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憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している

2014-06-22 01:07:47 | 日本国憲法
承前

 そんなふうに思っていたところ、5月25日付朝日新聞朝刊に掲載された、長谷部恭男・早稲田大学教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談「集団的自衛権 そんなに急いでどこへ行く」を読んでいると、こんなやりとりがあった。

 杉田 集団的自衛権の行使容認派がよりどころの一つにしているのが、憲法9条をめぐっては過去にも解釈を変更しているではないかという点です。憲法制定時には個別的自衛権を持っているとは想定していなかったが、自衛隊創設にあたって「放棄していない」と解釈を変えたという。

 長谷部 吉田茂元首相の答弁が引き合いに出されますが、彼が当初言っていたのは日清・日露戦争のように、自衛と称して戦争をするのは許されないということです。「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を否定するのとは、全くレベルの違う話です。


 はて、吉田茂は日清・日露戦争を念頭に自衛戦争を否定したのだったろうか。
 確か大東亜戦争が自存自衛の名目で始められたことを指摘したのではなかったか。

 ちょっと帝国議会会議録検索システムで確認してみた。

 1946年6月26日の衆議院本会議で、原夫次郎議員(進歩党?)が次のように吉田首相に質問している(太字は引用者による。以下全て同じ)。

○原夫次郎君 〔中略〕第三點と致しましては、改正案第三章の所謂戰爭抛棄の問題であります、首相は度々是まで本演壇に於きまして、此の度の改正案の非常に重大なる部分は第一條なり、此の戰爭抛棄の問題であると云ふことを高調せられて居たのでありますが、洵に御尤もな次第と私共も存ずるのであります、此の戰爭抛棄の條文が加入致したと云ふことに付きましては、總理大臣の説明を附加せられた所を見ましても、又我々が此の改正案を通讀致した場合に於きましても、是は眞に草案を作成せられたる内閣に於て、考へられなかつた問題であると思ふのであります、極めて我が國の前途に取りまして、非常なる關心事であります、此の戰爭抛棄なるものは結局世界平和に寄與せんが爲めであると、一言にして申せば盡きるやうでありますが、一面から獨立國家の體面と致して、我が國が進んで戰爭の指導者となるとか、戰爭を勃發する計畫をなすとか云ふことは、此の度の苦い經驗に依つて誰一人考へる者はないのでありまするが、唯恐るべきは、我が國を不意に、或は計畫的に侵略せんとするもの達、或は占領せんとするものが出て來た場合に、我國の自衞權と云ふものまでも抛棄しなければならぬのか、此の自衞權を確立すると云ふことの爲には、此の附き物は當然其の用意をして置かなければならぬ、是は即ち陸、海、空軍とか、或は其の他の武力の準備であります、此の準備なくしては自衞權を全うすることは出來ないと云ふ所が、非常なる「ヂレンマ」に掛つて居る問題でありますが、併しながらそこに非常なる苦心を拂はれた跡があると想像致します、是は若しさう云ふ不意な襲來とか、侵略とか云ふやうなことが勃發致した場合に於て、我が國は一體如何に處置すべきか、此の問題に付ては政府當局に於ても當然考へられた問題だと思ふのであります、色々國際情勢などから考へ來つて、遂に此の條文を置かなければならない立場に立到つたと云ふことは、深く想像に餘りある所でありますが、何としても斯う云ふ自衞權までも武力防衞が出來ないと云ふことになりましたならば、どうしても他國に對する依存に依つて之を防衞しなければならぬ、斯う云ふことに結論付けられると思ふのであります、然らば先づ斯かる條文を置かるる場合に於て、他國とさう云ふ場合の何か條約でも、或は取交はしでもあるのかどうか、是も當然想像しなければならぬと思ふのであります、殊に私は此の問題に牽關して御伺ひ致したいのは、彼の第一次歐洲大戰の跡始末に於きましては、國際聯盟なるものが出來まして、殆ど世界に戰爭再發なんと云ふことは考へない位に發展させて居たのでありますが、然る所此の聯盟は遂に失敗に終りまして、今次の大戰爭を再發するに至つたのであります、其の關係上今日の此の戰爭終熄後に於ける聯合國の態度に付きましては、外電の伝ふる所に依りますと、從來の經過に鑑みて此の度は其の轍を履まないで、聯合國が指導者の立場に立つて、或は世界聯合國家までも創設しなければならぬと云ふやうな、色々話合ひもあると云ふことでありまするが、若しさう云ふ機關が出來まするならば、一體全世界の上の國家に對して、其の國家の上に更に一つの大きな嚴然たる國家權力が行はれると云ふやうなことになれば、それこそ永遠の平和を保つことが出來、又日本が戰爭を抛棄することの爲に、それ程心配はしなくても宜いぢやないかと云ふやうな考へも起るのであります、そこで私は吉田前外相、此の吉田總理大臣は其の立場に於て、是等の點に付ては非常に造詣の深い方でありまするから、一つ此の點に於きまして十分なる御説明を願ひたいと存ずるのであります、以上を以て吉田總理大臣に對する質問條項を終ります


