一見客に対し、東京の店は愛想がない、大阪は大事にする、と聞いたことがある。真偽はともかく、一見客を粗末にすれば、あんな店に二度と行くまいとなる。逆に大事にすれば、客は気分がよいから度々通って常連になる。大阪の商売上手の譬えかもしれない。
ところで、京都の祇園のふるい料亭では、一見客はお断りという。そうであれば、格式ばった狭い料簡ではないか。
しかし、司馬遼太郎の随筆から敷衍すると次のようなことらしい。
一見客の場合、現金勘定となるわけだが、それが困るようだ。というのは、帳場ではすぐに勘定の算出ができない。なぜなら、魚屋も酒屋も玉代もみんなツケで、その請求が届かないと勘定を割り出せないのだ。
にわかには信じがたいが、律儀とはそういうことかもしれない。今は、勘定なんぞ判りきっているはずだから、そういう理由はぶっ飛んで「一見客お断り」のしきたりだけが残っているということか。
ところで、京都の祇園のふるい料亭では、一見客はお断りという。そうであれば、格式ばった狭い料簡ではないか。
しかし、司馬遼太郎の随筆から敷衍すると次のようなことらしい。
一見客の場合、現金勘定となるわけだが、それが困るようだ。というのは、帳場ではすぐに勘定の算出ができない。なぜなら、魚屋も酒屋も玉代もみんなツケで、その請求が届かないと勘定を割り出せないのだ。
にわかには信じがたいが、律儀とはそういうことかもしれない。今は、勘定なんぞ判りきっているはずだから、そういう理由はぶっ飛んで「一見客お断り」のしきたりだけが残っているということか。