玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(1)

2015年10月04日 | ゴシック論

 ホセ・ドノソの新刊が出たので、早速買って読んだ。水声社から出ている「フィクションのエル・ドラード」の一冊で、1980年に出版された『ロリア侯爵夫人の失踪』である。
 これでドノソの作品は『境界なき土地』(1966)、『夜のみだらな鳥』(1970)、『三つのブルジョア物語』(1977)、『別荘』(1978)、『隣の庭』(1981)と、主要な小説作品の翻訳が揃ってきた。残すは1986年の『絶望』くらいか。
 私がラテンアメリカ文学のもっとも重要な作家と考えているホセ・ドノソの作品は、『夜のみだらな鳥』が1983年に翻訳されて以来、他にはまったく日本に紹介されてこなかった(「この日曜日」という作品が1973年に『筑摩世界文学大系』に入っているが、この時も注目されることはなかったし、今では手に入らない)。他の作家の作品が複数翻訳されていたことを考えると、無理解も甚だしいと思わざるを得ないが、『夜のみだらな鳥』があまりにも難解であったためだったのだろう(『別荘』の方が先に訳されていれば決してそんなことにはならなかっただろう)。
 このところ次々とドノソの作品が紹介されるようになったのは、ラテンアメリカ文学が一時のブームではなく、きちんとした評価のもとに定着してきたことを意味していると思う。それも現代企画室の「ロス・クラシコス」と水声社の「フィクションのエル・ドラード」の二つの叢書、そして国書刊行会の出版活動のお陰である。さらに言えば、このところ超人的な翻訳活動を続ける寺尾隆吉の努力の賜と思う(『ロリア侯爵夫人の失踪』もこの人の訳)。
 ビオイ=カサーレスの項で、ゴシック小説とラテンアメリカ文学との深い関係について一定の見通しを立てたと思うが、ラテンアメリカの作家の中でもっともゴシック的な作家は間違いなくホセ・ドノソである。ホセ・ドノソはアルゼンチンの隣国チリの作家であり、ゴシック小説受容に関してチリがアルゼンチンやウルグアイと同じような事情のもとにあったのかどうか、是非知りたいところである。
 チリもまた、ほぼ完全な白人社会と言われているが、例のCIAの資料を見るとチリの人種構成は、メスチソが95%、その他(インディオや黒人以外の他民族)が5%となっている。純粋な白人はおらず、白人とインディオの混血がほとんどを占めていることになっているが、このメスチソというのが分からない。
 CIAの資料によると、メスチソは白人とインディオとの人種的混血を意味するのみならず、人種上のインディオでも、もともとの言語ではなくスペイン語を話すようになった者も意味しているという。つまりは準白人ということか。ならばチリは準白人社会ということになるだろう。
 ホセ・ドノソにも、マルケスやリョサのような土俗的で呪術的な素質はない。『夜のみだらな鳥』を読めば分かるように、そこには極端なほどの精神的ゴシック性があって、それはやはりヨーロッパ的な精神性に直結しているのである。
『別荘』は『夜のみだらな鳥』とはまるで違った味わいの傑作であるが、そのゴシック性において共通しているし、どちらも南米的な土着性を感じさせることはない。いずれこの二大傑作に挑戦しなければならないし、それこそが私の最終目標なのであるが、今は『ロリア侯爵夫人の失踪』について書かなければならない。
 とにかくドノソの『夜のみだらな鳥』と『別荘』は、あまりにも巨大な金字塔であって、うかつに近づくことが出来ない作品である。ドノソについてはこれまで、『三つのブルジョア物語』の中の「夜のガスパール」に触れたのみであるが、このような周辺作品から近づいていくしかない。

ホセ・ドノソ『ロリア公爵夫人の失踪』(2015,水声社「フィクションのエル・ドラード」)寺尾隆吉訳

 


アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(8)

2015年10月04日 | ゴシック論

『モレルの発明』と『脱獄計画』の違いのひとつとして、語りの構造の違いを挙げておかなければならない。『モレルの発明』も『脱獄計画』も、章立てのない日記形式で書かれていて、そこは共通している。
 しかし、『モレルの発明』が主人公の一人称で日記が綴られているのに対して、『脱獄計画』では主人公ヌヴェールの叔父である「わたし」が、ヌヴェールからの手紙の文章を引用しながら、物語を三人称的に語るという違いがある。
 もちろん『脱獄計画』の方が語りの構造が複雑になっているのであり、ほぼ三人称に近い語りの構造になっていると言ってもよい。だから『モレルの発明』では、不可解な現象に対して主人公がストレートに反応するのに対して、『脱獄計画』でヌヴェールの叔父はヌヴェールの視点を借りながらも、彼に対して第三者的な態度を取り、不可解な現象に対しても冷静に対応することになる。
『脱獄計画』にも『モレルの発明』のように、女性に対する主人公の愛が描かれているが、ヌヴェールの許嫁に対するストレートな愛情表現は、叔父によって冷笑的に受け止められる。『モレルの発明』で主人公がフォスティーヌに対する愛を貫くのとは大きな違いである。
 訳者の清水徹は『モレルの発明』における愛のテーマを過大視しているが、『脱獄計画』を見れば、それがそれほど大きな比重を占めているのではないことは一目瞭然である。どちらも仮想現実とそれに対する主人公の対応が主要なテーマなのであって、愛のテーマが中心にあるわけではない。
 ところで話は戻るが、『脱獄計画』がヨーロッパの文学と太い靱帯で結ばれていることを我々は見てきた。ラテンアメリカ文学というと、ガルシア・マルケスやバルガス・リョサの作品におけるように、複雑に入り組んだ人種構成を背景に、土俗的あるいは呪術的なテーマを前面に出した文学(二人の作家のすべての作品がそうだというのではないが)を思い浮かべるが、ビオイ=カサーレスの場合は事情が違っている。
 CIAによる2009年の資料を見ると、アルゼンチンの人種構成は白人が97%、メスチソが3%、ウルグアイのそれは白人が88%、メスチソが8%、黒人が4%となっている(メスチソとは白人とインディオの混血のこと)。
 つまり、アルゼンチンとウルグアイは、ほとんど白人だけの国なのである。それは他のラテンアメリカ諸国の人種構成とまったく違っている。他と違ってアルゼンチンとウルグアイはもともと人口密度の低い地域で、インディオの人口が少なかったことが歴史的背景となっているようだ。 
 しかも両国の白人はスペイン人だけでなく、19世紀半ばからイタリアなどからの白人の移民を大量に受け入れたために、一層白人の比率が高くなる結果を生んだ。モンテビデオで少年時代を過ごしたフランス人イジドール・デュカスなどもその一人であった。
 だからラプラタ河流域地域は、ほとんどヨーロッパからやってきた白人が居住する地域なのであり、そのためにヨーロッパの文学の流入が最も早かったのだと考えられる。そしてもちろん、ゴシック小説の流入も最も早く、それがいわゆるラプラタ河流域幻想文学というものを生んだ背景にあるのだ。
 だからボルヘスを筆頭とするこの地域の作家について考える時に、こうした背景を忘れることは出来ない。アルゼンチンとウルグアイは、ヨーロッパとほとんど地続きの国であったと言ってもいいだろう。
(この項おわり)