玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(2)

2018年01月27日 | 読書ノート

『メイジーの知ったこと』という作品には、これまで読んできたヘンリー・ジェイムズの作品と同質な部分と、異質な部分とが混在している。それはこの作品がメイジーという6歳(小説の出発点での年齢)の子供を主人公としている点に関わる要素が大きいと思う。
 ヘンリー・ジェイムズが子供を登場させるのは、『ねじの回転』とこの『メイジーの知ったこと』の二編だけだと思うし、『ねじの回転』での二人の子供は主人公というわけではない。
 例の〝視点〟ということを考えれば『ねじの回転』は二人の子供、マイルズとフローラの視点から書かれているのではないが、『メイジーの知ったこと』はまさに子供としてのメイジーの視点からのみ書かれているのである。だから『メイジーの知ったこと』はヘンリー・ジェイムズの作品の中でも特別の位置を占めているように思う。
 ヘンリー・ジェイムズの文学は徹底して大人の文学である。爛熟した大人の文学と言ってもよい。そうでなければ登場人物同士のあの腹のさぐり合い、隠蔽と露出の駆け引き、前進と退却、攻撃と防御の繰り返しとしての心理的闘争は存在し得ない。彼の作品には〝無垢〟なものの存在は許されていないと言ってもよい。
 だからヘンリー・ジェイムズは子供を主人公にした作品を書き得ないのだが、たまたま彼は、この作品のプロットの元となるエピソードを与えられ、それを中心に想像力を膨らませているうちに、この作品の骨格ができたのだと、ニューヨーク版の序文で言っている。
 しかしメイジーは本当に無垢なのだろうか。タイトルは「メイジーの知ったこと」である。エデンの園の神話を持ち出すまでもなく、〝知〟は〝無垢〟ともっとも対立する概念であって、メイジーは小説の最初から何かを知り始め、大人たちの確執の中で知らなくてもいいようなことまで知っていく。
 つまり、メイジーは最初からほとんど無垢ではないし、小説の最後ではまったく無垢ではない。だが他の登場人物たちにとってメイジーは無垢な存在、あるいは無垢でなければならない存在であって、彼らはメイジーに仮託した無垢によって自らの生き残りを図るのである。
 メイジーは無垢ではない。彼女の周辺の人物があまりにも汚辱にまみれているからというだけではない。ある意味ではヘンリー・ジェイムズの小説に登場させられたことによって無垢ではないと言い得る。それは『ねじの回転』のマイルズとフローラでも同じことであって、この二人の子供たちもまた語り手の女家庭教師にとっては、悪霊に取り憑かれた恐るべき存在であるのと同様である。
 いや必ずしも同様ではない。二人の子供はヘンリー・ジェイムズの〝知への意志〟を仮託されているわけではないが、『メイジーの知ったこと』にあってメイジーはヘンリー・ジェイムズ自身の〝知への意志〟を全身で受け止めているからである。
 ヘンリー・ジェイムズはニューヨーク版の序文で、この小説をメイジーの視点からのみ書くこと、しかしながら子供の理解力ではわかり得ない部分があるから、それを作家としての視点から補填しながら書くというようなことを言っている。
 こうした姿勢は必ずしも『メイジーの知ったこと』だけに特徴的なことではない。他の作品でも〝視点〟という位置の取り方は、登場人物の視点だけではなく、作家の視点も含まざるを得ないのであって、そんなことは当たり前なことである。
 ただし、この小説がメイジーという6歳の子供の視点で書かれているということは、他の作品との大きな違いを予感させる。ヘンリー・ジェイムズという〝大人の〟作家が、6歳の女の子になりきることなどできるはずがないからである。
 だから『メイジーの知ったこと』には、ひとつの視点ではなく、二つの大きく異なった視点が輻輳して存在するという結果をもたらすであろう。ヘンリー・ジェイムズの意志がある意味で明瞭に露呈してくるはずである。

 

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