 そして吉田首相はこう答弁している。

次に自衞權に付ての御尋ねであります、戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります、從來近年の戰爭は多く自衞權の名に於て戰はれたのであります、滿洲事變然り、大東亜戰爭亦然りであります、今日我が國に對する疑惑は、日本は好戰國である、何時再軍備をなして復讐戰をして世界の平和を脅かさないとも分らないと云ふことが、日本に對する大なる疑惑であり、又誤解であります、先づ此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思ふのであります、又此の疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根底のない疑惑とも言はれない節が、既往の歴史を考へて見ますると、多々あるのであります、故に我が國に於ては如何なる名義を以てしても交戰權は先づ第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好國の先頭に立つて、世界の平和確立に貢獻する決意を先づ此の憲法に於て表明したいと思ふのであります(拍手)之に依つて我が國に對する正當なる諒解を進むべきものであると考へるのであります、平和國際團體が確立せられたる場合に、若し侵略戰爭を始むる者、侵略の意思を以て日本を侵す者があれば、是は平和に對する冒犯者であります、全世界の敵であると言ふべきであります、世界の平和愛好國は相倚り相携へて此の冒犯者、此の敵を克服すべきものであるのであります(拍手)ここに平和に對する國際的義務が平和愛好國若しくは國際團體の間に自然生ずるものと考へます(拍手)


 やはり日清・日露ではなく満洲事変、大東亜戦争であった。
 それともほかに、吉田が日清・日露を挙げた例があるのだろうか。 

 またここで吉田は「直接には自衞權を否定はして居りませぬが……自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄した」と述べている。杉田教授が言うように「憲法制定時には個別的自衛権を持っているとは想定していなかった」のではない。個別的自衛権を持ってはいるが、行使できないと考えていたと見るべきだろう。この点、誤解して語られることが多いようだ(過去記事「吉田茂が自衛権を放棄した?」参照)。

 それはさておき、では吉田は、長谷部教授が言うように、「「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を否定」するといった「レベル」の話はしていなかったのだろうか。
 ここで吉田が
「我が國に於ては如何なる名義を以てしても交戰權は先づ第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好國の先頭に立つて、世界の平和確立に貢獻する決意を先づ此の憲法に於て表明したいと思ふ」
と答弁しているのは、「急迫不正の侵害」に対しても「実力を行使する」ことは許されないという趣旨ではないのだろうか。

