とそれほど年の変わらない人に「おばさん」と呼ばれて愕然としたけれど、車のミラーに映る自分の頭の白髪にげっそりしたりする今日この頃。

お天気も定まらず、ここの所いろいろと気がかりなことも多くて疲れが溜まったのか、私は久しぶりに風邪をこじらせてしまいヘロヘロの毎日を過ごしています。

皆さまお変わりございませんか?

さて、ワタクシの体調不良にかかわらず、ばあさま・じいさまたちは相も変わらずわがまま放題、勝手気ままに暮らしております池さんです。

あ~だこ~だとウダウダ言うて、なんだかんだと文句を並べ、結局どこか行きたいという割に、出かけた先で帰りたいと言い始め、パンを買いたいと言いながら魚屋さんで買い物をし、お腹がいっぱいでもう食べれんと言った先から、何も食べてない、ひもじいと辛そうな顔をして、おしっこだらけだろうとニコニコ笑顔で毎日元気にやってくる年寄りたち。

決して一般的に言う「元気」な状態ではないかもしれないけど、確かにある意味「元気」な人たち。徹底的に自由に生きる人たちにエネルギーを吸い取られるような気分に陥ってしまいまして・・・したがって悲しいことに、ワタクシの風邪はいつまでたっても治らない気がしてくるのです。

 

なのでちょっと気分を変えて、「言葉が意味を持つ」ことについて考えてみます。

私たちは言葉によって他者とコミュニケーションを図る生き物です。感情や意思や、身の回りの様々なことを言葉によって他者に伝え、また、自らの考えを言葉によって表現することを当たり前だと思っています。我が家の孫の2歳になる平太も、遅ればせながらやっと少しずつおしゃべりをするようになりましたが、まだ自分の気持ちを言葉では伝えきれないので、時折苛立つように泣き叫ぶことがあります。幼い子どもでさえ、成長するにつれてこうして自然に言葉を獲得し、次第に当たり前に他者とコミュニケーションを図っていくようになるのです。

私たちは「言葉を使った会話によってお互いを理解する」ことを当たり前だと思っています。笑いあったり、言い争ったり、口喧嘩したり、話し合うことで理解しあったりします。それゆえ、私たちは「言葉は意味を持つものであり、当然お互いが理解できるもの」と思いがちです。

でも、こんな感じで過ごす人もいるのです。いつもの会話です。

「ぴちゅぴちゅね~」
「ぴちゅぴちゅよね~」
「でもわさわさしとるね~」「やっぱりわさわさじゃ!」
「ずりずりじゃ!」「ずりずりしたらやっぱり困るね~」
「そうよね~」
「ピカピカがええね」

「スーパーは?」
「あるよ、スーパー」
「あ~よかった、スーパーあったねえ」

「これがこれで、こうね」
「ほんとじゃね」
「こうなっとる」

「あれはクルック~」
「ほんとじゃね」
「クルック~クルック~」

そして食事は、
「これ、こうして」
「これでええ?」
「そうそう、これで」
「がちゃがちゃね」
「こうよね」
「スーパーじゃろ」
「そうそう」
「で、これで」
「これね」
「変なね、ずりずり」
「ほんとじゃね」
「スーパーは」
「あるよ、スーパー」

私たちはこうして、いつも会話をしています。
その人の言葉の意味を想像しながら、その人が知りたいことや聞きたいことに同じ言葉で答えます。
「その人の言葉」で会話をします。
言葉での会話は成立しませんが、「その人の言葉」は存在します。

そして、いつも必ずこう言ってくれるのです。
不思議なことに、この言葉だけは確かに言葉なのです。
「きっちりしてくれてありがとう」と「おとうさん、ありがとう」

その人の中に残っている僅かな言葉の中に、「ありがとう」と「おとうさん」という2つの言葉があることに感動します。

「わからん」と不安を口にすることもあるし、急に怒り出したり黙り込むこともあるけれど、いつもこの2つの言葉を必ず言ってくれる人。だから私たちは、せめてちょっとでも笑顔でいてほしくて、笑顔になってほしくて、私たちは「その人の言葉」で話を続けるのです。

