てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.2.18.「        」

2023年02月19日 09時42分58秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月18日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは5名の計15名の方にご参加いただきました。



今回はテーマを決めずに対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・毎年一回ですけれども、テーマを予め決めずに今日何話し合うかということから話し合うという形です。集まった皆さんの中で何か一つのテーマで話し合っていきますけれども、残ったテーマに関しては、この一年間でまた話し合っていくみたいな形で、どっかで使わせていただこうと思ってます。とりあえず今日は何を話すかということで、まずは20分位で今日のテーマを決めていきたいというふうに思います。何かこんなことを話し合いたいとかっていうのがあったらどんどん出していただければというふうに思います。よろしくお願いします。

・先ほど世話人からの説明で、5月からは飲み物を提供するスタイルを再開するかもしれないという朗報がありましたが、それに若干関連するけれども、「カフェを名乗るためには何が必要か?」ということを話したいと思います。

・哲学かどうか分からなかったんですが、今すごい時代の転換にいるのかなという感じがあります。私たちは今どのような時代の転換にいるのかということを皆さんが感じてるのかをお聞きしたいなというふうに思います。。ここ最近すごく変わってるなと思うことをあげてみれば、まさか今の時代にミサイルを勝手に他の国に打ち込むことを始めるといのが、ものすごくびっくりしました。それからSDGSがらみで気候変動の本を読むと、AIは人間を2025年には超えるみたいなこと言ってる人がいて。あとはテクノロジーとか遺伝子の操作で人間があのサイボーグになったり、あるいは生まれてくる子供を選ぶことができたりする時代が来てるということで、従来の人間観が変わってしまうような技術が可能になってるのかなということで。すごい時代が来てるなと思ったので、皆さんの考えを聞くことができればうれしいなあと思いました。

・今日初めて参加させていただきました。あの先ほどのお話と関連するかもしれないんですけれども。最近僕が気になっているのが、「未来に対しての責任とは何があるんだろう」というところがすごくモヤモヤしていて、今日はそれらに関連して話し合えればなと思ってやってきました。

・このテーマが以前にもやったかどうか、分からないんですが「家族とは何か?」というものと、もうひとつ「お金」について、マネーですね。この二つを考えてみたいなと思います。

・世話人からの補足ですが、てつがくカフェはもう十何年やってるので、これまで話してきたテーマがあっても何度でも話してもいいかなと思ってはいます。

・いくつかあるんですけど、今のお金の話もかなり僕も気になるので、「金儲けはいいことなのか」というテーマはちょっと気になりますね。それから一番個人的にも考えているのは、自分もずいぶん年をとってしまった訳で。これはもう事実として、もう還暦だなということでそうなってくると「年をとるということはどういうことなのか」というのはどうしても考えてしまいます。あと、最近では「老害」みたいなことよく言われて、高齢者がまた昨日だったかもドライバー事故を起こしましたよね。で、色々とバッシングがあったりして、まあ実際老害は自分も多分それに含まれてしまっていて。危害を加える側になってくるんだろうと思いつつですね。「老害とはどういうことなんだろう」ということも気になります。あとは「セックスについて」。セックスのタブーとかですね、そういう事が、今僕も本当にずいぶん若い人たちの感覚と離れてしまっているので、若い人たちがどう思っているのかわからないんですけれども、セックス感というのも、時代とともにかなり変化してくるものだと思っています。それでこれを議論したいというのもあるんですけども、若い人たちがいらっしゃれば、若い人たちがセックス観を聞いてみたいなあというふうに思っています。あとは哲学とか倫理学っぽく21世紀のこの時代に「よく生きるということはどういうことなんだろう?」と、さっきの時代の話された方もいらっしゃいましたけれども、やっぱりいろんなことが急速に変りつつある時代で、いろんな意味でこれまでなかった時代を迎えているわけですね。改めてその2000年代の哲学のテーマとして「よく生きるとは何だ?」ということもちょっとありなのかなと。あとは、同じ哲学でも「無限」に関して、私は大変興味があるので、無限とかに関しても話してみたいなと思います。話したいテーマがてんでバラバラですが。

・僕は「宇宙」に非常に興味があります。その物理学的とかそういうのもあるんだけど、誰が所有するかというのが非常に興味があって。今、それらしいルールがあるんだけど、国同士では民間ではほとんどゼロですね。民間が最近こういろいろ飛ばしたりしてると。例えば、「お月さんは誰のもの?」みたいなことに非常に興味があります。それで、アメリカがやり始めるとよその国がまた追随して、そこでここの月はどこどこの土地みたいな、そういうことが言えるものなのかなと。

・過去のテーマにもあったと思いますが、「人生はなんのために生きるか?」ということを一つお願いします。二つ目が「心とは何か?」。そして「幸せとは何か?」。あとはキーワードだけなんですが、「無」とか「無限」とかも興味があるんですけど。「無情」というものにも。あと最後の「希望」と言うことについても話してみたいです。

・「哲学カフェのテーマとして盛り上がるためにはどのような条件が必要か?」というのがとても気になります。

・今日はこれについての話し合いをする感じがしますね。

・哲学カフェにちょこちょこ参加してるんですけど。場所によってはですね、人それぞれですねっていうことが普通に出てくる場合があるんですね。人それぞれでいいんだったら多分哲学は要らないんだと思うんですよね、私は。でも、どうなんだろう?というのがあって。「人それぞれは哲学の答えになるのか?」という問いが最近私の中にありまして。皆さんどうかなということを話し合いたいです。

・「人それぞれは哲学の答えになるのか?」というのは、大体いつも人それぞれ終わってますね、うちもね。これはてつがくカフェの世話人としても、ちょっと考えています。

・「なぜ自衛隊からいじめはなくならないのか?」という具体的かもしれないんですけど、聞いてみたいなと。あとは「日本国憲法について」。他には「私たちはどう生きるか?」という。

・ほんの10分ぐらいでたくさん出てしまいましたね。まだ他に何かありますでしょうか?とりあえず今日は、この中から絞ってなきゃいけないんですけども。まだあるようでしたら出していただいて。

・「日本がジェンダーフリーにならない進まないのはなぜか?」。あと「夫婦は死ぬまで添い遂げなければならないのか?」。

・「倫理とは何か?」ということを聞いてみたいです。あとは「宗教」でいいです。

・これも具体的になっちゃうんですけど、あのいまだに東電は原子力は安全で安いって安定的な電源だって言ってるんですけど、一応「原発」について話す場があってもいいかなと思いました。

・あの来月が3月11日なんですけども、あの来月てつがくカカフェ@ふくしま特別編ということで、「変わる世界と変えてはいけないもの」というテーマで、いろんな原発絡みの問題は来月取り上げようと思っています。

・そろそろ、今日の話をどれにしようかなと。どれもテーマ良いと思いますが、今日話せなかったとしても、あのいずれ話し合いたいなと思うテーマがばっかりかなというふうに思って聞いておりました。この後、他の世話人と作戦会議を開いて、この一年間何を話していくかを決めていくんですけれども、とりあえずまず今日はどれを話そうかなと。もう今日は30分経ってますから残り一時間半ぐらいしかないんですけれども。どれを話しましょうかねということで、何かここまででご質問や、これはいいねっていうのはこの後の90分ぐらいで話していきたいと思います。このテーマは良いかなとかっていうのがありましたら、お願いいたします。まあ、ご自分が出したのは一番語りたいなってのはあるかと思います。今日はちょっと時間短いですので、短い時間で話せるのはどれかなっていうところで。哲学カフェのテーマとしても、「盛り上がる条件は?」というのは非常に興味あるんですけども。まああの。まあ、「それは世話人が考えろよ」というのかもしれないし、皆さんから聞いてもいいのかな。聞いた方がいいのかなと思いました。あと「人それぞれは哲学の答えになるか?」というのは、結構僕はすごく耳が痛い問いではありました。何かご意見ある方いますか?

・テーマを決めるのに方法の一つとして、昨年のように投票形式でもいいかなと。去年も同じようにテーマを決めるのに、一人一票ずつ投票とかやったと思ったんですけど、それでもいいのかなと。

・去年の事、全然覚えてない。投票なんかしたっけ?中々決まらなさそうであれば、投票という手も最終的にはつかわなきゃいけないかと思いますけど、なんとなく今日はこれがいいよねってみんなで話し合いで決まって行くと嬉しいなあと思ってます。

・個人的には哲学カフェのテーマに対して盛り上がる条件っていうので、もっともっと仲間を増やして行きたいという気持ちが僕が強いです。年始に近いので、それをまず話あって、あの今後また盛り上げられたらなと思います。

・私も盛り上がる条件に一票っていう感じでお願いします。

・私は「金儲けはいいことなのか?」などがいいかなと何となく思いました。

・多分セックスはテーマとして全然やったことないので、もうちょっと周辺のあったけど。取り上げることあんまりなかったので話し合いたいけど、別にこれ今日でなくてもいいなと言うか。これは改めてこういうテーマでやりますと、大学の学生とかに周知して若い人を参加させるとか、どういう風にしてるとか若い人たちのセックス観なんかを喋ってもらえるかは分からないけど。

・セックスなんですけども、ジェンダーの話にあんまり行かないでセックスの話したいんですよね。ジェンダーのことを喋りたい人も多分いて、その議論も当然あると思うんですけれども、当然それで絡んでくるんですけれども。ジェンダー論よりはセックス論で話したいというのが私の意見です。色々こうするのはいいことだとかこうするのは倫理的に間違ってるとか。あるいは、あのセックスしたんだから付き合ってるんだろうとか、逆に別にいくら誰とやったってかまわないじゃないかとかって、いろんな奔放な意見が聞けたらいいなと言うのが、そのセックスの話の私の考えているところの話したいことです。

・あのボードに書かれたテーマはみんな面白くて、それぞれ議論していければいいなと思うんですけど。要望なんですけど、今日のテーマはお金にしろセックスにしろカフェにしろ、なんでもいいですが、これいっぱい出てるんで、もったいないなあっていう感じがしました。これ一回の一つだけじゃなくて、テーマを二つぐらい用意して議論してもいいんじゃないかなって。一つで終わっちゃったら終わっちゃったでいいし、盛り上がったら時間を伸ばせばいい。場合によっては、2時間で限ってんですけど、場合によっては10分15分ぐらい伸びてもいいのかなと思います。それがテーマを二つぐらい用意した場合の希望です。

・なるほど。それちょっと考えたことありませんでした。ちょっと質問なんですけど、最初に出した「カフェを名乗るには何が必要か?」というのは、もうちょっとこれどういう意味だったのかっていうか、これなんか一緒に今日やってしまえるなと思いました。

・哲学カフェとこの場で名乗るけれども、以前はもちろん、コーヒー提供していたから「だからカフェなんだ」っていうことが言えたかもしれないけれども。今はそういうのもない中で、でもやはり哲学カフェとわざわざ使いますよね。だからカフェという言葉には、一方でおしゃれなカフェみたいな使い方をしていて、何か昔ながらの喫茶店ではなく、何かちょっとこじゃれたあのお茶を飲むところという意味で使ってる場合もあるけれども。そうではない意味を使っている場合というのは、この哲学カフェだけじゃなくて、ほかの場面でもあるように思うんですね。〇〇カフェとかっていうので、何かその集まっていろんな議論をしたりするとかっていうのは。恐らくハーバーマスが、何かの公共圏あたりからの議論で、カフェという言葉を引用してるんだろうなって想像がつくんだけれども。その言葉自体が少なくとも日本語の語感からすると、よく分かんないんだけど、なんとなくぼんやり使ってるなと思っていて。そうするとじゃあ、僕らがカタカナでカフェと書いた時で、かついわゆるおしゃれカフェも含めてもいいんですけれども、とりあえず話をややこしくしないためには、おしゃれカフェではない。だけどもカフェを名乗るときに一体何をイメージしているのか。ここをどのような場作りしたいと思ってるんだろうかと。それに対してどういう関わり方をしていこうと思ってるんだろうかということを一回言語化してみると面白いなと思ったそういうところです。

・なるほど。これ世話人になっていながら、あまり世話人の立場で答えられるような正式な回答がないので、テーマとして取り上げるにはちょっと厳しい感じもするんですけれども。また、あのこれはこれでなるほどなあと思って聞いてました。

・今のことでちょっと話したいんですが。要するに「哲学カフェ」のカフェって英語ではないですよね?多分、フランスでも。カフェなんて言うネーミングしてのフランス的かなと思って前から思ってたんだ。例えばパリで。 いろんなカフェの前にテーブル出して、議論したりする場面が多い。ああいう感覚で出てきてるのかなという感じがしているんですよね。そういう意味で、こういうネーミングも色んな背景を抱えてるなあと思って前から思っていました。

・仰る通り、正にそのパリが出自でして、だから私たちの喫茶店のイメージとも全然違うんですね。なんかね。やっぱりハーバーマスが言っていたような、何世紀かのあのカフェっていうのが、出発点にはあるんだというふうには思っています。 何人かの方から賛同いただいたので、今日とりあえず「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件は?」というので話し合ったですね。あのもう僕ともう一人の世話人で決めようかと思ってたけども、これは何月やろうみたいなことをこの場で決めてもいいのかもしれないし。年間計画を立てられた形でもいいかもしれないなと。まあ、そこまで決めなくても、まだとりあえず「哲学カフェのテーマで盛り上がる条件は?」ということで考えてみて、それを踏まえてこれをまた今度精査してみるなんてことをやってても、今後一年間とか、もっと何年間でもいいんですけども、こんなふうにっていうのも考えるかもしれないし。例えば、その一つにこだわらなくても良いっていうのが、ちょっと全く考えていなくて目からうろこが落ちたんですけども、これとこれだったら一緒にまとめておいて、どっちかだけ喋っても良いし、両方喋ってもいいよねみたいなふうなのなんかもそんなような具体的な意見なんかもふまえて、そのどう盛り上げていったらいいかっていうような形で話し合っていきたいなというふうに思うんですけども、皆様いかがでしょうか。提案者だけが手を叩いてくれるんですが。何かご異論あれば。大丈夫でしょうか?じゃあ、今日はその「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件は?」ということで話し合ってみたいなというふうに思います。

・ちょっと思ったんですけれども、これまでの哲学カフェの中で、どの回が盛り上がりましたとかっていうのをざっと世話人の方に言ってもらえると、いいんじゃないかなって気がするんですね。というのは「そうか、これが盛り上がったのは何故だろう」とか、そういう風に皆さん考えられるんじゃないかと思って。ちょっとあんまりこう出てきてない人だとピンと来てない人もいるかもしれないんですけれども。なので、これまで「この時はすごい盛り上がったとか」、「この時は予想してたけど、いまいちだったとか」ってざくっとなんか最初に話してもらえると嬉しいような気が。私はしますいかがでしょうか?

