きまぐれ発言

日々変化する世の中をみて、私はこう思う。

亀田親子の謝罪会見

2007-10-18 10:17:58 | Weblog
亀田親子の謝罪会見     (007.10.18.)

謝罪と言う事は自分の犯した罪を自らの良心に照らし合わせて、悪かった部分を明確にし、反省し、悪かった事に対して許しを請う事である。

今回の謝罪会見を見ていて、自らの良心に照らして悪いところを明確にせず、罰則が決まった事に「仕方が無い」から従って、謝罪の記者会見をせよと言うから仕方なくした
と言うことで、父親も反則的な助言は一切していないと否定している。
大毅選手は、2分間無言のままで「ごめん」の一言も言わずに退場した。
これは、どう見ても、謝罪会見ではない。

ボクシング業界は、世界タイトルマッチと言う権威のある戦いだけに、相手選手の目を狙ったり、抱え投げをしたり、スポーツマンシップに在らざる販促行為を強く戒めた罰則を掛けた事は当然と思うが、其れについても不満の気持を持っている様だ。

父親史郎氏の気持の中には、パフォーマンスに付いても、あれだけ派手な格好をして、また、相手をゴキブリ呼ばわりした挑発的な発言による演出は、観客の注目を集め、それによる、テレビ局や、マスコミも報道収入に結び付けてやってるではないか、と言う言い分があるのではと思われる。
ボクシング界に関係する人も、同じ仲間で飯を食う世界では、強く、非難も出来ず、遠慮して、庇う様な発言が多い。

一般大衆からは、スポーツとしてのボクシングを見たいと思っている。そこにはスポーツマン精神と言うものがある。戦うときは、ルールに従って、技能の限りを尽くして戦う、勝負がついたら、お互いが、相手の戦いぶりを称えあうと言う姿がスポーツの精神である。

亀田家のボクシングは、スポーツではなく、喧嘩である、相手を罵り挑発し、殴り合いをする、勝てば、相手を見下し「ざまーミロ」と言う。

日本には、古来から武士道精神と言うものがある。亀田一家に「惻隠の情」と言う武士道精神に繋がる哲学がわかる様になれば、ボクシングを再開されても良いが、そうでなければ見る気もしない不潔さを感じる。

                        (えびなたろう)