ぴちゅぴちゅ・・・ピカピカ・・・ズリズリ・・・と。

 

 

 

 

 

 

 

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人の器

2018-09-05 22:43:00 | デイサービス池さん

「器の大きさ」を想う時、心によみがえるのはやはりヨッシーのこと。(「いけさんものがたり」参照してください)

笑い声もガハハと豪快だったし、人を想う気持ちも半端ないデカさだった。

職員ではなく利用者の名前を覚えようと自分でノートを作ってきて、「綺麗な洋服を着ている人」とか「いつも笑っている人」とか自分なりの印象を書いてきて一人一人の名前を聞いては書き込み一生懸命覚えようとしていた。そして、時折ノートを開いては名前を確認し、「だれそれさん」と丁寧に名前を呼んだ。

耳が聞こえないことを気にもせず、誰に対しても同じ態度ででっかい声で自分から話しかけた。

足が不自由になった時も自然に車いすへ座り、排泄の介助が必要になった時でさえ自然に自らを受け止め、介助を拒むこともなく、むしろわが身の変化を素直に口にして老いゆく自分を堂々とさらけ出した。

残された時間を楽しみ、老いへの時間を謳歌し、死への道のりをゆるゆると歩き、最後の時が近づくと家族の言葉を借りて医療の介入を拒み、死を前にした時でさえお見舞いの人たちに笑顔でお礼を述べ、自宅の自分のベットで可愛がっていたネコに寄り添われて命を全うした。

こんな風に老い、終わりたいといつも思う。ヨッシーのように生き・死ねたら、おそらくたぶん、自分の人生は良い人生だったと思えるのではないかと。

がしかし「人の器」は望むようにはならないのだろうと、つくづく思ったりする毎日。煩悩だらけの人たちを前に、わがまま放題の人たちを前に、つい腹を立てたりするちっぽけな自分を思い知らされ愕然としてしまう毎日。

もう少し器を大きくせんとな~と自分に言い聞かせてみても、いろんな出来事があるたびに「くそ~」と思う小さな自分を見せつけられわが身の器を思い知る。

煩悩を断ち切ることができない自分自身を「凡夫」と親鸞が呼んだように、人は誰もが傲慢で自己中心的で欲にまみれた存在、小さな器の持ち主なのかもしれないと思ったりする。

社会で誰もが一目置く仕事に携わっていたとしても、年を重ねた自分を認めることができず、気に入らなければ口汚い言葉で怒鳴り散らす人もいる。トイレに行けばわざとおしっこをまき散らし、しかも頻尿なのでその度スタッフは掃除を強いられるが、本人気にもしていない。ズボンが濡れても着替えを拒み、臭う人もいる。3人掛けのソファーに寝転がり、人の気持ちはお構いなし、誰の話も聞こうとせず自分の事しか言わない人もいる。何か言えばやかましいと怒る人もいる。

(補足:池さんって、皆が楽しくてソフトで友好的だとイメージしている人も多いかもしれないけど、結構こういうハードタイプの人もいて、しかも狭い場所だからケアの量は大きいと思う。スタッフが前もって予測して先手を打たないと折り合いがつかなくなることが多い。緊張感は混乱傾向の人には禁物、なのでいつも「緊張感を見せないように緊張している」スタッフたち)

いくら器を大きくしようと思っても、こうした出来事に出会うたび、イライラしたり、どうにもできない自分や対応しきれない自分が腹立たしくなり、自己嫌悪感だけが肥大するという負のスパイラルに陥るのが、スタッフたちが必ず経験する道。

私自身も同じ。腹も立つし胃も痛む。始めは笑っていても、だんだん夕方が近づくにつれ、顔が引きつり手が痒くなる。「自分、器、ちっちゃいな~!」と情けなくなる。

ヨッシーのように「ガハハ」と豪快に笑って、「仕方ありません!まあ、そんなもんでしょ!」と言いたいけれど、それがなかなか難しい時がある。

自分の器は、自分で作るものだと知ってはいるけれど、自分の器を大きくする方法をヨッシーに聞くのを忘れた!

