池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

8月に

2011-08-31 22:06:00 | デイサービス池さん
今日で8月が終わる。

去年の8月もみちおさんを探し続けた日々だった。

今年の8月も、私にとっては長い長い8月の日々。

湯浪のじいちゃんが倒れ・みちおさんの奥さんが逝き・新盆・重さんとの別れ・そして8月最後の夜の故郷のおばちゃんの死。

めくるめくような毎日の中で、

確かに生き続ける人たち。

確かに成長しつつある子どもたち。

夏休みで、子どもたちでいっぱいの池さん。

デイサービスじゃなくて、託児所?と疑いたくなるほど、子どもで溢れかえった夏。


賑やかで幸せな日々。

老いてゆく人がいる。

病に苦しむ人がいる。

死にゆく人がいる。

そして、育ちゆく子どもがいる。


病の人も、老いてゆく人も、死にゆく人も、

生を受けた人は、次の世代にその「生きざま」を残し、確かに次の人たちが受けつないでいく。

決して、老いも死も孤独なものではなく、次々と伝えられていく暖かく確かなもの。


死も病も、寂しく辛いものばかりではなく・・・

・・・私たちは、決して一人ではない。

いろいろな場面でいろいろな人と出会い、支えられ・教えられ・導かれ・共に生き続けていく。


どんな生き方も、どんな思いも、

全てが自分自身の大きな糧となる。いえ、糧としていかなければならない。

そして、新しい人たちに伝えていかなければならない。


「こうして生きた人がいる」「こう考えた人がいる」「こう暮らした人がいる」・・・と。

様々な思いを感じた8月。

私にとって、大きく深く、心痛み、

そして心温まる思いを重ねた23年の8月。

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思い出と共に

2011-08-29 20:51:53 | デイサービス池さん
小さい頃、父方の祖母の家に遊びに行くと、いつも笑顔のおばちゃんがいた。

祖母も、祖父も厳格で厳しい人だったが、おばちゃんだけはいつも変わらない笑顔でむかえてくれたのを覚えている。

家庭には少し複雑な事情もあって、嫁いだ時から大変な苦労を重ねてきたと思う。

遊びに行った時は、季節には郷土料理の「ままかり寿司」を作ってくれた。

(本当は小ぶりに握ったすし飯の上に、薄く切ったショウガと、酢漬けにしたままかりという魚をのせて食べるものだけれど)おばちゃんの作るままかり寿司は、おばちゃんの手のひらに合わせたように、でっかいでっかい握り飯のようなのご飯の上に、分厚いショウガがのっかって、これまたでっかいままかりがべロンとのっかった感じのするお寿司だった。

