■戦前の母島沖村。
毎朝、集落の若者が集まる場所があった。
「朝集まって、組長がそれぞれにその日の仕事を命ずるんだ。
組長はそのメンバーの資質をすべて把握しているし、
みんなから一目置かれた人しかなれないから、みんなそれに従うんだ。
そして、月に一回まとめて給料が支払われる。
そうして、母島の沖村は運営されていたんだ。若ノ衆組合によって」
母島の90代のレジェンドが雄弁に語ります。
戦前の母島には若者たちが、
見事にみんなの暮らしを支える「若ノ衆組合(わかいのしゅうくみあい)」という組織があったそうです。
当時、そこの若ノ衆組長は奥山組長といって、
若者の誰もが「この人なら」と認める絶対的な存在だったようです。
組長はその日集まった若者の特性や人間関係をしっかり把握し、
その日の仕事を割り振っていたそうです。
大体30人前後はいたといいます。
・サトウキビ狩り
・野良仕事
・カノー(アウトリガーカヌー)大工手伝い
・家大工手伝い
など多岐に渡ります。
専門性の高い
・シュロ葺き(オガサワラビロウの屋根)
・カツオ節加工
・くさや製造
などは若ノ衆組合ではなく、特に上手な人が集まって行っていたそうです。
集合場所は今の学校の畑がある付近の様です。(旧地名:新々町)
数々の小笠原の歴史をまとめている倉田洋二さんの本には、
若ノ衆組合の記述がなく、「あんなに重要だったのに、どうして書かれてないんだろう?」と残念そうでした。
■とあるレジェンドの当時の1日のスケジュールを教えて頂きました。
くさや作りのシーズンの場合(7月~9月)
3時 起床 カノー(海が悪い場合は歩き)で南崎へ
5時 到着 朝食 くさや 作り開始
順次 漁船が来るたびに水揚げ
※漁船は南崎海岸まで入れないのでカノーで魚を受け取りに行く
昼 合間をぬってサッと昼食 休憩はなし
順次 くさや作り
夕方 夕食をもらって沖村へ戻る
19時~20時半 青年学校(週3回)
※南崎にはくさやシーズンは新島から女性が来ていて、加工作業を手伝ってくれていた
※新島からの女性はお世話役のおばちゃんと十代の若い娘5人くらい(めっちゃ可愛い子もいたらしいw)
※南崎の新島の人がみんなの分の食事を用意してくれた
※青年学校がない場合は沖村に帰らず、南崎の小屋で寝泊まり
※青年学校の教員は島の漁師などで、話がカタくなく、面白かった(小学校は内地からの教員)
※生徒も教員も昼間肉体労働なので、みんな眠かった
※青年学校(男子)は主に軍事訓練、銃の訓練が多かった
※くさや工場は前田家の持ち物だった
カツオ漁のシーズンの場合(4~6月)
沖村の前田さん、野口さんがカツオ節工場の主だった人だそうです。
場所は今の前浜の大谷川河口周辺だったそうです。
カツオ節の工程を聞いてみました。
①カツオをさばく
②4つに身を切り分ける
③切り分けた身を大釜で茹でる
④中骨を手作業で取る
⑤焙乾(ばいかん、ばいろ)、いわゆる煙で燻す作業
燠(おき)状態で何日も燻す。ときどき向きを変える、この作業で身の水分を抜く
⑥天日干し
⑦包丁で桐の箱に入る様に形を整える
⑧カビをつける(土蔵の中)
特に大変だったのは⑤の天地返しなどの作業で、
煙で目から涙がこぼれるくらい辛かったそうです。
しかし、子どもとしても、ご褒美として最高に美味しいカツオの心臓などをもらえるので、
それを食べたい一心で手伝うのだそうです。
⑤の薪はメリケンマツやタマナなど、持ちのいい木が使われるのだそうです。
こんなネットの時代なので、「大手にんべんのカツオ節のできるまで」を覗いてみると、
そのほとんどが同じ作業であることに驚きます。
その従事していた頃から70年以上経過しているのに、
なんの記録も見ないで、ほぼ正確に語れるのは何故かと聞いてみたら
「あまりに煙が辛い作業だから、しっかり印象に残ってるんだよ~!」
と最高の笑顔で教えてくれました(*^_^*)
ちなみにうどんなどにおススメのムロ節は、
カツオよりグッと工程がシンプル(②と④の作業がない)なので、楽だったそうです。
■小学生の頃は遊んだ記憶はほとんどなく、
学校以外はひたすらに親の仕事の手伝いをさせられたそうです。
土日は決まって薪拾い。
時間があればランプ拭きや水汲みをしたといいます。
逆に大人は一生懸命に働いてもいたけど、
本気で遊んでもいた様です。
小笠原凧(為朝凧)や太鼓、相撲など盛んだったようですが、
子供にはやらせてくれなかったと言います。
戦前は大神宮(月ヶ岡神社)のお祭りなどでは、神輿はなく、
遠州町のメンバーが見事な芝居を見せて、盛り上げていたそうです。
レジェンドのお話しを聞かせてもらって、
今の時代にのほほんと生きている僕は少し、申し訳ないような気持ちになってしまいました。
日々、仕事も地域活動も盛んにしますが、
間違いなく遊んでいるし、だらけています(笑)。
レジェンドが敗戦後内地に行ってみたら、
どこの誰よりも生活スキルがあって、何でもできて、スーパーマンでモテモテだったと笑顔で語ってくれました(*^_^*)
子供の頃、本当に辛かった仕事ばかりの島暮らしが、
そこですごく報われた、といいます。
僕も先人たち、とまではいかないまでも、
もうちょっと生活スキル習得を頑張ろうと心に誓ったのでした♡
