玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

バルガス・ジョサ『水を得た魚』(1)

2016年06月07日 | ラテン・アメリカ文学

 ペルー大統領選挙の決選投票の結果が気になっている。投票前はアルベルト・フジモリ元大統領の娘であるケイコ・フィジモリ候補の優勢が伝えられ、それを危惧したバルガス・リョサが「罪に問われ、収監されている独裁者の娘が当選したら国の破局だ。阻止するために、あらゆる手段をとる」との声明を出したことも伝えられたからだ。
『水を得た魚~マリオ・バルガス・ジョサ自伝』が3月に水声社から出たので、さっそく読んだのだが、最初は"自伝"であるのだから、自身の生い立ちから文学への目覚め、そして作家となりラテン・アメリカ圏の作家達とどのように交流したのか、あるいはキューバのカストロ首相の政策を巡って、どのようにガルシア=マルケスと不仲になったのか……というような内容を期待していた。
 しかし、『水を得た魚』にはリョサの少年時代から、23歳でヨーロッパ留学の夢を実現させ、二度とペルーに帰らないつもりで空港を飛び立つところまでしか書いてない。なぜそんな中途半端な自伝になっているかというと、それにはちゃんとした理由がある。
 だいいち『水を得た魚』の原題には「マリオ・バルガス・ジョサ自伝」などというサブタイトルは付いていない。この本の主要なテーマは1987年にリョサが政治の世界に足をつっこみ、大統領選に担ぎ出され、1990年6月のアルベルト・フジモリとの決選投票で敗北するまでの政治体験なのである。
 リョサの文学的履歴書を期待していた者には肩すかしを食らわせる本なのだが、これまでリョサの大統領選出馬についての詳しい情報を何も知らなかった者にとっては、その実体についての興味深いドキュメンタリーとなっている。
 リョサの作品の解説には、この大統領選出馬についてたいていひと言書いてあるが、"途中で出馬を諦めた"とか"決選投票を降りた"とかいう不正確な情報しかなかったし、そもそも何でリョサが大統領選に出ようとしたのかについて書いてあるものもなかった。だから、この本の邦訳が出るまでリョサの政治活動については、何か文学者にとっての"汚点"のようなイメージが伴って捉えられていたきらいがある。
 私はあるウルグアイ人のミュージシャンとラテン・アメリカ文学について英語で少し話したことがある(私の英語力など惨めなものだから話題に出した程度)。私が「リョサの小説が好きだ」と言うと、そのウルグアイ人が「リョサは逆卍だから、気をつけろ!」と応えたことが気になって仕方がなかった。
 私はリョサの小説にファシスト的要素など微塵も感じたことはないし、それどころかリョサの小説の最も大きな原動力になっているものは彼の自由への渇望に他ならないと思っていた。
 だからそのウルグアイ人の発言は奇異なものであったし、ひょっとしてそれはリョサの政治活動、つまりは1990年の大統領選出馬に関わることなのだろうか、という一抹の不安を感じたことも事実である。
 私の危惧はこの『水を得た魚』を読んで払拭されたように思う。そのウルグアイ人の言っていたこともとうてい納得はできないものの、リョサの政治的スタンスからしてどういう意味を持っているのか理解は出来たと思う。そのようなことをこの『水を得た魚』に即して、少し書いてみたいと思う。
 リョサは大学時代に左翼運動に身を投じている。サルトルのアンガージュマンの思想に影響され、ペルー共産党党員と行動を共にしていたこともあるし、カストロのキューバ革命を礼讃してやまない青年でもあった。
 しかし、文学に身を置こうとする者には、いつか左翼思想への幻滅の瞬間がやってくるものである。日本の場合でも、戦前の左翼運動からの転向と挫折は、いわゆる"戦後文学"に見事に結実しているし、今日70歳代を迎えようとしている団塊の世代が、全共闘運動からの転向と挫折で経験したこともそれと同様の背景を持っている。
 リョサもまた、そのような転向と挫折を経験している。そのことは『水を得た魚』の自伝部分にはほとんど書かれていないが、大統領選部分を読むとおおよその見当が付くように書かれている。
(この項、寺尾隆吉の表記は"ジョサ"であるが、私は"リョサ"と表記したいので、二つの表記が混在する。)

