↑旧盛岡高等農林学校本館
日本で最初の高等農林学校として明治35年に創立された盛岡高等農林学校。
宮沢賢治は大正4~9年の間、本科生および研究生として在籍した。
この建物は盛岡高等農林学校の本館として大正元年12月に建てられた。
一階は校長室、事務室、会議室。
二階は大講堂として学校諸行事に使われていた。
大正初期の盛岡高等農林学校は、この建物を中心として沢山の講義棟や研究棟などが立ち並んでおり、当時を示す絵図を見ると南都六宗が盛んだった頃の東大寺や法隆寺の伽藍配置さながら。
教育や鍛錬の場とはかくあるものか、と思ったりして。
↑秋の陽射しに映える建物
その後、老朽化に伴い2度の大修復が行われ、良好な保存状態で現在に至る。
国の重要文化財。
近代の建造物は登録有形文化財が多いのに重文とは!
↑門番所
盛岡高等農林学校正門が明治36年に建てられ、その隣に門番所が建てられた。
正門、門番所共に明治期の貴重な建物で国の重文指定。
正面は八角だけど後ろに長く伸びており、門番さんの宿泊スペースになっている。
それにしても、何て可愛らしい建物!
↑宮沢賢治の像
↑本館の前に広がる北水の池
亀が居そうなのだが・・・
ガン見で探したのだが・・・
居なかった(涙)
↑本館を取り囲む松林では、ナマコみたいな松ぼっくりが落ちていた。
宮沢賢治は優秀な学生でありながらも、生真面目と言うよりは気の向くままに動き回りつつ何かを得ていた・・・そんな感じを受けた。
理系の学生らしくて微笑ましい。
しかし、地質土壌学の権威・関教授との出会いから岩手県の酸性土壌改良や冷害対策のための肥料設計の研究に没頭、古里の農業環境を整えるべく2000枚の設計書を書き上げ、その無理がたたってか肺病に倒れ、夢半ばの37歳で逝去。
だけれど、此処の学生たちは賢治がやり残したことを確実に受け継ぎ、現在も研究が続けられている。
このことに深く感動した。
「君は学んでから食すか。それとも食してから学ぶか」
と、師は学生たちに問い、
「作物は豊かな土壌でこそ育つ」
と教えるのだと、館内を案内してくださった方が仰った。
それはまさに、明治35年に国によって創立された当初からの理念であり、その下で学んだ宮沢賢治の想いであったはず。
この言葉を聴いた瞬間
「今でも賢治は此処に生きている」
と確信した。
岩手や宮城は豊かな米どころだと思っていましたが、宮沢賢治の年表を見るとおよそ30年に1度は大津波が押し寄せており、冷害、凶作などの喜ばしくない単語も並び、不意打ちを突かれたような気持ちになりました。
それにしても、広い広い太平洋に面する小さな島ゆえ、海に呑まれる恐怖と背中合わせなんだなぁ・・・としみじみ感じる次第です。
その海底に潜む山々に天皇の名前が付けられているとは!初めて知りました!
しかし、女帝の中に孝謙(称徳)天皇の名が見当たりませんが・・・知名度からして有って良さそうなものですが・・・やはりスキャンダラスな噂のため(!)外されたのでしょうか。
日本の海はどうなっている?
先月22日の海上保安庁のリリース。
「日本提案の海底地形名を国際会議が承認」
国際水路機関とユネスコ政府間海洋学委員会はベニスで開かれた国際会議において、新たに48の海底地形名称を付与した。うち20件は日本提案の名称である。日本人名に因む海山としては、柳・肝付・米村・重松・小倉・鉄幹・漱石など。
柳海山は南鳥島西方340㎞、最大水深5600m・最小水深1100m・比高4500m。つまり、海底に富士山を遥かに超えて聳える海山である。柳海山の由来は、元海軍少将・貴族院議員・初代水路部長柳楢悦(柳宗悦の父)に因む。
海山の名称には、太平洋のど真ん中・日付変更線付近を南北に連なる、アメリカ人が戦後付けた【天皇海山列(海嶺)】というものもありました。夫々の海山は日本の天皇のご尊名を付しています。
アリューシャン半島付近北緯53°東経165°の明治海山から、欽明・天智・斉明・神武・天武・推古・昭和・用明・仁徳・神功・応神・持統・光孝・文武・欽明・鳥羽・雄略・桓武(ミッドウェイ東北東、北緯32°東経173°)海山まで凡そ2000㎞。
故郷の酸性土壌を作物生育に適したものに変えようと・・・
絶えず襲い来る冷害を何とか克服しようと・・・
宮沢賢治が研究を重ね、その意は未だに継がれているのに・・・
放射性物質撒き散らしですよ(涙)
先月9日にアメリカは日本からの輸入規制を更に強めたそうです。
哀しきことに岩手産農作物や乳製品が筆頭になっておりまして、この事実に自分は非常に嘆き哀しんでおります。
賢治が泣いております。
せめて、散々利権を貪って来た東電と福島原発の老朽化を看過した民主党の解体を望みます。
であるカメさまもフィールドワークを大切にする
人ですね。
そして、いつも「その場所」に行くことを大切に
されているなあ、と感じます。
自分の足と感性を使うフィールドワークの達人
だった宮沢賢治は、自然の中の鉱物や土、水、風
木々、太陽、雲などのひとつひとつの要素がファン
タジーの源泉でしたね。
賢治の魂は様々な人々に受け継がれていると思います。