 そもそも吉田は、上で引用した答弁の前日、1946年6月25日に衆議院本会議において憲法改正案の説明をする中で、戦争放棄について次のように述べている。

○國務大臣(吉田茂君) 只今議題となりました帝國憲法改正案に付きまして御説明を申します
 〔中略〕
 次に、改正案は特に一章を設け、戰爭抛棄を規定致して居ります、即ち國の主權の發動たる戰爭と武力に依る威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭解決の手段としては永久に之を抛棄するものとし、進んで陸海空軍其の他の戰力の保持及び國の交戰權をも之を認めざることに致して居るのであります、是は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります、斯かる思ひ切つた條項は、凡そ從來の各國憲法中稀に類例を見るものでございます、斯くして日本國は永久の平和を念願して、其の將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとするものであります、此の高き理想を以て、平和愛好國の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の國の根本法に明示せんとするものであります


 「其の將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとする」
とは、憲法前文の
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
を受けた言葉だろう。
 「委ね」るとは、デジタル大辞泉によると、

1 処置などを人にまかせる。また、すべてをまかせる。「全権を―・ねる」「運命に身を―・ねる」

2 すべてをささげる。「政治に身を―・ねる」


とあるから、わが国の「將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとする」とは、世界諸国民はわが国の将来の安全と生存をおびやかすようなことはしないだろうし、仮に例外的なそんな国があったとしても「平和を愛する世界諸国民」は「公正と信義に」基づいてきっと何とかしてくれるだろうという意味だろう。
 要するに「平和を愛する世界諸国民」にすべてをまかせるという意思表示であって、そこには自国の安全と生存は自らの手で守らなければならないなどという意志は感じられない。

 そして、同月28日の本会議において、共産党の野坂参三議員が、侵略戦争は正当ではないが侵略に対する自衛戦争は正当であるから、戦争一般の放棄ではなく侵略戦争を放棄するとすべきではないかと質問したのに対し、

○國務大臣(吉田茂君) 〔中略〕又戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戰爭は多くは國家防衞權の名に於て行はれたることは顯著なる事實であります、故に正當防衞權を認むることが偶偶戰爭を誘發する所以であると思ふのであります、又交戰權抛棄に關する草案の條項の期する所は、國際平和團體の樹立にあるのであります、國際平和團體の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戰爭を防止しようとするのであります、併しながら正當防衞に依る戰爭が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戰爭を目的とした國があることを前提としなければならぬのであります、故に正當防衞、國家の防衞權に依る戰爭を認むると云ふことは、偶々戰爭を誘發する有害な考へであるのみならず、若し平和團體が、國際團體が樹立された場合に於きましては、正當防衞權を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考へます(拍手)


