池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

ノートに残すこと

2020-03-23 22:54:48 | デイサービス池さん

私たちは写真を撮り、毎日その写真をノートに貼って記録に残している。

今日はこんなことがあった、今日はこんな日だった、今日はこんな笑顔が見えた。

どうでもいいことから、大事な出来事まで、お笑い系、しんみり系、ご飯系、いろんな毎日や大切な瞬間を、記録に残す。

記録した写真は、一人ずつノートに貼って、一日の記録を残している。

毎日、毎日、写真を撮り続け、ノートに貼り続ける。

大変な作業だけれど、15年ずっと続けてきた。

 

毎日持って帰るノートの写真を見てご家族は、「今日のご飯は美味しそうですね。」と言ってくれたり、成長する子どもたちを見て「大きくなったね。」と言ってくれたり、「あそこの桜はもう咲いてるんですか?」と言って季節を感じてくれたり、「今日は嬉しそうな顔をしてますね。」と笑顔を喜んでくれたりする。

わからんことが増えてイライラして怒ってばかりだった人が、池さんに来るようになって笑顔が増え、息子さんが「こんな笑顔を久しぶりに見ました。」と言ってくれたりする。

 

その人のことだけでなく、池さんの考えていることや大事に想うこともノートに書く。

人について、出来事について、私たちの想いをノートに書く。

災害の起きた日のこと、終戦の日のこと、皆で黙とうをしたこと、その日の出来事について、「私たちはこんな風に考えている」というメッセージをノートに書く。

デイサービスとは関係なくても、介護保険とは無関係でも、その人のことではなくても、私たちからのメッセージをノートに書く。

 

池さんに繋がる人たちのこともノートに書く。

こういう人がこんなものを持ってきてくれたとか、遊びに来てくれたとか、そんなこともノートに書く。

ここで育った子どもたちの卒業や入学のことも、中学校から勉強に来てくれた子どもたちのことも、ノートに書く。

いろんな人たちと繋がっていることを知ってもらうことは、大事なことだと思っているので、ノートに書く。

 

池さんという場やスタンスや想いや、ここに繋がる人たちのことを、できるだけ知ってもらいたい。

介護保険という制度を使って、デイサービスの事業者と利用者という契約の下で私たちは出会う。

あくまで契約に基づく関係ではあるけれど、首からぶら下げるネームプレートなどには書いていない私たちの考えを、ノートを通して伝えたいと思っている。

池さんという場で時間を過ごす人たち(じいちゃんやばあちゃんたち)が、「どんな場所で、どんな人に囲まれて、どんな人たちに、どんなケアを受けて、どんな時間を過ごしているのか」知ってもらいたいと思っている。

 

大切な時間を、大切に生きた証として。

命の終わりを迎えた時、多くの家族がその人のノートを手にして「あ~こんなふうに最後の時間を生きていたんだ。」と思い返してくれた。

お葬式の時、親族が見てくれ、知らなかった時間に想いを馳せてくれる。

仏壇の前に今だにお供えしてくれている家族がいる。

 

デイサービスは「人生の最終章」という時間を生きる場所。

何処でもいいように思えて、本当は、とても大切なことではないかと、この年になって改めて思う。

だから、毎日、大量の写真を撮り、ノートに貼ってメッセージを書く。

家族に伝えるために、この場所を知ってもらうために、ここで過ごす時間を知ってもらうために。

ここで過ごす時間の意味を知ってもらいたいと思って、ノートを書く。

 

 

 

 

 

 

 

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写真に残すこと

2020-03-16 23:12:42 | デイサービス池さん

年を重ねてゆく年寄りがいる。

年寄りとは言えない年齢でも、脳の疾患や後遺症などによって介護が必要な人がいる。

目の前の人の後ろには、当然のことだけど家族がいる。

いろんな家族がいる。

家族の想いは、家族の生き方そのもの。

常にすべての家族が、いつも年寄りを大切にし、愛おしんでいるわけではない。

時には憎むこともあるだろう、恨むこともあるに違いない。

例えそうだとしても、家族は、その人自身の生き方を映し出す鏡。

 

いろんな家族と出会う。

互いを思いあう家族もいるし、多くの問題を抱える家族もいる。

どんなふうに生活していたのだろう。

何をどう考えて生きていたのだろう。

夫婦はどんな仲の夫婦だったのか。

親子は、どんな親子だったのか。

兄弟は。姉妹は。親戚は。

 

いずれ、何もできなくなる時が来るだろう。

話すこともできなくなり、表情もなくなり、食事もできなくなる。

家族の想いが交錯する中で、老いた人は、自らの想いを伝えることさえできず、家族が望むままに、生きてゆく。

介護プランも、事業所選びも、生き方も死に方さえも。

家族の歴史やあり方が、その考え方の根底に寝そべって、老いてゆく人を捕らえて離さない。

 

 

受け身で生きるしかなくなった年寄りたちが、それでも意思を持って笑顔を見せてくれた瞬間を、私たちは何物にも代えがたいものだと思っている。

常時、私たちは写真での記録を残している。

そして、笑顔の瞬間を残す。

どんな人生を生き、家族をつくり、暮らしてきたのか、その人のすべてを知ることはできないかもしれないが、でもここに来てくれたわけだから、ここで笑って過ごした時間があったことを忘れないでいたいと思う。

老いたとはいえ、疾患が進行したからとはいえ、全ての感覚が失われてしまうわけではない。

人との関係が薄れたとしても、反応が鈍くなったとしても、それでも何かの時に笑ってくれたら、柔らかい表情を見せてくれたら、暖かい目をしてくれたら、私たちは即座にカメラを手にする。