マリオ・バルガス・ジョサ『水を得た魚』(2016、水声社)寺尾隆吉訳

 


バルガス・リョサ『つつましい英雄』(4)

2016年06月06日 | ラテン・アメリカ文学

 前にも書いたが、最新作『つつましい英雄』を読んでも分かるとおり、マリオ・バルガス・リョサはリアリズムの陣営に属する作家である。そのことは自分自身でも認めていて、今読んでいる『水を得た魚』でも次のように書いている。

「小説というジャンルにおいては、どうしても私はいわゆるリアリズムへの執着を捨てることができないが、詩においては、輝かしい非現実的世界が私の好みであり、少々気障な表現や心地よい音楽が伴っていればなおさらいいと感じる。」

 詩はもともとリアリズムなどという概念のない時代に出発しているわけだし、小説こそが文学史上比較的近年になってリアリズムという概念を創造したのであるから、リョサのような小説と詩における趣味の乖離は異とするに足りない。
 しかし、小説におけるリアリズムとは、現実に起きた事実を忠実になぞっていくことを意味しているのではない。そのことをリョサは『嘘から出たまこと』という小説論で繰り返し書いている。
 事実は一つしかないが、「それを描く記号は無限である」。そのうちの一つだけを選んで、他を捨てて書くとすれば、そこに質的変化が起こる。リアリズムでさえ事実そのものを描くのではない。そしてそのような議論はリアリズム作家だけでなく、幻想的作家の場合にも当てはまる。続けてリョサは次のように言う。

「幻想文学の「非現実」は読者にとって、実生活で認識できる経験や現実のシンボルやアレゴリー、つまり間接的表現となっている。重要なのはこの点であり、挿話の「リアリズム性」・「幻想性」がフィクションにおける真偽の境界線を画定するわけではない。」

 このように言うリョサは、リアリズムの側にいながらも、リアリズム小説を至上のものとし、非リアリズム小説を貶めるようなことはしない。現実との関係の取り方が直接的であるか、間接的であるかの違いでしかないのだし、もともと小説はフィクションであって、作り話であるのだから、「リアリズム性」だけが小説の真実を保証するわけではない。
 ということで、2002年の『嘘から出たまこと』(1990年版の増補改訂版)という小説論集でリョサは、36編の作品を取り上げているが、そこにはリアリズム小説だけではなく、幻想小説も含まれているし、ゴシック小説でさえ含まれている。
 リョサは非リアリズム小説を侮蔑するような教条主義的リアリズム作家ではない。20世紀の小説36編の中には、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』さえ入っているのである。
 この小説論を私は大変面白く読んだし、多少の例外を除いてこれまで読んでいなかった作品について、是非読んでみたいと思わされることになった。リョサの使嗾によって初めて読んだ作品で、とりわけ深い印象を残した2冊がある。ブルガリア出身のユダヤ人作家、エリアス・カネッティの『眩暈』と、デンマークの作家、アイザック・ディネーセン(イサク・ディーネセン)の『七つのゴシック物語』がそれである。
 カネッティは1981年のノーベル賞受賞作家である。私は『眩暈』を読んで、およそ吐き気をもよおすようなその狂気じみた世界に衝撃を受けたが、そこに表現されているものが何のアレゴリーであるのか、リョサはきちんと解き明かしている。
 私はそれよりも、このような作品に賞を与えるノーベル文学賞の行き届いた選考に驚いたのである。いかにその作家がマイナーであっても、いかにその作品がグロテスクであっても、問われているのは文学としての質なのだ。広く読まれているかどうかなどノーベル賞の基準ではない。私は村上春樹が受賞できない理由をはっきりと理解したのである。
 ディネーセンの『七つのゴシック物語』は、現在でもゴシック小説が生き続けていて、その価値を喪失してはいないのだということをはっきりと示した作品であった。また現在では女性こそがゴシックの伝統を正統的に引き継いでいるのだ、ということを分からせてくれる作品であった。
 この二人の作家の作品に触れることが出来たことを、リョサに対して深く感謝している。