とした著名な答弁を経て、同年7月4日の衆議院憲法改正案委員会で林平馬議員(進歩党? 国民協同党?)が、

○林(平)委員 總理大臣は御多忙でいらつしやいますから、總理大臣の方から先に御尋ね申上げます
 私は戰爭抛棄に付きまして、總理大臣に御尋ね申上げたいと思ひます、惟ふに平和は神の心であり、又總ての人類の最高の念願であると信じます、然るに此の平和とは全然正反對である所の戰爭をば、有史以來數千年、人類史上から拂拭することが出來ないで、今日に至つた次第であります、人はお互ひ萬物の靈長などと手前味噌を竝べて居るくせに、最も好む平和へは一歩も近付くことが出來ずに、寧ろ次第に遠ざかりつつ、文化とは正反對に戰爭の發達に一路邁進して來たことは、歴史の示す所であります、凡そ個人的にも國際的にも、紛爭を腕力や武力を以て解決しようとすることは、最も低級下劣な行爲でありますから、人類は最早此の邊で大懺悔すべきものと思ひます、若しもそれを悟ることなく、武力を飽くまでも最後の解決手段として培養し、確保して居るときは、其の爲に相手方を脅威せしめるばかりでなく、自分自らも亦常に其の不安を抱かざるを得ないのであります、歴史の教へるやうに、戰爭は戰爭を製造して居るのであります、若しも戰爭を抛棄することが出來ないならば、人類は永久に戰爭の中に、或は戰爭の爲に生存を續けて行かなければならないことに氣付かなければならぬと思ひます、而して戰爭抛棄の唯一絶對の方法は何かと申しますれば、武力を持たないことであると思ひます、けれども此のことたるや極めて至難のことでありまして、何れの國家に於ても、餘所の國から何等かの壓迫要求を受けないで、全く自發的に武裝を解除することは、恐らく不可能と信じます、然るに我が國は敗戰の結果、世界に率先して此の不可能を可能たらしめたことは、人類最高の念願から見るならば、敗戰の成功とも見るべきものと信ずるのであります、而して「アメリカ」を初め聯合國が、我が國をして世界平和に貢獻の出來る態勢を整へるやうにと、常に多大の苦心と努力とを盡されて居ることは、我々の深く感銘する所であります、唯ここに我々の不安とする所は、今日こそは我々は何れの國よりも侵される氣遣ひはありませぬが、併し近き將來に於て平和條約が成立し、聯合國の手から離れた其の刹那に於て、武力なくしては如何なる小さな國家よりも、どのやうな弱小國家よりも受けるであらう國際的脅威をば、如何にして拜除することが出來るかと云ふ點であります、それには平和世界建設を理想とする建前の聯合國を初め、世界の諸民族の信義に信頼する以外には到底ないのであります、實に日本國民の戰爭抛棄の宣言は、國民全體の生存を賭しての態度でありますことを、政府は内外に向つて十分に主張し、宣伝して貰はなければならないと信じます、先日本會議に於て吉田總理大臣は、從來自衞權の名に於て戰爭が惹き起されて來たのであるから、眞の世界平和建設の大理想達成の爲には、其の自衞權をも亦抛棄すべきものであるとの御意思のやうな御答辨があつたのでありまするが、恐らくは此の御答辨は世界の思慮ある人々をして感銘を博したことと信じます、幸ひにも本年四月五日、聯合國日本管理理事會の初の會議に於きまして「マッカーサー」元帥がなさいましたあの演説こそは、此の戰爭抛棄の條文と相呼應して、眞に深き感銘と感謝とを感ずると共に、元帥は極めて力強く、此の崇高なる戰爭抛棄の理想は、一方的では一時的な便法に過ぎないのである、でありまするから此の理想達成の爲には、日本の戰爭抛棄に關する提言を、全世界の人達の思慮深き考察に推擧する云々として、實に力強く世界各民族の良心と叡智に呼掛けられて居ることは、實に偉大なる保證と信ずるものであります、而して日本國民が此の戰爭抛棄の宣言をすることは、所謂曳かれ者の小唄では斷じてありませぬ、又あつてはなりませぬ、此の最大崇高なる使命の中に生きて行きたいのであります、是が我我民族の切なる念願であると信じます、是れ實に日本民族三千年來の大理想であります、最近は其の理想が非常に歪められて、世界の誤解を受けて今日を招いたのでありますが、實は世界平和は我々民族の三千年來の念願であるのであります、でありますから吉田總理大臣は餘生を捧げられ、一身を挺して陛下を先頭に迎へられて、八千萬國民を率ゐて、以て突起ち上つて貰ひたいのであります、それでこそ日本が世界に存在の意義があると思ふ、其のことなくして日本の存在の意義はないとさへ信じます、恐らく斯樣な機會は、日本に取つては實に空前であつて絶後であると思ふ、歴史的に唯一囘限り天より與へられたる「チャンス」であると信じます、諄いやうでありまするが、敗戰の結果拠どころなく平和愛好者に我々が轉向したものではありませぬ、世界隨一の平和愛好民族であることを、世界に向つて宣言し諒解して貰はなければなりませぬ、其の平和愛好者であると云ふ民族の心持を表はす證拠は、幾らでもあらうと思ひます、其の一つを申上げて見るならば、此の猫の額のやうな狹い國土に、八千萬に近い國民が生活をして居るのであります、即ち一平方「キロ」の中に約二百人の人口を持つて居る所の、世界隨一の稠密なる國であります、斯かる國家は世界の何れにもないのであります、是れ即ち假令如何なる苦勞をしようとも、餘所へは行きたくない、此の祖國に生存をして行きたい、祖國を離れずに生活をして行きたいと云ふ、國土愛着の結果に外ならないのであります、汽車で通つて見ましても、到る處山の上までも開拓して、營々辛苦を續けて居る日本の姿を見るならば如何でありますか、侵略移住の民族にあらずと斷定することは、容易であると思ふのであります、侵略移住の民族であるならば、こんな所に營々やつて居る筈はありませぬ、如何に非侵略的民族であるかと云ふことは、此の日本の姿を見ただけで明暸であると思ひます、私は此の日本の眞の國民性を世界に諒解して貰いたいのであります、斯かる平和愛好國民が、殊に世界平和への一本道しか與へられない國民が、ここに憲法を以て戰爭抛棄を世界に宣言せんとするのでありまするから、此の憲法は實に日本の憲法に止まらず、世界の憲法たらしむるの信念を持たなければならぬと信ずるものであります、吉田總理大臣は人類平和の爲に率先挺身、「マッカーサー」元帥の御演説と相呼應して、世界の與論を喚起せしむべく努力すべきものなりと思ひます、又それが即ち陛下の御聖旨に對へる所以でもあり、全國民の熱烈なる希望に副ふ所以でもあり、且つは「ポツダム」宣言の理念に應へる所以でもあると確信致します、果して總理大臣は其の御決心、御覺悟がおありであるかどうか、此の一點を特に御尋ね申上げる次第であります


