『耶路庭国異聞』のラストは眩暈がするほどに美しいが、もっと美しいイメージに溢れた場面がある。虚空に黄金の鍵を投げ上げ、天蓋に穴を穿ったあとに皇女が死を迎える場面である。耶路庭国に蔓延していく疫病の端緒となる皇女の死は次のように描かれる。
「やがて我に帰った侍臣の群が部屋に駆け込んで露台の人影を助け起こした時、高熱を発したその両の眼の眼底が白濁し全身に夥しい薔薇疹が顕れているのを彼らは見た」
皇女の死の過程はこれだけでは終わらない。さらに……。
「侍臣たちの腕に亡骸の重みが加わり、それと同時に薔薇疹に覆われた躰は豊かな白光に巻かれて色を変え始めた。眩さに耐えられず後ずさった侍臣たちの前で、溢れだす光に浸された亡骸の皮膚からは見るみる薄紅の瘡が消えていき、いよいよ眩しく透明に透きとおっていった。すべての変化が終わった時、そこには全身ことごとく無色の玻璃に変じた一体の躰が残っていた」
まるでシュルレアリスム絵画の世界のような幻想美が達成されている。これほどに美しい死の過程を言葉で描いた作家が、日本にいただろうか。しかもその死は疫病によるものであり、疹や瘡などのやまいだれのついた漢字に彩られている。
前に絵画と言葉だけが現実にはあり得ないものを現前させることが出来るということを言った。ここでも山尾悠子が繰り出す言葉のイメージは極めて絵画的である。眼底が白濁し、全身に薔薇疹が顕れ、疹が瘡へと変わり、やがてその瘡も消え、全身が水晶のように透明になって死に至るというようなイメージを描くことが出来るのは、言葉の他には絵画しかあり得ない。
このような山尾悠子の美質は、彼女の実質的な処女作「夢の棲む街」でも遺憾なく発揮されている。この十の章で構成された連作短編とも言える作品は、それぞれの章ごとに息を呑むほどに美しい場面が置かれている。
「1〈夢喰い虫〉のバクが登場する」では、広場にある劇場を中心とした漏斗状の街が、デジデリオの描く廃墟の街のように美しく描写されている。「2〈薔薇色の脚〉の逃走と帰還及びその変身」には、下半身だけが発達し上半身が萎縮した畸型の踊り子たちが登場する。このグロテスクなイメージを持つ畸型たちも、言葉の魔術によって美しいものへと姿を変える。
「4屋根裏部屋の天使の群に異変が起きること」では、単性生殖で増殖する白い翼の生えた天使たちが、増えすぎたために自己中毒で死んでいくという途方もないエピソードが語られる。「7〈禁断の部屋〉の女」は、顔を弾丸で撃ち抜かれた女が時間の流れの止まった部屋で、10年かけて45度の角度まで倒れていくといった、これまた途方もない奇想に満ちた章である。
中でもとりわけ美しいのは「8浮遊生物の下降と羽根の沈澱」で描かれる、風のない深夜に降りしきる純白の羽根のイメージである。上方に棲息する透明な浮遊生物に由来するこの羽根は、人を死に至らしめることもあるのだが、言葉のイメージはどこまでも美しい。
「10カタストロフ・崩壊と飛翔」は、いつものようにすべてが崩壊するカタストロフである。デジデリオが無数の荘厳な建築物を描き、最後にそれらを崩壊に導くように、山尾悠子もまた、言語による構築物を崩壊に導く。と言うよりも、崩壊させることを目的に、デジデリオの建築物も山尾の構築物も造られているのである。
絵画にあってそれは否定の身振りであり、山尾の作品にあってそれは否定そのものであるのに違いない。