マリオ・バルガス・リョサ『嘘から出たまこと』(2010、現代企画室)寺尾隆吉訳

(この項おわり)


バルガス・リョサ『つつましい英雄』(3)

2016年06月05日 | ラテン・アメリカ文学

 保険会社のオーナー、イスマエルの物語には同社の支配人、ドン・リゴベルトが絡んでくる。と言うよりもほとんどリゴベルトの物語と言ってもよい。この人物は1988年の『継母礼讃』と、1997年の『官能の夢~ドン・リゴベルトの手帖』(原題は「ドン・リゴベルトの手帖」であって、「官能の夢」などという言葉は出てこない)に出てくる。
 ドン・リゴベルトの一家は再婚の妻ルクレシアとリゴベルトの連れ子、フォンチートと彼の3人で、二つの作品で3人は、理想的な性的関係を樹立していき、それが聖性にまで至るというお話なのだが、この3人がいささか聖性を薄められた状態で再登場する。
 ドン・リゴベルトはその洗練された絵画趣味と、美しい妻への愛にうつつをぬかしているわけにはいかず、イスマエルの結婚とその直後の突然死が引き起こしたトラブルを解決しなければならないからだ。
 このまったく無関係な二つのトラブルは、一方はドン・リゴベルトの努力によって、もう一方はフェリシト・ヤナケと警察署のリトゥーマ軍曹の努力によって解決に向かっていく。このリトゥーマ軍曹というのも『緑の家』にも出てくるし、1993年の『アンデスのリトゥーマ』では主役をつとめる人物なのである。そこにもリョサの思い入れが窺える。
 ヤナケの方のトラブルも結局はマフィアの仕業などではなく、ヤナケの息子とヤナケの愛人が共謀して企んだ事件であることが明かされる。つまりは二つとも家庭内トラブルにすぎないのである。だからこの作品は「つつましい英雄」と言うよりは「つつましい事件」あるいは「つつましいトラブル」とでも言うべきものなのだ。
 しかし単なる家庭内トラブルについて、これほどスリリングに、面白く語るというのは、やはりバルガス・リョサの力量を証明するものと言わざるを得ない。ノーベル賞受賞後、肩の力を抜いて軽めに書いた作品という印象が強いのに、最後まで緊張感を持って読ませる。
 ところで、不気味なエピソードが一つ。ドン・リゴベルトの物語の中に、息子のフォンチートが、エディルバルト・トーレスと名乗る神出鬼没な悪魔のような人物に執拗につきまとわれ(フォンチートは彼に共感を持ってさえいるのだが)、それがフォンチートの嘘であるのか、それとも妄想であるのか、あるいは事実であるのか、リゴベルト夫妻には判断できないため、息子のことを異常に気遣うというエピソードである。
 このエピソードは最後まで繰り返されて、この作品の中で唯一超自然的な現象をほのめかす部分となっている。しかし小説のラストで、一家がすべてのトラブルを解決してヨーロッパ旅行に向かう機中で、フォンチートが「ここにいるよ、パパ、ここの機内に、パパの後ろに坐っている。そう、そう、エディルバルト・トーレスさんだ」と言い、それがまったくの嘘であったことが明かされる時、もう一つのトラブルもまた解決されるのである。
 結局この小説はリョサの作品にとしては珍しく、ハッピーエンドに終わるのであるが、この小説でリョサが言いたかったことは、フェリシト・ヤナケの勇気に対する賞賛に止まるのではない。リトゥーマ軍曹やドン・リゴベルトの、トラブルを何とか穏当に解決しようとする地道な努力への賞賛もそこには含まれていると思われる。
 もう一つ言っておきたいことがある、この作品には若い時のリョサの実験的な手法の名残が見られることである。登場人物二人の会話が次の行で突然、場所も時間も異なった会話に転換するという手法である(共通項はその時の話題)。『ラ・カテドラルでの対話』でリョサが多用した手法であるが、この作品ではより円熟したものとして何の違和感もなく受け止められるものになっている。
 とにかく、ノ-ベル賞作家、バルガス・リョサのストーリーテリングの図抜けたうまさを満喫できる一冊であり、好感の持てる作品である。