おばちゃんも、おばちゃんの作るお寿司も決してお上品ではなかったが、心のこもった武骨で暖かい・・・そんな思い出と共に、今も私の中にある。

近くへ松ぼっくりとりに行ったり、つくしやワラビを採りに行ったり、いろんな所へ連れて行ってくれて、夜は姑の肩を揉み、私が寝付くまでうちわで煽いでくれたおばちゃん。

舅を送り、姑を送り、何年も寝たきりの生活を送っていたおじちゃんを看取った。

やっと自由な毎日が送れると思っていた時には、おばちゃんはもうすっかり老いていたのだ。

何年か施設で過ごし、そして今、死への旅立ちの時を迎えたらしい。



日曜日、連絡を受けた私はすぐに車を走らせ、故郷へと向かった。

湯浪のじいちゃんと同じく、管とコードと点滴にまみれて眠るおばちゃん。おばちゃんが呼吸をするたびに無機質な機械音が病室に響く。

「もう何にも反応がない」と聞いてはいたが、「おばちゃん」と声をかけるとかすかに両目を開いた。

目の焦点は合わないけれど、確かに耳は聞こえている。

手にも力はないけれど、確かにまだ呼吸を重ねている。



幼い時の思い出は、少し日焼けした白黒写真のように私の胸によみがえってくる。

楽しい思い出も悲しい思い出も、月日を重ねた今は同じ色の思い出となる。

その思い出の中に、おばちゃんは大切な人として今もいる。

「おばちゃん、ありがとうね」

ただ、私はお礼が言いたくて、車を走らせた。

ただただ、おばちゃんの消えかけた命にむかって、一言お礼が言いたかった。


今なら、この年になってみると、おばちゃんの苦労も少しはわかる気がする。

何があっても歯を食いしばって、笑顔で生きてきたおばちゃんの大きさに、

「ご苦労様でした」と伝えてきた日曜日。


秋の日の瀬戸内海を渡り、また一人大切な人に別れを告げてきた日曜日。

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誕生日です

2011-08-24 21:15:03 | デイサービス池さん
あっという間に、誕生日をまた迎えました!

今日、「私何歳に見える?」でスタートした一日。

49!50!47!48!52!というケンケン・フミちゃん・タツエさん・敏子さんにますみさんグループ。

まあ、まあ、そんなもん・・・という笑えない年を言った人たち。

23!26!21!20!と言ったヒイ・しんちゃん・風太・まことグループ。

なんちゅうか・・・うれしい?感じ!

で、

まさこさんには「そんなん知らん」と言われ、竹村ばあばには「ハイカラ?」と逆に聞かれ、最後に、としはるさんに「そんなん意味ない!」とバッサリ切り捨てられたワタクシ。

まあ、まあ、良いとしましょ。

で、

無事に、今年も誕生日を迎えることができました。

皆さんのおかげです。ハイ。

夏休みで毎日顔を見せてくれる山中家の子どもたちに、「おめでとう」の色紙をもらって嬉しさのあまり、「チューしたげる」と言って追いかけるワタクシを、子どもたちは皆で逃げ続け・・・

ビールやおつまみや、靴下やズボンをもらって、ニンマリ・・・

みんな本当にありがとう

毎日ヘトヘトになるくらい働けるのも、皆のおかげです。

クタクタになるくらい、動けるのも、皆のおかげです。

ありがとう。

生きているって、働けるって、こんなに苦しく嬉しいものなのかと、小さな胸が震えます。

ありがとう。

みんなと一緒にいられることの幸せを、今日も一日、めまいがするくらい息苦しくなりながら、心に感じたワタクシです。

だれか~!

ワタクシを助けてくださ~い!

もうちょっと、楽にしてくださ~い!

どうか、お願い!

そこのところ、どうか、どうか、よろしくね
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重さんへ

2011-08-22 21:45:53 | デイサービス池さん
暑い夏。

みちおさんの奥さんと別れたばかり、湯浪のじいちゃんが命をつなぐ日々。

そしてまた一人、私たちは大切な人を失いました。

重(しげ)さん。

もともと夫(社長)と同じ会社で働いていた人。

同じ時期に社長と共に、スエズ運河の改修工事のためにエジプトに赴任していた人。

重さんは運河を掘るためのポンプ船の船長さんで、人望も厚く素晴らしい船長だったそうです。

その後、二人は帰国し、同じ現場で再び再会しました。私たちが小松町へ引っ越したので、家も同じ町内。

そして、私たちが池さんを立ち上げたことを知った重さんは、オープン当初からずっと支えてくれました。

門松作りを教えてくれ、干し柿を作りに来てくれ、すももの時期にはコンテナいっぱいの甘いスモモを届けてくれました。

池さんの忘年会を楽しみにしてくれていました。この恒例の忘年会に招待客として参加できるのは、「重さんと湯浪のじいちゃんの二人だけ」という名誉ある地位に君臨してきた重さん。

つい先日も、トラックいっぱいのキャベツと、コンテナいっぱいのアンズを届けてくれたばかり。

お礼に私は手作りのシソジュースをご馳走し、「こりゃ~うまい!」と笑ってくれた重さん。

突然の別れを知った時、私たちは信じられずに時間が止まったように感じました。

覚悟などできてはいないのです。

信じることもできないのです。

そんな週末でした。

重さんに会いに行った時、「重さんって、こんなに小さかったかな」と私は思いました。

ほんの3週間ほどの入院で、こんなに老いるものなのかと。

いえ、重さんは老いたのではないのです。

老い患って亡くなったわけではないのです。急になくなったはずです。

なのに、私の前にいる重さんは、今まで知っている重さんとは明らかに違い、病に打ちのめされたように小さくなった重さんでした。

どうして短い時間でこれほどまでに変わってしまうのか?なぜ、こんなに急に逝ってしまったのか?