・2022年度のここ数回は、結構僕盛り上がってると思っていて。今年はですね「日本人とは何か?」とかも結構、盛り上がって僕は楽しかったですね。大体盛り上がった時っていうのは、世話人が写真撮るの忘れてたりとか、そういう時なんですね。なので、のんびりゆっくりと写真撮れてる時というのは結構盛り上がってないかもしれないね。前回は確か写真撮れなくてあとでやらせの写真を撮らせてもらったみたいなことやったような気がしますね。あと「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というのが、意外とあの盛り上がったんじゃなかったのかなっていうふうに思います。それから、なんだっけ? 誰か覚えてますか?記憶力がね。ここ数回は「反省と謝罪はできるのか?」もそうだったんじゃないかな。あの数回は結構盛り上がってるんじゃないかなっていうふうに思っています。夏頃はちょっとなんかそんなでもなかったのかなっていうふうに思ってるんだけど。どうだったかな?「お墓は必要か?」とかもちょっとなんかこう、あんまりだったような気がする。「戦争と平和を考える」とか、この時はすごい人が集まって、結構会場には17人、オンラインで6人ぐらい人が集まってますよね。2021年の記録だとブログに人数が出てるんですね。あと「翻訳はどこまで可能か?」って結構、Zoomがうまくいかなかった時だけども、結構面白かったし。あの特にこれに興味のある人は集まってきてくれて、いろんな話ができたのかなっていうふうに思っています。 あの「本deてつがくカフェ」とか「シネマdeてつがくカフェ」は大概いまいちだった記憶がありますね。なぜか知らないけど、まあやっぱ僕ともう一人の世話人の趣味って言うのが偏ってんだろうなという気がします。「親の呪いは解けるのか?」とかどうだった?これ、結構面白かったんだったっけ?そうでもない?そうでもないみたいですね。

・今まあ2年分ぐらい振り返ってくれていたので。僕自身もちょっと振り返りで人と発言しようかなと思ったんですけど。一言も発言できなかったんだけれども、一番印象に残ってるのが「自分はどう介護されたいか?」ってテーマだったんですけども、なんで発言できなかったかっていうと、結局のところ自分が真剣に自分の介護のことを考えたことが無かったっていうのが結論だと思うんですけれども。どの方の意見を聞いても納得してしまって、自分はどうされたいかとかそんなこと思ってしまって。それでいろいろ考えを思い巡らせているうちに、結局自分は全く介護について考えてなかったんだってことに気づきまして。それであのとても面白かったってのをすごい記憶しています。僕の中での今年度の一番のヒットはまったく自分が発言しなかったテーマになります。

・ここの問いは「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件」なんで、ライブで盛り上がる条件とかではないわけですよね。哲学カフェのテーマ、哲学カフェで盛り上がるっていうのは、それはどういうことなんでしょうね?哲学カフェで盛り上がるっていうのは、人がたくさん集まれば盛り上がったことになるのか。たくさん意見が出て、俺はこう思う。俺はこう思うっていうのが全然纏まりつかずたくさん出ました。それは盛り上がってことになるんですか?それとも意見の繋がりとかが感じられ、どんどんその深まっていった感じがあれば、静かでも盛り上がったいうことになるんですか?この「盛り上がる」っていうのは何を指してるのかっていうのがちょっと今見えないなと感じてます。

・非常に良いご指摘で。まあ、まずそもそもそこから考えていってもいいのかもしれないし、そこに関する皆様イメージを出してもらってもいいのかもしれないですね。盛り上がるってどういうことなんでしょうね?哲学カフェが盛り上がる。

・テーマによって深く静かに考えることで、内面の充足感や満足感っていうのは得られると思ってます。なので、あの人数とかではなくてテーマで、あの一人ひとりの意見を尊重することによって、自分の考えが深まるっていうのはいいことだと思います。で、もう一つ、新しくどんどん参加していただける方を増やしたら面白いなと思っているところは、まあ二面性両方僕は求めちゃうところです。

・これもやっぱり世話人の立場からすると、やっぱり一つにはこの場に人が集まってくるっていうのは、それはそれで重要なことかなと思っていて。それはもちろん、皆さんそれぞれいろんな事情とかがおありと思うけれども、やっぱり基本テーマを予め開示してそれで「来てくださいね」っていうふうに言ってますから。まあ常連さんでも「とりあえず来るよ」っていうふうに決めてる方はまた別として、割とこうテーマによって、来る来ないという方がいらっしゃって。さっきの「翻訳とは?」みたいなやつは、このテーマだから来たみたいな人がいらっしゃって。新しい人が来るから、それはそれでなんというかこう面白いし。割とそれに関して考えてるからいろいろ深まるっていうこともあるっていうので。そういう意味では世話人としては「みんなに話したくなる」「来て話してみたくなる」ようなテーマっていうふうなのを考えている。そういう意味で人数とか発言数っていうのは、割とバカにできないというか。そういう条件になってるのかもしれないというふうに、僕は思っています。ただ、もちろん参加してる方は別かもしれないですし、特にその常連で、テーマで選り好みせずに来てくださってる人たちからすると、また別の考え方あるのかもしれないなあっていうのは今確かに聞いていて思いましたね。

・もう一つ、僕の方から言わせていただくと。僕の立場からすると、やっぱり大体いつもまあこのテーマだったら、こんなふうな話が出て、こんなふうに進むかなっていう。まあ一応予想は立てます。予想通りに行った事は一回もないんですけど、まあ一応予想は立てるんですけども。この予想をはるかに飛び越えた、全然想定もしていなかったような観点からの議論でそっち盛り上がってしまうと、なんかこっちとしてスカされたような気もしなくもないんだけれども。「おお」って、まさにその目が目から鱗が落ちるじゃないですけど、そういう感じで。自分のこれまでとは違うものの見方を開かされるっていう意味で、すごく印象に残るというか、やっぱ盛り上がったなって僕なんか思うことがあります。だからそれは、先ほどの方の「人それぞれは哲学の答えになるか?」っていうので、そこにも繋がっていくような気もするんですけども。僕はどちらかというと、まさにその自分が思ってもみなかったような、一応哲学の専門家としていろいろ考えて、ここに臨んでいるのに、それをこうガツンと全然違うのでやられてしまうっていう時には、あの僕自身としてはすごく「おお」っていう感じで。これやってて良かったなあっていうふうに思うところがあって。まあ、それが人それぞれっていうふうにやってしまうつもりはないんだけれども。やっぱりいろんな多様性というのが、それに触れるっていうのは、この集まりの僕は楽しみかなと思っております。

・例えばこの部屋でやる場合、みんな座って20人ぐらい座れると思うんだけど、そういうとこで話をし合うと、一人が話してる時間ってものすごく限られてきますよね。だからどれぐらいの数がこう盛り上がる方なのか、そういう気もしますけどね。

・これも世話人の立場からちょっとお答えさせていただきますと。20人ちょいぐらいまでっていうのがいい感じな数字で、人数的にはそのぐらいかなと思っていて。それが割と2011年からの平均人数で、今はもっと少ない数で推移してますけれども。別の世話人も広報に頑張ってくれて、コロナ前は色々と宣伝して20人以上集まるようになっていて、テーマによってもっと30人とか集まったりとか。あと特別編はまあ毎年これも大掛かりに宣伝していた頃は、あの50人とかもっと集まって、そこから定例のてつがくカフェでだんだんと減って20人ぐらいになって、また特別編でわっとみたいな。そういうのをずっと毎年繰り返していたんですけども、ちょっとこのコロナのせいで、あんまり人集まってもらっても困るなと。それで宣伝をあまりしてないんですけれども。そういう中で、まあ、やっぱり20人ぐらいっていうのが、適正規模という意味で言うと20人ぐらいなのかなと思っています。昔哲学カフェを映画館でやった時がありまして。映画をその場で見て、その後てつがくカフェをやるっていうんで、一番多かったのはあのハンナアーレントの映画でしたかね?100人ぐらい集まって100人みんなそこに残って、話したってことがあって、それは当然全員が話せはしないんだけれども。まあ、あれはあれで面白かったかなと。たまにそんな事があってもいいんだけれども、コンスタントに言ってみれば20人ぐらいかなかなというふうに僕なんか思っているところです。

・皆さんの話聞いてて思ったんですけど、哲学カフェということを頭にくっつけて話し合うと、「人とは?」とかね、根本的なことを議論がして噛み合う。そういうことが盛り上がってことじゃないかな。それが対話ということなんですかね。あるいは根本的な事を求めて議論が噛み合って展開していくことじゃないのかなと思うんです。全然別なんですけど今日Zoomに哲学探偵さんって出て名前の表記が出ているんですけど、それを見た時から興味あったんです。哲学探偵という響きは盛り上がりの一つの考えるヒントにもなるのかなと思った次第です。

・あの今、おっしゃっていただいたように、ちょっと興味を引きますよね。多分ね。まあ、なんだこいつって思うわけですよね。まあ、哲学ってものを名前につけてしまうとですね、やっぱり哲学に多少は詳しいんだろうとか、何かしらそういうことである種の敵対的な意識で見て来る人も中にはいるだろうなってところもあってですね。いずれにしろ、まあ盛り上がる要素の一つにはなんじゃないの?っていうようなところもあって、哲学っていうのをつけてます。探偵の方はですね。哲学と言ったら謎を解くなので、謎を解くったら探偵だろうって。ええ、そういうことでですね。あの私はそのなんか思いついたことを、ただだらだらしゃべることは哲学にならなくて、例えば論理だとか何がしかのその方法論思って検証ができるようなことが必要だろうと思ってまして。方法論というのは、つまり道具ですね。考えるための道具。使うものだろうとまあ探偵で言ったら虫眼鏡とか、まあナイフでもなんでもいいんですけど、何かしらその道具を使いながら、アプローチをするんじゃないのっていうことでですね。そういった意味で探偵って付けてます。

・質問いいですか?その観点からいくと。哲学カフェとかすごいダメな感じしませんか?

・いやいや、あの哲学にしろ、まあ対話もそうなんですけどベイビーステップというかですね、本当に。その小さな一歩を重ねていくような形でですね。あっちも気になるし、こっちも気になる。じゃあちょっとまずこれからじっくり見て行くか?みたいな感じでやっていけばですね。哲学カフェも非常に興味深いものになると思いますし、逆にそういうのやらなくてですね。いろんな意見が出ちゃって収集つかねいやってなったらなったで。それはそれでまあ面白いというか、あの自分の視点が変わる。ちょっとこのカードの裏面見てみるかっていうようなことがですね。一人じゃできなかったりするわけですね。それが100枚もあったりすると自分ひとりでは難しいので、いろんな人の意見を聞く。あーなるほど。そういう見方もあるのかって事に気づくっていうことも。まあ、一つ哲学のアプローチというか、要素としては必要なことだろうと思うので、哲学カフェが哲学ではないとは思いません。ただ、これが哲学ですって言われると、それはどうなのかなとも思ってしまいますけどね。一要素としては全然ありというか、意味あるものじゃないかなと思います。

・あの哲学探偵さんに聞いて欲しいですけど、上げ足を取ったりしようということではなくて。そういう意味ではないということで聞いてほしいんですけど、僕だったら哲学探偵とは言わない、名乗らないですね。なぜかっていうと、探偵っていうのは一般的に、例えば隠された真実を暴くみたいなことですよね。真犯人は誰かとか、こいつら不倫をしているのかとかなんかわかんないですけど、要は隠された真実を暴くという仕事だと思うんですけれども、哲学が隠された真実を暴く仕事だと僕は考えていないからなんです。つまり、隠された真実が存在するってことを前提としているのが探偵であるけれども、哲学はそれを前提としちゃいけないだろうと言う考えなんですね。くだらないことでなので私はだとしたらば哲学探偵とは名乗らないだろうなと思っただけです。

・ここで言う必要があるかどうか分からないですけども、もともと、大阪大学でこの哲学が哲学プラクティスとか、まあこういう臨床哲学っていうのが出てきて、この臨床哲学ってのに対してはまあ、まさに哲学プロパーというか、専門家からは当初ものすごい敵対視っていうか、「そんなの哲学じゃない」みたいなのがありました。僕の中でも今でも若干やっぱその学会でやってる哲学を極めるというか、そこでやっている哲学解明と哲学カフェでやってることってなんかぜんぜん違うよなあっていう風に、自分の中でもその二つがうまく、どこまで結びついているのかなっていうのはあの思うところはなく。これは僕のちょっと別の関心から、哲学カフェに関してはすごく楽しくやってるんですけれども、本来僕は倫理学者として倫理学のさまざまな問題を考えて行くっていう時に、それとこれとがどこまでどううまくいってるのかっていうのは結構、きちんと説明しなきゃいけない。実は説明しきれてないところもあるかもしれないっていうところはあるし、そこが僕のこの哲学カフェの運営の仕方、このファシリテートの仕方っていうのとも関わってきて、なんかつい僕なんかも「面白い、面白い」とか、「はい、〇〇さん」みたいな指名係になってしまって、何かこう全然まとめようとしてないっていうのはあって。果てして、それでいいのかっていう問題はある。一度だけ「大人とは何か」っていうテーマで、今回はみんなで合意することを出しましょうっていう回があって。その大阪大学の本場の人の研修を受けてきて、いわゆる哲学カフェとはちょっと違うパターンがあって、それを学びながらみんなで答えを出す方向で行こうぜっていうのをやろうとして、結果全くうまくいかなかったことがあって。もう完全に人それぞれで終わってしまったということがあって、やっぱ哲学カフェはそっちにいかないんだなあっていうの思い知らされたなんてことがあってですね。まあ、それ以来その試みやってないんですけど、またやってみてもいいかもしれないし、これは今後のてつがくカフェの進め方も変わってくる問題かもしれないと思って。ちょっとテーマから凄い離れてしまっているかもしれませんが、まず「盛り上がるとは?」っていうのは、いくつか出てきてこの観点によってなんですけども、いろんな条件があってですね。やっぱり多様な意見が出て拡散して行くっていうことと、やっぱりその深まっていって、できればそのどっかに向かっていくみたいなことっていうのは、ちょっと方向性が違っていて。「てつがくカフェ@ふくしま」では、そんなにみんなの議論が収斂していくっていう方向にこう進めたことがないので。多様な意見が出ておしまいっていうので、いつもやってきたかなというふうに思っていて、果たしてそれが盛り上がったといっていいのかどうかっていうところではありますね。それと、もう一つ。何年前だっけ?2017年だっけ、サンチャイルドがあのでっかいお人形が福島に来て、それに対して福島市民が賛否両論に分かれたことがあってで、これは最初はなんかあのでかいのが飾られたから、それのアートで哲学カフェの一環としてやって。そしたら本当にちょうどその賛否を全く割れる意見になって。あの時はあの50人ぐらいの人が、この半分の部屋に50人が入ったりとかしたことがあったんですけども。作者の方に来ていただいたりとか、それから何回かやってて、僕なんかはサンチャイルド賛成派だったから。推進派だったから、サンチャイルドを戻そうみたいな風にこうなんか持っていけないかなと思ったけど、全然持っていけなかったとかいうようなものもあったりとかしてですね。あれもだからすごく懐かしい思い出というかですねではありますね。 やっぱりそのテーマでみんなの関心があったから、すごく人が集まったと思うけども。賛否両論みんな出て、あれはあれでどうだったんでしょうね?あれはすごく僕の中でもなんかこう消化不良というか。

・今最後に消化不良って言葉が出てきたのが、とってもいいヒントになったなと思ったんだけれども。その人それぞれの方向に話して行っても、その消化不良と感じる時とそうではなくて、「なるほど。それだけ多様な考え方があるのだ」と思えるという。つまり二つに分岐してるような気がするんです。多分盛り上がったかどうかは別として、少なくとも僕自身が面白いなあと思って、帰る時っていうのはだいたい「ああ、そっか。それだけ多様な見方があるんだな」という方向に思えたので。いろんな意見だけど、結局なんか徒労に終わってしまったような消化不良な感じがする時っていうのはあまりあの面白くないよないう感じはするなっていうね。今の言葉で、あの消化不良という言葉が非常に哲学カフェがどうあったらいいんだろうかっていうことを考えると、いいヒントになったなと僕は感じました。

・テーマって一つの問いだと思うんですけど、問いの立て方としてどういうものがあるかなって今考えてみました。一つはイエス・ノー、〇×の二つに分かれること。あとは何かっていう「What」っていうのと、どのように「How」。あとは理由「Why」っていうところがテーマとしては立てられるのかなっていうのをまず考えました。

・私自身は初めて来たので、なんかこうテーマがあってとかではないんですけど。皆さんそれぞれいろいろテーマをたくさん持っておられると思うんですけど、なんかよくそんなに持ってるなんて思うんですけど。なぜそのテーマを持つようになったんだろうと。そもそもの動機って何なんだろうってすごいテーマそのものより、その人自身にこう興味が湧いて来ちゃうのかなって気がして。そこなんか深堀してたら、結局は違う領域のところにもアクセスできるようなところがあるのかななんてふと思いました。

・一つ前の方に質問的なコメントになるんですけれども、「いつ」と「どこ」っていうのがあえて抜いてあると思うんですけれども、そこから始まる哲学的な対話できないでしょうかね?