穏やかに生きた瞬間があったと、こんなにいい笑顔を見せてくれたということを、記録しておきたい。

それはその人が、紛れもなく生きた証。

あ~こんな時間が確かにあって、確かにこの時生きていたのだと、笑っていたのだと想えるよう、今日もたくさんの写真を撮る。

どの人にとっても、大切な一日。大切な時間。

ケアとしてでなく、介護計画としてでもなく、ただ人として生きている証として、今日も写真を撮る。

 

家族のために。

家族とともに生きる人のために。

家族の歴史を知る人のために。

私たち介護者自身のために。

写真を撮る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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祈り

2020-03-11 21:58:48 | デイサービス池さん

午後2時46分、今年も皆で黙とう。

9年前の出来事を池さんのテレビの画面でリアルタイムで見ていた私も大ちゃんも、当時小学生だったまいちゃんも、何があったのか覚えていないばあちゃんたちも、何も知らない子どもたちも、皆で祈る。

私が知るのは、テレビやニュースや本の中の映像と、人々の語り。

毎年、同じ時間を一緒に過ごす人たちと、心からの祈りを捧げる。

子どもたちも祈る。

ばあちゃんも、祈る。

 

9年という時間を想う。

重い、重い、時間を想う。

 

2時46分、

宮城県の震災メモリアル公園の上空には、美しい大きな虹がかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今日のひとこと、「俯瞰する」

2020-03-09 18:47:24 | デイサービス池さん

「俯瞰する」(ふかんする)

久しぶりに見た番組の中で、久しぶりのこの言葉に出会った。

なので、今日のひとこと。

 

俯瞰とは高いところから眺めるという時に使う言葉で、

例えば「物事は俯瞰してみることが必要だ」というように使われる。

つまり、考え方の例えで使われる言葉で、「広い視野を持って物事をとらえる」ということ。

「客観的に物事を考えなさい」という意味でも使われる。

自分が何かを行っている時、その行為を、少し離れた所から客観的にもう一度考えてみるとよい。

違う位置からみると、自分の行為がどう見えるのだろうと。

自分が考えている時、考えた答えが正しいのかどうかを、もう一度全体を見渡せる位置から客観的に考えてみるとよい。

この答えで、相手が理解してくれるのだろうかと、もう一度違う位置から自分の考えについて考えてみる。

 

離れた場所から自分の考えや行動を見返してみることで、自分の間違いや思い込みに気づけることがある。

少し高い位置に視点を持ってゆくだけで、見える景色が変わってくる。

このことを常に考えていると、小さな部分で物事を考えるのではなく、取り組むべき問題や課題に対して、大きな視点で全体を見てゆくということが習慣化してゆく。

そうして全体を広く見てゆくと、大局を見間違うことなく目的地へ進むことができる。

正しい判断には、俯瞰する力が必要なのだ。

「俯瞰的」に考えて実行してゆくことが大切なことだという、今日のひとこと。

 

昨日の雨で彼岸桜が花を散らせてしまいましたが、菜の花は花びらを落としながらも、また新しい花を開いて甘い香りを部屋中に漂わせています。

雨が降るたびに、春が近くなるようです。

世界中に広がるウイルスは、季節とは関係なく脅威をまき散らせているようです。

早く終息しますように。

元気な子どもたちの声や、賑やかな街が少し恋しい今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今という時に

2020-03-02 22:50:23 | デイサービス池さん

2月最後の金曜日。

「監査」

何度か経験した監査。

法改正に伴って初めての市の管轄下での監査を受けた。

 

指摘事項はもちろん何点かあったけれど、なんとか無事に終了。

今の介護保険制度の中で、「加算で稼げ」と言われている中で、加算をほとんどとらずに経営しているわけだから、監査自体も加算と業務内容と勤務体制なんかを照らし合わせる必要もないし、なんとかかんとか大丈夫と思いつつも。

やはり「監査」という言葉自体が持つ威圧感に、胃を削られるような緊迫感の中で1ヶ月過ごしたわけ。

過重のストレスが食欲をなくしていても、池さんで食べると結構食べることができたりなんかして、やっぱりここはええな~と改めて感じたり。

いつもと同じ時間が流れている空間が、こんな時は更に心地よく感じられたりして。

 

決められた時間が過ぎて監査終了し、指導係の人たちが玄関に向かった時、

ばあちゃんたちがぞろぞろと見送りに出てきて、

「ありがとうございました。また来てよ~!」「さようなら。また来てください!」

とでっかい声で、いつものお客さんの見送りと同じように言った時、

「監査はいらんけど!」

と、思わず言ってしまった自分のキャパの小ささが、なんだか恥ずかしくなったりしたものでして。

 

監査だろうと何だろうと、「また来てよ~」と笑って言える器の大きさが欲しいような欲しくないような、はたまたそんなことはどうでもええような、そんな気がする月初め。

時間が経つほどに、分厚くなる経験値や心の中を、整理しながら生きてゆく必要があるような気がする3月初め。

 

半年前に起きた出来事は、私や皆を大きく育ててくれて、その人はもういないけれど、あの時のあの時間があったからこそ今の池さんがあるのだと強く思えた今日。

偶然にも満中陰の品が届き、改めて6か月を思い返す。

糧にできたかどうかは、すべて自分次第。

常に、きっかけと流れは目の前にある。

その経験を生かせるかどうかは、自分の心次第。

成長した人たちを見ながら、感慨深い想いが募る今宵。

 

サクランボの花が咲き始め、エンドウ豆の実も大きくなり、彼岸桜も満開に。

さっ、もう少しで春。

綺麗に整えて出発できますように。

皆の心が一つになれますように。

 

 

 

 

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