玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(10)

2015年08月22日 | ゴシック論

 

ピラネージ『牢獄』第2版より〈大きな塔、渡り橋、二つのはね橋〉

 モンス・デジデリオは閉鎖空間を描いていないが、閉鎖空間を好んで描いたのはジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720-1778)である。ピラネージはローマの遺跡シリーズの他に、牢獄シリーズを描いているが、これこそがゴシック小説の教典となった作品である。
 現実の牢獄ではない。ある歪んだ想像力によって創造された牢獄のイメージである。下方には拷問に使うさまざまな器具があり、犠牲者の苦悶を欲している。牢獄であるのになぜか渡り廊下やはね橋が上方に展開していて、巨大な塔が上へ上へと伸びていく。それにからみつく螺旋階段もまた上方へ昇っていく。
 この牢獄が何処まで展開していくのか計り知れないが、石造りのアーチや屋根が上方への展開を妨げている。巨大な閉鎖空間なのだ。この犠牲者の希望を打ち砕くかのような閉鎖空間こそは、ゴシック小説の原点である。そこから脱出することの出来ない世界をこそ、初期のゴシック小説の作者は好んで描いたし、ゴシック小説の最大の特徴は、そうした空間の持つ重苦しい閉鎖性であるのに他ならない。
 山尾悠子の『耶路庭国異聞』もまた巨大な閉鎖空間を描く。もうひとつの(三つ目の)閉鎖空間はその名も〈宇宙館〉というのであり、「総ガラスの閉鎖空間」と呼ばれている。この〈宇宙館〉と〈耶路庭国〉との往還の物語がこの作品の主軸をなしている。
 二つの閉鎖空間は、どうやら上下で隣接しているらしい。〈宇宙館〉で唯一生き残った〈私〉はこの世界の終焉を次のように予測するのである。
「――そして光と影の中を前進し続けるうちに、いつか〈私〉は行く手に小さな黄金の輝きを認めることがあるかも知れない。馬を降りてそれを拾いあげた〈私〉は、手の中に一個の黄金の鍵を見出すだろう。と同時に〈私〉は眼の前にある継ぎ目のない半球型の黒硝子の物体に気づくだろう」
 そしてさらに、その半球型の先端近くには、罅割れた小さな穴が空いているのである。耶路庭国の皇女が投げ上げた黄金の鍵と、黄金の鍵が天蓋に空けた穴がそこにあるだろうと〈私〉は予測しているのだ。
 最後の一節は、もし〈私〉がその小さな穴を覗いたらどうなるかという予測によるものだが、眩暈のするようなラストシーンとなっている。
「そこには蟻よりも微細な〈私〉の後ろ姿が、やはり半円球の黒硝子の覗き穴に眼を当てているのが見えるだろう。と同時に〈私〉の背後の彼方からやはりひとつの視線が〈私〉の背を刺し貫くだろう。その時あらゆる空間は〈私〉の視線で満ち、〈私〉は呪縛されたようにその姿勢のまま永劫に動けなくなり、そして無数の〈私〉は無数の空間に視線のこだまを増殖させ続けていくのではあるまいか」
 ここに描かれているのは、ある閉鎖空間をもう一つの閉鎖空間が包み込み、その閉鎖空間をさらにもう一つの閉鎖空間が包み込み、さらに……という連鎖的な包含のイメージに他ならない。
〈私〉がある閉鎖空間の罅割れた穴を覗き込む時に、無数の閉鎖空間が無数のリフレクションを〈私〉において発生させるのである。"視覚のこだま"という言葉を山尾は使っているが、それは単に視覚にのみ関わるものではない。だからリフレクションという諸感覚に共通する言葉を私は使ったが、山尾が"こだま"という言葉を使うのはそれが音声や言葉に関わる反射としての意味を持っているからだろう。
 山尾悠子は、ピラネージの限定された巨大閉鎖空間を、無数の巨大閉鎖空間の重なりへと増殖させる。山尾はしかし、"無限の"とは書かず、"無数の"と書くのである。言葉が無数の語彙と無数のリフレクションを持つことは出来ても、無限のそれを持つことは出来ないからである。
 


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