玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ブラウリオ・アレナス『パースの城』(2)

2015年10月15日 | ゴシック論

 この小説が、すべてはダゴベルトの夢の中の出来事であることを、いたるところで仄めかしていることは、ゴシック小説の流れの中で考えた時に、やはり現代的だなと思わせる部分ではある。
 ゴシック小説はもともと、物語の信憑性を保証するために、古い記録が奇跡的に残されていて、そこに書かれていることだという主張や、信用のおける友人が話したことだというような主張を前提としている。『パースの城』もまた、夢から覚めたダゴベルトが語っているという前提に基づいている。
 しかし、すべてが夢だということが最初から明らかになっているということは、その物語が真実ではないということを示しているのであって、ゴシック小説の伝統に抵触するやり方だと言うことも出来る。
「このお話は作り事ではない」と言明することは、読者に対する詐欺行為であるが、それを承知で読者が虚構の物語を読んでいくという暗黙の了解が失われた現代にあって、「このお話は夢の中の出来事だ」と最初から言っておくことは、ある意味でフェアな行為であるとは言える。
 しかし、そこにリアリティーが存在しないならば、その小説は夢の物語としても失敗作だと言わなければならない。『パースの城』にはゴシック小説特有のご都合主義的ストーリーが溢れているが、そのことだけを言い立てたいのではない。
 少なくともルイス・キャロルの作品には、夢の物語としての圧倒的な衝迫力があって、読者はだからこそ『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』に感銘を受けるのであるし、古典としての価値が揺るぎないものとなるのである。
 フランツ・カフカの作品にしても、それがいかにあり得ない話であろうとも、そこに夢の持つ衝迫力があるということ、そのことが彼の作品をいつまでも読む価値あるものとしているということを言わなければならない。
"小説的リアリティー"ということを私は言いたいのだが、それは決して現実を描いたリアリズム小説であることを前提としない。リアリズム小説が小説的リアリティーを欠いていることだってあり得る。夢の物語であろうが、幻想小説であろうが、そこに小説的リアリティーがなければ、その作品を評価することは出来ない。
 だから私はブラウリオ・アレナスの『パースの城』をまったく評価することが出来ない。夢の話であろうが作り事であろうがかまわないのだが、そこに小説的リアリティーがまったく欠けているからである。
 たとえば我々はホセ・ドノソの『別荘』を思い出すことが出来る。『別荘』では、ところどころに作者が顔を出して、この小説がまったくの虚構であることを明言する。しかしそんなことにはお構いなしに、読者は『別荘』という虚構の世界に引きずり込まれていく。
『別荘』は『パースの城』以上にあり得ない話に満ちている。親たちがたった一日ピクニックに出掛けた間に、残された子供達の世界ではまるまる一年が経過しているというところ、あるいは10歳にもならない少年が、いきなり哲学的な弁舌を振るうところ等々、いくらでも挙げることが出来る。
 しかし、それでも『別荘』は大傑作である。そこに"小説的リアリティー"が思い切り充填されているからである。作者が虚構を明言しているのは、言い訳でもなければ逃げでもない。それは読者への挑戦でさえあるのだ。
 同じチリの作家でほぼ同年代の作家とはいえ、アレナスはドノソと比較できるような作家ではない。
(この項おわり)