玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

バルガス・リョサ『つつましい英雄』(1)

2016年06月03日 | ラテン・アメリカ文学

 マリオ・バルガス・リョサはラテン・アメリカの作家の中で最も好きな作家ではないが、最も多くの作品を読んできた作家である。邦訳されている小説は16冊あるが、そのうち『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』を除いた15冊をこれまで読んできた。『誰が……』を読んでいないのはそれが推理小説として宣伝されているので、推理小説嫌いの私には向いていないという先入観があるからだ。
 小説の他に評論等も6冊翻訳されているが、ガルシア=マルケス論を除いた5冊を読んだ(正確には先日出たばかりの『水を得た魚~マリオ・バルガス・ジョサ』を今読んでいるところなので、5冊目を読みつつあるということになる。訳者の寺尾隆吉はジョサと表記するが、リョサが一般的なので私もリョサで通す)。
こんなに多くの作品を読んだ作家は、日本の作家以外にはないかも知れない。なぜだろう? 第一にリョサが多作であって、その作品のほとんどが邦訳されているという理由が挙げられるが、それだけでリョサを読み続けて来たわけではない。もう一つ理由を挙げるとすれば、リョサの一作一作が極めて特徴的で、お互いに似通った作品がないために、読むたびに新鮮な驚きがあるということになろうか。
 またリョサはいわゆる"つかみ"がものすごくうまいので、書き出しからいつも作品世界に没頭させられるということもある。リョサの作品で読むのに苦労したのは『緑の家』ただ一作だけであった。他の作品はかなりのスピードで読了してきた。邦訳で700頁以上もある『世界終末戦争』も4日で読むことが出来た。
 ところで、リョサほどにラテン・アメリカのいわゆるマジック・リアリズムという概念からほど遠い作家は他にいないのではないか。リョサの作品に幻想性はまったくないし、アレホ・カルペンティエールやフアン・ルルフォ、ガルシア=マルケスに見られるようなインディオの呪術的世界に通ずる要素もまったくない。
 1987年の『密林の語り部』はインディオに同化しようとするユダヤ人の青年を描いていて、設定としてはマジック・リアリズム的ではあるが、この作家がいつでも醒めているために、呪術的な世界に没入していく姿勢はほとんど感じられない。リョサとしては例外的な作品である。
 バルガス・リョサはあくまでもリアリズムの陣営にいる作家である。『緑の家』がとてもリアリズム小説とは思えないと言われるかもしれないが、実験的な方法意識を除外してしまえば、リアリズム小説と言ってもいいと思う。ただし、とても古典的なリアリズムの特徴がそこにあるわけではないが……。
『緑の家』では三つの物語が複雑に絡み合っていて、場所と時間がランダムにシャッフルされている。段落ごとどころか文章ごとに、場所と時間が目まぐるしく移動していくので、大変分かりづらい小説ではあっても、そこに幻想的な要素はない。
 リョサがおそらくジャン=ポール・サルトルの小説の影響によるものであろう、このような実験的な方法に拘ったのは1966年の『緑の家』と、1969年の『ラ・カテドラルでの対話』、そして1973年の『パンタレオン大尉と女たち』の三作に限定されるだろう。
 それ以降の作品ではこのような実験的な方法は影を潜める。とくに1981年の『世界終末戦争』は完全に時系列に添って物語は進行していくし、そうでなければブラジルのカヌードスの乱をテーマにした歴史小説など書かれようもなかったのである。
 さて、『つつましい英雄』は2010年の刊で、リョサが2010年にノーベル文学賞を受賞した後で出版された唯一の小説である。最新作であるがさほどの問題作ではない。『世界終末戦争』や『チボの狂宴』のような政治をテーマにした作品でもなければ、『都会と犬ども』や『フリアとシナリオライター』のように、自身の体験をベースにした作品でもない。
 リョサの作品はどれも過剰なほどに刺激的であったり、残酷であったりするが、そうした要素もない。どちらかといえば穏当な作品である。しかし、たいした出来事を扱っているわけでもないのに、大変に面白いのである。

マリオ・バルガス・リョサ『つつましい英雄』(2010、河出書房新社)田村さと子訳