玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(3)

2018年03月01日 | ゴシック論

 以上のようなアクセルの科白に、我々はプライドを傷つけられた高貴な精神の憤怒の表現を読み取らなければならない。カスパルは俗世間、あるいは卑俗な精神を代表する人物であり、アクセルの科白はそうしたものに対する逆襲の一撃なのに他ならない。
 アクセルとカスパルの価値観はあまりにもかけ離れたものであり、その違いについてアクセルはそれをカスパルに分からせなければならない。あるいは作者リラダンがそれを読者に対して分からせなければならないと言うこともできる。
 決闘を前にしたこのいささか不自然な長広舌はどうしても必要な部分なのであり、この作品の勝負を決する部分でもあるのだ。ここでのアクセルの科白の迫真性があのVivre? les serviteurs feront cela pour nous.という科白の真実を保証することになるのだから。
 ところで本当にアクセルを怒らせたのは、カスパルのアクセルの生き方に対する侮辱だけであるのではなかった。アクセルの本当の怒りは、アクセルの父ドーエルスペール伯爵によって秘匿されたとされる、財宝のことにカスパルが触れたからであった。カスパルはその財宝を見つけて山分けしようと持ちかけたのである。
 その財宝の由来とはどんなものなのか。そのことについていわゆる象徴主義文学についての名著『アクセルの城』*を書いた、エドマンド・ウィルソンがうまく要約してくれているので、その文章を引用したい。

「ナポレオンの軍隊がフランクフルトを脅かしたとき、周辺の人びとは幾マイルも離れたところから金や宝石その他の貴重な品々をフランクフルト国立銀行に預けるために持ってきたが、三億五千ターラーの巨額に達したその財宝は、アクセルの父を長とする護衛隊をつけて、秘密の安全な場所へ輸送されることになった。ところが、悪質な役人たちの一味が陰謀をめぐらし、伯爵を殺害してその財宝を横取りしようとしたうえ、伯爵がフランス軍の手中に陥ったと思わせる工作までした。しかしながら伯爵はこの裏切りに屈する前に、機をみてその財宝を広大な地所のどこかの地下に隠し、妻以外にはだれにもその秘密を口外しなかった。」

 もとよりアクセル・ドーエルスペールにとって金銀財宝などは何物でもない。ことは父親の名誉に関わっている。アクセルの逆鱗に触れたのはカスパルが持ち出したこの話題であったのだ。アクセルにとってこの話題は父親の名誉を守るための絶対の秘密であり、アクセルは〝秘密を守る龍〟としての務めを自分に課しているのである。しかし、カスパルはそれに反論して〝国家〟ということを持ち出す。財宝の所有権は国家にあり、その存在を国に報告しないのは、臣民としての義務違反であり、財宝を見つけて国に差し出すことこそ臣民の務めだと言う。
 しかし、アクセルは微動だにしない。父親を惨殺させたのが国家そのものであったからだ。アクセルの呪詛は国家に対しても向けられている。

「ところで国家は――もしさういふ奴等が国家の代理人であつたとすれば――この行為に対して連帯責任がある。従つて、(さういふ奴等の代表してゐた)国家の「公正」なるものは、死滅したもの、宣誓に違反したもの! 虚妄なもの! 要するに、廃棄されたもの! となつて、我が家の門口に横たわつてゐるのだ。」

 またカスパルは苦し紛れに〝萬民の福利〟ということさえ持ち出す。その財宝があれば「数百萬の無辜なる民衆の福利」に供することができると主張するのである。しかしそれでもアクセルは動じない。アクセルの返す言葉……。

「萬民の福利か! 殊勝な目標だ、それを口実にして、あらゆる時代、あらゆる国家に於て、略奪を好む王侯貴顕は、おのが快楽のためにする苛斂誅求を裁可したものだ。そして今以てこの目標を掲げれば、貧民を、彼らの利益といふ名目で冷酷に丸裸にしながら、むりやり彼等に感謝の表示を要求することが許されるのだ。」

 アクセルがこのようなことを言っているということ、あるいはリラダンがこのようなことをアクセルに言わせているということを、我々は銘記しておかなければならない。リラダンが単に反動として、自ら属する貴族社会を擁護し、古くさい価値観を抱き続けたわけではないことが分かるからである。
〝王侯貴顕〟を〝政治家〟に置き換えれば、アクセルの議論は今日でも立派に通用するものではないか。

*『アクセルの城』というタイトルはもちろん、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』から採っている。その意味するところは「1870年から1930年に至る文学の研究」というサブタイトルを持つ本書の最も重要なテーマに関わっている。つまりいわゆる象徴主義文学は、芸術至上主義的で生きるということに価値を見出さない文学潮流であるというテーマに。
 なお『アクセルの城』の「アクセルとランボー」の章で、エドマンド・ウィルソンはリラダンの『アクセル』の簡にして要を得たあらすじ紹介を行っている。その一部を引用した。

 エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』(2000、ちくま学芸文庫)土岐恒二訳

 

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