・「いつ」「どこで」を考えた時に、その時代時代のコメントっていうのが出てくると思うんですけども、そこで時代に縛られちゃうのかなっていうのを思っているので、そこで収束して面白いことだったら「いつ」「どこで」っていうのはありだと思うんですけど、多分僕の好みとしてはまあそうしない方が幅広く議論できるかなと思って、僕はあげなかったです。

・参加して面白いなと思うことはやっぱり、「そういう考えがあるんだ」っていう新しい予想外の意見が出るっていうことだと思います。もっとあの面白いと思うのは、いろんな意見を聞きながら、なんとなく「あ!これが大事だよね」みたいな、大まかな方向がおぼろげにこう感じるっていう時があの面白いと思います。そこまで話すには、始め抽象的な「愛」とかなんか「正義」とかから入っても具体的な困ってる人を見て助けないの素敵じゃないよねとかこう、かなり具体的なところまでみんなが話せるところまでくると、今まで思ってたものが修正されたりするのかなということで。具体的なところを皆さんが出せるところまでくると面白いんだろうなと思います。

・あのだいぶ盛り上がって時間の忘れましたが、一旦ここでちょっと休憩入らせていただきたいと思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓





次回のてつがくカフェは、

3月11日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「変わる世界と変えてはいけないもの-フクシマの未来を想いながら-」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.1.21.「日本人とは何か?」

2023年01月30日 19時52分04秒 | 定例てつがくカフェ記録
1月21日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には8名、オンラインでは7名の計15名の方にご参加いただきました。






「日本人とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・このテーマですけれども、本日は「日本人とは何か?」という去年の2月にですね、皆様からいろんなテーマを出していただいた時に出た案の一つだったかなというふうに思っております。「日本人とは何か」っていうちょっといいテーマがうまく思い浮かばなかったんですよ。日本人について考えてみたいなと言うことです。まあ、日本人という定義の問題もあるかもしれませんし、それとは別に日本人の特徴みたいなことになるのかもしれません。ただあんまり特徴というのも結構イメージの話になっちゃうかもしれませんが。それも含めて皆様の日本人に関するイメージで、そういったものから話し始めて、何か考えが深まっていけばと言うふうに思っております。それでは、ここからは皆様がご自由にご発言いただきたいと思いますので、発言ある方は挙手ないしはお声がけお願いいたします。

・初めて参加させていただきました。私この会合に参加させてもらった理由の一つは、日本人の考え方の一番低い部分というか、底流にあのどういうものがあるのかなっていうふうなことに、興味を持って参加しました。それで、私が考える日本人のその考え方の部分の特徴の一つは、自然との何とか融和性が高いんだなあっていうふうに思います。なんでも自然の大きな岩とかあったりすると神様にするし、石ころでも神様にするしで。人によっては、資本主義の国の中で、そういう自然崇拝があのアニミズムとかいう人もいるだと思いますが、そういうものを色濃く持ってる。人種っていうか非常に稀だっていう風に言う人もいますね。これからの平和とか、それから人間以外の命とか、そういうこととの関わり。こういう考え方ってある面でこうなんかちょっと遅れたように思われるところもあるけれども、でも結局は一周遅れのトップランナーみたいな。これから必要となるような考え方を私たち日本人というのは持ってて、それを意識して大事にしていくっていうのが、もしかしたら必要になるのかなというふうな、そんなこと思って今日、他の方の考えとかも伺いたくて参加させてもらいました。

・日本人っていうのを意識するときに、私は海外で一ヶ月ぐらい旅行したことがあるんですけど、ヨーロッパをずっと。日本じゃないと知れない文字であったり、言葉であったり、まあ文化ですね。日本人っていうのは他社と触れることで違いが知れたってのが私の経験であって。それって日本じゃなくて、日本国内でも他者と触れることで違いが向きだつというか。私は東京の大学に行ったいましたが、東京に行くと方言をすごく感じるようになるんですよ。福島県にいると感じなかったことが他者との交流で強く浮き出す。なので、日本人とは何かと考えた時は他者と何かとの違いによって浮き出すことが多いんじゃないかなと。自分の中で考えて思いました。

・ この間のワールドカップとかで、日本人のサポーターが観戦後にスタジアムのゴミを持ち帰るというのがあって。ラグビーだったり、サッカーだったり、国際的なスポーツの観戦において、日本人のマナーが良いということで海外のメディアに取り上げられたというようなことがあったと思うんですけど。そう言った時に、海外との対比というか、日本人のモラルというかマナーというか。そういうものが海外とは違うんだというのが浮き彫りになっていて面白いかなと思いました。あとは、日本人は拾った財布を警察に届けるとか、震災の時も列を守ったりいうようなことが、海外から称賛されていたりというようなことを聞いたことがあるんですけれど。それって日本人の何か文化というか、これまで形成されてきたものとして、それが形になって現れているのかなということを思った次第です。

・前から不思議に思ってるんですけど、あのワールドカップでゴミとか拾うじゃないですか?あれって「あれだけだよね」と思ったんですけど。日本人はゴミ拾うというそんな文化もないし、拾ってる奴は日本の中で見たことない。野球場なんか行ってみてもゴミなんか拾った奴を見たことない。だから、サッカーとかそれぐらいで、なんであの人たちがやってんのかなって僕はすごく不思議で。僕はあの日本人じゃないと思ってるんですけども。皆さんはちゃんとどっか行ったらをゴミを拾っているのかというのを聞きたいです。

・例えば、今ワールドカップのゴミ拾いとかが出たんですけども。それは本当に日本人なのかなってよく分からなくて。例えば在日の方も一緒に行っていて、その人たちは例えば同じような行動した時に日本人と言われてしまうことをどう思うんだろうとか考えた時に。今出てきたような話の多くは日本で生活してる人であれば、なんとなく癖になってしまっていることであったり。あるいは日本で生活することによって、そのようなことをするのが、なんとなく自然になるものであるのは事実だと思うんだけれども。それを日本人と言ってしまうことで、国籍的に見たときに、日本人とは言われない人から見た時にどのような捉え方がされるのかなと思った時に、あんまり日本人という言い方をしてしまうのは、僕はあの好まないなと思いました。だから逆に「日本人とは何か?」といったら日本のパスポートを持っていて、国外に行った時に何かやらかした時に外務省がとりあえず何か対応してくれる人が日本人で、それぐらいの意味があるなと思うんですけれども。その意味では、少なくとも間違いなく日本人と日本人じゃないものっていうものははっきり分かれると思うんですけれども。それ以外のところで、それは本当に日本人と言ってしまっていいんだろうかってに関しては、ちょっと慎重になりたいなあっていうのが率直な気持ちです。

・今の話と大体関連するんですけど、要するに日本人と言った時の基本的な枠組みを形式的かもしれませんが、押さえておくことも大切かなと。今国籍という言葉が出てきて、日本国籍を持つということがもう一つ押さえておくべきことかなと。それで、あと日本国憲法について。日本は政府がということでしょうけれど、国民の生命財産を守ると、要するに国民と言った場合、日本国民、日本人の生命や財産を守ると。だから思うのは、外国でいろんな事件とか紛争が起こって日本人が巻き込まれた時に、外務省がすぐに日本人の被害を受けた人がいないとか、犠牲者がいないとかっていうことが話題になる。これも要するにかなり自己中心的というか。他の例えばアラブ地域で日本人が事件に巻き込まれて、被害を受けるとか受けないとかあったら、それは日本国憲法の保護するというのはその通りなんですが。他の国の人たちについてはあんまり関心がないのかなとも思う。人権という点から、普遍性ということで考えた時にやや自己中心的かなという感じは受けてるんです。それと、もう一つはこれらの天皇制の問題とも絡んでいて。要するに、日本国憲法で天皇という立場は、日本国および日本国民の総意というか。あるいは日本国民の象徴ということですよね?そういうことは、普段我々はあんまり日常的に意識してないんだけど。こういう憲法の点からいうと、そういうことで縛られているのかなというふうに思ってるんです。だからまあ日本人といった時に、思いつきですが一つは国籍。日本国籍を持っているのが日本人で、それと憲法で国民として認定・認識されている人たち。それから、その憲法が規定している天皇制の問題。無意識的意識的にしろ包含されている国民・人間ということ今思ったんです。

・報道はあまりされないのは、他の国の人は日本はやっぱり単一民族でよく言いますよね。他の国の人もいるけど、ほぼマジョリティーは日本人。そうすると、それにこう比べて、例えばカナダとかアメリカとかほとんど移民でできた国なんですよ。フランス人もいれば元日本人もいる。そういう意味でそれを報道しないとするのが当たり前っていうのが、他の国からすると。だから、そうすると例えばフランスの犠牲者は何人とか、そういう言い方をするんじゃないかと思うんで。そういう意味で単一民族の国っていうのは(国際的にも)非常に少ないんじゃないかと思いますよね。それと同時にさっきちょっと、こういうのは面白い例もあると思ったんですが、例えば海外のレストランに行くと。その時に皿が出てきたりすると、特に女性の場合なんだけど、まとめてこっちに置いたりとかね。いかにも便利なようにウェイトレスの人が下げたり、また今度持ってきたりする時に、そういうやり方をするんだけど。多くのウェイトレスは「それは失礼だ」「私たちの仕事だ」と言ってね。「そんなことやるくらいだったらチップおいとけ」と言うんですよね。それだけにかかわらず、特に日本の一般の人っていうのが、相手のことを考えているようだけど、それは私がっていうことを中心に考えて、あんまり相手のことを考えてないんじゃないかと。でも、まあ、私がこうしてほしいってことをやる。それが良い事も分からないけど、相手には通じないってこともあるのかなと。

・ 先ほどの報道の件で、日本人の被害が出ませんでしたということに関して、若干国の肩を持とうかなと思ったんですけども。外務省の仕事としては国民の保護っていうのが多分仕事なので、外務省自身がその保護しなきゃいけない人がいるかどうかって、何かあったときに調べるのは仕事だし。そういうことをしましたっていうのを外務省が発表するところまではやはり必要なのではないかなって気がして、僕は見てるんです。ただ、それをニュースとかで大々的になんかあたかも「日本人の人はいなくて良かったね」みたいな感じで報道することは、仰る通り「どうなの?」って思うところがあって。なので、これは国の問題ってよりは、むしろ報道側の姿勢の問題だなあと思っていました。

・国籍の話が出まして、後は単一民族という話も出たので。ついでに言っておくと日本は本当に難しい問題を抱えていて。僕はこの問題を考える時に真っ先に思うのが、在日コリアンの皆さんのことを考えたんですけども。国籍は持っていない訳ですよね、帰化していなくて。でも、もうずっと日本に住み続けざるを得ないっていう。多分、それは私たちが強制連行して来たからなわけですけれども。それに対する今、ものすごいバッシング的な事が行われている。ああいうことをバッシングするのも多分日本人だなあ、すごく日本人らしいなというふうに思うところがあるのと。逆に、例えばアメリカで、先ほど移民の国の話になりましたけども。黒人の皆さんに向かって、「アフリカに帰れ」とかっていうそういう差別はありえないじゃないですか。黒人差別が実際あって、今でもまだ残っていると思うけども、「アフリカに帰れ」とは言わないと思うんですよね。そこらへんでやっぱり、それはあくまでもちろん国籍を持ってるからってのもあるんですけれども、国籍は持たないけど、日本に住んでる人っていう問題っていうのを。「あなたは日本人じゃないよね?」って。この問題を考えた時にすごく、喉に骨が刺さってる感じがするという気がします。

・今の話に関連して質問なんですけれども。トランプがメキシコからの移民に対して「メキシコに帰れ」みたいな、ああいうことをやっていたのは、彼らは自発的にアメリカに入ってきたっていう意味では、日本の場合の在日朝鮮人、韓国人の問題とは若干違いはあるけれども。ただ、構造的には実は同じようなところもあるのではないかなと思っていて。なので、何かそのネイションというか国というものを重々しく考える人にとっては、何か共通のやり方なのではないかというような感じがするんですけど、その辺いかがでしょうか?

・今の点に関して言うと、ちょっと僕の中で全然まだ整理がつかないんですけども何かが違う気がする。というか、まあそれで言うならば、日本はそもそも今もう移民をほぼほぼ受け入れてない、受け入れないようにしている。それは世界でも本当に少数派に入るトップクラスの移民を受け入れない国ですよね。それで、そこはなんというか、単一民族というのは僕は嘘だと思うんですけれども。すごく同質性というか、「みんな日本語喋るでしょう?」みたいな。そういうなんて言うか。帰化するのも条件が厳しいのもそうなんですけど。「日本に溶け込むことをもってして日本国籍を与えますよ」みたいな。そういう所があって、日本人になるみたいな。アメリカとかが「アメリカ人になれ」っていうのは、やっぱりアメリカ国籍を持つことによって、アメリカへの所属というか忠誠心っていうのがあるんだけど。なんかそれと違うレベルで日本人的な感性じゃないけど、考えとか「そういうものをも含めて日本人になってね」みたいな。なんかそういうようなところが単なる国籍問題にもそこがなんか含まれてしまっていて。ごめんなさい、今の移民の話で別ですね。移民の話とちょっと別だけども、そういう外から入ってくる異分子に対する排他性というのはとりわけ強いというか、感じはしなくもないというところですかね。

・今話を聞いていて思ったんですけど、近代国家というかその国籍問題が出る前は、昔朝鮮からの技術者がいっぱい入ってきて、もう天皇もあちらの人だっていう話もあるので。まぁ遠い昔はそういう技術が朝鮮からいっぱい入ってきて、混ざって今の日本人も単一ではないですけど、最近その在日の問題はやっぱり国家とかね。そういう国籍というのがきちっと決まっているから未だに残っている問題なのかななんて、今の話聞いてて思いました。

・「日本人とは何か?」と考える場合に形式的に日本人を規定するのは、やっぱり国籍なのかなと思うんですよ。ただ、それとは別にやっぱり住んでる所で考え方がとてもこう違うというか、バリエーションがあるなと感じています。最近一番衝撃的に思ったのは、ロシアのウクライナに侵攻した時に、日本人のほとんどは「とんでもないことだ」というふうに思ったんではないでしょうか。「ロシアが悪い」「侵略だ」と。でも、国連の場で採決なんか見てみると、かなりの国がロシアに対する経済制裁なんかもを保留しているし、南アフリカ共和国なんかも制裁に加わってないですね。こんなに大きな考え方の違いが住むところによって違う。なんでだろうと思うと、例えば南アフリカ共和国はアパルトヘイトという黒人隔離みたいな政策の時に、それに反対する人を支援したのがソビエトだったんですね。そういう経緯がある。あるいはインドなんかだと、かつてヨーロッパが今は人権を大事に言ってるけど、2~300年前は酷いことやってるわけですね?インドを収奪するだけ収奪したという。そういう歴史があるので、やっぱり住むところによってこれだけ大きな考え方、日本人から見るとロシアのウクライナは勝手で絶対許されないと思ってることが、世界の中の全ての人がそう思ってるわけじゃないというのはとても衝撃を受けました。「日本人とは何か」という特定はできないけれども。考え方は日本人の日本人じゃないところで、白か黒かの違いぐらいがあり得るんだって感じをしています。

・先ほど世話人から話があった単一民族というのはちょっと疑わしいという話で。そんなはずじゃないとおっしゃって、私もそんな感じがするんだけど、要するに単一民族、日本の場合は民族的には熊襲(※南九州に居住した種族)もいたでしょうし、アイヌ民族だってそうだし、沖縄の人たちだって全く人種的に大勢である日本人とちょっと違うかもしれない。それと歴史を辿るば、三~四世紀から五~六世紀にかけて、朝鮮の方から朝鮮の人々いっぱい入ってきた、新しい文化文明を持って入ってきた。仏教なんかもそうですよね。にもかかわらず。単一民族というような話が出てくる。大和民族という捉え方ができる。出てきてしまうんだけど、これは私の思いつき的な意見になるけども。どうも西洋を中心に考えると、キリスト教という絶対神を信じるということで、王権と二つに分かれてきたんですけど、日本の場合はそうでなくて。古事記とかそういうこと考えると巫女みたいな、天皇が神であって。また武力的にも王権的にも一緒になっていた。今もそれ引きずってると思うんですけど。そういうことで。民族的には単一民族、純粋民族として考えたいというそういう根っこの精神的な記号的な流れがあるんじゃないかなと。天皇制が宗教的な意味で神みたいな形を纏って。それからあの王権的に武力的にも武家政治が始まる前まではそういう形だったんだと思う。そういう歴史伝統があって、民族的には純粋である単一であるというふうに考えてたがる精神的な流れがあるんじゃないかなと思うんです。

・日本人がそういうところがある可能性ももちろんあると思うんですけども。でも、同じようなのは多分ナチスドイツがやってたことも多分同じで。美しきアーリア人みたいなことを訴えて、それでそれに対して最も反対にあるユダヤ人をその排除していくっていうようなやり方っていうのは構造的には一緒じゃないでしょうかね。だから、何かその自分たちの国、あるいは自分たちのまとまりの正当性を認めようとするときに、認めさせようとする時に、あるいは何かを同質なもので集まろうとするときの最もパワフルなロジックとして同じことをやってるだけに過ぎないんじゃないかという気もします。

