池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

書類の山

2012-12-27 22:22:53 | デイサービス池さん

なかなか現場を離れるわけにいかない状態が続いた結果、

いつものように机の上は書類の山!

年末を前に、またまたアタフタと過ごす羽目になってしまうワタクシ。

月末作業に加えて、給料計算やらが一気に加わる。

しかも、年明けに労務関係の監査あり。

その準備も加勢されて、今月もストレス度上昇中!

そんな時、電話が鳴る。

「先日出していただいた、県の監査の改善項目についてですが~~~」といつか来た福祉指導グループの人。

「宅老所が有料老人ホームではないという根拠を、細かく記入するように」とのご指摘。

「根拠」とやらに関しては、ザクッと書いてはダメだったらしい。

この時点でイライラ度200パーセント越え!

思わず電話口で、「介護保険でやるべきショートだって、実際急な泊まりに対応できんでしょうが!在宅へと移行するはずの介護保険なのに、在宅での介護ができない状態に、どうやって対応するんですか?不特定多数の人を住ませるための宅老所ではない!」「デイを利用している人の在宅を支えるための宅老所です!」と、イライラして言ってしまったけど、担当者は全く関係ない様子で、冷静な声で「ならば、そのことを細かく書いて提出してください。」と、さらっと言って電話を切った。

この時点で、イライラ度300パーセント越え!

机の上は、片付くどころかますます山が高くなるわけで。

指導グループではなく、「書類チェックグループ」と名前を変えてほしい。

もちろん指導は粛々と受けるけれど、介護保険のあり方についての現場の声も聞いてほしいとイライラしながら思っても、結局のところ小さな事業所の声など、お偉い方には届きはしないか!

年の瀬に、山になった書類と格闘する時間すらなくそのまま大頭へ。

車の中で、いつものように不安を訴えるまあちゃんの声を聞きながら、思う。

こうやって、今生きてる人を支えることこそが、介護保険の意味だろう。そこには書類では分からないいろんな現実や葛藤が存在する。でも、それでも、私たちはこの人たちが普通に暮らすことを支えたいと思っている。矛盾点を感じながらも、それでもやらなければならない現実がある。だから、宅老所なのだ。あえて宅老所なのだ。柔軟に対応できて、どんな時にも対応できる宅老所なのだ。

結局のところ、書類で判断されたくないから宅老所なのだ。

判断や評価は、家族や年寄りがしてくれれば、それでいいと思っている。

イライラ度300パーセント越えた私は、

今夜もまあちゃんに「ご飯がまずい!」と怒られ(まあちゃんは饅頭以外はすべてまずいと言う。決して本当にまずいわけではないので、あしからず)、ヒイちゃんに「正月が来るから、酒でも飲もうやね」と言うと、「わしは酒なんか飲まんぞ!」と怒られて、撃沈。

「イライラ度」も「怒られ度」も、半端ない今宵。

ある意味、年の瀬にふさわしいバタバタ感。

「今日も生きてる」自分を実感するワタクシ。

 

明日で仕事納め。

どうか、無事に一年終わりますように・・・。

机の山も少しは綺麗になりますように・・・。

来年こそは、もっとゆったりと生きることができますように・・・。

 

勝手にバタついてるってか?

はい、そのとおり!

すみません!

 

 

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クリスマス

2012-12-25 21:01:41 | デイサービス池さん

池さんのクリスマス

ちまたの介護施設では、きっとクリスマス会というものが盛大に行われていることだろう。

職員が劇など行い、ホールに集まった老人たちは、変装した職員からプレゼントなど貰ったり・・・

まあ、それはそれで非日常として楽しいのかもしれないが。

池さんのクリスマスは・・・何もなし!