と質問した(長文ではあるが興味深い内容のため全文引用した)のに対して、吉田はこう答弁している。

○吉田國務大臣 林君の御質問に御答へ致します、此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衞權に依る交戰權の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衞權に依る戰爭、又侵略に依る交戰權、此の二つに分ける區別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります、今日までの戰爭は多くは自衞權の名に依つて戰爭を始められたと云ふことが過去に於ける事實であります、自衞權に依る交戰權、侵略を目的とする交戰權、此の二つに分けることが、多くの場合に於て戰爭を誘起するものであるが故に、斯く分けることが有害なりと申した積りであります、又自衞權に依る戰爭がありとすれば、侵略に依る戰爭、侵略に依る交戰權があると云ふことを前提とするのであつて、我々の考へて居る所は、國際平和國體を樹立することにあるので、國際平和國體が樹立せられた曉に於て、若し侵略を目的とする戰爭を起す國ありとすれば、是は國際平和國體に對する傍觀であり、謀叛であり、反逆であり、國際平和國體に屬する總ての國が此の反逆者に對して矛を向くべきであると云ふことを考へて見れば、交戰權に二種ありと區別することそれ自身が無益である、侵略戰爭を絶無にすることに依つて、自衞權に依る交戰權と云ふものが自然消滅すべきものである、故に交戰權に二種ありとする此の區別自身が無益である、斯う言つた積りであるのであります、又御尋ねの講和條約が出來、日本が獨立を囘復した場合に、日本の獨立なるものを完全な状態に復せしめた場合に於て、武力なくして侵略國に向つて如何に之を日本自ら自己國家を防衞するか、此の御質問は洵に御尤もでありますが、併しながら國際平和國體が樹立せられて、さうして樹立後に於ては、所謂U・N・Oの目的が達せられた場合にはU・N・O加盟國は國際聯合憲章の規定の第四十三條に依りますれば、兵力を提供する義務を持ち、U・N・O 自身が兵力を持つて世界の平和を害する侵略國に對しては、世界を擧げて此の侵略國を壓伏する抑壓すると云ふことになつて居ります、理想だけ申せば、或は是は理想に止まり、或は空文に屬するかも知れませぬが、兎に角國際平和を維持する目的を以て樹立せられたU・N・Oとしては、其の憲法とも云ふべき條章に於て、斯くの如く特別の兵力を持ち、特に其の國體が特殊の兵力を持ち、世界の平和を妨害する者、或は世界の平和を脅かす國に對しては制裁を加へることになつて居ります、此の憲章に依り、又國際聯合に日本が獨立國として加入致しました場合に於ては、一應此の憲章に依つて保護せられるもの、斯う私は解釋して居ります