・先ほど宗教の話が出たので、私は日本人の宗教との関わりはすごくユニークだと思っています。大体仏教の文化が根強く残ってるんですが、西欧の人がキリスト教を信じるような厳密さはあまり無いというか。神頼みもするし、お盆とか供養もするし、そういうふうにするんだけども。本当に宗教として信じているかっていうと怪しい。日本はかなり特徴的なことなのかなと思って、それが強みであるのか弱みであるのか分かりませんけども。とても日本人の仏教、宗教、特に仏教に対する感覚というのが緩やかで、私は良い所もあるんだと内心思っております。

・宗教のことなんですが、この2~3日前にドイツに行ってた人と会ったんですよね。それで、彼女はいわゆる今回のコロナのいろんなこう問題で、ドイツ政府が来た人には金をあげるとかで。それで「アプリケーションフォームを書け」と言われた時に、やっぱり「あなたの宗教は何ですか?」という質問があったらしくて。彼女は「別に宗教があるわけじゃない」とそこの返答しなかったんですよね。そしたら出なかったっていうの。だから、ドイツではそれぐらい宗教に関して、キリスト教がほとんどだろうけど、それぐらいこう宗教っていうものが政府の方針っての生き方っていうのに関係してるんだと。それを比べると日本は返って、ひょっとしたら「日本人の生き方ってなんや分かりません」みたいな感じがずっと言ってて、「それでうまいこといってるじゃないけ」みたいなとこもないんじゃないかっていうのが僕なんかのスタイルですよね。

・先ほどの方が日本人の宗教と非常に世界的に特徴的じゃないかと最初に発言された時、アミニズム自然崇拝だとかという話がありました。私もそう思います。ただ。そういう風になってきたのはやっぱり地球を俯瞰した時にやっぱり置かれた位置ね、アジアの端っこに位置している日本列島。それで自然の影響はモンスーン気候で。非常に四季がはっきりしている。そういういろいろなことから自然というものに対するまあ恐れもあるし、崇拝もあるし。ということで出てきたんだと。特に、例えば山だとか山腹にある石ころね。あんなものも神様として、しめ縄で巻いて拝んでいるんですよ。たぶん、ああいうのって、あんまり世界的に見てないんじゃないかと思う。そういうのは何で出てきたかっていうのが、今すぐには思いつかないんですけど、まあ、そういうことで。トータルに考えると地理的な置かれた場所、気性的なものとか。あと端っこにあったということで。やっぱり世界的に交流が少なかったんじゃないかと。というようなことで、要するに独りよがりというか、自分の殻に固まっている。そういうようなことがあって、単一民族とか我々純粋な民族だよとそんなことを考えて上がってきたのかなと思ったんです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








次回のてつがくカフェは、

2月18日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは当日の話し合いで決めます。


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てつがくカフェ@ふくしま報告2022.12.17.「人に迷惑をかけてはいけないのか?」

2023年01月02日 02時09分34秒 | 定例てつがくカフェ記録
12月17日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には6名、オンラインでは8名の計14名の方にご参加いただきました。






「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・「迷惑」と言った場合に家族以外の人に使っているのかなと。例えば、家族だったら「お父さんそれ止めてよ!」「お姉ちゃんそれやんないで!」とかその場でやその後で言いますが、家族以外の御近所とかそれ以外の他者に対して、何か自分が不快だと思うことが起こった時に、「あぁ迷惑だな」というふうに思うとすれば、直接その他者に「それ〇〇だから止めてくれない?」「止めてもらえませんか?」とか言えなくて、自分の中の心のモヤモヤというのが「迷惑だなぁ」という言葉で捉えられるような感情なのかな、どうなのかなというふうに思いました。

・私が最近迷惑だと思ったのは、環境活動家の方がゴッホの『ひまわり』や『モナリザ』だとかの絵画にスープをぶっかけたりして、自分たちの環境活動を主張して逮捕されたというニュースを見た時ですね。自分は名画とか美術品が好きなので、ガラスケースに守られていて額縁とかの被害で済みましたが、それらの美術品が今後見られなくなるということはなかったにしろ、もし万が一今後それらの絵画が二度と見ることが出来ない、鑑賞する機会を損失するということになったらと考えると、これは本当に迷惑だと思いました。正に人類にとっての迷惑行為になるんじゃないかなと最近のニュースで思った次第です。

・そうですね、取り敢えず何を「迷惑」と思うかというのを意見として出してみるのもいいですね。

・今の話の例だと、迷惑を通り越してやってはいけない行為の域ですよね。それで、今思ったのは迷惑というのは何か自分で「惑う」訳ですよね。字にも使われていますけれども。どうしたものかと。何かそのやっては駄目では済まされない部分をもっている行為だったり、物事だったりが「迷惑」だと思うのでしょうか?

・先ほどの方が言われた迷惑もあるし、それこそ自分に迷惑がかかっているのか、かかっていないのか分からないように見える迷惑もあるし。その迷惑が明日になったらプラスになっている迷惑もあるし、割とその人の感覚で迷惑という言葉が使われているんじゃないかと。それとやっぱり面白くなかったら面白くないというべきですよ。それが何か相手を傷つけるとか、お互いの忖度というか、ここの対話みたいなもので別に喧嘩している訳ではないけれど、ただ多くの日本人というのはそういう具合に、ある意味では(「迷惑だ」と)露骨に言われると腹が立つみたいな人がいるのは確かですよね。

・「迷惑」といって一番思いつくのは、誰かに意図的に嫌がらせを受けるとかいう側面の迷惑と、あとは本人ではなく偶発的に発生してしまった迷惑というふうに大きく分けられるのかなと思ってはいました。意図的に迷惑をかけるというのは、勿論犯罪にも繋がったり、他人に不快な思いをさせる側面があるんですけど、偶発的に人に迷惑をかけてしまうのは先ほど仰られた方の様に、人の成長に繋がる部分もあったりするなと感じました。

・(迷惑が)偶発的にたまたまそうなってしまう。これは一番最初に出た人によるという事と関係があると、つまり、主観的な受け止め方の問題ということなのか、それとはまた別の意味のことなのか。

・例えばですけど、人は生まれてから死ぬまで色々な成長を繰り返しますけれども、迷惑と捉えるかどうかというのは、ちょっと置いておいてもらって。

・今ここで人に迷惑をかけてはいけないということで、結論として自分はそうではないと、絶対にそうではないと言いたいと思っています、人に迷惑をかけるのも致し方ないと思っています。何故かというと、例えば誰が迷惑をかけるのかの「誰が」というところを考えた時に、成人した大人だけではなくて、生まれたばかりの赤ん坊とかですね、あとは年を取って痴呆症や認知機能の障害のある高齢者の方。そういった方を想定した時に、例えば赤ん坊が公共交通機関の電車とかバスで隣の席で大声で泣いてしまった時に、周りの人にとっては迷惑だということですけども。でもそれって本当にやってはいけないことなのか、迷惑をかけてはいけないことなのか、その赤ん坊に対して言えるのかというところで、必ずしもそうではないなと。まぁあとは認知症とか患っている方で、介護してくれているのがお子さんと仮定した時にその子供さんに対して、自分の子どもだという事が分からなくて、暴力を振るってしまったりとかってことがあった場合、それって絶対にやってはいけない、高齢者に「貴方おかしいよね」と言えるのかと、必ずしもそうではないと。というと絶対に人に迷惑をかけてはいけないのかというと程度による、状況による、もしくはもっと他の理由によるんじゃないのかなというので、結論としては繰り返しますけれども、人に迷惑をかけてはいけないとは必ずしも言えないと思っております。

・今日の問いに対する結論的なこととして、やってはいけない訳ではないというか。やっても良い、(迷惑を)かけても良いと。かけざるを得ないだろうということなのかなというふうに思います。先ほどやってはいけないことという言葉を使っていた方がおられましたが、やっぱり「迷惑をかける」と「危害を加える」というのは別物であって、危害は加えてはいけない。その場合の危害というのが生命、身体、財産ですね。これらに対して危害を加えてはいけないというのは当然やってはいけないことで。禁止されるべきことで法律的にも罰せられることですけど、迷惑はそういう意味では危害まで及ばない限りは法的な意味で罰せられたりしなくって。それはすべての人間がかけたりかけられたりということをやっているのかなというふうには思います。それで、迷惑かけずに生きていくことがそもそもできないのかなとは思いますけども。「危害」という言葉と「迷惑」という言葉を完全に混同している日本人はすごく多いかなと自分は思っているところです。

・以前ある世話人の研究室が地震でぐちゃぐちゃになった時に、片づけを手伝ったことがあるんですけれども。その地震の前にも研究室に行くと机とかの上に資料だとか講義のレジュメだとかが散乱していた時があって、「それ片づけましょうか?」と親切心で言った時に「分からなくなるからそれはいいよ」という事を言われたんですね。それで、地震があって片づけを手伝ってくれと言われた時も、前と同じく机の上はぐちゃぐちゃな状態だったので「片づけを断られた時と何が違うのかな」とモヤモヤしつつ手伝いましたけど。その世話人的には「どこに何があるか分からなくなるから片づけないで欲しい」と。それで、片づけようとする自分の行為が「迷惑」だったのかなと今になって思うんですけども、今日はその辺りを本人からご意見いただきたいなと。

・何を言い出すんだと思いながら聞いていたんですけれども。えっと迷惑ではない、逆に言うと自分の部屋が汚いというのは、今なんかこの間の地震以来ずっとだからもう半年以上ですけども。途中まで片付けようとして一旦、中の物を廊下に出して今そのまま廊下に出した物が並んでいて本当に迷惑かけているなと思ってはいる感じですけれども。それは置いておいて、常時私の研究室は汚いんですね。それは片づけることが出来る人がいて片づけてくれるのであれば、それは私にとって大変ありがたいことですが、それは結局私が付きっきりでないと分類とかなんとかそういった事が出来ない訳だから。つまり私がいないで片づけることは出来ないと思うんですね。なので、迷惑ではない。ただ「出来ないよ」と言っただけの話で。「無理だよ」と。自分の事を全く無視して、自分の分類だとか整理したいという自分の頭の中の理想を無視して誰かが勝手に片づけてしまったり、今頃学部類長とかが研究室に入って片づけられでもしたら、それは自分だったら「迷惑」と言わないで、「危害」だというふうに言うかなと思っていて。それは迷惑ではないというか筋が違うような気がしていて。迷惑論とはちょっと違うような気がします。

・今のお二人の対話を聞いて、一方は親切心とか気付きで「片付けた方がいいかな」と思われたのかなと。それを「片付けましょうか?」と素直に表現した時に世話人には世話人の事情があって、一方の行為ともう一方の状況が合致しなかっただけなので、それを迷惑だというふうに考えなくて良いんじゃないかなと思います。その需要と供給じゃないですけど、合致しなかっただけなので、それを迷惑というふうに捉えるのではなくて、さらっと流せるような感覚になるといいなとは思います。ただ日本人は割と小さい時から「迷惑をかけるな」と、迷惑という言葉が頭に入っていたり、身体に染み付いていたり。そういう「迷惑」という言葉が持っている雰囲気が自分の中に出てきて「あぁ迷惑なんだな」「迷惑かけちゃったかな」「余計な事言っちゃったかな」とか思うのかもしれないんですけれども、そんなことは全然なくって、全然OKだと思います。

・今の話を聞いていても「迷惑」って先ほどの方が言うにはそういう事では無いんじゃないかと言うんだけど、そうじゃないかなとも思いますよね。「それぐらいの事だったら、自分の生活にそんな気にもしないでいいわ」というそういう迷惑もあるんじゃないかと。だからさっき世話人が言っていたように、被害を受けたとかしたらそれなんかも迷惑だと言われるけど、自分は迷惑というのは目に見えないような迷惑もあるっていう気がしますよね。たださっき言ったみたいに、それでもいいと別に「特別迷惑受けたから死ぬわけでもないし」みたいなね。そういう流せる迷惑というのもあるんじゃないかと。

・個人の例で言うと、我が家の東側にアパートがあってそこの一人の男性が我が家の側に来て煙草を吸うんですね。外に出て家で吸わずに。もう一人は我が家の北にある家のおじさんが、やはり家の中ではなく庭に出て煙草を吸う訳ですね。どうしても風向きとか距離で我が家に入ってきてしまうんです、煙草の煙が。そういう訳でアパートの方に説明して、「ここで煙草を吸うと煙が我が家に入ってきて辛いんです」とお話したら、その方は分かってくれてそこで吸うのを止めてくれたんですね。それで北のおじさんにも言ったんですけれども、その方は半分はどこかに行って吸うようになったんだけれども、半分は前と同じように庭で吸うのでどうしても我が家に入ってくるんですね。その度に風向きで入ってきてしまう時は急いで窓閉めようとなって、対応しているんですけれども。煙草を吸っちゃいけないとは思わないんです。自分も若い頃煙草を吸っていたので、吸いたい気持ちも分かるんですが「今の対応でしばらくこれでやっていくしかないのかな?でも迷惑っちゃ迷惑だよな」というところで生活しています。

・今の聞いて思ったのは、時代によって「迷惑」と「危害」というのが変わる事もあるのかなと思って。多分喫煙というのは昔は迷惑ぐらいな感じだけど。逆に言うと吸う人の方が強い感じで、吸わないで文句言う人がいるとその人が迷惑がられるという感じが昔はあったと思うんですけれども、今は本当にもう全面禁煙になっていて副流煙ということによってそれは危害を加えているんだと、他人に対して健康危害を加えているんだというような形で危害というふうに時代によって変わるということもあるのかなと思って今の話を聞いていました。

・「人に迷惑をかけてはいけない」という言い方からして、自分はむしろ逆に「迷惑をかけてはいけないだろう」という論点から考えていきたいなと思っていたんだけれども。迷惑というのを多分文字通りに迷惑と使っている訳ではないように思っていて、結局「人に危害を加えてはいけない」というのは、危害という言葉があまりにも強い言葉であるので。例えば「殺す」とかそれぐらいのレベルの時には躊躇なく危害という言葉を使いやすいから危害と言っているのだけれども。そこまで強烈ではないけれども、でも例えば今の煙草の害みたいな危害と言えば危害だけれども、人に影響を与えると言えば影響を与えているけれども。物凄く影響を与えている訳では無い様な事、それを指す時に「迷惑」という婉曲表現を使っているに過ぎなくて、ここで言っている「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というのは決して広い意味での迷惑ということを言っているのではなく、「危害」の婉曲表現として危害と言ってしまったら言い過ぎなものに対して「迷惑」と言っているに過ぎないのではないかと。そういう言葉の使い方をしているのではないかと。要するに日本語を色んなところで、婉曲表現を使うことでギスギスしたことを避けようというのがあって、だから例えば電車の中で迷惑行為を止めてくださいと言っている事はやってはいけないことなんですよ、多分。それは迷惑という言葉が文字通り、辞書的な意味で持っている迷惑とやってはいけないと言っている時の迷惑というのが実は本来違っていて。だから、そこのトリックに騙されているような気がしてならない。先ほどの赤ちゃんの例で言うと、結局のところそこの説明を今の議論で進めていこうとすると若干ややこしい、難しいところあるかなと思っているんですけど、あえて言うのであれば本来の意味での迷惑と婉曲表現としての迷惑を取り違えて、迷惑行為は止めろと世の中言われているから、だから全てのやってはいけない訳ではなくて、辞書的な意味での迷惑も自分が迷惑だから止めてくれというような言い方をしていると説明は出来るのかなと、無理矢理ですけどね。今の言い方全く説明できない訳ではないとも考えています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓





次回のてつがくカフェは、

1月21日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「日本人とは何か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.11.23.「反省と謝罪はできるのか?」

2022年11月27日 18時09分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
11月23日㈬に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には7人、オンラインでは7人の計14名の方にご参加いただきました。

