11月末、私たちは大事な大事な近藤のじいちゃんを見送った。
そして・・・
また先日、私たちは大事な大事な人を見送った。
ぐっさん。
始めて、じいちゃんに会ったのは、ある施設のベットの上だった。
家に連れて帰りたいと言うばあちゃんの希望で、池さんに通うことになったじいちゃん。
始めの頃、じいちゃんはとても元気だった。
「お~こりゃどうでや!」「たいしたもんじゃ!」「ほ~こりゃすごい!」がじいちゃんの口癖。
子ども達が遊ぶのを、目を細めて楽しそうに見て、「こりゃ、愛媛県一優秀なすごい子じゃ!」と嬉しそうだった。
じいちゃんちの綺麗に刈り込まれた芝生が自慢で、「帰りにちょっとあんたに見てもらいたいんよ。ここら辺でにはないけん。」とばあちゃんが丹精込めて手入れをした庭を皆に自慢してくれた。
りっぱな家もじいちゃんの自慢だった。「この道をまっすぐ行ったら・・・遠くからでもすぐ見えるけん。これよ!これこれ!たいしたもんじゃろ!大工さんもいっつも言いよった。知らん人がきてもすぐわかるけん!」といっつも嬉しそうに自慢していた。「こんだけ広かったら、税金もすごかろ?」と言うと、「うんうん」とそれはそれは嬉しそうな顔で、「ま、2億3000万くらいよ。ここら辺で一番やけん」と楽しそうに話してくれた。
車が好きで、「ちょっと銀行連れて行ってや。お金を下ろしてくるけん。車を買うけん。」と、何度も話してた。車のカタログを見ては、「こりゃ安い。ちょっと兄ちゃん、買いに行こうや」と大ちゃんを誘ってみることもあった。
じいちゃんと話すのは、本当に楽しかった。
皆がじいちゃんとの話で、盛り上がり、いっぱい笑った。
月日が経つにつれ、じいちゃんは、血圧が低くて貧血がひどく、寝ている時間が長くなり、食事を飲み込むことが難しくなってきた。
病気のせいで、胃を全摘出しているじいちゃんには、最初から食事に配慮が必要だったが、飲み込みにくくなってきたじいちゃんに、ちょっとでも食事をしてもらいたくて、食事担当のみかちゃんは頑張って、みんなと同じに見えて、しかもじいちゃんが食べやすいようにいろいろ工夫してくれていた。
何度か血圧が低下し、病院へ連れていったこともあった。
じいちゃんはしばらく入院すると、また元気になって帰ってきてくれた。
帰るたびに、段々弱っていくのがわかった。
大柄なじいちゃんは、だんだん痩せていった。
歩くのもしんどそうになってしまったじいちゃんに対して、私たちに何ができるのか、苦しんだ。だんだん弱っていくじいちゃんを前に、ちょっとでも身体が動くように、ちょっとでも回復することを願って、どうすればいいのか悩みぬいた。大ちゃんと遅くまで話し合った。
私たちは介護事業者として、家族が希望する限り、じいちゃんを看たいと思った。
というより、
私たちが大好きなじいちゃんを、どこへも行かせたくなかったというのが本音だったかもしれない。
亡くなったという連絡を受けて、急いで駆けつけ、冷たくなったじいちゃんの身体に触った時、
じいちゃんと過ごした池さんでの月日が頭の中を駆け巡り涙が溢れた。
大きなじいちゃんの手。幅広の足。優しい笑顔。楽しい会話。信じられないくらいの量のとびっきり大きなウンチ。
遺影は、元気な時のじいちゃん。大きくて立派なじいちゃんが笑っていた。
ばあちゃんや親戚の人たちが言ってくださった。
「最後まで看てくれて、ありがとうね。よう看てくれたね。」(じいちゃんは、亡くなる2日前まで池さんに通ってきた)
「毎日ノートを書いてくれて、ありがとうね。写真をありがとうね。」(毎日私たちが書く利用者の日記には、バイタルなんか書かずに、笑う写真がいっぱい貼ってある。ばあちゃんはそのノートを皆に見てもらっていたらしい)
平日だったから、お葬式は大ちゃんが代表して参列した。
立派だったじいちゃんを偲んで、本当に沢山の参列者だった。
私たちは、来てくれる人を家族だと思っている。
家族の代わりになりたいと思っている。
だからこそ、
見送らなければならない時は、
身を切られるように辛い。
常に、死と隣りあわせでいる毎日なのはわかっているが、
こんなに悲しいなら、
こんなに辛い別れをしなければならないなら、
もうやめてしまいたいと、そのたびに思う。
いつも、こうした感情を抱えて、
悩みながら、
でも、ここを池さんを必要としてくれる人のために、
