玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(4)

2015年08月13日 | ゴシック論

 以前に「傳説」を取り上げた時に、漱石の「幻影の楯」の命令形は、時代をこれこれこの頃と想定して欲しいという、ある意味穏当なものに過ぎないのに対して、山尾の命令形は説話内容そのものを「そう思え」というかなり強引な要請であることを指摘した。
 虚構というものは作者の読者に対するそうした要請を前提としているのであって、ただ普通には「そう思え」などと書かれることはない。書かれなくても読者は作者のそのような要請を読み取り、それに従って読んでいくのである。特に幻想譚にあってはそうした要素は濃厚となる。
 ゴシック小説あるいは恐怖小説では、一昔前まで「これから書くことは、私が実際に見聞したのだから、事実に相違ない」という断り書きを前置きとすることも多くあった。これは読者に真実性を保証するための作者のポーズに過ぎないのだが、読者の方はそれを信じたふりをして読んでいくという作法を求められるのだ。
 しかし、山尾悠子は話の真実性などに頓着はしない。「まずはそう思え」と読者に命令するだけである。ここでデジデリオの絵画を見るならば、その現実にはありそうもない建築群が「そうあると思え」と見るものに命令を発しているようにさえ見えてくるだろう。 
 ところで、現実にはあり得ないものを絵画は描くことが出来る。このことはかなり重要な意味を持っている。音楽もまた聴覚を通して現実にはあり得ない音の連鎖を伝達することが出来るが、現前することは出来ない。音楽は立ち上がりつつ消えていくものであって、現実にあり得ない存在を現前させることは出来ない。
 絵画はそのような不在を現前させることが出来る。その意味でもう一つ、現実にはあり得ないことを表現できる言葉と親和性が極めて高い。言葉は絵画と同じように、あり得ないものを現前させることも出来るし、存在しないものを現前させることも出来る。
 言葉はもともと、いくらでも嘘を吐けるように出来ている。「私は死んでいる」という文章は、論理的には成立しないが、構文としては正しいのであって、そのような例はいくらでも挙げることが出来る。そうでなければ虚構というものはあり得ないものとなるだろう。
 さらに否定形を表現できるのは言葉だけである。「私は人間ではない」というような否定表現を可能にするのは、言葉だけである。絵画はそれを表現できない(そのような例を我々はマグリットのパイプの絵に見ることが出来る。マグリットは絵だけでは否定表現が出来ないため、「これはパイプではない」と言葉で書かなければならない)。
「私は人間ではない」という文章は、同時に現実にはあり得ないことを言っているのでもあり、言葉はこのように否定性と虚構性の根拠を形成しているのに他ならない。このことにはまた後ほど触れることにする。
 山尾悠子は言葉に対して極めて自覚的な作家である。初期の作品「夢の棲む街」でも「遠近法」でもそうであった。山尾がどのようにして言語に対する自覚性を獲得していったかと考えると、それはやはり言語と親和性の高い絵画に添って想像力を働かせるという方法に拠っていたためと考えざるを得ない。
 ゴシック小説がピラネージの絵画を模倣したのも、絵画というものが否定性の表現が出来ないということを除いては、極めて言語と親和性が高いものであったからだと私は考えている。