なお、今回世話人が話に夢中になりすぎて会場写真を撮るのを失念しておりました。


「反省と謝罪はできるのか?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日のテーマは「反省と謝罪はできるのか?」です。来年の2月もテーマ決めないで、皆さんからテーマを出していただいて話すということをしたいと思うんですけど、今年の2月に皆さんから色々なテーマを出して頂いた中の一つが反省とか謝罪に関する事柄があって。テーマとして、問いとして「反省と謝罪はできるのか?」というのは変というか、上手くいい質問にまとまらなかったのですけども。とにかく反省とか謝罪について、考えていきたいという風に思っております。反省というのは、深い言葉で色んな意味があって、リフレクションは反証と訳すこともありますし、哲学的にも色んな意味で使われる深い言葉ですけど、多分ここでは普通に私たちが一番よく使う「反省しなさい」とか「反省してます」と言うときの反省で、今回は反省という言葉を使っています。つまり、何か悪いことをしてしまった時に反省をすると。いうようなことを考えております。それと、さらに謝罪という相手に対して謝るということですね。反省と謝罪は、似たような関連する言葉ではありますが、同じ事柄ではありませんので、反省とは何なのか、謝罪とは何なのか。反省は可能か、謝罪は可能かみたいな形で、別にいっぺんにまとめて離さなければいけない訳ではないので、反省と謝罪について今日は順番に色々と考えていけたらと思っております。よろしいでしょうか?では、あとは皆様からご自由にご発言いただければという風に思います。

・今発言されたように私もテーマを見て、「反省と謝罪はできるのか?」と言われて、できるだろうと即答になるんですけど。問いが微妙だと言ったんでそうかと思うんですけど、反省は自分がこうなったことに対する失敗、「間違ったな」とか「あんな事言わなければ良かったな」とか実感するというか、自分の行為を顧みる行動ということで、反省は出来ると思います。謝罪というのは、相手に迷惑をかけたことに対して謝るという行為だと思うので、許されるかどうかということは抜きにして、謝罪もできると思います。自分がやったことで相手を傷つけたとか、殺してしまったとか、間違って轢いてしまったら、「ごめんなさい」ということは、できると思うんですが。多分この問いとしては、反省して「ごめんなさい」で済まされるのかというところの問いで、相手がどれだけ謝って誠意を見せてもそれを許すことが出来ないというか。許す、許さないは相手の問題かと思うんですけど、その辺をテーマにしたいのかなと思った次第です。

・今日のテーマから、今仰った方とほとんど同じような考え方なんですね。要するに反省というのは、自分自身がやったことについて色々思うんだから、これは勿論できるわけですし。ただ謝罪というのは、相手がいることで誰かさんに何かをやってしまって、やったことについて「謝れるか?」ということだろうと思います。勿論それも謝罪できるんですが、今仰った中で、人を殺してしまったという時に、死んだ人はもういない訳ですよね。そういう時に、謝罪できるのかっていうこと自体が、ちょっと問題かなという風に考えまして。だから、謝罪ということでは、相手が生きているという前提で考えるのかなと。そういう風に考えると、テーマに関して言うとどちらもできるということかなと、理屈としてはね。そんな風に最初は考えました。

・私が思ったのは、反省することは出来ても謝罪はできない、簡単にできないことってあると思うんです。でもやっぱり謝ろうとかね。なので、相手がいるということですよね。どういう相手かということ、自分がやったことに対して。あとは、自分自身のプライド。プライドもどういうプライドなのかと、本当の人間的なところから謝らなくちゃならないという。本当の人間としてのプライドもあるし、あとそこに関係してくるのが、この世の中の競争という部分が関係してくる。なので、この世界に包摂(一定の範囲の中に包み込むこと)されていて、競争の世の中だから色々なプライドがあるなって。私の経験としては、やっぱり正しいことを選ばないで自分自身を選ぶことってあるじゃないですか?例えば、プーチンであったりとか間違ったことをした政治家とか。それは自分自身を選んでいるというか、正しいことを選ばずに。色々な広い意味、狭い意味があると思います。

・確かに反省しなければならない、謝罪しなければならないケースというのがあって、それがどういう風に起こってしまうのか、そこまで遡って考えないと、この問題は実は決着つかない問題なのかもしれないのかなと今お話聞いて思いました。

・今5歳の子どもを育てているところなんですけども、何というか毎日同じそれこそ過ちというか、同じことの繰り返しが起こっていて、歯を磨きたくないだとか、YouTubeをずっと見続けていたいだとか、そういうくだらないことが沢山あって。その都度、親に怒られて。ほぼ一人っ子なので非常に我が強いというか、すぐには言うこと聞かないで大泣きして、大騒ぎして。うちは親がダメって言ったらダメなので、折れないから。それでも永遠と彼女は騒いでいるけど、しばらくすると「ごめんなさい」と言って、謝ってくるんですけど謝罪は一応してくるんですけど、翌日また同じことが繰り返されるんですね。昨日あんだけ「ごめんなさい、もうしません」と言ったじゃないかよと思っているのに、また同じことが起こるんですね。ほぼほぼ毎日同じことの繰り返しで、これは根競べなのかなと思っているけれども、だから何か謝罪しているけどしているのかなという風に。あるいは反省もしているのかという風に思うところがあって。小さい子どものこれは、うちの妻には上に二人の子どもがいて、上の二人に比べて今の子は違うと言うんですけども、多分個性の問題はあるのかなと思うんですけども。発達段階の過程において、反省とか謝罪というのはどうやって身についていくのかとか、そういうのは若干考えているところです。

・今の話とも関係あるかと思うんですけども、さっきの方が仰っていたのですが反省は出来るんだと、自分の問題だから。謝罪は相手がいるからできるかどうかと。そう簡単に自分だけじゃという問題も出てくるという話をされていたと思うんですけども。今仰られていたことって、親が見て「この子は反省したのか?」とか、そういうことですよね。つまり、反省というのは自分だけの問題であるとか、謝罪というのは自分と相手の問題であるということで、そこでできるかできないかと決めてしまっていいのか、ということです。例えば、具体的に言うと政治家が良からぬことをして、謝る訳ですよね「すいませんでした」と言って。場合によっては「もうしません」とか。なにか反省じみたことをいう訳ですよね。でも、多くの人が聞いたり見たりして「反省してねーだろ、こいつ」と思うんですよね。つまり、そういう風に反省とか謝罪とかある種、社会での文脈に置かなければ成立しえない場面というか、そういうような見方もできるのではないかと。本人の問題というか、本人と相手ということで片付けてしまって、いい部分とそうじゃない部分とがあるのではないかと。というようなところを、考えないと例えば、子どもが反省しないというのも分からないんじゃないかと、そういう気がしました。

・今回は初めて参加するんですけど、今までの議論の中でちょっと考えたこととして、反省と謝罪の特に謝罪の方なんですけども、大きく言って謝罪に必要な条件がですね、要素を自分なりに三つ考えました。まず「主体」という角度と、「客体」という角度と、「価値または基準」という三つの要素がそれぞれ、マトリクス(母体、基盤、原盤、鋳型など)になって、ある案件について、例えば謝罪ができるのかできないのか。ある基準からすれば、許せるのか許せないのかとかですね、三つがマトリクスで決まってくるのかなと。例えば、日本が韓国に謝罪するという場合に、主体は日本、客体は韓国という国家同士だったら本当に謝罪って個人個人が、日本国民が8割方謝罪した方がいいんじゃないかと仮に思ったとしても、国家としては出来ないという結論になるかもしれないし。例えば、福島で東電は中々謝罪しなかったというのも、法人ていう立場からすれば社長は謝罪したかったかもしれなけれども、立場上謝罪できなかったかもしれないという風にですね。それぞれの個人なのか、法人なのか、国なのか誰が主体なのかということとと、あと客体が同じように誰なのかということと、その謝罪の基準というものが何なのかということが、それぞれマトリクスによってそれぞれ謝罪できるのか、できないのかってことが決まってくるんじゃないかなと。でそれに対して、謝罪をしないからって非難する立場も自分という立場で謝罪するのか、国という立場で非難するのか、またはその基準を含めて非難するのかしないのかというのが、個別にすべて決まってくるんで一概には言えないんじゃないかなと。何かの、一つの、このケース、この場合についてはどうなのか、こういう場合についてはどうなのかといって、個々に全部違うのではないのかなという風に思いました。

・非常にクリアにマトリクスの話をして頂いて、色んなケースがあるかなと。確かにこのテーマを掲げた時も、企業が色々やらかしてしまってそれを謝罪するみたいな話だったり、政治だったり。みたいなのが、例にあがってこの話が出ていて、という風に考えた時に個人の反省とか謝罪というのと、個人ではない法人格がしなければいけない場合にというと、だいぶ変わってくるというのはその通りかもしれないなと思ってお聞きしておりました。

・今のお話で、法人の場合謝罪した時にどういう影響が出るとかね、そういうことが起こってくる。そういうことはあると思います。ただ、私考えたのは反省にしろ謝罪にしろ、いずれの場合でも、自分のやったこと自分の行動について自らが考えて、評価をするというそういう前提があるんじゃないかなと。反省にしろ、謝罪にしろね。自分のやった行動ですよね、それについて考え、あるいは考えて評価する。その結果、出てくるものだろうという風に思います。ただ、そういう前提で考えないといけないんじゃないかなと。もう一つ先ほど法人が謝罪するとか、問題が起こってくるわけですけど、その場合はもちろん法人だって、法人がやったことについて法人として、役員が中心になるんでしょうけども。法人として考え、評価をし、その上で外部に対して謝罪をするということがあり得る訳ですけど、その場合もその効果とか影響について考えざるを得ないのかなと。それは自分たちの利益とか、それを謝罪した時に、場合によっては他の法人、他の人達にとんでもない悪い影響が出ちゃうかもしれない。そういうことも起こってくるのかなと思いました。

・以前とある議員さんが交通事故とかを起こして、「もう辞めろ」と責められた時に、会見か何かで「今この職を辞するのは無責任だと思うので、続けながら反省します」みたいな話をつらつら述べていたんですね。それを聞いた時に、謝罪の仕方というか、何だろうな僕はミスをしたらやっぱり罰(ペナルティ)を受けるというか。この場合は自分に罰を科すというか、そういうことをした方がいいんじゃないないかなと。議員報酬をもらいながら、「真摯に皆様のお言葉を」みたいな話をされても、自分に甘いんじゃないかなと。謹慎とか罰金とかじゃないと、大人においては責任の取り方って、その二つなのかなと思ったので、その議員さんの職を辞さずに続けながらという話は僕はモヤモヤしたなという記憶がありました。

・謝罪といった場合、個人で色んなことに関してできることで、謝罪というのは確実に相手がいることだと思うんですよね。ただ謝罪ということを考えた時に、反省が出来なければ謝罪は出来ないと思うんですよね。なので、その反省が出来るかどうか、正しい反省が出来るかどうかってところが物凄く大切で、その時にさっき私が言った「悪いプライド」、例えばこの社会の競争の中で、受験もそうですけれども会社の中での競争も、要するに会社なんかでは賃金制度というのは労働者の競争があって、支えられるものなんですね。私たちのどんな小さな苦しみもそこから来ているのではないかと考えているんですけど。例えば具体的に競争で自分が上か下かなんて考えているような場合は、やはり反省も謝罪もできない人格になってしまうというか、そのことで相手に傷をつける。だから、反省や謝罪は相手がちゃんといる場合、相手のことを相手の想いや、苦しみを想像することが出来るかどうか。そういうことに、そういう能力が関係してくるというか。という風に思いますね。それが国家であれ、個人であれ同じであってやはり反省と謝罪は、私反省ばかりの人生なんですけど、真剣に生きてる人ほど反省はしていると思うんですね。あと謝罪もしているだろうという風になんか分かるなと思います。

・さっき、「主体・客体・基準」という話をして頂きましたけれども、その際にもう一つ主体と客体とだけじゃなくて、どなたか行為と仰ったけれども、何らかの行為、言動でもいいんですけど対象となる何か行動・言動というものが、確定されなければならないのかなと思っていて。ただ寧ろ、確定しないようにしている。特定の何かって確定しないようにして、ぼわっと人格そのもの人間そのものとして悪いと、それを「反省しろ」っていうことがよく行われるんだけれども、基本はその主体・客体の主体が何をしたのかと、客体に対して何をしたのかっていう具体的な行動・言動というものがまずきちんと特定されるべきじゃないかなと。その要素というのを加えた方がいいんじゃないかなと思ったのが一つ。それから反省できなければ謝罪できないというのは、物凄く真っ当な理論としてその通りだと思うんですけれども。微塵も反省していないけれども、謝罪だけするっていうことはあり得るんじゃないかなって思っていて。つまりそれは口先の謝罪なんですけれども、例えば企業として何かしでかしてしまって、当然その人がやったかどうかも分からないし、法人としてなんだけれども「まぁ、しゃーないよね」と思いながら、それ以上炎上してしまっては困るので、きちんと謝罪してみたいな。だから、凄く上手い謝罪をしているなと議員でもいいですし、法人でもいいんですけれども、それっていうのは「本当に反省しているのかな」ってたまに思わないではないことがあるってことが、一つです。だから、口先のというかそういう謝罪というのは、謝罪と言っていいのかとか、みたいな問題にもなるのかなって聞いていました。

・思い出しました。小沢一郎がね、確か従軍慰安婦の問題であの時に、「謝ればいいんでしょ」っていう風に言ったのを思い出したんですね。その時は、相当悪いだなという風に思ったのを思い出しました。

・先ほど三つの基準と言ったんですけど、四つ出して頂いて私その後の皆様の対話を聞いている中で、じゃあ一番その四つの内の中で、何がその中でも主体として何が基準になるのかといったら、やはり価値判断基準というものが、根っこにあるのかなと。根はそこにあるのかなと。例えば、アメリカの社会であれば「これは自分がまずい」と思っていても、謝ってしまったらお終いというようなことも。アメリカに住んだこともないので分からないんですけど、そういう西洋人というのはどちらかと言うと、そういう考え方をしているのかなと。僕は小沢一郎さん結構囲碁が好きだということは知っているんですけども、過去にネットで韓国人と囲碁を打っていると、韓国人は絶対に謝らないというか。相当強硬な手を打ってきて、こちらからするとめちゃくちゃなこともやってくると。やはり悪いと思ったら反省をしなければ許せないという感情って、日本のという言い方も私は好きではないんですけれども、日本の風土というのが国民性というがあるのかもしれないなって、今ふと思ったんですけど。なので、国会議員の先ほどの発言があると、一方ですね国会中は不逮捕特権とか法律ではあると思うんですけど。なんだけれども、ああいうことがあると「それはおかしいじゃないか」と思うのは、国民性とかですね、そういうものは根にはあるんじゃないのかっていう風に私は考えました。個人的には先ほど女性の方が発言されたようなことも、私はほぼほぼ9割感情的にはすごい賛成ですし、どちらかというと私も先ほど発言された女性のような思考パターンを持っているんですけども、一歩引いて考えるとそれぞれの風土とか、価値観とかそういうものが根っこになって、それから見たらば謝罪とか、反省はちょっと違うと思うんですけど。謝罪というものはそこから見てどうなのかなって問題に行きついているんじゃないかなっていう風に私は思いました。

・今の方の話とちょっと関係ある気がするんですけども、例えば神の居るキリスト教の文化みたいなところで反省するといった時に、教会に行くわけですよね。それで懺悔をしたりとかですね、こっそり「私はこんな悪いことをしました」と言う訳ですよね。それは私は誰かを殴りましたっていうのを殴った人に謝っているのではなくって、神に対して言葉として反省したりする訳ですよね。何が言いたいのかというと、そういうような神とかそういうような絶対的な基準がある場合というのがあるとすれば、反省や謝罪というのは成り立ってくるのだけれども。現状今の日本はそういうのはないですから、そんな中で果たして反省の基準も成立しうるのかなと、ふと思ってしまうんですね。先ほどから色んな方が仰っていて、自分が思ったから反省だとか、いやいや自分がこう思っても相手が思わなきゃ謝罪にならないとか、あるいは政治家が謝った格好をしているけれども、そんなの謝ってねーだろとみたいな。色々社会の目とかですね、色んな基準とか色んな視点とかから、反省しているかどうかとかしてねーだろとか、あれは本当の反省じゃないとか、ごちゃごちゃしてしまう。とっても相対主義的な状況になってしまう。これがちょっと今の神無き時代には致し方ないのかなと。なおかつ先ほどの方も言われていたと思うんですけども、日本の文化的風土といいますか。ある種、馴れ合いの中で、誰か悪い人をスケープゴートに探したりですね、なんかうじうじして皆横並びにならなくちゃいけないみたいな、ある種日本的な変なところも加わって、今の反省とか謝罪とかっていうののごちゃごちゃ状況をよりなっているような気もします。