お葬式の日でさえも、まだ信じられない気持ちが私の中に渦巻いていました。

でも、確かに重さんはもういないのです。

孫の幹太が言いました。「門松は、じいじとさちおさんが作らんといかんね」

門松作りで池さんのHPにも登場した重さん。

池さんの大きな応援団だった重さん。

72歳と言う年は、まだまだ若いのです。まだまだいろんなことができたはずです。

神社の総代として、地域のお世話役として、まだまだいろんな仕事があったはずです。

なにより池さんは大きなかけがえのない応援団を失いました。



悲しいです。

写真が趣味の重さんが最後まで愛用していたカメラには、大ちゃんの顔が映っていました。

池さんがテレビで放送された時、テレビ画面をカメラで撮ってくれた画像が、何枚も映っていました。

デジカメのメモリーに残された映像は、

反射した電気の光が同じ位置に映っていて、重さんがテレビの画面を一生懸命デジカメで撮影してくれた様子がうかがえました。



重さん。


6年間、いろんなところで支えてもらいました。

支えてくれる人がいる・応援してくれる人がいるということが、どれほど心強いことか・・・立ち上げ当初の不安だったあの頃の私たちにとってどれほど心強いことだったか。

損得なしで、いつもやってきてくれた重さんに、改めて人間の大きさを感じます。

言葉では言い尽くせないけれど、心から感謝しています。

深く大きく池さんを見守ってくれて、心から感謝しています。

本当にありがとうございました。








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絆と感謝とこれからと

2011-08-18 22:55:37 | デイサービス池さん
いつだったか、忘年会の席で湯浪のじいちゃんが言ってくれた。

「人間、生きないかんのんぞ~!」

物忘れ自慢の私は、今は正確には覚えてないけど、「人は生きていかなければいけない」と言う意味の言葉。

今、じいちゃんは意識もなく、ただ生きている。

沢山の機械に繋がれて、ただ生きている。

それでも、じいちゃんは生きることをやめない。

「生きること」がどれほど苦しいことだろうと、「生きていく」意味が果たしてあるのかという状態の中にあってさえ、じいちゃんは生きることをやめようとはしない。

それは、じいちゃんが言ってくれた、「どんな時でも、生きていかなければならないのが人なのだ」という大きな命題を、まさに今、全身で命がけで私たちに示してくれている・・・そんな気がする。

