go2cさんの一寸の虫に五寸釘にて大変興味深いエントリが掲載されていました。いじめ問題や未履修の問題に絡めて校長の自殺が相次いでいる記事を受けて、「責任」の混乱について述べています。
このエントリの中で、興味を引いたのが次の一節。
go2cさんは「漠然と」と謙遜されていますが、Yahoo!辞書で『責任』を調べてみると、正に「そのものズバリ」の意味がヒットいたしました。
ここで、英語での「責任」という語句がどうなっているかと調べてみると、上記の1に該当する「果たすべき務めとしての責任」は duty 又は obligation、 2に該当する「結果に対する責め」はresponsibility、3の法的な責任はliabilityというように適切に分けて用いているようです。ちなみに、Yahoo!辞書の和英辞典で調べてみると、『責任』という次のような解説が掲載されていました。
これらのことは、日本という国において『責任』というものが「あいまいなコトバ」として使われてきた、即ち、日本においては、歴史的文化的にも「責任があいまい」を許容してきた証左と私は受け止めました。
現在の報道では『責任を追及する』等という表現が非常によく使われていますが、よくよく考えてみると「何を追及しているのか」はっきりしないまま「責任追及」と言っている気がしてなりません。特に「法的な責任」については、それが「相対する二者(多者)間で生じる権利義務関係≒民事責任」の問題なのか、それとも「社会全体としての規律統制を保持するための制裁≒刑事責任」の問題なのか、さらにはそもそも「法的な責任ではない」ものなのか、よく見極める必要があります。
こうして考えると、本当に「責任」と言うコトバは「難儀」であると感じます。少し前のエントリでも紹介させていただいた47thさんのふぉーりん・あとにーの憂鬱の一節から、もう一度同じ一文を引用させていただき、このエントリの締めとさせて頂きます。
長文になりましたが、本日はここまで。
このエントリの中で、興味を引いたのが次の一節。
漠然とした印象ですが、「責任」という言葉の中に「果たすべき役割」と「過去の行為(または不作為)に対する評価」と「法的責任」の意味が含まれ、混乱しているように思います。
go2cさんは「漠然と」と謙遜されていますが、Yahoo!辞書で『責任』を調べてみると、正に「そのものズバリ」の意味がヒットいたしました。
せき‐にん【責任】
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
(大辞泉)
ここで、英語での「責任」という語句がどうなっているかと調べてみると、上記の1に該当する「果たすべき務めとしての責任」は duty 又は obligation、 2に該当する「結果に対する責め」はresponsibility、3の法的な責任はliabilityというように適切に分けて用いているようです。ちなみに、Yahoo!辞書の和英辞典で調べてみると、『責任』という次のような解説が掲載されていました。
responsibilityは自分の仕事や義務などを遂行する責任. chargeは人や組織に対して管理や世話をする責任. blameは失敗など悪いことに対して負う責め. faultは過失の原因. dutyは法律上の(債務)義務. liabilityは特に借金の支払い・損害賠償などの法律上生じる義務. accountabilityはその地位のある人が他の人に説明する責務をいう.
(ニューセンチュリー和英辞典)
これらのことは、日本という国において『責任』というものが「あいまいなコトバ」として使われてきた、即ち、日本においては、歴史的文化的にも「責任があいまい」を許容してきた証左と私は受け止めました。
現在の報道では『責任を追及する』等という表現が非常によく使われていますが、よくよく考えてみると「何を追及しているのか」はっきりしないまま「責任追及」と言っている気がしてなりません。特に「法的な責任」については、それが「相対する二者(多者)間で生じる権利義務関係≒民事責任」の問題なのか、それとも「社会全体としての規律統制を保持するための制裁≒刑事責任」の問題なのか、さらにはそもそも「法的な責任ではない」ものなのか、よく見極める必要があります。
こうして考えると、本当に「責任」と言うコトバは「難儀」であると感じます。少し前のエントリでも紹介させていただいた47thさんのふぉーりん・あとにーの憂鬱の一節から、もう一度同じ一文を引用させていただき、このエントリの締めとさせて頂きます。
「責任」という言葉の濫用は、「無責任」と同じか、あるいは、それが一方的に弱者に負担を押し付ける際のマジック・ワードとして用いられる場合にはより悪質なものとなってしまう虞があると思うんですが・・・
長文になりましたが、本日はここまで。
元々、「神」ですら権力者の道具として用いてきた国ですから、まあ、それを考えると不思議はないんですが・・・
上の英語の概念は1→2→3という順番に「責任を負」って「責任を果」たせないと「責任を追及」されるというようになっているわけですね。
上の47thさんのコメントの、日本は「責任を負う」からでなく「責任を問う」ことから始まったのではというところは慧眼だと思います。(ではそれはいつごろから始まったのか、戦国時代の合従連衡は自己責任だったようにも思うのですが、江戸時代になると完全に上からの責任追及だよな、とそれはそれで興味があります。)
「責任」を構成する前提となる「義務」というところに遡らずにいきなり世間に対する「責任」を追求する、という風土がある中ではCSRなどの話も過剰反応しがちになる傾向にあるかもしれませんね。
コメントありがとうございます。再びご紹介させていただきましたm(_ _)m
欧米と日本における「責任」の発展の違い、非常に参考になりました。確かに日本での「責任」の使い方は『誰かが何かを行う/行わないことを、事実上強制させたい」場面で使っていることが多いのではないかと感じます。
この「責任」と言うものに限らず、企業マネジメントの分野や政策立案、経済体制、その他ありとあらゆるものにおいて、「欧米と日本での『共通の根っこの部分での相違点』」というものが有るのかなと感じました。47th様のブログは最終章とのことですが、また機会をみてお越し頂ければ幸いですm(_ _)m
こちらこそ、わざわざ追記にてご紹介いただきまして誠にありがとうございました。見事な洞察力に感服いたします。
日本でいう「責任」は、突き詰めて考えると「腹を切れ!」という所にどうしても根っこが有るのかなと感じてしまいます。では、その背景に何があるかは私の無い頭ではトンと分かりませんが、個人的には「浄土真宗や儒教文化」が広まったことにも一つの要因があるのかな?・・・・と思います。この点では正に47th様が仰るところの『「神」ですら権力者の道具として用いてきた国』という部分とリンクしてくるのかなと感じました。
仕事柄「企業でのマネジメントシステム」に触れる機会が多いのですが、過剰な反応を恐れるばかり、本質的ではない対策を講じなければならない場面もあり、非常に悩ましい部分です。
これからも、go2c様のブログへちょこちょことお邪魔させていただくと存じますが、その際には何卒宜しくお願い申し上げますm(_ _)m