昨日のブログに、茨木のり子さんの詩『活字を離れて』を載せさせていただきました。
その詩の中のフレーズ、
〈眼鏡も持たず/カメラも持たず〉
の詩句から、「眼鏡」のことが妙に心にまとわりついていたのです。
「眼鏡」(メガネ)
単に目を保護したり機能を強化したりする いわゆる眼鏡ではなく、
さまざまな比喩やメタファーとしてのメガネについてです。
私たちは、ある現象や事物を ありのままに、正確捉えようとしても、
いろいろなメガネを通して、事物を認識してしまいがちです。
いわゆる「色めがね」で見てしまいます。
レンズの色は、自身の好みであったり、思想・考え方 その時の体調 等々、様々で、
決して透明なレンズではありません。
〈ありのままの、本当の姿ってなんだろう、
一個のリンゴにしても、私と、あなたとに、同じく映っているわけでもなく、
それを確かめようもなく、
まして人間以外の生き物たちの目に、
どんな色彩の映像を結んでいるかも確かめられず、
「客観的」って なに?〉
寒―い一日でした。
雪もチラホラ。
だから、とりとめもなく、メガネのことなどを考えていたのです。
若い頃に書いた『メガネ屋』という拙い詩です。
『メガネ屋』
青い空と 平和なふるさとが見たいといったら
メガネ屋め
時計の針を左回しに回し続けろと言う
何回も何回も 数えきれないほど回し続けたら
芒の野原が見えてきて
男どもは戦いに駆り出され
毒の無い野草は 子供らが根こそぎ喰ってしまったが
青い空は そこにあった
針を回し続けていくと
地割れの畑で 太陽が目をむいている
身売りされた娘の涙を集めてさえ
地は乾ききって潤わない
山あいでは
石地蔵が黙って犇めいている
地蔵の目が濡れているのは
間引かれた赤ん坊の涙
瞳の奥を覗きこんだら
賽の河原で童たちが小石を積んでいた
石地蔵の涙でレンズを作り
メガネ屋の店先を眺めてみたら
親父め
手広く商売を広げていて
兵器や DNAの罐詰などを並べ
平和と 青い空をお望みなら
時計の針を右回しに回し続けろ などと奨めている
その詩の中のフレーズ、
〈眼鏡も持たず/カメラも持たず〉
の詩句から、「眼鏡」のことが妙に心にまとわりついていたのです。
「眼鏡」(メガネ)
単に目を保護したり機能を強化したりする いわゆる眼鏡ではなく、
さまざまな比喩やメタファーとしてのメガネについてです。
私たちは、ある現象や事物を ありのままに、正確捉えようとしても、
いろいろなメガネを通して、事物を認識してしまいがちです。
いわゆる「色めがね」で見てしまいます。
レンズの色は、自身の好みであったり、思想・考え方 その時の体調 等々、様々で、
決して透明なレンズではありません。
〈ありのままの、本当の姿ってなんだろう、
一個のリンゴにしても、私と、あなたとに、同じく映っているわけでもなく、
それを確かめようもなく、
まして人間以外の生き物たちの目に、
どんな色彩の映像を結んでいるかも確かめられず、
「客観的」って なに?〉
寒―い一日でした。
雪もチラホラ。
だから、とりとめもなく、メガネのことなどを考えていたのです。
若い頃に書いた『メガネ屋』という拙い詩です。
『メガネ屋』
青い空と 平和なふるさとが見たいといったら
メガネ屋め
時計の針を左回しに回し続けろと言う
何回も何回も 数えきれないほど回し続けたら
芒の野原が見えてきて
男どもは戦いに駆り出され
毒の無い野草は 子供らが根こそぎ喰ってしまったが
青い空は そこにあった
針を回し続けていくと
地割れの畑で 太陽が目をむいている
身売りされた娘の涙を集めてさえ
地は乾ききって潤わない
山あいでは
石地蔵が黙って犇めいている
地蔵の目が濡れているのは
間引かれた赤ん坊の涙
瞳の奥を覗きこんだら
賽の河原で童たちが小石を積んでいた
石地蔵の涙でレンズを作り
メガネ屋の店先を眺めてみたら
親父め
手広く商売を広げていて
兵器や DNAの罐詰などを並べ
平和と 青い空をお望みなら
時計の針を右回しに回し続けろ などと奨めている
詩を書いていらっしゃいましたか。
拙い詩では決してないと思いましたよ。
私は今64歳ですが、
まだまだ人生修業が足りないと
思った次第。
ばーば様は
ご自分の意志をはっきりとお持ちで
いらっしゃる。
どんどんと
発信なさいませ。
ばーば様に比べれば
私はまだ若造の域を出ませんね。
世俗的で煩悩の塊みたいなものですよ。
色眼鏡で
世の中を見ないように
心掛けたいと痛感しました。