「ヨッシーばあさ~ん!どうすれば、そんなふうにでっかい器の人間になれるんかいな? 教えておくれぇぇぇ~~~~~

 と、あっちの世界にいるヨッシーにすがる自分は、やっぱりちっちゃい人間だな~と反省する夜。

やっぱりヨッシー、自分で考えるわ、と言いたいけれど言えない・・・夜。

 

 

 

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9月になって

2018-09-01 23:27:08 | デイサービス池さん

怒涛の8月が終わりました。

遊びまわる子どもたち、泣きわめく赤ちゃん、階段がよだれだらけになるたまちゃんの笑顔・・・今年もいろんなことがありました。

年寄りたちに振り回され、子どもたちに追い立てられ、仕事に追いまくられ・・・

「あ~しんど」と思いながらも、それでも「夏休みの終わり」にはやっぱり今年も一抹の寂しさを感じます。

夏が終わります。

いろんな人たちの夏が終わります。

水分さえ満足に補給できない環境で過ごす人もいるけれど、それでもなんとか無事に夏が終わりそうでほっとしています。

怪我の絶えない身体でも、毎日笑ってきてくれるじいさまに救われています。

何もわからなくてもただ笑ってきてくれることはとても嬉しいことです。

今年の夏も、エピソードがいっぱいできました。

エピソードはいつも池さんの宝物になります。

宝物のおかげで、私たちはまた、強く大きくなることができるのです。

台風の影響か、少し涼しい風が吹いています。

また、新しい日々がやってきます。

 

 

 

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思うこと6

2018-08-28 22:25:28 | デイサービス池さん

気がつけばあっという間に一年が過ぎておりまして、ワタクシ誕生日を通過しました。

61歳になった今年は、職員皆にサプライズの誕生日会をしてもらったり、自宅をリフォーム中で同居中の娘家族や孫たちに囲まれて、顔のしわも増えるくらいデレデレになっております。

60台に突入した昨年、朝「環暦おめでとうございます」という張り紙を見つけ、「字が違っとるし・・・」という突っ込みをかけたことも懐かしく思い出される今日この頃。

「誕生日夜勤」にしてくれた大ちゃんに感謝の気持ちを伝えないまま、ネットの状態が悪くて泊りの時にアップするブログも書けないまま、本日お泊り当番です。

身の回りにはいろんなことが目白押しで(これはいつものことですが)、しかも台風後の気温の急変や天候の不順で、身体はさすがに60を過ぎておりますので疲れてはおりますが、まあなんとか頑張っております。

こんなに丈夫な身体に産んでもらった口達者な母に感謝の気持ちを伝えなければと思いつつ、たまに里へ様子を見に行けば、母の途切れることなくしゃべり続ける口に負けてしまって、無口になってしまうおしゃべり下手なワタクシですので、上手には言えませんが、

「みなさま、本当にありがとう。この世に誕生させてもらった命を、61年目も大切に生きてゆきたいと思っています。多少のわがままや身勝手は年のせいと笑って許していただければ幸いです。これから先の人生も、今までと同様に力いっぱい生きたいとは思っていますが、60の還暦を区切りに少しだけゆとりも欲しいものだと、穏やかな毎日が送れるようにと、密かに願っておりました。でもやはり願いは願いでしかないと、自分の甘さを反省する今日この頃です。ゆとりや穏やかなどころか、ますますワタクシを取り巻く環境は忙しさを増しておりますが、まあここまで来ましたので、なんとかこのまま忙しさに気づかないふりをして、この場をやり過ごしたいと思ったりしております。なので、呆れることなく、どうぞこれからもよろしくお願いしますね。」


というわけで、最近思ったりしたことを書きたいと思います・・・6「受け入れること」

年を重ねるごとに、鏡を見るのが怖くなります。身体のあちこちにしわが増え、ぱっちり二重だったのにいつの頃からか瞼はたるみ、白髪も満載。首の年齢は隠せず、手のひっかき傷の治りも悪くて、いつも血だらけ傷だらけ。歯は歯医者さんと縁が切れず、眼鏡屋さんとも仲良しで、夜中はトイレで目が覚める。朝はアラームがなる前に目が覚めて、アラームの意味ないし、夜は目がしばしばと痛んで字が読めない。たった60歳でもこのありさまです。90や100になるとどんなになるのだろうと、内心わくわく(冷や冷や)しています。