縁あって、私はじいちゃんと出会った。

親戚なわけでも、知り合いだったわけでもなく、ただ偶然私はじいちゃんと出会った。

そして、この地で、私が生きていくうえで、大きなかけがえのない「縁」として、じいちゃんとの出会いは、私の中にあった。

じいちゃんは、私だけでなく、池さんの大きな応援団として今もある。

じいちゃんによって、私も池さんも、いろんな喜びや希望や経験を重ねることができた。

「絆」は、私たちを確かに深めてくれた。

本当に感謝しているし、どれほど感謝してもしつくせないほどの大きな「縁」を私たちに感じさせてくれた。

これからの池さんにとって、大頭の池さんにとって、

「縁」を心から感謝し、「絆」を心に刻み、

「人」を大切に思う私たちでありたいと、心から願う。

これからの若いスタッフや池さんに繋がる人たちが、そこにいる全ての人が、謙虚に人を思う時、感謝の気持ちで思う時、

じいちゃんの言った「人が生きていく」ことを、誰にも恥じることない「生」を自分自身がおくれる様な、

そんな気がする夏の宵。

大切なこと、いつも教えてくれるじいちゃん。

どうかじいちゃん自身が、その命をまっとうできますように。

私はいつも迷ってばかりだけど、「ただ生きる」ことを通して、

いつの時も、謙虚に生きること、多くの人に支えられている自分の人生を想い、

絆で結ばれた多くの人と共に、

自分の人生をただ淡々と生きること・そうすれば道はおのずと開けると、

全てを・ありのままを、

信じて生きることを、

じいちゃんに、今も教えてもらっているような気がします。

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新盆に

2011-08-14 22:12:32 | デイサービス池さん
去年の夏から、大切な人を次々に送った。

7月にみちおさんを失った。

12月にみよちゃんを送り、3月にじいちゃんを送った。

皆の新盆。

そして、みちおさんの奥さんとも、私たちは別れることになった。

みちおさんのお葬式をしてから、おばちゃんはすっかり心の支えを失ったように体調を崩し、入院生活を送っていた。

でもそれほど悪くなっているなどと思ってもいなかった。

その日、私はいつもは朝読まない新聞を開き、偶然にもお悔やみ欄にあるおばちゃんの名前を見つけた。

その日がお葬式だった。

新盆。

みちおさんが家に帰ってくる日。

おばちゃんは、きっと一緒に行きたかったのだろう。

ずっとみちおさんと一緒に、いたかったのだろう。

お葬式の夜。

大頭に泊まっていたまさこさんが、

急に廊下の扉を開けた。

「今、玄関におじいさんとおばあさんが来とるよ。」

きっと・・・きっと・・・

みちおさん夫婦が、きっと挨拶に来てくれたのだと思う・・・そう思える。


今日、みよちゃんとじいちゃんのお墓参りに行ってきた。

娘さんが言った。

「たぶん、じいちゃんとばあちゃんは、ここへ帰らずに大頭に帰っていると思う」

ご親族が集まった時に、そんな話になったそうだ。

「そうかもね」と私たちは笑ったけど・・・

そういうふうに言ってもらえたことが、心に響く。

「最後の時を過ごすために、二人が住んだ場所」

「大頭」は二人の帰るべき「家」

そんなふうに家族が言ってくれたことが、心に響いた。

帰ってから「きっとここにおるね。帰ってきとるね。」と大ちゃんと話した日曜日。


新盆。

大切な人たちと、また会えた気がする。

そんな日曜日。



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祈る

2011-08-11 20:36:19 | デイサービス池さん
私と池さんにとってかけがえのない恩人。

湯浪のじいちゃん。

一昨日、じいちゃんは午後7時、家族によってシキビ畑で倒れているところを発見された。

おそらく朝からいつもの畑へ出かけたじいちゃんは、そこで倒れたのだろう。

昼、池さんのスタッフが昼食を届けた時には、じいちゃんはいなかったらしい。

でも、昼間畑に行っていることはいつものことなので、スタッフもそのままご飯を届けただけで、帰ってきていた。

一番近い救命救急センターのある病院に救急車で運ばれたじいちゃんは、HCUで処置を受けていた。

ご家族からの一報が入った後、私たちはすぐに病院へと向かった。

10分以内での入室の許可をとり、私たちは交代で病室に入る。

腰の曲がっていたじいちゃんは、反り返るように上を向いて、ベットにいた。

「じいちゃん」と呼びかけたら、じいちゃんは意識がない様子で目も開かず、でも私の手をギュッと握った。

もう一度「じいちゃん」と再び呼びかけた私は、もうそれ以上じいちゃんを見ることができなかった。

私は、すぐに病室をでた。

私の中にいるじいちゃんは、腰を曲げて古びたシャツを着て、いつも「お~来たか!」と汗にまみれた日に焼けた顔で笑うじいちゃん。

不思議と悲しいとか、心配とか・・・そういう気持ちを今の私は少しも感じていない。

じいちゃんに、「なんとしても、生きて欲しい」という気持ちも不思議と湧いてこない。


ただ、

今朝、私は仏壇の前で祈った。

「じいちゃんの命の全てが、じいちゃんの望むように決められますように。じいちゃんの気持ちのそのままに。」


じいちゃんが生きたいと願えば、命をつなげて欲しいと思う。
じいちゃんが、もう十分だと思えば、苦しみのないように。
じいちゃんが、たとえ半身不自由になっても、生きたいと願うなら、どんな身体になっても生きて欲しい。
たとえこれから先をずっと病院で生きることになったとしても、それでも生きたいと願うなら、生きて欲しい。