・僕は「謝罪ってなんでするのかな?」と思った時に、「失った信頼を取り戻す行為」なんじゃないかなと。謝罪会見とか色々企業がやったり、この間も保育園で送迎のバスに子どもを取り残して、熱中症で死亡したという事件もありましたけれども。ああいった謝罪会見というものを見ていると、「失った信頼を取り戻す行為」の会見とはちょっと思えないなと感じるというか。だから、モヤモヤしているのかなというか、何か納得いかない会見だったと思うのかなという感想です。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

12月17日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「人に迷惑をかけてはいけないのか?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



てつがくカフェ@ふくしま報告2022.10.22.「人間はどういう存在か?」

2022年10月31日 11時47分19秒 | 定例てつがくカフェ記録
遅くなりましたが、10/22(土)に開催された

「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10人、オンラインでは7人の計17名の方にご参加いただきました。






「自由とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・さてそれでは本日のテーマに入っていきたいと思います。本日は「人間はどういう存在か?」という、これも多分二月の時に皆様に色々とテーマを頂いて、その中に出てきたテーマだったんじゃないかと思いますけれども。まあ「人間はどういう存在か?」、他の動物と比べてとか他の存在者に比べてどういう特徴があるのかとか、もっと言うと人間にとって何が一番本質的な特徴なんだろうかとか、色んな事が考えられて古くからずっと語られてきたテーマだと思いますけれども。今日はそのテーマに挑戦していきたいと思います。それではどなたからでも、どうぞ。

・言葉の整理だけしたいので、そのための質問なんですけどもここでは「人間」という言葉を使っているけれども、それは「ヒト」とかあるいは漢字で書く場合の「人」もあり得るだろうし、カタカナで書く場合もあるだろうけども、あえて「人間」って選んだのか、それとも何か取り敢えず一まとめで選んだのか、その辺りの意図があれば、元々提案された方でもいいですし、あるいは今日の主催者でもいいんですけれども、ここだけ教えていただけると話しやすいです。

・この件に関しまして、主催者から申し上げますと全部含んでいます。特にいくつかある中から選んだ訳ではなくって、人はどういう存在かとか、カタカナだろうが漢字だろうが、よりは人間の方が伝わりやすいだろうなというだけの話で、特に理系的に言うとカタカナの「ヒト」って言ったときの色んな意味を含んでいますけども、そこは特に限定しておりませんので、全部ひっくるめております。

・前の方が仰っていたように定義が曖昧だったのですが、私が思ったことは「人間とはどういう存在か?」を聞いて思ったことをお話ししようかと思います。私は人間は主観で生きる存在だと思っています。ここで言う主観というのは、知覚に基づいて物質世界を認識するという状態なんですけど。物質世界を正しく認識できないのが人間であって、正しく認識しようとするとゲシュタルト崩壊という状態になってしまう生き物だと思っています。それで知覚に基づき、物質世界を認識するっていうところはバークリー(George Berkeley, アイルランドの哲学者)という方と同じなんですけど、私は「認識されないものは存在しない」とは思っていなくて、断言しないんですがバークリーという方は「知覚されないものは存在しない」と言っていて。ちょっと、まとまりなくて申し訳ないんですが、結論としては人間とは物質世界を正しく認識しておらず、主観の中だけで生きている存在であるというのが、私が今日考えた感じです。

・今の話を聞いて僕は全然分かんなかったんですけど。もう一度仰るか、つまりどういうことなのかと仰っていたその「つまり」も分からなかったので、もうちょっとかみ砕いていただけると、理解がしやすいかなと私は思います。

・ついでにゲシュタルト崩壊も分からないので教えてください。

・今質問ともう少しかみ砕いて欲しいとお話しいただいたので、かみ砕こうと思うのですが人間が見ている世界というのは主観の中だけで生きていて、現実的な物質の世界を正しく認識できているかというと、例えば動物ですと色がちょっと見えるものと見えないものとがあるように、人間も全部見えていると思っているけれども、もしかしたら見えていないかもしれないし。というような感じで、なんて言ったらいいんでしょう。主観てあるんですが、うまく言えなくて、ちょっと。自分の中というか、自分の心というか自分の世界だけで生きていて、自分の世界の認識の中だけで生きている存在みたいな感じで。ちょっとどうでしょう?こんな感じで。ゲシュタルト崩壊については、簡単に言うと精神崩壊っていう状態なんですけど、精神を病んでしまう状態で自分が誰か分からないとか、その精神医学的な話になるんですが、自分が自分であるっていう自己が分からなってしまったりとか、発狂してしまうというような状態で、簡単に言うとそんな感じです。

・今の方に質問なんですけど、今仰られたことは、人間というのは主観の中でのみ生きているということなんですが、その場合前に知覚で物質世界を認識しようとする。知覚と物質世界というものも前提にされていると思うんですが、それは要するに主観との関係でいうと存在は認めるわけ?知覚というのと物質世界というもの、存在を認めた上で主観は自分の中だけで生きているということなんですか?そうすると、物質世界と主観との関係はどういう風になるんですか?

・最初にうまく言えなかったので申し訳ないんですが、知覚と物質世界の関係性は、私は知覚自体はあるものだと思っていて、動物にもありますし、人間にもありますし、その知覚という状態で物質世界はあるんです。あると思うんです、私の中ではあると考えていて、ただそれは人間は正しく認識できるかというと、正しいとされている人間のルールなんですが、もしかしたら違う生物から見たら違うかもしれないという状態だと考えています。

・はい、ありがとうございます。今日のテーマで最初からこういう本当に哲学的な話が出て楽しいなと思っているんですけれども。つまり知覚というのは、各生物が知覚を持っていて人間は人間の知覚によって物質世界を受け止めているんだけども、それはあくまでも人間が人間の知覚で受け止めているだけの話だから、物質世界そのものは存在してはいるんだろうけど、それそのものを正確にというか、そのままありのままに捉えているわけではないという考え方かなと思っていて。それは僕が研究しているカントという人と、カントも当然バークリー、これも近代の哲学者ですけど。バークリーの後に出てきて、バークリーの事なんかも分かった上で、人間というのは人間の感覚能力で世界を捉えて、受け止めているんだけども。その受け止めたものそのものは、世界そのもののあり方とはちょっと違っていて、正に人間の固有の世界なんだと言ってるんだと思うんですが。その場合に、主観で生きる存在と一番最初に仰っていた「主観」というのは、つまり受け止める側の人間という意味なんだと思うんですけども。ただ、カントだとそれこそ人間にはみんな共通に、人間に知覚能力があるから人間同士の間であれば、知覚された世界は人間として知覚した世界だよということで、共通だとカントは考えるんですけれども、バークリーなんかはもう少し先まで言っていて一人ひとりの人間が知覚するわけだから、一人ひとりの人間のあり方で知覚のあり方が変わるかもしれなくって。そうなるとまさに、主観というのは「人間みんな一緒だよ」と言っているわけではなくって、人間同士でも知覚もバラバラ、受け取ることもバラバラっていう風にもそういう風な議論にも展開することが出来て、どのレベルで仰っているかが、まだちょっと分からなかったなというのがあったのと。それからゲシュタルト崩壊は主観の中で起こるというのは、その通りでしかなくてどちらの意味においても、要するに自分たちが受け止めたものの中でしかないとは思うんですけど、問題は人間同士、同意しているのかしていないのかっていうのが一つと。この場合主観の中でのみっていうのが、一人ひとりの人間を指しているのか、それとも人間全体を指しているのかっていうのがどうなのかなってちょっと思いました。

・彼女の話を聞いた時に、「物質世界を正しく捉える」って言葉が出てきたんですけど、正しいというと正しくないというのも出てくるなと思って、今話を聞いたら「ありのままに捉える」というのを聞いて、そういうことを言っていたのかなと思って理解しました。

・ちょっと確認なんですけども、要するに私意見を聞いていて、こういう事なのかなと思ったのは、主観というのは大雑把に言うと「心」と解釈していいのかなと思うんですよ。主観すなわち心というのは、物質世界を解釈するんだと理解してよろしいんでしょうか?

・二点ほど質問頂いたので、お答えしたいと思います。まず、人間個体の認識の主観か、もしくは人間共通の認識なのかという点なんですけど。私は人間個体だと思っているんですが、基本的には色を見ててもそうなんですが、感じ方というのは大体同じだと思っているんですが、実際には微妙にズレがあると考えていて、全く同じではないと思っています。ただ、人間という生物の中で、ここからここまでぐらいは人間の認識が可能という範囲が、あると思っているので、その中で同じ思いをしたとか同じ感情だという風にカテゴライズすることは可能だと思っています。なので、その答えに関してはちょっとバークリーとカントの中間ぐらいになるかなと考えています。主観は心という理解でいいのかという話なんですけど、まだ私はそこまで考えていなくて、心と言ってしまえば心なのかもしれないし、確かに心に近いものではあるんですが、心というのを考えたことがないので、ちょっとまだ分からない状態です。

・よろしいですか?ちょっと提案なんですが、今心と主観という話を仰っていて、また哲学的なターム(述語、専門用語)が増えちゃうと非常に複雑になりすぎちゃうとないう気がしているんですね。心というのと主観というのは、概念として全く別のものだと思いますので、それを一緒にしちゃうのは不味いかなと。例えば主観で言えば、対概念が客観ですよね。心の場合は、肉体だったりなんだり、そういう風に言葉の聞き分けをちゃんとしていかないとこの話が、ぐちゃぐちゃになりそうだなと思うのが一点ですね。それから先ほど仰っていた主観的とか、人間一般がそうなのか個々人がそうなのかというところの問題なんですけれども、確かに色の見え方なんてのが全員人間が同じように見えることを証明することは不可能だという意味においては、バラバラかもしれないんだけど、僕ら実際に人間社会生きているにあたって、何の問題もなく言葉を使って、色んな話をしているわけですから、その意味では共通しているということでいいんじゃないかなと思います。いろいろありすぎて取り敢えずこれぐらいで。

・主観で生きる存在が人間だと定義してしまうと、例えば赤ちゃんとか生まれたばかりで、まだ自分のアイディアをまとめ上げるような状況は出来ていない場合はどうなんだろうか。あるいは、死ぬ寸前のヒト、それはもはや人間ではないんだろうか。どうなんですかね?

・赤ちゃんとかですと、生まれて間もない名前を付ける間は神の子とか言われているとお話で聞いたことがあるんですが、私としては生まれたばかりの赤ちゃんも段々自分という人間になっていくのかなって思います。人間として生を受けた赤ちゃんなんですけど、そこから自分という人間に、人間にというとそこは厳密に言うとズレがあるような気がするんですが、なっていくのかなって思います。

・多分今の言葉遣いだと人間っていう言葉が二つの意味になってしまっていて、人間として生まれる人間というのは、その主観で生きる存在としての人間ではないように捉えることが出来るような。それで、後者の方は自分という人間になっていく、なっていった先が人間がその定義でもいけるような気がするんですけど、そうするとその中間領域にいるときは、何なんでしょうね?

・中間というのは、生まれてから人間になる間の?そうですね、自分の世界で生きているのは人間なので人間だとは思うんですけど、そこから更にこう自分という自我が発達していって、更にこう二重の意味になってしまうのですが、人間になるのかなと思います。

・あの主観という言葉の定義が、分からなくなってきたので、そこをちょっと抑えていただきたいのですが。

・話を聞いていて、発言されている方の考え方がなんとなく分かるんですけど、非常に未整理な感じがとてもして、主観とかある意味哲学史の中で、ある程度は洗練されてきたといっても、まだ洗練されつくされてはいないのだけれども、ある程度議論されてきた言葉を不用意に使い過ぎているかなという気がしてしまうんですね。それで私としてはもうちょっと、優しい言葉でやった方がいいんじゃないのかなという風に思ってしまうんですけど如何なんでしょうかね。

・主観ということで、我々は主観的に生きていると分かるんですね。それで主観の問題について、色んな広がりが持っちゃうんですけど、これまたちょっと曖昧かもしれないけど、要するに自分ということだと思います。自分とは何かという問題はあるんだけど、普通に考えてあるという前提で議論すると、まぁ主観というのは自分かなという風に思うんですが、いかがでしょう?

・すみません色々ごちゃごちゃになってしまって。主観というのは自分とも言えるとは思います。

・多分この主観で生きる存在という定義ですが、これだけで十分一日中喋っていられるかなと思って楽しいんですけど。皆さんは僕が考えていた「人間とは?」というのは、「意味の世界に生きる存在」という風に考えていて。それは先ほどから仰っていた主観で生きる存在というのに似ているかもしれないなと思いつつ、ただ先ほどの御質問で「じゃあ赤ちゃんはどうなの?」という風に問われると、確かに赤ちゃんは意味を獲得していない訳で、意味の世界には生きていないんだけども、基本やっぱり意味に生きるようになるそのための基本的な能力は、本能的に遺伝子的に受け継がれてきて、勿論言語が話せるというのも。言語が話せるというのが一番大きいと思うんですけど。つまり意味も言語によって成り立つ訳ですから、言語を話していないけれども何語でも話すことが出来るような、そういう能力は持って生まれていて。カントは「人間とは人間になるために教育を必要とする唯一の動物だ」と言っていて。つまり、まだ人間になっていない訳です。人間になるのに、教育が必要だと。意味もそうだし、言葉もそうだし、文化も全て教育がないと生まれてきた時に、素質は持っているんだけども、そのまんま放っておいたら駄目で。そこに教育を施して言葉を教えて、意味も教えていって段々と人間になっていくと。そういった意味で、「意味の世界に生きる存在」だと。意味の世界というのは、客観的な物質世界とも違うし、それこそ意味を共有している人たちとは意思疎通できるけれども、意味を共有していなければ意思疎通もできないかもしれないし。そういう意味で「意味の世界に生きる存在」と考えています。

・今の説明はクリアで理解できるんだけれども、そのように考えた時に問題がいくつかあるなと思うんですけれども。例えば、生まれながらにして知能が低い人、その人は人間に含まれなくなってしまう可能性があるなと。あるいは生命維持装置で辛うじて生き延びている人、今あえて人という言葉を使っていますけども、それもどうなのか。もしヒトと人間を分けていて、その上で人間と呼べるのはその範疇だとすると、何となく曇ってしまう気がするんです。何となく怪しいかなと僕は思っていて、要するにもしそうであるんだったら、最早管を外したらすぐ亡くなってしまうような人を生かしておく理由というのが、本当にあるのかというところに行きついてしまい、でも少なくても現状では中々抜けないですよね。何故管を抜けないかと言ったら、それは少なくとも我々の文化では人間だと思っているからで。その辺りをどう整理するのか。片仮名のヒト、漢字の人をしっかり使い分けてしまって、その内の人間と呼べるものはそうなんだと割り切ってしまうか、どうなのか。その辺りどう考えているか、ちょっと知りたいです。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

11月23日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「反省と謝罪はできるのか?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



てつがくカフェ@ふくしま報告2022.9.17. 「自由とは何か?」

2022年09月18日 17時02分32秒 | 定例てつがくカフェ記録
9/17(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11人、オンラインでは8人の計19名の方にご参加いただきました。






「自由とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは、本日は「自由とは何か?」というテーマで対話をしていきたいと思います。ブログをご覧になっていただいた方はご承知かもしれませんが、自由というのは哲学の方では非常に昔から、問題になってきたつまり神様がこの世界を、宇宙を創造したのだと、宇宙創造の時点で決められていてその中に生きている私達には自由なんて何もないのではないかという議論が本当にまことしやかに信じられてきたわけで、現代においてもそもそも自由意思というのは幻想にすぎなくて、そんなものは無いというようなこと、全てはいろんなものが決定されているという自然科学の中でもそういう話があって、人間は本当に自由なのか?自由意思なんてあるのか?というのは一つのテーマではあります。そして、近代以降政治的な自由ということで、それまでは封建制と言いますか、専制君主、絶対王政で王様が一切を決めて他の人間は国王のものだった訳ですね。そういった時代から、そうではなくて私達一般の市民にも、自由を寄こせと言うか自由をめぐる闘争というか、近代の歴史の中で少しずつ自由というものが、勝ち取られてきたという意味での政治的自由とか、経済的自由であるとか行動の自由であるとかそういったものが、政治とか政府との関係において、自由というものが言われるようになってきている訳です。他にも、色々なレベルで自由という言葉が聞かれますが、どのレベルで今日の話が展開されるのかというのも、含めましてあとは皆さまの議論に委ねたいと思います。ここからはご自由にご議論いただきたいと思います。

・取り敢えず選択の自由は全員にありますね。だけど情報がいろいろな形で制限されているということがまずあると思います。あとは国家権力というのがありますから、いろいろな暴力装置を持ってるし、そういうのが影響する場合は、大変だけれども選択の自由はあると思います。