「年をとる」ということを受け入れることが、頭ではわかっていても、いざわが身となるとなかなかうまくいきません。

段々に今までと違う身体になっていくことや、違う自分になるということに(抵抗はしないまでも)「前は、こんなことはなかった」と思ってみたりする自分が存在しています。

ずっと「老人」と言う言葉が好きでした。なんだか人生を悠々と柳のように風のまにまに生きているイメージがあったからです。でも、この仕事を始めてから、全ての老人が悠々と生きているわけではないということを知りました。

おしっこやうんち、お風呂、食事も含め、なんと抗い続ける人の多いことか。

自分は年をとってないと言い続け、まだ仕事ができると言い続け、ボケてなどないと言い続け、忘れてないと言い続け、誰かを攻撃したり暴れたりして、周囲を困らせたりする人の多いこと。

服の着方さえわからないのに、毎日自転車で買い物に行ってますという人や、パットがパンパンになるほどおしっこが出ていても、しっこは出てないと言い張る人や、デイの時しか風呂に入れず汗でベトベトしていても、風呂は毎晩入っとるという人や、白米と玄米の区別もできないのに、毎晩ご飯は作ってますという人や、すぐにフリーズしてしまうのに、いまだに現役だと言い続ける人や、まあとにもかくにも、自分の今の状態や環境を認めようとしない人がいっぱいです。

つまりそれほど、今の「自分を受け入れる」ことは難しいということかもしれません。

分からなくなってゆく自分や忘れてしまう自分を認めたくないと思う気持ちは誰にでもあるでしょうが、忘れてしまうようになったら、認めるしかありません。歩くことが不自由になったら、誰もが一度はリハビリをするでしょう。でもいくらリハビリをしても、回復できないこともあるのです。

上手に年をとるということは、つまり年をとった自分を素直に受け入れるということではないかと思います。

できないことはできないなりに、わからないことはわからないなりに、抗うことなく受け入れさえすれば、きっと穏やかな日々になるはずなのにと思う場面にいつも直面するのです。

なんでこんなに抗うのだろう、なんで自分を認めないのだろう、こちらの方が切なくて苦しくなることもあります。

認めさえすれば、自分の周囲には手助けをしてくれる人がいることが見えて来るのに、差し伸べようとしている誰かの手が見えてくるはずなのに、まだ自分は一人でできるという幻想にいつまでも囚われて、結局誰の援助も受けることができず、望み続けた自らの暮らしを手放さなければならなくなってゆく人たち。

「今の自分を受け入れる」ことの困難さを、改めて感じている私です。

どう伝えればその心に届くのだろうと、どう向き合えばその心を開くことができるのだろうと思います。

そのたびに寄り添うことの難しさを感じる私ですが、そういう時に思い出すのはヨッシーのこと。ありのままの自分を受け入れ、必要な支援を感謝と共に十分に受け、豪快に笑って生きて、そして死んでいったヨッシーのことを思い出します。

ヨッシーのように生きることができれば、きっとどの人も穏やかに年を重ねてゆけるはずと思う時、どうすればその道を指し示してゆけるのかが、私たちの仕事かもしれないと思ったりするのです。

「自分を受け入れて初めて、新しい道が見えてくるよ」と、「今の自分を認めて、新しい時間を生きてゆこうよ」と伝えたいと思うのです。

 ボケてしまっても、歩けなくなったとしても、思いがけず病気になったとしても、いろんなことを全部忘れてしまったとしても、きっと新しい毎日を作ってゆくことはできるし、そこから始まる人生もあるはずだということを伝えてゆきたいと思うのですが。

デイサービスだから、介護サービスなどというわけではなく、やっぱり、生き方を考えた先の池さんであり続けたいと思います。

見事に命を終えたヨッシーのことをやけに思い出す夜です。もうすぐ夏休みも終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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