玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(4)

2016年02月13日 | ゴシック論

 第1部第10章まで進んだ。エミリーはラヴァレの城に帰って、しばらく悲嘆にくれることになるが、その間父親との約束もすっかり忘れているのであった。
 数週間経ってからそれを思い出したエミリーは、その文書を父の部屋のクローゼットの床下に発見し、強い好奇心から父との約束を破ってしまおうとさえ思うのである。このあたりのエミリーの心理の葛藤は非常にうまく描かれていると思う。
 エミリーはその文書に書かれている一節を見てしまうのだが、その内容については明かされない。それを見てもっと読みたいと思うのはひとの心理の常であり、あるいはそれこそ読者の好奇心を最もそそる部分なのである。
 しかし、ラドクリフはここでも引き延ばしの戦術を採る。父の命令に最終的には従順なエミリーは、その文書を暖炉の火に投じてしまうのである。その場面は次のように書かれている。

Her eyes watched them as they slowly consumed: she shuddered at the recollection of the sentence she had just seen, and at the certainty that the only opportunity of explaining it was then passing away for ever.

 その文書がそれ自身を説明する機会は永遠に失われてしまったのである。しかし、本当にそうだろうか? この文書の解明なくして『ユドルフォの謎』の解明はあり得ないはずであり、いずれこの文書の写しが見つかるかなにかして、謎は必ず解明されなければならない。
 そうでなければ、この謎の文書の登場はまったく意味をなさないものになってしまうからである。ラドクリフがまったく無駄にこの文書を登場させるわけがない。そして、そのことを読者もまた理解しているのであり、読者はその引き延ばしに同意するのである。ある大きな期待感をもって……。
 まだ謎の一端でさえ解明されるには早すぎるのである。まだ『ユドルフォの謎』の5分の1に辿り着いたにすぎないので、まだこれからも謎の積み重ねは続いていくことだろう。
 ところで、悲嘆にくれるエミリーの前に、突然のようにヴァランクールが出現する。どうやらヴァランクールはエミリーに会いたい一心で、ラヴァレの周辺を彷徨い、城の敷地の中にまで忍び込んで、エミリーと出会うことに期待していたらしい。
 ヴァランクールはエミリーの父親から絶大な信頼を得ている。だからヴァランクールはそれも赦される行為として、あえてそんなことをするのだが、彼はエミリーと遭遇するまでサントベールの死を知らないのである。
 それを知らされたヴァランクールは深く悲しみ、エミリーを慰めようとするが、ヴァランクールはすでにエミリーに夢中になっているのである。そして、二人の間に愛にまつわる会話が続くことになる。
 しかし、この"愛にまつわる会話"があまりにも分かりづらい。ヴァランクールもエミリーも途方もなく回りくどい表現でお互いの気持ちを表そうとするので、読んでいる方はたまらない。理解できないのである。
 そこにはエミリーの宗教への帰依による慎みと、ヴァランクールの紳士としての矜持があるのであり、当時のイギリスの道徳律がそこに投影されていることはよく分かる。だから当時の読者にとっては、さほど分かりにくいといったことはなかったのかもしれない。
 しかし、エミリーが叔母のシェロン夫人の方針で、夫人の領地であるトゥールーズに送られることを知ったヴァランクールは、直截的にエミリーに求愛することになる。
『ユドルフォの謎』はこうして、エミリーとヴァランクールの恋の物語を主軸として展開されていくことになるという予感を抱かせて、第1部第10章を終わるのである。