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マッカーサーが謝罪したとの誤解を招いた小堀桂一郎氏の手法

2017-08-24 07:18:12 | 「保守」系言説への疑問
承前

 このマッカーサー「日本は自衛戦争」説に関連して、「マッカーサーの告白」なる出所不明の文書がネット上で流布している。

「日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。
日本はなにも悪くありません。自衛戦争をしたのです。」

云々といった内容で、例の1951年5月3日の米国上院の軍事外交合同委員会でのマッカーサーの証言も引用されている。今でも検索すれば多数見つかるはずだ。
 内容的には、引用の証言部分を除き、どう見てもマッカーサー自身が書いたとは思えないものだが、2014年には、宮城県名取市の広報12月号の市長のコラムにこの文書が引用され、市長は2015年3月に市議会でこの件を追及されて、内容が誤りだったと認めて謝罪したという。

 小堀桂一郎氏が行ったように、この証言中の「security」 を「安全保障」と訳し、さらにそれを「つまりは大東亜戦争は自存自衛のための戦いであったという趣旨」だと強弁したとしても、それだけでは「アメリカが悪かったのです。日本はなにも悪くありません」などということにはならないはずなのに、何故こんな偽文書が流布しているのだろうか。前々回の記事でも述べたように、マッカーサーは東京裁判を否定してなどいないのに。
 不審に思っていたのだが、私が8月18日の記事を書くに当たって、この証言を掲載している小堀氏の『東京裁判 幻の弁護側資料』(ちくま学芸文庫、2011)の該当箇所を読み返していたところ、この証言についての小堀氏による解説が、さもマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と認めたかのように書かれていることが一因ではないかと思えたので、その記述を紹介したい。

 小堀氏は、本書第3部第18節のマッカーサー証言の前に付した解説で、証言自体の説明に続けて、さらに次のように述べている(太字は引用者による)。

 
 なお数点書き添えておくと、マッカーサーが昭和二十五年十月十五日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際に、「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をしたという報道も現在では広く知られていることである。このウェーキ会談の内容も、それまでは秘密とされていたものが、この上院の軍事外交合同委員会での公聴会開催を機会に該委員会が公表にふみ切ったものである。この件についての朝日新聞の五月四日の記事によれば、次に引く如き間接的な表現が見出されるだけである。即ち〈戦犯裁判には/警告の効なし/マ元帥確信〉との見出しの下に、〈ワシントン二日発UPI共同〉として、
〈米上院軍事外交合同委員会が二日公表したウェーキ会談の秘密文書の中で注目をひく点は、マ元帥が次の諸点を信じているということである。
一、マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。(後略)〉
 以上の如く、上院委員会でのマッカーサー証言〔引用者註:いわゆる「自衛戦争」証言〕、上院の公表したウェーキ会談の内容の双方について、その中の日本に関する注目すべき言及は、当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていないことがわかる。しかしその二つの言及は、英字新聞の原文を読んだであろう一部日本の知識人の口から、新聞の報道した範囲(当時なお「検閲」をうけていた可能性は考慮すべきであろうが)を越えて次第に世間に広まっていったものの如くである。
 朝日新聞紙上に報じられた限りでのマッカーサー証言の中で、我々にとって最も重要で意味深い言葉はむしろ次の一節かもしれない。それは証言第一日たる五月三日に上院軍事外交合同委員会ラッセル委員長の質問に答えた部分の結びに出てくる所感であって、新聞記事のままに引用すれば、〈一、太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える〉というものである。
 これをニューヨーク・タイムズ所掲の原文に遡って引いておけば以下の通りであり、本書編者の試訳を附しておく。
〔原文省略〕〈私の個人的見解でありますが、我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった点にあります〉
 これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった。天皇をも日本政府をも凌ぐ、日本国内の最高権力者として東京に駐在すること五年八箇月、彼は自分の部下である総司令部民政局中の左翼分子が育成したものともいえる日本の共産主義者達の勢力の急激な伸張を目にした。東京裁判に於いて被告側弁護団が力説した、一九二〇年代、三〇年代に日本に迫っていた赤化謀略の脅威と日本の懸命なる防共努力の事蹟も耳に入った。そして一九五〇年六月二十五日、満を持して南になだれこんだ北朝鮮軍の急進撃と、その背後に控えた中共軍の大兵力の存在に直面した。朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にしたことが結局彼の政治的生命にとっての文字通りの命取りとなったわけだが、そこで彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである。ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい。(p.563-565)


 1951年5月3日のマッカーサー「自衛戦争」発言に加え、マッカーサーが1950年10月15日にトルーマン大統領とウェーキ島で会談した際の発言、そしてやはり1951年5月3日の「米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだ」との発言の3点を引いて、マッカーサーに「東京裁判は誤りだった」という認識があったと説明している。
 これを一読すれば、マッカーサーがそのように認識していたと理解する読者が生じても不思議はない。