全てが、じいちゃんの願うように。


そうなることを願って、今宵も私は、祈りたい。

じいちゃんは、

私の大切な大切な人、だから・・・

「運命」と言う大きな流れの中で、出会った「恩人」だから・・・
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うごく七夕飾り

2011-08-08 21:30:17 | デイサービス池さん
昨日見たテレビ。

全国でここだけという「うごく七夕飾り」

震災にあった陸前高田に伝わる祭り。

七夕飾りをする地域は多いと思うが、ここの祭りは七夕飾りを山車(だし)に飾り、地区内を練り歩くという「動く七夕」として有名だったそうだ。

津波を免れた山車を前に、今年の状況の中で祭りを行うのか、本当に行えるのか、地域の人たちが話し合う場面から番組は始まった。

何千人と言う人が命を落とした地区。

それでも、亡くなった人たちの供養のために、どうしても祭りを行いたいという人。

地域は、全ての家が流され、全員が避難所生活をしている。

祭りが好きだった息子のために、どうしても祭りを行いたいという父。

「息子は亡くなったけれど、死んだからゼロになるわけではない。確かに生きた・生きていたということを、伝えてやりたい」と父は語った。

祭りが好きだった息子や友達のために奔走し、人を集め、泥にまみれた山車を復活させ、祭りの日を迎えた人たち。

太鼓の音と共に始まり、七夕の飾りに彩られた山車は被災地を練り歩く。

例年なら、多くの見物人の歓声の中を練り歩いていただろう七夕の山車は、何もなくなった一面砂漠のような泥と焼け野原のような風景の中に提灯の明かりをともしていた。

「祭り好きだった友達のために」「太鼓の音が聞こえるように」「七夕飾りを見てくれるよう」・・・山車の中には、亡くなった人の写真を飾って。

どの人も、泣きながら太鼓をたたき、山車を動かす。


「確かに生きた証」

どの人も生きていた。

いろんな人生があっただろう。

その思いを伝えようとする人がいる。

純粋に、その人のことを思う時、

その人が何を望み、何を願っていたのかを、想いやることができるのだろう。


「人は死んでもゼロにはならない」

決して、何もなくなりはしない。

その人が生きた証は、必ず何らかの形で残るもの。

「思い」「願い」「子孫」「生きざま」・・・

いろんな形で、次の世に受け継がれていく。



原発のありようや、復旧の政策の遅れに苛立たしい気持ちを日々感じながらも、

映像の中にある人々の想いの深さに、

祭りという伝統の重さに、

そして、日本人という民族の誇りに、

「生きる」ということの意味に、

心の底から、揺さぶられた感じのする夜だった。

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それぞれの家族

2011-08-03 20:44:46 | デイサービス池さん
家族がいる。

それぞれの人に。

在宅を続けるために努力する家族・介護している家族の方が病んでるように見える家族・無理せずクールに生きる家族・ほどほどを願う家族・・・・・

どの家族にも歴史があり、介護されている人との人間関係が時折垣間見えてくる。

どれが正しいわけでもなく、どれが冷たいわけでもなく、

ただ、送迎の時、見えてくる家族の気持ち。


私たちは、ただ迎えに行くわけでもなく、ただ送り届けるわけでもない。

送迎の時に見えてくる一瞬の家族の表情や言葉は、

常に、私たちが目の前にする「その人」の今日の様子に繋がっている。

気を抜くことなく一瞬で、昨夜の・昨日の様子を感じ取ることが必要になる。

そして送る時には、その日の夜に繋がる言葉を、常に選んで口にする細心の配慮が必要になる。

慣れていくにしたがって、友達感覚に陥り易いし、無意識に発した言葉が、家族の気持ちとの間にずれを生じる場合もある。


「送迎」の大切さを、「言葉かけ」の大切さを、

スタッフには常に心に刻んで欲しいと願っている。

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