玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

バルガス・ジョサ『水を得た魚』(3)

2016年06月09日 | ラテン・アメリカ文学

 まだペルー大統領選の決着がつかない。開票率は99%を越えているというのに、まれに見る大接戦である。それに郵送投票分や海外投票分の開票が遅れているらしい。リョサもやきもきしているだろう。
 リョサが政治に足を踏み入れるきっかけとなったのは、当時のアラン・ガルシア大統領が行った「国内すべての銀行、保険会社、金融機関を「国有化」する」という演説であった。リョサはこの国有化政策について次のように書いている。

「誰もが軍事独裁政権時代(1968-1980)を思いだし、当時大々的に行われた国有化政策――ベラスコ将軍の体制が始まった時には七つしかなかった国営企業が、その末期には二〇〇近くに膨れ上がった――が、ただでさえ貧しかったペルーを現在の極貧国へ追いやった過程を振り返ってみずにはいられなかった。」

 リョサは、かつてのハイチのようにラテン・アメリカ世界における最貧国に成り下がったペルーのためには、「市場開放」「競争原理の導入」「起業の奨励」が不可欠であると考えていた。アラン・ガルシア大統領の国有化政策は、それに逆行するものであり、リョサは黙っているわけにはいかなかったのである。
 リョサはすぐに「全体主義へ向かうペルー」という文章を新聞紙上に発表するが、その時は大統領の方針が国民に支持されるだろうから、「私が反対したという証拠を残しておく」、その程度にしか考えていなかったという。国民に対して大きな期待は持っていなかったのである。
 しかし、その後の展開はリョサの予想をはるかに超えるものであり、各地で大統領の国有化政策に反対するデモや抗議集会が組織されていった。妻のパトリシアはリョサが政治の世界に足をつっこむことに反対していて、「しまいには大統領に担ぎ上げられるわよ。文学とこの快適な生活を捨てて、ペルーで政治家になるつもりなの? 今に痛い目に遭うだけよ」と言ったという。
 パトリシアの予言はことごとく的中していく。リョサは大統領候補に担ぎ出され、ペルーを変えるために大統領になることを決意し、最後は政治の世界のおぞましい部分を嫌というほど見せつけられた挙げ句に、アルベルト・フジモリとの決選投票に敗れるのである。
『水を得た魚』の主要なテーマは、もちろん大統領選に他ならないのだが、決してリョサの意図は対立候補のアルベルト・フジモリを攻撃することにだけあるのではない。三年間にわたる大統領選挙の過程で露呈してくる政治の暗部をこそリョサは描きたいのである。その意図はエピグラフに掲げられた、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の一節に示されている。

「原始的キリスト教徒ですら正確に理解していたように、世界は悪霊に支配されているのであり、政治に首を突っ込もう、すなわち、権力と暴力を手段として用いようとすれば、悪魔と取引せざるを得ないのだから、政治的活動において、善行が善を生み、悪行が悪を生むなどということはなく、むしろ往々にしてその逆が起こるものだ。そんな理屈もわからないものは、政治的に幼稚すぎると言わねばなるまい。」

 リョサは明らかに、マックス・ウェーバーの「そんな理屈もわからないものは、政治的に幼稚すぎると言わねばなるまい」という言葉に、自己批判を込めているのである。リョサの政治行動は完全に無私の行動であったし、善意の行動であったが、政治の世界では善意が善を生むとは限らないのである。
 リョサは大統領選一時投票で、過半数の票を獲得するに至らなかった段階で、一旦決選投票を辞退する決心を固めている。決選投票になれば、反リョサ陣営が結束してフジモリ支持に周り、敗北することが目に見えていたからである。
 そして、決選投票を降りることを条件に、フジモリに自分の政策を実行してもらうことを約束させれば、ペルーのためになると考えたのである。リョサの目的は自分が大統領になることそれ自体にあったのではなく、自分が訴える政策が実行されてペルーが豊かで自由な国になることなのであった。
 政治の目的が"権力を手にすること"にあるのだとすれば、リョサの目標は政治的なものとは縁遠いものであった。そして、だからこそリョサは敗北したのである。

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