池さんに来る大正生まれの年寄りたちに、クリスマスのことなど話しても「なんのこっちゃら!」と相手にされない。

だから何もなし。

大ちゃんがしめ縄を皆の前で完成させる。年寄りたちにはクリスマスより正月の用意の方が身近なイベント。

「上手にできとる」とお誉めの言葉を頂いて、今年も無事に正月の用意が出来上がる。

昼ご飯は、とても寒かったので定番の鍋。

朝もらったばかりの里芋をたっぷり入れて、イモ炊き風の鍋。うどんも入れて温まる。

おやつも、いつものように頂き物のお饅頭やらおかきやら。

 

いつもと全く変わらない一日。

池さんのクリスマス。

 

もちろんちょっとだけクリスマス気分を盛り上げたくて、ワタクシは首に真っ赤なリボンを巻いてみたけど・・・もちろん誰からも相手にされず!

「あの~、この人、こう見えてもよく働くんですけど~」「だれかプレゼントにいりませんか~?」とアピールしてみたけど、

「よく働くだろうけど、口があるものは、いりませ~ん!」と年寄りたちに、きっぱり言われた!

 

つまらん劇などしようものなら、コテンパンにたたかれるだろう。

毎日鍛えられて、笑いのレベルは超高い。

これでみんな介護度4ってか!

 

うちの年寄り、超こわい、遠慮知らずで口悪し、煩悩だらけで、本音で生きる。

年寄りに相手にされず、さみしい聖夜。

おそまつ

 

 

 

 

 

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12月23日

2012-12-23 20:50:07 | デイサービス池さん

今日は、みよちゃんの命日。

思い返すとあの日確かに、池さんの歴史に一つの節目ができた。

あれから、もう2年たつ。

 

みよちゃんの好きだったピンクのシクラメンの鉢植えとチョコレートを持ってお家に行く。

いつ行っても、仏壇には池さん新聞やグッズが広げて置いてある。

 

2年間、私たちはこのことを心の奥深くにしまいこみ、二人のことを忘れないためにDVDも作ったけれど、外部には持ち出すこともなく、ずっと封印し続けてきた。

もちろん公の場で話すこともなく、ごく限られた人にしか伝えて来なかった深い想いを込めた看取りまでの日々。

2年の月日をかけて、私たちはみよちゃんたちのことを心の中の引きだしにしまうことができた様な気がしている。

 

 

ずっと封印してきた「夫婦の看取りまでの時間」を、大ちゃんは今月、九州の講演で話した。

切なく苦しい「時間」を、はじめて語った。

 

それまでの講演は、池さんの楽しい面や面白い所を前面に出したもので、「わらしべ長者の池さん」というネーミングまでついた明るいイメージだった。

もちろん今でも明るいことに変わりはないのだけれど、でも毎日面白いことばっかりじゃなくて、その裏には重たいものや深いものやどうしようもない切ないことや悲しいことを抱えて過ごす毎日なのだと・・・どこかで言いたくて・・・でもなかなか言えなくて・・・2年の間、私たちなりに苦しんできたのだ。

 

そして、やっと話せる時がきた。

話してもいいと思える時がきた。

みんなに知ってもらいたいと、素直に思える時がきた。

 

今回、大ちゃんは今までの私たちの経験と想いを伝えてくれた。

 

2年の月日は・・・

私たちの心に引きだしを作ってくれて、

伝えたい人に出会った時、伝えるべき時に、

その引き出しから綺麗に折りたたまれた「歴史」が、

取り出せるようにしてくれた。

 

明日はクリスマスイブ。

きっとみよちゃんは暖かい世界で、じいちゃんと一緒にケーキなど食べていることだろう。

やっと心の引きだしを手に入れることができた私たちを見て、笑っていることだろう。

「長い2年だったね~」と、笑っている笑顔が目に浮かんでくる。

12月23日。

大切な転機を与えてくれた恩人、みよちゃんの命日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ドタバタ

2012-12-19 20:01:43 | デイサービス池さん

いつもドタバタと走り回っている気がするけど、ここ数日間のドタバタは半端ない!

