玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『この日曜日』(3)

2015年10月23日 | ゴシック論

 この項の初回に私は「この小説には『別荘』を予感させる部分がたくさんある」と書いた。崩壊に曝されていく屋敷の姿を最後に置いているところは、グラミネア(寺尾隆吉によれば、植物の種名ではなく。穂をつける植物の総称だという)の放つ綿毛に浸食されていく別荘の姿をラストシーンとしている『別荘』と共通するところである。
 綿毛の侵入によって別荘だけでなく、『別荘』の舞台となったマルランダ全体も滅びてしまうことを予感させる『別荘』の終結部は、『この日曜日』のラストのより規模を大きくした再現として読むことも出来る。
 それよりもなによりも、人数は少ないとはいえ「おばあさんの家」に日曜日毎に集まってくるのは、アルバロとチェパの孫達(なぜか娘と娘婿のことはほとんど話題にならない)のいとこ同士なのであり、『別荘』で大人達に置き去りにされるのも33人のいとこ達なのである。
『別荘』ではその33人のいとこ達のあるグループによって「侯爵夫人は五時に外出した」ごっこなるものが行われていて、このゲームが子供達の存在を不可解で不気味なものとしている。そして『この日曜日』でも毎週日曜日に「おばあさんの家」に集まってくる子供達は、「マリオラ・ロンカフォール」ごっこに夢中になるのだ。
 マリオラ・ロンカフォールというのは、子供達が始めた空想ごっこの中から生まれてきた想像上の女性で、それを演じるのは「ぼく」のいとこのマルタである。
「マルタは知りもしないフランス語をしゃべり、まぼろしに恋をし、それを追って、ヨットや飛行機でアフリカにトラ狩りに行き、パリまで踊りに出掛け、みんなに賛えられ、偉大な画家によって肖像画に描かれ、高慢で、とほうもなく華やかであった」
 マリオラ・ロンカフォールの人物像は、明らかにヨーロッパかぶれのチリのブルジョア女性を皮肉ったもので、子供達をこんなゲームに熱中させることで、ドノソはこのゲームを子供達による大人達への批判の道具としているのである。
 それは『別荘』における「侯爵夫人は五時に外出した」ごっこでも同じような意味を持っていたと思うのだが、近日中に『別荘』を再読して確認しておきたい(この言葉がポール・ヴァレリーによる、報告書的な小説の書き出しに対する批判であることはまた別の問題である)。
 こうした不気味な子供達の存在は明らかに、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』におけるマイルズとフローラの兄妹の存在に影響されていると、私は断じてもよい。『ねじの回転』の二人の兄妹は、読み方によっては屋敷に棲みついた幽霊に荷担し、女家庭教師を翻弄する主体であるのだから。マイルズとフローラは大人達に向けられた批判の刃としての性格を持っているのだ。
 そして子供達と大人達の決定的な対立は、『この日曜日』にあっては、スラム街におけるチェパと子供達の闘いにおいて描かれるのだし、『別荘』にあっては全編がそれをこそテーマにしていると読むことが、常識をはずれたことではないのである。
 だから、ドノソほど子供達を不気味で大人びた存在として描いた作家はいないのだし、ドノソにとって子供というものが何を意味しているかということは、ドノソの作品世界を知る上でもっとも重要なテーマではないかと私は思っている。