・冒頭に主催者が仰ったのですけど、要するにキリスト教的な考え方だと神がこの世を作られた、すべてを取り仕切っているというの中では、自由などありえないと。まぁその通りだと思います。ただ別の意味で、人間というのは根源的には自由ではないのではないかというふうに考えております。と言いいますのは、我々は一人ひとり父と母の間に生まれてくる。つまり、我々の命自体が、他者に依存をしている。ある意味では不自由で、依存しているということはまったく自由ではありえない。生まれてくるのも、人々の中で構成されている、人間に限って言えば。そういう中に放り出されるというか、生きていくわけだから、他人依存ということからすると、自由では根源的にはあり得ないのではないかと。その根本は我々は肉体的な生き物、存在であるというところに来ているのかなと思うんです。ただ、そういうことにあまりこだわってしまうと、多分今日の皆さんの議論したいと思っていらっしゃるのは、例えば基本的人権とか、表現の自由だとかそういうようなことで議論されたいのかなと。それは物凄く意味のあることで私も大賛成なんですが、それも大切なんですけど、その場合自由ということはどういうことか議論されるのかと。やっぱり、人間の行動についての自由という風になってくるのかなと。行動について自由の問題を議論するということになるんだろうというふうに思います。取り敢えずはこんな感想を持ってます。

・今の方が仰ったことで「行動」と言っていましたが、「行為」と言った方が適切ではないのかなと思ったというのが一点です。まぁそれはどうでもいいんですけど、あのブログに書いてらっしゃったことで「今の学生に聞くと自由というのは何でもかんでも、好き放題できるようなことを言う」と、そういう人が多くいると書いてあるのを読んで、あぁそうなんだと思って。ただあんまり、自由ってよく考えなければなんでも好き放題することが自由なんだなと思っちゃうのかなと思いながら、先ほどの方も仰っていた通り、人権とか社会的な自由ということとか、あと行為の自由とかいうのは多分議論としては、ちょっと違った話にもなってくるなと気もするんですね。どっちの話でもいいんですけど、一つは学生の話。何でもかんでも好きなことやるのが自由というのは、端的に間違いですからそれは排除しましょうねと言いたいです。というのは、例えば今から宙に浮いてふらふらと空中遊泳をしたいといっても、そんなことできるわけないですよね。江戸時代に行きたいなと思っても、そんなことできるわけもない。それを先ほどの方が仰った「肉体」というものがあるからということだし、あるいは社会的な制約、自分がいつどんな時代にいるからという制約があるからですし、色んな意味もあります。そういう意味で、完璧な自由なんていうことはまずあり得ないのであって、そういう意味での極端な話というのはちょっと無しですねと言いたいのが一点。さっきから仰っていた中世の神様がすべての原因だから、我々は自由ではないというような昔の考え方というのを因果論による、因果論的なものによる自由かそうでないかという議論だとすると、我々が普通使っている自由というのは理由がついて話しているわけなんで、ちょっと別のものかなと。

・実は今回のテーマも実は考えがまとまっていない状態、それだけ見方、切り口によって自分の中でも自由の捉え方が右に行ったり左に行ったりしている。その中でも問いを出したいと思うのですが、自由とは何かというテーマそのものなんですが、状態としては自由というのはどういう状態なのかな、どう捉えればよいのかなとお答えいただければと思います。

・皆さんの意見も参考になるんですけど、人間というのは社会性を帯びた時から、先ほど誰か言っていましたが、根源的な自由は根本的に有していると思うんですけど、社会的規範とかある程度の自治権の制限のもとに自由というのが認められていると思うんです。例えば憲法とかはっきりとした条文になっていますので、そういう自由というのは憲法で保証されているのが人間の組織性とか公共の福祉を考えると本当の哲学的な自由じゃなくて、社会的な自由というのは我々個人個人によってかなり制限を受けるのが今の時代ではないのかなと思います。

・今まで出た中で、二つほど。ブログにもあった学生の自由に対する考え方を憂いているということで、私自由って何なんだろうと、辞書を引いてみたんです。そうしましたら、辞書に難しい言葉で書かれていて、その後に好き勝手にすることみたいに二つぐらいの辞書に書かれているんですね。そうすると若い学生さんたちは、自由って何だろうなと思ったときに、辞書を引く学生さんも一定数いると思うんですね。そうすると辞書に、好き勝手にすることって書いてあったら、「あぁ、そうなのか」と知識として入ってしまいますよね。だから辞書の功罪といいますか、辞書を編集している人にもうちょっと真剣に説明してほしいなというふうに感じました。あと、どういう状態かということを先ほど問いかけられていましたけれども、私の場合は、どんな環境でも気持ちよく自分自身として、漂っていられるという状態が、私にとっては自由なんですね。じゃあ気持ちよく漂っているのは、どういう状態かというと楽だなと、「苦楽の苦がないわ」といった感じとか、「軽さがあるわ」「重くないわ」みたいなのとか、明るさもある。自由を感じるときには明るさもある。それも自分にとって、いい感じの明るさで楽しさもある。気持ちよさもあるんですね。自分が自由に漂っているなと。それで、穏やかさもあるんですよ。だから、自分にとって非常に心地いい感じの時、それをある一つに例えれば、好きな音楽、好きな楽曲を聞いて、好きなリズムで自分のアレンジで歌ったり踊ったりしているような感じとも言えますね。そんな感じです。

・二点ほどしゃべることがあって、福島大学の学生さんについてなんですけど、僕も福島大学の哲学カフェで自由についての話に参加したことがあるんですけども。やはり自由というのがざっくり言ってしまうと何でも好きなようにできるという話が出たんですけど、そういう認識になってしまうのは、分からないから辞書を調べて何でも好きにできるようになるという言葉が出たと思うんですけど。歴史上、自由になるというのが関係していて絶対王政からそれが終わって、今まで縛られたものが無くなって、ようやく自分が好きなようなことが出来ると。制限から離れるというのが自由というのが、今まで学んできたからというのが一番大きいのかなと思っていて。そうなると制限が無くなる、規制が無くなる。それがようやく自由だという意識になってきているのかなと、ちょっとあるのかなって思いました。それでもう一つが何言うか忘れちゃったのですけども、話を変えて制限が必要になってきて、例えばこの話し合いで場でも、自由に話していいといっても人の誹謗中傷はやっちゃ駄目で。やっては駄目なんですけども、正直誹謗中傷したい人からすると、この話し合いの場は不自由になるじゃないですか。
やっぱりそうなってくると、人の認識というか考え方の違いによって、自由と不自由が全く逆になってくるというのがあるのかなって思いました。

・自由とは何かということで自由の定義というか、辞書的な解説というか。そういうことからすると何でもかんでもできることが自由とこれも一つあると。好き勝手なことで好き勝手に生きるとそれも自由といえるかと。学生さんがそういうことを仰ったということなんですが、それはある意味、一面真実を突いているんじゃないかなと。だって、この世の中には殺人ということ、殺すということがある。だから、何でもかんでもできると思っていればこそ、殺人ということも起こってくるのかなと。それがもうそういうことは、そういう自由はもともと無いんだということを世の中の決まりとして、あるいは鉄則としていれば、そういう殺人なんかも起こらないじゃないかと。でも現実には起こっている。だから人間の行為、行動ということではそういう面もあるのではないかという風にも思う。だから自由ということについては、自由の反対語が不自由で、それぞれ自由でないことは不自由だと説明ができる。これでは論法でぐるぐる回るだけであまり生産的ではない訳だけど。要するに、我々が世の中で生きていく場合、人々の間で個として行動する場合には、自由と不自由であることのバランスを取ること。まぁ、それしかないのかなと。だって何でもかんでもできる、好き勝手なことができるということで、嫌いな奴をぶっ殺したり。要するに、自分も生きていけないし、人々もおちおち生きていけないということになってしまいますから、自由というのは常に不自由とバランス、どこに折り合いを見出すかと、ということなのかなということで。その折り合いの見出し方が、まぁ歴史的に文化とかなんか変わっていく過程で、倫理になったり道徳になったり、制度になったり法律になったりということになってきているという。まぁそういうものも、ある意味では自由を規制している。不自由ということを逆に不自由ということも我慢しないと、まぁ人々が全体としては、生きていけないのではないかということになってきているのかなというふうに思っています。

・まぁ今のように自由を捉えると、正にその自由は当然制限は必要で、自由には制限が必要なんですけれども。そういう言い方をすると、自由っていうのは保証すべきものということにはならなくなってしまうという気がするんですけど。要するに、守るべきものではなくなってしまうような気がしてしまっていて。つまり、どうやって制限するかっていう話になっていってしまうので、一般に日本人が考える自由ということをそもそも考える必要はないんじゃないかなと、僕なんかは思っていて。てつがくカフェなんかだと、盛り上がってみんな自由に話してもらっていいんですけど、みんなそれぞれの五感というか、自分が使ってきた定義でお互い出し合って話して、そこからなんとかなっていけばいいんですけど。それとは別に、教員養成の方で社会科の先生になろうという人たちに同じような話、自由の話をしなければならない。その場合の自由って、正に基本的人権とか社会的自由の話なんですけども、その話をする時には、まずホッブズという人がいて、彼は完全ある自由、つまり自己保存のためにありとあらゆることをしてもいい自由というのを自然の権利、生まれつきの権利として認めたんだけども、それでいくと結局戦争状態になる。正に殺し合いになるしかない訳だから、そのすべての人権は剥奪すると。剥奪して全部リヴァイアサンにあげましょうねという。そういう意味では正に自由は無しになると。国民の側の自由は無くなるんだというような議論を、そういう組み立てのお話を作ったんですけども。それ以降、寧ろ自由という概念を積極的に使っていこうとした場合の自由というのは、要するにありとあらゆることをしてもよい自由ではなくって、「みんなが自由になれる自由」というところから出発して。それはロックとか、ルソーとかカントとか、その後発展させた政治的自由、あるいは基本的人権として認められた自由であって、それは「みんなが自由であり得る自由」っていうふうに言わざるを得ない。それがあり得るということは、当然みんなが自由でありうる制限がかかってきて。人を殺したい、殺しちゃいけないとうのは、それは相手の自由を奪ってしまう訳だから、相手の自由を奪う自由はない訳で。自由っていうのは、ホッブズの次の段階で完全に変わったんだというふうに思っていて。現代に繋がってきているのは、「みんなが自由であり得る自由」だけしかないんじゃないかなと思っている感じです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

10月22日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「人間はどういう存在か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



てつがくカフェ@ふくしま報告2022.8.20. 「お墓は必要か?」

2022年08月22日 16時20分13秒 | 定例てつがくカフェ記録
8/20(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には15人、オンラインでは7人の計22名の方にご参加いただきました。






「お墓は必要か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。


【お墓について】
・最近納骨が済んで、一区切りついたなという感想なのですが、そうした経験から最終的なお墓というか弔い場所は必要だと感じた

・お墓をどう考えるか。墓地に石があって仏教の場合は火葬したり、遺骨をお墓に移す。キリスト教の場合は埋葬するなど、宗教によってお墓はいろいろあると思う。例えばチベットとかは鳥葬などがあり、他にも風葬や散骨などの弔い方もある。それぞれがイメージをしてお墓が必要か否か考えるのが先かなと。つまりお墓は何なのか?ということ

・今回のテーマを考えると、違いは何かしらの宗教施設というか、宗教団体なのか市営のものかによって違うので、どう考えるかというのは宗教との向き合い方になるのではないかなと

・墓とは何か?ですが、自分は幼くして我が子を亡くしまして、墓掃除のために毎週通っている。それは自分のためにしているというか、そこに子どもが存在しているわけではないのは分かっていますが、いつまでも愛しているという想いで通っていまして。きっと伝わるだろうと。お墓は心の整理を果たしているのではないかなと

・終戦記念日が近いこともあって、考えたのが戦争でお互いに戦っている人たちについて。殺し合いで自国の兵隊同士は遺体を埋葬したりするが、敵の兵隊が亡くなったときほっぽらかしている。最早お墓どころの話じゃないなという感想です

・墓はいらないというのが自分の意見です。遺体を焼く焼かないとか色々宗教によって違いがありますが、死んでしまったら無だと思っていて。お墓は残された人のためにあるものなのかなと。今までの日本であればお墓が必要ということでしたが、お墓を作らない国もある

【お墓は誰のため?】
・お墓は生きている人のため=主な目的なのかなと思います。たまに亡くなった友人のお墓に行くのですが、それは自分のためなのかなと思っています。あとウクライナ兵のお墓は作るが、ロシア兵は作らないとうのは、ある意味見せしめみたいなものになるのではないかなと感じました

・自分が死んだらどうかというと散骨を希望している。ただ自分の子どもが価値観として墓参りしたいのなら作ればいいかなと思っています

・話を聞いていて思ったのは、生者のための意味合いが強いのかなと。死者のためでもあるのは、それは亡くなった人の意見を伺えないからというか、考えられないわけで。ただ、死んだ側にとってのお墓の意味もないわけではないのかなと思います

・私の父は生前から終活をやっていまして、遺言も財産も土地も全部決めていた。私がやることないくらい葬式もお墓も全て父の願いのまま弔ったので、そうなると亡くなった人のものとしても考えられるのかなと

・子どもの時から墓参りが嫌いでした。夏の暑い中、行かなければならないのが苦痛だった。なので自分の子どもにはそういう思いをさせたくないと思っていて。けれど、嫁ぎ先では先祖を祀る意識が高くて、その考え方に違和感を覚えていて。また名字についても違和感があって、何か家に取り込まれているというか。あと年代によって考え方も違いますし、経済状況も違う。私は亡くなったら、医学生のために解剖に使われてほしい。私の遺体はお墓に戻さなくてもいいという意見です

【死んだらどうなる?】
・今回は非常に興味深いテーマだなと思って参加しました。自分が考えたのは、死んだらどこへ行くのか?ということです。それは今も分からないのですが、生きている人間側がどう捉えるかということかなと。真実は誰にも分からないので、自分自身で墓を用意するとかすると捉え方が変わっていくのかなと思っています。死んだらどうなるかを考えていくと、すごく深い話になるなと。建てられたお墓のある場所にずっといるのか。亡くなった場所にいるのか、飛び回っているのか。大ヒットした曲の歌詞にお墓にはいませんとか言っていましたが、死後結局どこへ行くのか?皆さんの意見を可能ならお聞きしたい

・死んだら何もないというのが私の意見です。骨とかの物質だけが残る。なのでお墓なんかどうでもいいと思っていて 父の墓参りにいかなければならないとは思っていない。また父の魂が見ているとも思っていない。ただ自分の心の整理のためというのは理解できる話なので、何かしらの手段として墓はあるのかなと思っています

・自分が成人式を迎える一週間前に祖父が亡くなった時、葬式やら墓代やらで300万程かかったと聞いて、人が一人死ぬとそんなにかかるのかと当時驚いた記憶がある。その後、新しく建てた祖父のお墓に連れられて供養した際に、そのお墓に自分も入るということを聞かされ、縁もゆかりも無い土地のお墓に入るのかと違和感を覚えた

・日本においてお墓不要論は少数派の意見かなと思う。死者を前にしてそのままにしていたら、腐っていく。それをほっぽっておくわけにはいかない。心の問題というか、納骨をする、供養するということが、魂を考えていることになるのかなと。心と心の交流というか死後の世界や亡くなった方の魂について信じているというか。なので、お墓は死者と生者両方のためと感じている

・亡くなった人が思い出さなくなったら二回目の死を迎えるというのを聞いたことがある。あと葬式やお墓は死んだ人に請求されるものというか、結構な額を払う訳で。何回忌というのも払わないと紙を張り出される。お墓は本当に心をいやす場所ではないという印象です

【お墓の役割】
・昔は死んだら共同の山に土葬されていた。自分が子どもの頃は皆がお墓を持っている時代ではなかった。親戚の家に入れさせてもらっていたり、お墓を買う予算を作って引き取るというそういう時代もあった。お墓は作らなければならないという固定観念はあったが、その考えはそんなに古くはないのではと思う。元々仏教でお墓は絶対に必要ということは言っていない。拠り所があったからとか、単純にビジネスとして儲かるからなのかなと。土地も高いし、誰のためにお墓が必要なのかと考えると、それは両方のためじゃないのかなと思う。ただ遠いのでお墓参りに行けないとか来られないというのもある。その時、住職に相談したらお墓の方角に向かって拝むだけでもよいと教えてもらった。要は意識を合わせるというのが、本来の目的なのかなと思います