頭はグルグルと回り続け、そのわりに全く何も進まない。

何かを取りに行っても何を取りに行ったのかすぐに忘れ、何度も行ったり来たりを繰り返した揚句、ヘトヘトになってしまうワタクシ。

皆に笑われて、「大ちゃんママ、もうそこのソファーへ座ったら?」と言われ、それって利用者になれということか・・・まあそれもよし。

頭は、パニック。身体はヘトヘト。心は若いつもりでも、もうお年。

年末があわただしいというわけでなく、ワタクシ一人があわただしいわけでして。はい。

どうもこうもなりません。

頭の許容量をすっかり超えた出来事の多さに、

もう笑うしかない気がする冬の日。

いろんなことが重ねて起こる状況に、

あたふたとしてしまう年の瀬。

「人生楽ありゃ苦もあるさ」・・・楽な道など見えやしない、とやけになって心すさむ冬の日。

あ~、ビールを・・・浴びたい

(あっ、つまりワタクシの場合、ビールは飲むんじゃなくて浴びるイメージね。)

いやいや、「ビールに逃げてはいけません」とどこかで響く天の声。

神様は、ワタクシという人間の器を大きくしてくれるために、こんなに試練を与えてくれているのでしょうから。

壁は常に自分の心にあり。

いつものように、ヘラヘラ笑って今一度腹を据えて、頑張ってみるしかありませんね。

 

冬の日。

多忙のあまり焦燥感に駆られる気がする寒い夜。

3人のばあさんたちが静かに寝てくれることをひたすら祈る夜勤の夜。

好きなアロマと暖かいお風呂と柔らかいソファーに癒されたい雨の夜。

 

 喝!!!

はい!

文句言わずに働きま~す

 

 

 

 

 

 

 

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2012-12-17 20:06:17 | デイサービス池さん

フミちゃんの手を引く。

やわらかくて暖かい手。

しっかり者で、誰に対しても強くて、気位の高いフミちゃんが、素直に手を差し出す。

フラフラする足と杖を頼りに歩くフミちゃんの手を引いて歩きながら、私は鼻の奥がツンとなり目がうるんでくる。

なぜか、悲しい。

 

強い人だった。

何かを手伝おうとしても、「一人でできます。」と言い切るフミちゃんに、私はある程度の距離を保ちながらずっと向き合ってきた。

プライドの高い人だった。

だからいつも、フミちゃん中心でいろんなことを考えてきた。

でも今、フミちゃんは素直に手を引かれて歩く。

ボタンをかけれなくて、「できない」と素直に訴える。

トイレに一緒に入っても、なんの抵抗もない。

始末する私に身を任せる。

それが無性に切ない。

 

フミちゃんは強くないと。

フミちゃんはいつも誰かを叱ってないと。

自己主張するフミちゃんでないと。

何かいうと「いやよ!」と、そっぽ向くフミちゃんが私たちの知っているフミちゃん。

ここへ来て安心してくれて、「やっぱり池さんがいい」と言ってくれるのは嬉しいけれど。

やっぱり、こんなのフミちゃんじゃない。

 

私たちに、全てをゆだねて生きるフミちゃんが、

なぜか悲しい。

 

よわよわしくなったフミちゃんが、

私は切ない。

 

フミちゃんの手を引くことが、

私は辛い。

 

 

 

 

 

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さりげなく

2012-12-13 22:21:19 | デイサービス池さん

また一人、恩人が逝った。

隣のじいちゃん。

裁判所に勤めていたから、ずっと私の「知恵袋」だった。

困った時にはいつもじいちゃんの豊かな知恵を借りた。

淡々としていてひょうひょうとしていて、まるでこの世の中に何の執着もないかのような人だった。

いつも背広姿で、家でもきちんとスラックスを履いていて、いつだったか「どうしていつもそんな服装なのか」と聞いたら、「背広かパジャマしか持っていない」とじいちゃんは言っていた。

ずっと助けてもらってばかりだった。

池さんオープンの日もお祝いに来てくれたし、孫たちの成長も楽しみにしてくれたし、いろんなことを教えてくれた。

公的な職場にいながらも、いつも自分の考えをはっきり言う人だった。自信と確信を持って、どんな場所でも臆することなく意見を言う人だった。

でも決してかたくなではなく、ゆらりゆらりと生きているイメージの人だった。

私の中のじいちゃんのイメージは、そんなイメージ。

 

