玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(8)

2015年08月20日 | ゴシック論

 世界が言葉でできているとすれば、《神》もまた言葉でできているのである。だから言葉の宇宙の崩壊に際して、宇宙の崩壊よりも先に《神》は死ぬのでなければならない。「遠近法・補遺」では《神》が先に死に、次に《天使》が死ぬ。
「雲に棲む一族のうち、真先に墜落したのは最も体重のある《神》自身であり、次いで他の一族も墜ちた。《天使》と呼ばれる生物はその翼のためにわずかな猶予を得たが、それでも当惑げに思案した後、じきに墜ちた。落下物のすべては高熱のガスである太陽が呑みつくし、後には雷鳴も閃光も、小爆発さえも残ることはなかった」
 山尾作品にはよく神や天使が出てくるが、山尾がそんなものを信じているわけではないし、そこには宗教的な意味すらない。図体の大きい獣と翼のある鳥のように、《神》が先に墜ち、《天使》がその次に墜ちるのである。ここでも神や天使は言葉に過ぎないのであり、《神》にまつわる言葉の重力がいささか大きすぎたということなのである。
「遠近法・補遺」は次の一文で終わるのだが、そこには山尾の言葉と神についての考え方がよく示されている。
「従って、《蝕》の瞬間の太陽と月を呑むべく終末の蛇が墜ちてきた時、《神》はすでに死んでおり、この宇宙のどの空域にも存在してはいなかった」
《神》は宇宙の崩壊以降に存在していてはならないし、言葉の終焉以降に存在していてもいけない。なぜなら神が言葉を造ったのでもないし、神が世界を造ったのでもないからである。逆に言葉が神を造ったのであり、言葉が世界を造ったというのが真理だからである。
 我々には自明の原理を、ではヴァルター・ベンヤミンはどう考えていたのだろう。「言語一般および人間の言語について」の後半は、旧約聖書の「創世記」についての考察に費やされていて、ベンヤミンはそこで「創世記」の記述を通して、言語というものの本質に迫ろうとしている。
 ベンヤミンは神に至上権を置き、"神の言葉"を至高のものとはするのだが、言葉に対する権利を人間自身に与えている。次のような一節において……。
「神は人間を言葉から造らず、神は人間を名づけなかった。神は人間を言語に従属させようとはせず、創造の媒質として彼に仕えてきた言語を、自身のうちから人間の中に解き放ったのだ」
「創世記」はもともと、旧態依然とした言語観の根拠とされてきたのだが、ベンヤミンはそこに人間中心主義的な言語観を読み取るのである(ここで人間中心的ということの意味は、言語中心的ということと同じことを意味している)。そのような画期的な言語理論をベンヤンミンは創造することができた。
山尾悠子はベンヤミンとは違って「創世記」などを参照することはしないだろう。《腸詰宇宙》の崩壊の物語はむしろ「黙示録」そのものであって、山尾は始源よりも終末をテーマとするだろう。 
 山尾はデジデリオの絵画の黙示録的世界を、言葉の黙示録的な世界に移行させることを試みているのである。神なき時代の黙示録的世界を。


 


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