マリオ・バルガス・リョサ『継母礼讃』(1990、福武書店)西村英一郎訳
マリオ・バルガス・リョサ『官能の夢~ドン・リゴベルトの手帖』(1999、マガジンハウス)西村英一郎訳

 


バルガス・リョサ『つつましい英雄』(2)

2016年06月04日 | ラテン・アメリカ文学

 この作品は貧しい生い立ちから実直に働いて、今は運送会社の社長として成功しているフェリシト・ヤナケの家の玄関に、青い封筒が鋲で打ち付けられているのが発見される場面から始まる。
 その封筒にはマフィアからのものと思われる脅迫状が入っていて、月々500ドル払えば、社長や家族の安全、事業の継続が保証されるということが書かれている。
 リョサの小説の書き出しはどれも、読者の心をがっしりと掴んでくるが、『つつましい英雄』の書き出しは他の作品に比べても格段によくできていると思う。恐怖を孕んだ慇懃無礼な脅迫状のトーンと、それに加えて不吉な蜘蛛の絵の視覚的イメージが取り憑いて離れないまま、読者はこの小説に引き込まれていく。
 フェリシト・ヤナケはこの脅迫状を警察に持ち込み、新聞紙上に「私は私の身を守るために要求された金をけっしてあなたたちに払わないことを公にあなたたちに通告する。そのようなものを払うよりも私は殺されるほうを選ぶ」という広告を出して、犯人達に敢然と立ち向かうのである。
 この作品のタイトルは、市井に生き無名であっても、巨悪に対して決して屈しないヤナケのような人物が、世の中を支えているのだという作者の認識から来ている。しかし、これからどういう展開が待っているのか、ヤナケはどんなひどい目に遭うのだろうかという、読者のストーリーへの期待に添って物語は進んでいく。
 この小説にはもう一つの物語の軸があって、そちらの方はヤナケの脅迫事件とはまったく無関係に進行していく。二つの物語を対峙させて、交互に語っていくというやり方はリョサが2003年の『楽園への道』以来、繰り返している方法であり、自伝『水を得た魚』もこの手法で書かれている。
『緑の家』では三つの物語が交錯し、それらがほとんどアトランダムに語られているが、きちんと章を分けて交互に語るようにしたのは、やはり読者に対するサービスからなのであろう。これを実験的な挑戦的精神の喪失と言って批判するよりは、素直にその分かりやすさを喜んで受け入れるべきだと思う。
 現実というものは確かに、図式的に生起するものでもないし、その不規則性において理解されるべきものかもしれないが、それを再構成するのが言葉である限り、言葉によってのみ語られる文学は不規則性や不連続性をそのままなぞっていくわけにはいかない。
"語る"ということそれ自体が言語の法則性を逃れることを許されないのであるから、それはどうしても"整序"の行いであらざるを得ない。そうでなければ、言葉が読者に伝わるということは起こり得ないであろう。また現実というものは語られてこその現実なのであるから、はじめから整序の行為の中に回収されているとも言える。
 しかし、その"整序"からの"逸脱"をどのようにして言語によって実現していくかということも、文学にとって重要なことは言うまでもない。『緑の家』の場所と時間のランダムな構成という実験が、そのような逸脱の実践であったとしても、もし『緑の家』の場所と時間を正常なものに直して語り直すことが可能であるならば、それは本当の逸脱とは言えないであろう。
 二つの物語の交互的進行という形式は、あまりにきちんとしていて図式的にすぎるかも知れないが、この互いに無関係な二つの物語が最後に交差する時に、読者は深く納得するであろう。
 ところでもう一つの物語とは、巨万の財産を築いた保険会社のオーナー、イスマエル・カレーラが80歳を超えているにも拘わらず、36歳年下のしかもメイドのアルミダと結婚しようとするものである。それはイスマエルによって、遺産相続人たる二人の息子の逆鱗に触れるだろう行為であることが意識されている。
 ここでも、ハイエナのような二人の息子とイスマエルの間に、どんなトラブルが発生してくるかというサスペンスへの期待が膨らんでくる。二つの大きな危機を孕んだ物語が緊張感を持って進行していくというのがこの作品の特徴なのである。