ゆらりゆらり・ひょうひょう・しかも硬く太く、いさぎよく、そして・・・さりげなく。

そう、「さりげなく」 じいちゃんは逝った。

家族に大きな負担をかけることなく、と言って全く別れの時間がなかったわけでもなく、

1ヵ月半という期間を区切り、あっけなくというか見事に命を終えた。

 

人の命の姿は、人の数だけ。

いろんな老いがあり、様々な死がある。

死が人生を凝縮するとも思わないが、生の道のかなたにその死があるとするなら、確かに人の死は、生きた姿そのものなのかもしれない。

 

じいちゃんのイメージそのままに久しぶりに晴れ渡った冬の日には、凛と引きしまった空気が満ち溢れていて、私はじいちゃんという存在感を再びを心に抱えたままで、また歩きはじめなければならない。

 

人生を生きる上で大きな影響を受けた人を、また一人失った。

 

 

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心の闇

2012-12-11 21:23:44 | デイサービス池さん

石鎚山は、雪です。

雄々しく神々しく。

真っ白に雪をかぶった峰々は、「荘厳」という言葉がぴったりの神秘的な輝きを放っています。

毎年思うけど・・・美しいです。

その裾野にあるこの町。

小さな小さなこの町で、毎日さまざまな営みが繰り広げられています。

泣いたり、笑ったり、悩み、戸惑い・・・いろんな人たちが、その「命」を生きています。

偶然のようであり、また必然のようにも思える毎日の暮らし。

 

穏やかだった人が、ボケとともに自制心が利かなくなり暴れるようになりました。

「こんな人じゃなかったのに。暴れだした時のあの人の目が怖い。」と奥さんは言いました。

老夫婦の間に距離を置くために、ケアマネから宿泊の利用を提案されました。

でも、不安を抱え混乱している老人を、いきなり泊らせることはかえって混乱を深くすることにしかならないと思いました。

私はデイの回数を増やすことで、昼間に奥さんが休息をとることを勧めました。

先のことはわからないけれど、とりあえずこの方法でやってみましょうと。先のことはその時に、考えましょうと。

奥さんは泣いていました。

「54年間ずっと家の中だけで暮らし、お父さんのためだけに生きてきたのに、今更お父さんと別々の場所で寝るなんて、考えてみたこともなかった。」と。「よかった。」と。

「これでパーマに行く時間もとれますね。」

「あ~、相談してよかった。あなたに甘えていいんじゃね。」

「もちろん。夜眠れなかった時は池さんに電話してね。いつでも迎えに来るからね。」

奥さんの休息のために、短絡的に「泊り」という選択は、一見正解のように見えて、実は混乱を深くすることにしかなりません。

 

同じ、状況の老人がいました。

こちらのケアマネは、私たちに相談することなく奥さんの休息のために、いきなりショートを半月も入れてしまいました。

老人はちょっとシャイな面白い人でした。

でもショートが続く毎日の中で、混乱は深くなっていきました。

笑うことが少なくなり、ボーっとしていたり眠っていたりすることが増えてきました。

自分の家の認識もできなくなり、ショート帰りのデイでも、大声で怒鳴ることが多くなりました。

瞳からは安心という光が消え、「今自分がどこにいるのかわからない」不安と、おびえた表情が目につくようになりました。

ショートに行っている間は、確かに奥さんは休めるでしょう。

でも老人の心の大きな恐怖と不安には、ケアマネはまだ気付いていません。

奥さん自身も、なぜこうなってしまったのかわからないのです。

そして、より深く混乱するようになった老人には、より大きな介護の力が必要になるのです。

もちろん老いた奥さんに、その力はないでしょう。

結果、ショートから入所へと繋がってしまう道。

皆が「家で看ることは無理だったのだ」と、あきらめる方法しか見つけられません。

そして老人には、混乱し暴れる老人というレッテルが貼られ、いずれ彼は生きることに絶望してしまうのです。

 