 占領下の現在はともかく、平和条約を締結して独立した後は、軍備なくしてわが国の平和をどのように維持するのかとの疑問に対しては、国連憲章に規定された集団安全保障が機能する「ことになつて居」ると答弁している。
「或は是は理想に止まり、或は空文に屬するかも知れませぬが」
一應此の憲章に依つて保護せられるもの、斯う私は解釋して居ります」
といった発言からは、果たしてこの集団安全保障が機能するかどうか疑わしいと考えていることがうかがえるが、しかしどう見ても、この時点で吉田首相が、9条について、「「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を」容認していると解釈していたとは考えられない。

 それが、1950年に勃発した朝鮮戦争後に警察予備隊が創設され、さらに翌年これが保安隊に改められた後、1952年11月に吉田政権は憲法の禁ずる「戦力」についての次のような統一見解をまとめたという。

 ここではまず「憲法九条2項は、侵略目的たると自衛の目的たるとを問わず『戦力』の保持を禁止しているとして、自衛のための戦力は合憲とする「自衛戦力合憲論」を否定した。そしてつぎに「戦力」について定義し、「右にいう『戦力』とは、近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいう」とした。「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成」とは、航空機により装備・編成された第1次大戦以降の戦力を指す。つまり「空」を有しなければ「戦力」ではない、との「戦力」概念をうち立て、「『戦力』にいたらざる程度の実力を保持し、これを直接侵略防衛の用に供することは違憲ではない」との憲法解釈を導く。
 そして、現有するものは保安隊(陸)と警備隊(海)のみで「空」は有していないことから、「保安隊および警備隊は戦力ではない。……その本質は警察上の組織である〔中略〕」との結論を出した。(古関彰一『日本国憲法・検証 資料と論点 第5巻 九条と安全保障』小学館文庫、2001、P.145-146)


 しかし、1954年に保安隊を改組してできた自衛隊は「空」を有していた。 

 そこで政府は米国の自衛隊創設要求に憲法解釈の上から難色を示した。〔中略〕
 しかし、朝鮮戦争停戦後の米国の対アジア政策の変化のなかで、米国の要求により自衛隊を設立することになると、その直後の1954年12月に鳩山内閣の大村清一防衛庁長官は、国会でつぎのような、新たな九条解釈を行った。
  
第一に憲法は自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。(以下略)
第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。
 一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは「国際紛争を解決する手段としては」ということである。
 二、他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって自国に対する武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権をもつことを認めている。したがって自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、なんら憲法に違反するものではない。(前掲書、p.147-149)


 そして、自衛隊は自国の専守防衛を目的とするものであり、いわゆる海外派兵は自衛権の限界を超えるものであって許されないとしていた。

 ところが、湾岸戦争後には初めて海外であるペルシャ湾に掃海部隊を派遣し、1992年にはPKO協力法を成立させ、カンボジアを皮切りに世界各地のPKOに自衛隊を派遣するようになった。
 さらに、今世紀に入ると、テロ特措法やイラク特措法により、アフガニスタン戦争の後方支援や、イラクの復興支援にも従事するようになった。

 「憲法9条をめぐっては過去にも解釈を変更している」のは明らかであり、それを「集団的自衛権の行使容認派がよりどころの一つに」するのも当然だろう。

 にもかかわらず、政府は解釈を変えていないかのように装おう杉田、長谷部両教授、そして朝日新聞をどう評したものだろうか。
 彼らは学者や報道機関として信頼に値するのだろうか。

(続く)