毎朝、集落の若者が集まる場所があった。
「朝集まって、組長がそれぞれにその日の仕事を命ずるんだ。
組長はそのメンバーの資質をすべて把握しているし、
みんなから一目置かれた人しかなれないから、みんなそれに従うんだ。
そして、月に一回まとめて給料が支払われる。
そうして、母島の沖村は運営されていたんだ。若ノ衆組合によって」
母島の90代のレジェンドが雄弁に語ります。
戦前の母島には若者たちが、
見事にみんなの暮らしを支える「若ノ衆組合(わかいのしゅうくみあい)」という組織があったそうです。
当時、そこの若ノ衆組長は奥山組長といって、
若者の誰もが「この人なら」と認める絶対的な存在だったようです。
組長はその日集まった若者の特性や人間関係をしっかり把握し、
その日の仕事を割り振っていたそうです。
大体30人前後はいたといいます。
・サトウキビ狩り
・野良仕事
・カノー(アウトリガーカヌー)大工手伝い
・家大工手伝い
など多岐に渡ります。
専門性の高い
・シュロ葺き(オガサワラビロウの屋根)
・カツオ節加工
・くさや製造
などは若ノ衆組合ではなく、特に上手な人が集まって行っていたそうです。
集合場所は今の学校の畑がある付近の様です。(旧地名:新々町)
数々の小笠原の歴史をまとめている倉田洋二さんの本には、
若ノ衆組合の記述がなく、「あんなに重要だったのに、どうして書かれてないんだろう?」と残念そうでした。
■とあるレジェンドの当時の1日のスケジュールを教えて頂きました。
くさや作りのシーズンの場合(7月~9月)
3時 起床 カノー(海が悪い場合は歩き)で南崎へ
5時 到着 朝食 くさや 作り開始
順次 漁船が来るたびに水揚げ
※漁船は南崎海岸まで入れないのでカノーで魚を受け取りに行く
昼 合間をぬってサッと昼食 休憩はなし
順次 くさや作り
夕方 夕食をもらって沖村へ戻る
19時~20時半 青年学校(週3回)
※南崎にはくさやシーズンは新島から女性が来ていて、加工作業を手伝ってくれていた
※新島からの女性はお世話役のおばちゃんと十代の若い娘5人くらい(めっちゃ可愛い子もいたらしいw)
※南崎の新島の人がみんなの分の食事を用意してくれた
※青年学校がない場合は沖村に帰らず、南崎の小屋で寝泊まり
※青年学校の教員は島の漁師などで、話がカタくなく、面白かった(小学校は内地からの教員)
※生徒も教員も昼間肉体労働なので、みんな眠かった
※青年学校(男子)は主に軍事訓練、銃の訓練が多かった
※くさや工場は前田家の持ち物だった
カツオ漁のシーズンの場合(4~6月)
沖村の前田さん、野口さんがカツオ節工場の主だった人だそうです。
場所は今の前浜の大谷川河口周辺だったそうです。
カツオ節の工程を聞いてみました。
①カツオをさばく
②4つに身を切り分ける
③切り分けた身を大釜で茹でる
④中骨を手作業で取る
⑤焙乾(ばいかん、ばいろ)、いわゆる煙で燻す作業
燠(おき)状態で何日も燻す。ときどき向きを変える、この作業で身の水分を抜く
⑥天日干し
⑦包丁で桐の箱に入る様に形を整える
⑧カビをつける(土蔵の中)
特に大変だったのは⑤の天地返しなどの作業で、
煙で目から涙がこぼれるくらい辛かったそうです。
しかし、子どもとしても、ご褒美として最高に美味しいカツオの心臓などをもらえるので、
それを食べたい一心で手伝うのだそうです。
⑤の薪はメリケンマツやタマナなど、持ちのいい木が使われるのだそうです。
こんなネットの時代なので、「大手にんべんのカツオ節のできるまで」を覗いてみると、
そのほとんどが同じ作業であることに驚きます。
その従事していた頃から70年以上経過しているのに、
なんの記録も見ないで、ほぼ正確に語れるのは何故かと聞いてみたら
「あまりに煙が辛い作業だから、しっかり印象に残ってるんだよ~!」
と最高の笑顔で教えてくれました(*^_^*)
ちなみにうどんなどにおススメのムロ節は、
カツオよりグッと工程がシンプル(②と④の作業がない)なので、楽だったそうです。
■小学生の頃は遊んだ記憶はほとんどなく、
学校以外はひたすらに親の仕事の手伝いをさせられたそうです。
土日は決まって薪拾い。
時間があればランプ拭きや水汲みをしたといいます。
逆に大人は一生懸命に働いてもいたけど、
本気で遊んでもいた様です。
小笠原凧(為朝凧)や太鼓、相撲など盛んだったようですが、
子供にはやらせてくれなかったと言います。
戦前は大神宮(月ヶ岡神社)のお祭りなどでは、神輿はなく、
遠州町のメンバーが見事な芝居を見せて、盛り上げていたそうです。
レジェンドのお話しを聞かせてもらって、
今の時代にのほほんと生きている僕は少し、申し訳ないような気持ちになってしまいました。
日々、仕事も地域活動も盛んにしますが、
間違いなく遊んでいるし、だらけています(笑)。
レジェンドが敗戦後内地に行ってみたら、
どこの誰よりも生活スキルがあって、何でもできて、スーパーマンでモテモテだったと笑顔で語ってくれました(*^_^*)
子供の頃、本当に辛かった仕事ばかりの島暮らしが、
そこですごく報われた、といいます。
僕も先人たち、とまではいかないまでも、
もうちょっと生活スキル習得を頑張ろうと心に誓ったのでした♡