でも・・・

本当は、老人の心の闇に誰も寄り添えなかったことが原因なのだと思います。

不安や葛藤するその心を読み取ることなく、

ただ「サービス」という枠に当てはめようとしたことが最大の問題であったと。

 

「池さん」という介護の現場にいる私たちは、日々老いた人と向き合っています。

ただ、お世話をするだけではありません。

その心の奥深くを読み取り、今何におびえているのか・今どんな気持ちでいるのか、いつもその「心を図る」ことをスタッフには求めています。

老人たちが安心して一日を生きるために、私たちは考え抜いています。

安心して任せてほしいと思います。

その瞳から老いてゆく恐怖を少しでも取りのぞき、不安に満ちたその心に笑顔を取り戻してほしい、と思っています。

 

池さんという場所は、そのためにあると思っています。

 

老いてゆく心の闇に沿いたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

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力を抜いて

2012-12-06 22:02:50 | デイサービス池さん

どんなに考えても、いくら悩んでも、

老人の思う現実と、家族が描く老人像の間には大きな隔たりがある。

老人は暴れて自己主張し、家族は疲れ追いこまれてゆく。

 

お互いが、決して憎しみ合ってきたのではないだろう。

反対に支え合って生きてきたに違いない。

 

なのに、「老い」が「ボケ」が、家族の絆を引きちぎっていく。

 

少しだけ、楽に考えて欲しい。

一歩だけ離れて老人を見て欲しい。

 

老人を心配して、転ばないように手を尽くしてみても、歩きたいと願う老人には邪魔にしか見えないだろう。

一人の留守番を心配してショート利用を考えても、ショート嫌いな老人は、邪魔もの扱いされたと疑うだろう。

トイレまでの移動を心配してポータブルトイレを利用させようとしても、老人はプライドを打ち砕かれたと思い、抵抗するだろう。

 

考えれば考えるほど、家族は迷路へと入り込み、身動きできなくなってしまう。

老人のために考え、老人のために心配し、老人のために・・・疲れ果てる。

 

「どうにかしよう」としても「どうにもならない」なら、

「どうにもならない」と思ってみるのも方法だと思う。

いくら考えても、世の中どうにもならないことも多いのだから。

 

完璧な安全など、所詮ありえるものではない。

否、「安全ならば幸せだ」と、誰が言えるだろう。

 

肩の力を抜いて、老人を見て欲しい。

老人が「まだできる」と思うことは、どんどんしてもらえばいい。

リスクが多いと心配でも、老人が満足ならそれでいいのだ。

「それでいい」と思えばいい。

 

それでいいのだ。

 

問題は起きてから考えれば・・・いい。

その時に考えればいい・・・。

 

先のことなど、

本当は誰にもわかるものではない。

ベストな方法など存在しない。

私たちは、よりベターな方向へ向かうことしかできないのだ。

人はそれほど複雑で測り知れない生き物だと思う。

 

先は長い。

リラックスして、老人と生きて欲しいと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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師走

2012-12-04 22:24:29 | デイサービス池さん

あっという間に12月。

「師走」とはよく言ったものだけど、師だけでなく、おばさんも走る1年最後の月。

 

今日、久しぶりの歯医者。

走りすぎたおばさんは、受付に行ってから財布を忘れたことに気づくわけで・・・

「すみませ~ん。診察券も財布も忘れました~!」と、とびっきりの笑顔で言ってみる。

「いいですよ。」と綺麗なお姉さんが笑って応対してくれたけど・・・なんだか情けない。

でっかいエコバッグ提げて、待ち時間を楽しみに意気揚々と本を手にして行った歯医者。

本日の治療の音は「ギシギシ」ではなくて、「キ~ン」と頭に突き刺さるような金属音なり。

あっ、そういえば、持ってきた本のタイトルは・・・「ロボジー」なり!

金属音は、ある意味正解かも・・・?

 

走りすぎたおばさんの笑えるお話でした~!!!