 しかし、ある程度注意して読めば、小堀氏のそのような主張には、何の根拠もないことに気づく。
 「security」 を「安全保障」と訳し、「安全保障」を「自存自衛」と言い抜ける以上の曲解、いや詭弁と言ってもいい。

 まず、ウェーキ会談について。
 小堀氏は、マッカーサーは「「東京裁判は誤りだった」という趣旨の告白をした」と述べている。
 しかし、引用している朝日新聞の記事にあるのは、次の記述である。
「北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた」
 小堀氏はこれを「間接的な表現」としているが、間接的も何も、マッカーサーが述べたのが上記のとおりなら、それが全てだろう。
 朝鮮戦争の戦犯に手をつけるべきではない、東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないと当時のマッカーサーが考えたからといって、それで即「東京裁判は誤りだった」と考えていたと言えるものではない。
 ましてや、それ以降マッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と終生考えていたとはなおさら言えない。司令官解任後の上院の軍事外交合同委員会での証言でそんなことは述べていないし、前々回の記事でも述べたとおり、1964年に公刊された『マッカーサー回想記』にもそんな記述はないからである。
 小堀氏は「当時の日本の新聞が甚だ不十分にしか報じていない」ともしているが、自分が勝手に想像した「趣旨」が現れていないからといって、「不十分」と当時の新聞関係者を批判する姿勢は理解に苦しむ。

 そして、もう一点の「最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」との発言について。
 朝鮮戦争で中共軍に大敗を喫したマッカーサーが。このように慨嘆してもそれは何ら不思議ではない。
 しかしその言葉を、
「これは謂はばこの時点でのマッカーサーの信条告白であり且つ懺悔であった」
「彼が到達した深刻な認識が、自分自身を含めての「アメリカ誤てり」の感情であった。彼はそこで自分自身は共産主義の危険性と犯罪性について真に覚醒したのだと自覚する。だが本国合衆国政府の中枢部は未だ眼を醒ましていない、と思う。その焦立たしさが、この〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現となって噴出したものである」
と断じているのは、すべて小堀氏の単なる推測である。何の根拠も示されていない。
 そしてそれがさらに、
「ある意味ではこの告白も亦、紛れもなく「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと見てよい」
と結論づけられるのは、なおのこと理解できない。
 わが国は、何も共産主義の浸透を防止するために大東亜戦争を起こしたのではない。共産主義の総本山であるソ連と中立条約を結び、後顧の憂いを絶った上で、南方の資源確保のために米英に開戦したのだ。
 わが国と同盟を結んでいたドイツも、独ソ不可侵条約を結んだ上でポーランドに侵攻して第2次世界大戦を勃発させ、ソ連と仲良く東欧を分割したのだから、枢軸国とソ連は共犯者である。
 中華民国の指導者蒋介石は反共主義者だった。「先安内後攘外」と称して、日本への抵抗より国内の共産党との戦いを優先させていた。その蒋介石が第2次国共合作を行い抗日優先に転じたのは、盧溝橋事件に端を発した日本との戦いが彼の忍耐の限度を超えたからである。わが国こそが「共産主義者を中国において強大にさせた」主犯であった。

 なお、小堀氏は、マッカーサー解任の理由を単に「朝鮮動乱への対応に関して大統領府と意見を異にした」ためとしているが、これではここでの説明としては不十分であろう。
 小堀氏が挙げている、1950年10月15日のウェーキ島でのトルーマン大統領との会談で、マッカーサーは、中共軍の介入を懸念するトルーマンに対して、それは有り得ないと明言した。マッカーサーの国連軍は北進を続け、中国との国境に接近したが、10月末に中共軍(義勇軍と称した)が参戦し、その大攻勢によって国連軍は南へ押し戻され、12月にソウルは中朝軍に奪還された。1951年3月、国連軍は再度ソウルを奪還したが、マッカーサーはトルーマンによる停戦の模索を無視するばかりか、原爆の使用を含む中国本土への爆撃や台湾の国府軍の投入を主張し、さらには野党共和党と協力して反大統領の動きを示したたため、シビリアン・コントロールに反するとして解任されたのである。
 自らの失敗を糊塗するため、あるいはプライドを守り抜くためならば、共産圏との全面戦争、つまり第3次世界大戦のリスクをも辞さない、大局観を欠いた人物であった。

 また、小堀氏は、「〈過去百年間に犯した最大の政治的過誤〉といういささか過激な表現」と評しているが、マッカーサーはやたらとオーバーな表現が好みだったと見えて、『回想記』にもその種の記述がいくつも出てくるから、特筆すべきことではない。
 有名なところでは、天皇との会見で、全責任を負う者として自分をあなた方の採決にゆだねるためお訪ねしたと言われて、
「私は大きな感動にゆすぶられた。〔中略〕この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」
と述べたこと然り、幣原首相から新憲法の戦争放棄を提案されて、
「私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった」
としていること然りである。

(続く)


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