バルガス・リョサ『つつましい英雄』(1)

2016年06月03日 | ラテン・アメリカ文学

 マリオ・バルガス・リョサはラテン・アメリカの作家の中で最も好きな作家ではないが、最も多くの作品を読んできた作家である。邦訳されている小説は16冊あるが、そのうち『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』を除いた15冊をこれまで読んできた。『誰が……』を読んでいないのはそれが推理小説として宣伝されているので、推理小説嫌いの私には向いていないという先入観があるからだ。
 小説の他に評論等も6冊翻訳されているが、ガルシア=マルケス論を除いた5冊を読んだ(正確には先日出たばかりの『水を得た魚~マリオ・バルガス・ジョサ』を今読んでいるところなので、5冊目を読みつつあるということになる。訳者の寺尾隆吉はジョサと表記するが、リョサが一般的なので私もリョサで通す)。
こんなに多くの作品を読んだ作家は、日本の作家以外にはないかも知れない。なぜだろう? 第一にリョサが多作であって、その作品のほとんどが邦訳されているという理由が挙げられるが、それだけでリョサを読み続けて来たわけではない。もう一つ理由を挙げるとすれば、リョサの一作一作が極めて特徴的で、お互いに似通った作品がないために、読むたびに新鮮な驚きがあるということになろうか。
 またリョサはいわゆる"つかみ"がものすごくうまいので、書き出しからいつも作品世界に没頭させられるということもある。リョサの作品で読むのに苦労したのは『緑の家』ただ一作だけであった。他の作品はかなりのスピードで読了してきた。邦訳で700頁以上もある『世界終末戦争』も4日で読むことが出来た。
 ところで、リョサほどにラテン・アメリカのいわゆるマジック・リアリズムという概念からほど遠い作家は他にいないのではないか。リョサの作品に幻想性はまったくないし、アレホ・カルペンティエールやフアン・ルルフォ、ガルシア=マルケスに見られるようなインディオの呪術的世界に通ずる要素もまったくない。
 1987年の『密林の語り部』はインディオに同化しようとするユダヤ人の青年を描いていて、設定としてはマジック・リアリズム的ではあるが、この作家がいつでも醒めているために、呪術的な世界に没入していく姿勢はほとんど感じられない。リョサとしては例外的な作品である。
 バルガス・リョサはあくまでもリアリズムの陣営にいる作家である。『緑の家』がとてもリアリズム小説とは思えないと言われるかもしれないが、実験的な方法意識を除外してしまえば、リアリズム小説と言ってもいいと思う。ただし、とても古典的なリアリズムの特徴がそこにあるわけではないが……。
『緑の家』では三つの物語が複雑に絡み合っていて、場所と時間がランダムにシャッフルされている。段落ごとどころか文章ごとに、場所と時間が目まぐるしく移動していくので、大変分かりづらい小説ではあっても、そこに幻想的な要素はない。
 リョサがおそらくジャン=ポール・サルトルの小説の影響によるものであろう、このような実験的な方法に拘ったのは1966年の『緑の家』と、1969年の『ラ・カテドラルでの対話』、そして1973年の『パンタレオン大尉と女たち』の三作に限定されるだろう。
 それ以降の作品ではこのような実験的な方法は影を潜める。とくに1981年の『世界終末戦争』は完全に時系列に添って物語は進行していくし、そうでなければブラジルのカヌードスの乱をテーマにした歴史小説など書かれようもなかったのである。
 さて、『つつましい英雄』は2010年の刊で、リョサが2010年にノーベル文学賞を受賞した後で出版された唯一の小説である。最新作であるがさほどの問題作ではない。『世界終末戦争』や『チボの狂宴』のような政治をテーマにした作品でもなければ、『都会と犬ども』や『フリアとシナリオライター』のように、自身の体験をベースにした作品でもない。
 リョサの作品はどれも過剰なほどに刺激的であったり、残酷であったりするが、そうした要素もない。どちらかといえば穏当な作品である。しかし、たいした出来事を扱っているわけでもないのに、大変に面白いのである。

マリオ・バルガス・リョサ『つつましい英雄』(2010、河出書房新社)田村さと子訳