母と暮らし始めて2ヶ月。
今まで聞くことのなかったいろんな話が、母の口からあふれ出す。
母の幼い頃や娘時代の記憶。
池さんでじいちゃんやばあちゃんの話をたくさん聞いてきたけれど、もっと身近な物語として、母の記憶を一緒に辿っていく。
母の記憶の断片は、私自身の存在や育ちにも繋がりを持つが故に、大切な物語としてこれからもおそらく心に刻まれるだろう。
それら記憶の数々を、この際書き留めておきたいと思う。
川辺のおじいさんの話
母の親戚で近所に住んでいたおじいさん。
おじいさんは川べりに住んでいたので、皆はおじいさんのことを「川辺のおじいさん」と呼んでいた。
川辺のおじいさんには子どもたち家族がいたのだけれど、みんなアメリカへ移住していておじいさんは独りぼっち。
おじいさんはいつも着物を着ていたけれど、その着物は襟もとがひどく汚れていて、帯はいつもだらだらと解けかかり、なんともだらしない。
おじいさんは、いつもひとりぼっちで、さみしい・さみしいと言っていた。
そして、さみしさに耐えられなくなると、「さみしいけん、もう死にたい。焼き場へ連れて行ってくれ。」と言い出すのだ。
*昔は亡くなった人を焼くための焼き場が地域にあって、お葬式が終わると近くにある焼き場で皆の見ている所で普通に遺体を焼いていた。
おじいさんが「死にたい」と言い始めると、子どもだった母や、近所に住む子どもたちの出番となる。
そして子どもたちは、川辺のおじいさんにこう言うのだ。
「おじいさん、焼き場へ連れて行ってあげるから、これに乗って。」と子どもたちは大八車(だいはちくるま、木製の荷物運搬用の荷車)を持ってくる。
おじいさんが大八車にずりずりと乗ると、「焼き場へ行くなら、おじいさんを焼くのに薪(まき)がいる。」と子どもたちはおじいさんの乗った車に薪を積み込むのだ。
それからおじいさんが車から落ちないよう、長い木を大八車に渡すとおじいさんはその木につかまって座る。
おじいさんは焼き場へ行けるものと思って、大人しく大八車の荷台に座っている。
おじいさんの乗った大八車を子どもたちは引いて、焼き場へ行くわけではなく、そこらじゅうを皆でぐるぐると歩き回る。
子どもたちはその遊びが楽しくて、きゃ~きゃ~と叫びながら、おじいさんと薪の乗った大八車をあちこち引っ張りまわすのだ。
そうこうしているうちに、荷台で揺られていたおじいさんは疲れて、眠ってしまう。
おじいさんが眠り始めると、子どもたちはしばらくおじいさんを乗せてゆらゆらと遊び、おじいさんを川辺の家に送ってゆく。
もちろんその頃には、おじいさんは死にたかったことも、焼き場へ行くはずだったことも忘れて、静かになっている。
そうすると、おじいさんは不思議としばらくの間は「死にたい」とか「焼き場へ行く」と言わなくなるらしい。
でもそれからまた、何日かするとおじいさんは寂しくなって、「死にたい、焼き場へ行く」と言い始める。
そうしたら、また子どもたちの出番になる。
子どもたちはおじいさんと薪を大八車に乗せて、あちこち遊びまわる。
そんなことをして子どもの頃に遊んどったんじゃ。
この話を聞いた時、介護の現場を思い浮かべ、鳥肌が立つ思いがした。
おじいさんの寂しさと、子どもたちの遊び。
子どもたちの言葉と、おじいさんの納得。
なんと寛容でたおやかな時代だったのだろうと思う。
これがボケ老人を抱えるかつての地域であったとしたら、現在の社会には地域のかけらさえ存在してはいないのだと愕然とする。
時代の変化は、著しい。
ある面では文化的で清潔で、豊かな社会を実現してはいるが、確かにある面においては置き去りになったものもあるのではないかと振り返ってみる。
そうして忘れ去られているものの中にこそ、大きくて大切なものが隠されている気がしてならない。
「一番大切なことは、目に見えないからね」by星の王子様
川辺のおじいさんは確かにボケ老人ではあるけれど、ボケた老人として捨て去られることなく、子どもたちの遊びというかかわりの中で生きた時間は、おそらくおじいさんにとって暖かい時間だったのではないだろうか。
だからおじいさんは、大八車が揺れると眠れたのではないだろうか。
おそらく子どもたちと共に過ごす安心感から。
賑やかな声の聞こえる安心感。
母の記憶に残る川辺のおじいさんの記憶は、決して悲惨なボケ老人の物語ではない。
ちょっとクスッと笑えるような幼い頃の楽しい思い出として、母の「物語」のページに残っているに違いない。