おそまつ。 

 

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風景

2012-12-02 19:21:27 | デイサービス池さん

ある施設の風景。 所用があって、私はその新しい施設に入った。

そこは、最近はやりの共有スペースの食堂兼ホールを中心に、周囲に個室がぐるっと取り囲んでいるタイプの施設。清潔で、施設臭もなく、すべてが綺麗に整えられている。

時間は午後1時半すぎ。つまりたぶん職員は交代で休憩中なのだろう。

人の気配がない・・・と思ったが、実はテレビの前に二人のばあさんが座っていた。

座っていた。ただ、座らされていた。なぜなら二人の目の焦点は、明らかにテレビには合っていなかったのだ。天井付近と壁の方向へ、目は向いていた。うつろで何も見えていない様子だ。

そして、もう一人おじいさんが食卓のテーブルに座り、まだ食事をしていた。おそらく何らかの疾患によって、動作は非常に緩慢で、まるでスローモーションを見ているように、ゆっくりとお箸でおかずをお皿から口へと運んでいた。しかし、おおかたの食べ物は口には入らず、トレーの上に移動しているように見えた。でもおじいさんは、まるで機械のように、同じ動作を繰り返していた。

ふと、振り返るとステーションに職員がいた。おそらく早番で先に食事を済ませた職員。満腹なのだろうか?居眠りをしている。私が横を通ったことにも気付かない。

私は、声をかけずに目的の部屋を訪れた。15分くらいたって、職員に用事ができたので部屋からもう一度私はホールに出た。

二人のおばあさんは、前と同じで天井を見ていた。

おじいさんは、長い食事時間に疲れ果ててしまったように、頭の重さを支えることができなくなって、大きな大根の煮物に顔をぺったりつけて、眠ったように動かなくなっていた。右手はお箸を持ったまま、左手は宙に浮いている。

職員は、15分前と同じ姿勢で眠っている。

私は声をかけた。「あの~、」

寝ていたところを起こされて不機嫌そうな職員と、しばらく話して振り返り、おじいさんの方を指さしてもう一度、「あの~」と言おうとした時、ちょうど昼休みが終わった職員が部屋に帰ってきて、無事におじいさんは頭を起こしてもらい、姿勢を直して食事を続けさせられることになる。おそらく12時に始まった食事は、もう2時間近く続いている。

 

これでも、介護の現場なのかと目を疑いたくなる。

あなたたちはプロなのかと、叫びたくなる。

誇りを持って働いているのかと、聞いてみたくなる。

 

これが最新の施設であるとするなら、これが介護の現場であるとするなら、

そこにいる老人たちは、決して今日一日を「しあわせだった」と感じることはないだろう。

「今日も生きていてよかった」と思うことはないだろう。

ただ、生きるためだけに、そこにいるしかないのだとしたら・・・あまりにも切ない。

 

家族はきっと・・・立派な施設で、しっかり研修を受けたレベルの高い職員に適切な介護をうけているにちがいないと思っているのではないだろうか。

 

適温に管理され、綺麗に消毒され、美しいカーテンに遮られた広いホールからは・・・春の光も・夏のギラギラ照りつける太陽も・秋の美しい紅葉も・冬の雪景色も、何一つその老いた目に焼き付けることができないのだから。

切ない。 

あまりにも閉ざされた空間。

施設の外へ出た時、晩秋の冷たい空気が顔を撫でる。同時に解放感が私を襲う。

 

私が目にした風景が、「たまたま」の出来事であってほしい。

「たまたま」「偶然」であることを祈りたい。

 

池さんに帰った時、いつもの狭い雑然とした空間にホッとしながら、軒にぶら下がった干し柿や子どもを叱る声や、暖かいお茶の香りやお菓子の匂い、何より皆のキラキラした目やゲラゲラバカ笑いする声が、心から心地よく感じられて私は嬉しくなった。

 

老人にとっての一日は、取り返せない時間という意味において、若い人の一日よりも遥かに重く、そして大切な時間なのだと、改めて思う。

 

そんな心に響いた風景。

 

 

 

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