徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

鉄道うんちく ⑥ 阪急の小林イズム

2012年02月07日 07時56分59秒 | 鉄道のよもやま話

阪急電鉄は、小林一三の創業であることは、よく知られていますが、彼のやり方は官制に対する反骨精神そのものでした。

それが、今でも阪急の経営基盤となっており、ひいては大阪の文化とも繋がっているものです。

阪急は、1910年(明治43年)、梅田ー宝塚間及び途中からの石橋ー箕面間の支線が開業しました。
当初の社名は「箕面有馬電気軌道」で、軌道とは路面電車のことですが、勿論、実際は路面電車ではありません。
これには色々経緯があるのですが・・・・

  
  明治43年3月10日 開業日の梅田停留所    明治43年頃 神崎川をわたる1型 

小林一三は、慶応を卒業後、三井銀行に入社しましたが、その後、阪鶴(はんかく)鉄道に転職します。
阪鶴鉄道は、現在のJR福知山線です。

当時、阪鶴鉄道は、国有化が決まっており、それに代わるべき鉄道会社をつくろうと計画を立てたのが、梅田ー宝塚、有馬間及び宝塚ー西宮間でした。

普通は、鉄道事業は、大都市間の輸送が常識でした。
ところが、計画を立てたところは、当時は畠や田圃しかない田舎でした。
しかも、大阪ー宝塚間は、阪鶴鉄道が走っており、ここにもう一本通すなどとは、全く常識では考えられないことでした。

乗客がいなければ、その乗客をつくるという発想なのです。
広大な土地を購入し、住宅を建て、郊外がいかに人間的で健康的ということをアピールしました。
第1号は、池田新市街地で、ここは阪急の発祥の地とされ、小林自身もこの地にズーと住んでいました。

他に箕面に加えて、宝塚沿線の豊中、売布神社や清荒神付近、岡本などの神戸沿線、稲野(伊丹線)、甲東園や仁川(今津線)などに土地を買い、線路を引き、線路の延伸と共に乗客を確保してゆきました。

 
  旧阪急百貨店 1階コンコース          1925年(大正14年) 製造  10系

特に、宝塚の開発には力を入れ、行楽施設、文化施設を設け、いわゆる通勤客だけではなく行楽客の流れを呼び込みました。

その上、ターミナルに百貨店を作り、当時既存の高島屋や大丸の客をも取り込み、客の流れを大きく変えて行きました。

これは「官」から「民」への主導権を取り、大阪の文化圏を築いてきました。
未だに、「官」に対する反感が強く、当時の国鉄の「大阪駅」の近くに終点、ターミナルを置きながら、「大阪」という駅名は使いませんでした。
それは、他の大阪の私鉄や地下鉄も、「梅田」に統一し、ここに東京への対抗心をも引き継いでいきました。