明日はまた、
頑張ろうと思う。
そして・・・
また先日、私たちは大事な大事な人を見送った。
ぐっさん。
始めて、じいちゃんに会ったのは、ある施設のベットの上だった。
家に連れて帰りたいと言うばあちゃんの希望で、池さんに通うことになったじいちゃん。
始めの頃、じいちゃんはとても元気だった。
「お~こりゃどうでや!」「たいしたもんじゃ!」「ほ~こりゃすごい!」がじいちゃんの口癖。
子ども達が遊ぶのを、目を細めて楽しそうに見て、「こりゃ、愛媛県一優秀なすごい子じゃ!」と嬉しそうだった。
じいちゃんちの綺麗に刈り込まれた芝生が自慢で、「帰りにちょっとあんたに見てもらいたいんよ。ここら辺でにはないけん。」とばあちゃんが丹精込めて手入れをした庭を皆に自慢してくれた。
りっぱな家もじいちゃんの自慢だった。「この道をまっすぐ行ったら・・・遠くからでもすぐ見えるけん。これよ!これこれ!たいしたもんじゃろ!大工さんもいっつも言いよった。知らん人がきてもすぐわかるけん!」といっつも嬉しそうに自慢していた。「こんだけ広かったら、税金もすごかろ?」と言うと、「うんうん」とそれはそれは嬉しそうな顔で、「ま、2億3000万くらいよ。ここら辺で一番やけん」と楽しそうに話してくれた。
車が好きで、「ちょっと銀行連れて行ってや。お金を下ろしてくるけん。車を買うけん。」と、何度も話してた。車のカタログを見ては、「こりゃ安い。ちょっと兄ちゃん、買いに行こうや」と大ちゃんを誘ってみることもあった。
じいちゃんと話すのは、本当に楽しかった。
皆がじいちゃんとの話で、盛り上がり、いっぱい笑った。
月日が経つにつれ、じいちゃんは、血圧が低くて貧血がひどく、寝ている時間が長くなり、食事を飲み込むことが難しくなってきた。
病気のせいで、胃を全摘出しているじいちゃんには、最初から食事に配慮が必要だったが、飲み込みにくくなってきたじいちゃんに、ちょっとでも食事をしてもらいたくて、食事担当のみかちゃんは頑張って、みんなと同じに見えて、しかもじいちゃんが食べやすいようにいろいろ工夫してくれていた。
何度か血圧が低下し、病院へ連れていったこともあった。
じいちゃんはしばらく入院すると、また元気になって帰ってきてくれた。
帰るたびに、段々弱っていくのがわかった。
大柄なじいちゃんは、だんだん痩せていった。
歩くのもしんどそうになってしまったじいちゃんに対して、私たちに何ができるのか、苦しんだ。だんだん弱っていくじいちゃんを前に、ちょっとでも身体が動くように、ちょっとでも回復することを願って、どうすればいいのか悩みぬいた。大ちゃんと遅くまで話し合った。
私たちは介護事業者として、家族が希望する限り、じいちゃんを看たいと思った。
というより、
私たちが大好きなじいちゃんを、どこへも行かせたくなかったというのが本音だったかもしれない。
亡くなったという連絡を受けて、急いで駆けつけ、冷たくなったじいちゃんの身体に触った時、
じいちゃんと過ごした池さんでの月日が頭の中を駆け巡り涙が溢れた。
大きなじいちゃんの手。幅広の足。優しい笑顔。楽しい会話。信じられないくらいの量のとびっきり大きなウンチ。
遺影は、元気な時のじいちゃん。大きくて立派なじいちゃんが笑っていた。
ばあちゃんや親戚の人たちが言ってくださった。
「最後まで看てくれて、ありがとうね。よう看てくれたね。」(じいちゃんは、亡くなる2日前まで池さんに通ってきた)
「毎日ノートを書いてくれて、ありがとうね。写真をありがとうね。」(毎日私たちが書く利用者の日記には、バイタルなんか書かずに、笑う写真がいっぱい貼ってある。ばあちゃんはそのノートを皆に見てもらっていたらしい)
平日だったから、お葬式は大ちゃんが代表して参列した。
立派だったじいちゃんを偲んで、本当に沢山の参列者だった。
私たちは、来てくれる人を家族だと思っている。
家族の代わりになりたいと思っている。
だからこそ、
見送らなければならない時は、
身を切られるように辛い。
常に、死と隣りあわせでいる毎日なのはわかっているが、
こんなに悲しいなら、
こんなに辛い別れをしなければならないなら、
もうやめてしまいたいと、そのたびに思う。
いつも、こうした感情を抱えて、
悩みながら、
でも、ここを池さんを必要としてくれる人のために、
明日はまた、
頑張ろうと思う。