・心の話や魂の話になっていますが、私は魂はあると思っています。それというのも心霊現象や不思議な体験をしているからで、何と言うか意識はできないけど違う世界にいるというか。その波長を合わせるためのモニュメントとして、お墓があるのかなと思います。亡くなった方と意識を合わせるのがお墓なのかなと

・親しい叔母が亡くなった時、不思議な体験をしまして。私は亡くなったのを知らなかったのですが、叔母が作ってくれた陶器のお人形が食事をしていたら突然風が吹いて倒れまして、その後すぐに叔父から電話があって亡くなったことを知りました。その時、叔母が会いに来てくれたのかなと思いました。小さい頃可愛がってくれて、その後何十年もあっていなかったのですが。それと死は誰にでも訪れるもので、漠然と怖いと言ってられないのかなと思います。死の解釈というか、今後個々に考えていくことが必要になってくるのかなと思います

・死者は遺骨は残すが、現実はその後処理をしなければならない。若い頃はいらないと思っていたがそうは言ってられないというか、段々と変わってきた

・お墓の役割として、効果があるのは親戚筋の大義名分ができるのかなと思います

・お墓も仏壇もそうだが、お線香をあげて煙を見ていると慌ただしい日常から切り離される。なんでも脳波が変わるらしく、別の意識とつながりやすい状態になるそうです。手を合わせると意識をつながりやすくなるとか。あとは、おりんという鐘の周波数も意識と意識をつながりやすい場を作り出す装置というか。三次元と四次元をつなげるための役割としての存在と捉えるのかなと。そう考えるととても良いものなのかなと

・お墓は家族制度の中で守っていかなきゃならないものなのかなと思っています。自分のおばあちゃんがすごく気にしていて、それがすごく重いなと感じます。兄弟が女しかいないので、みんな嫁ぐと墓守がいないというか。自分はお墓参り楽しかった思い出がありまして、山の中に共同墓地みたいな所に行ったり、畑の横にお墓があって、そこにお米を持っていくとか、花を飾っていて先祖がこんなにたくさんいるんだ思った。お墓参りは先祖を知る良いシステムだなと思うが、お墓の問題が絡んでいると難しいのかなと

・先ほど、墓は要らないが墓的な物が必要という話がありましたが、それってどういうものを言っていますか?
→弔うものは必要というか、死者の記憶がある人にとっては必要だろうなと思っています。けれど、それを行うのは例えば、物理的に遺骨がある必要はあるのかとか思っていて。お墓の一番の問題は土地がついてきてしまうことだと思っています。何も土地と縛り付ける必要はないだろうと。自分が今住んでいる家から遠い場所にあるお墓に毎年は行けない。墓移しも墓じまいも面倒で、骨壺持って移動してもよいと思っています

・Twitterのアカウントとか、その人らしさというか考えや思想が知れるので、そう考えると何か図書館の本とかもお墓っぽいなと感じています

・自分の地元は田んぼと墓地しかない場所でしたが、段々と田んぼは無くなって新興住宅地が建てられるようになってきた。けれど墓地は減るどころかむしろ増え続けている。このままだと墓地だらけになるのかなと危惧している。先ほど畑の横にお墓があるとお話しされた方がいらっしゃいましたが、正に自分の地元もそんな感じで、畑や田んぼの中に墓地があって、それを避けるように歪な形で道路が引かれている。墓地を移動することもできないので、区画整理や都市開発の弊害になっている。何かしら圧縮させたり、お墓に代わる別のものを考える必要があるのかなと思います

・亡くなった友人の話で、友人の両親がお墓を建てた訳ですが、もし彼を知る人がいなくなったら世話してくれる人がいないなと思って。故人の好きだった場所にお墓を建てるとかしているが、それに意味はあるのかな思ってしまって。もっと簡易化したものというか、時代や状況に応じてコンパクトにできないのかなと

・故人の想いも大事だとは思いますが、生きている人たちの生活圏を圧迫する形で建てるのはどうなのかなと思っています。例えばアイクラウドのような形を取るとか。スマホが水没して動かなくなった場合でも、ネット上にはデータはあるので、他の機種に変更しても前のデータを読み取れるみたいな形というか。死者のデータがネットに保存されている状態であれば、インターネットに繋いで故人の音声や顔写真などで故人を偲ぶことも可能かなと。わざわざ故人の墓地に行かなくても済むし、土地の問題や維持費などのお金の問題もクリアされるのかなと思います

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







次回のてつがくカフェは、

9月17日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「自由とは何か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

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てつがくカフェ@ふくしま報告2022.7.16. 「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」

2022年07月21日 11時42分40秒 | 定例てつがくカフェ記録
7/16(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。



会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には18人、オンラインでは2人の計20名の方にご参加いただきました。







「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

【人間の恋愛】
・恋愛の主体の人間が減少したと思う。特に日本人はそうかなと。生物は環境適応する能力があり、人間は生きる環境を変える力がある。寒い所や暑い所があると、人間の今のままの形で環境を変えようとする。そうなると従来型の恋愛が出来るのかと疑問に思う。体毛を剃ると性ホルモンを受け取る能力が減少して自分の持っていない遺伝情報について分からなくなってしまう。そうなると見た目の美しさが重視され、それらの遺伝子には左右均等の顔や病気に強いといった遺伝情報が含まれている。現代はそうした美という新たに獲得した生物の幸せという段階に来ているのではないかと思う。

・そもそも私は恋愛は人間のものだと思っています。先ほど生物についてお話しされておりましたが、人間の恋愛は動物とは質的に違うと思っています。文化として愛や恋などをどう解釈するか、ということに左右されるのではないかと考えております。

・今の時代は自由に何でもできるようになって、便利になった。恋愛も自由と言われているが、パートナーや彼氏がいる人が「勝ち組」と呼ばれ、そういった人がいないと世間的には批判される。それはとても生き辛いことですが、子孫を残す目的という観点からだと結婚しないのは生きている意味がないと見なされがち。

・男でも女でも関係なく自分は恋愛というのは、もっと相手を知りたいとか付き合ってみたいといった感情が出てくるものだと思っている。お互いを高め合う関係というか。あと若い人に良く言っているのは恋愛には三つの点が重要だということ。一つは匂いで相手の匂いを好ましいと思えるかどうか。二つ目が笑うツボが一緒。三つ目は食事の好みが合うかどうか。この三つが合えば、一緒にうまく生活できると思う。

【結婚について】
・子孫を残すとか考えなくても良いと思う。統計的に3割以上は子孫を残せていないというデータがある。昔から結婚しない人は一定数いる訳で、結婚しても食い物の好みだとかで喧嘩する。タバコ吸うなら出ていけなんてことも言われる。ただし、共依存にならないように注意することが大切かと思う。

・共依存の話で言うと、それと「お互い支え合う」のバランスというか。それをどちらで解釈するかは難しいと思う。自分の両親の仲は良くないが、今後の老後のことを考えた時、お互い足りない部分を補っている関係なので、一緒でいた方が良いという判断で離婚しないでいる。

・恋愛から逸れて、結婚の話になっている気がしないでもない。ただ盛り上がってするものが結婚で、その中で子どもが生まれるとかになると、当初の盛り上がりでないものになっていく。そうなっても続いていく関係性というか、ある時期から恋愛は無くなって支え合うということは、あり得ると言う話です。これは若者には分からない話かもしれない。恋愛結婚に憧れて、夢見ているというかシンデレラが一生幸せに暮らしてめでたしめでたしではないということを知ってほしい。マッチングとか最近のシステムを導入しても、上手くいくのかというのが疑問に思う所です。

【恋愛すること・しないことのメリットデメリット】
・勝ち組の概念について思ったことが、自分が周りからそう見られているという所から来ているのかなと思います。自分の選択肢をしっかり持ってそれを周囲が尊重するという事になれば、社会が変わるのかなと思います。生き辛さは自分の感覚から来るものなので。

・恋愛に女も男も関係ないというか。好きになるのが恋愛だとすれば、年齢に関係なく心地いいものだと思っています。

・自分自身がやっぱり恋愛していないという事で職場の人から「若いんだから結婚しなさいよ」とか現実に言われることがある。そういう風に言ってくる大人が多い。何というか恋愛を強要される感覚です。結婚適齢期という言葉もありますが、これは若者には負担で、恋愛しろ・結婚しろとか言ってくる人のせいでネガティブに考えてしまっている部分はあると思う。

・誰になんて言われようと自我をもって、自分の解釈を持ってなんてと言っても難しいのかなと。社会が結婚というものに大きな価値を置いている。それは女性だけでなく男性でもそうで、結婚して一人前なんて言われる。決めれたレールに沿って行動することが、大人としての評価される。それは職場でもあることで。恋愛に関して言えば、自分自身が誰からも愛されない人間と悩むこともある。社会が恋愛や結婚至上主義になっているというのは否めない。

【恋愛や結婚の強要】
・結婚しろとかどのくらいの年齢層が言っててくるのか教えて欲しいのですが。
→親とか親戚とか最早挨拶の一部になっています。そういう挨拶で聞くぐらい軽く出てくるのが結婚至上主義が蔓延っている現状かなと思います。年齢層は、50代以上には言われる印象です。40代からはあまり言われないのは、子育て中の世代なのかなと感じています。

・50代はそういう風に結婚しろとか言ってくる世代なのかと思います。自分も結婚すべきだという世の中で育った世代で、そういう社会でした。けどそれは、自分の頭で価値を考えてこなかった、社会の常識にのっとって生きてきた世代でもあると思うので、しょうがないの人かなと。そういう古い考えの人の意見は、参考程度に聞いておいて一線を引いて接した方がいいと思う。最近は結婚していない人も多くなったので、世の中が少しずつ変わってきたと感じる。

・今の話を聞いていて、不思議だなと感じた。今でもそんな風に若い人に結婚しろと言う人が多いのかと驚いた。自分は絶対に言わない。今政治家がそんな発言すると大炎上する。結婚は個人の選択するものでコンセンサスが必要。話を聞いて今時まだそんなこと言うのかとショックを受けました。それと恋愛と結婚は別の話で、結婚は制度で恋愛は文化だと思っています。何かそれが一続きになっているような気がしていて、恋愛なんて何度したっていいと思うし、結婚も自然にしちゃうもので周りにしろと言われてもできっこないと思う。

【恋愛は病気】
・恋愛は一種の病気だと思っている。大学生の頃とか彼女欲しいとか言っていましたが、そんなこと言っていても恋愛は始まらない訳で。あと結婚は恋愛と結びついたのは近代になってからだと思います。3組に1組が離婚している現状で結婚してもとは思う。自分は20代の頃は結婚しないと言い続けていたが、今は結婚して子供もいる。けれど、子供はかわいいが、正直嫁とは一緒にいたくないと思ってしまっている。制度として子どもを育てるには結婚はありだが、嫁にはもし老後生活したい人がいればどうぞ一緒になってあげて下さいと言うつもりです。

・随分な不自由な時代を送っているなというかご愁傷様という感想です。

・恋愛は病気のようなものというのはその通りかと思います。それは若い時の方が深刻で、逆コロナのようなものというか若い人程に恋愛病にかかると重篤化するというか。自分は楽しい思いも苦しい思いもしたなという感想です。

・自分は子どもを産んでみたかったと若い頃に思っていて、結婚して出産したが子育てを終えて子どもを大学に行かせて、夫が定年して今やっと自分の時間を持てた。そうなると夫と共通の話題が無くなる。けれどそれでいいと思っていて、お互いがそれぞれ好きなことをすると。一緒に行動しないというのが当然になった。

・恋愛って独身時代の固有のものなのかなと思っていましたが、そうではなかったといか。今結婚していますが、仲良く恋愛中というか、愛に進んだ状態で毎日新しい喜びを発見していて未だにそれは継続中です。幸せな生活を彼女に与えてもらったというか。ただ結婚するもしないも選択の一つだと思っています。

【結婚という制度】
・不倫した場合、それは妻にはときめかないけど不倫相手にはときめくというのは恋愛になるのかなと。道徳的にはさておきですが。結婚とはあくまでも制度であって、書類を出すと色々な権利が生じるというもので。自分は結婚せずにずっと同棲しているが、恋愛は体力がいるなと思う。若い頃に出来るのはあれは体力があるからであって、元気が必要なんだと実感した。

・自分は家庭を持っているが、営業の仕事をしていると色んな人と会う訳ですが、女性のお客に対してはいつも恋心を生み、アプローチをするつもりで行っている。これは男性客には抱かない感情です。

・民法上、結婚は財産権を有するもので、今は事実婚であっても認められる所まで来ている。海外では同性婚も財産権が認められているが、日本はまだそこまで行っていない。それは日本には家制度が残っているからだと思っている。親族一族の面倒を長男が見なければいけないとか未だにあって、葬式など色々とやらなければならない。それらを断ち切っていかないと、子どもが重荷を背負うことになる。

・結婚する時はずっと一緒に暮らしたいと思ってするものだが、恋愛というのは感情でそれには盛り上がりと軽減がある。それはしてるしてない関係なくあって、今好きな人がいるから他の人に恋愛出来ないとかもないと思う。くっきりはっきりできないもので、恋愛する度に気分が向上するというか。結婚すれば 関係性は変わってくるし、感情も変わらざるをえない。そこから新たに作っていくものだと思う。

・結婚してても恋愛する人はいる。あと、比較的お金がある男性が不倫しているというイメージがあり、それは社会的な不平等が増長させているようにも感じる。どういうふうに恋愛をとらえていくかなど夫婦で話し合う必要もあるのかなと思う。
→現実的に男性は稼ぎが多いとか家で家事をする女性よりも出会いは多いというのはそうかと思うが、女性が旦那に頼らざる負えないかというのはちょっと違うかなと思った。それと既婚者が恋をしていいかどうかの話にはならないと思う。男性が生活しやすい社会なのが問題なのであるのかなと。

・結婚式で第二のスタートとかスピーチで言われるが、確かにお互いの修練の場だなと思う。相手を受け入れる修業の場というか。ただ楽しくしようとする意志を持てば楽しいのかなと思う。

【好き=恋愛?】
・好きということが恋愛なのかと皆さんに問いたい。

・自分はただ好きだっていうのも恋愛だと思う。その質問は何か妙に恋愛に対して変な重みというか価値を配分しているように感じる。小学生の頃、隣の席になった子を好きになるのも恋愛だと思うし、色々な形があると思う。好き=恋愛ではないというのは、危険な発想ではないかとさえ思う。

・ただ好きというのでも恋愛だと思うという話は確かにそうで、恋愛は価値観というか色んな恋愛の形があっていいと思う。性格や趣味など合う人が恋愛対象になることもあるので、突き詰めていけば相手のことを信じられるからというのがあるのかなと。その人にとってはいい人だけど、他の人にとってはあまりということもあるので。

・今日は面白いテーマだなと思いました。恋と愛についてですが、自分の体験から言うと片思いは恋で甘く楽しく切ない。両思いは愛で切なくて苦しいという感情は無くなった。夫婦となって結婚した時、切ないと苦しいが復活してきた。それぞれどういう感情があったのか考えると見えてくるのかなと。あと世の中の歌の歌詞の三分の二が恋の歌だそうです。それと小説の半分が恋の話みたいです。

・自分は周りに勧められて結婚して出産したが、恋愛というのが中々続かないものだと思った。幸せの形というのは本当に苦しい物でもあるし、大変だなと思います。

・恋愛病気論もあったかと思いますが、苦しい目にあうのになぜ体験したいと思うのか?何故なのかと問いたいです。
→自分が恋愛がいいなと思うのは映画とか本とかの影響かなと。身近にあるお話で恋愛関係のものが多い。素敵だなと思って皆してみたいという想いになるのかなと。そういった文化的な要素から恋愛の価値が作られているのではと思います。

・恋愛というのは幸せの一つの形かなと思う。文字から考えると恋と愛という字で、通常異性に対して好きになる。異性同士が肉体関係を持つと子どもが生まれ、世代が変わっていく大きな流れにいるのかなと。そう考えると性交渉の比重が大きいのかなと思う。好き嫌いが通常は性別学的に関係が結ばれるのが恋愛かなと思うが、状況が変わってきている。最近だと「初音ミク」というボーカロイドと結婚した男性のニュースが取り上げられていた。その彼は本当に好きみたいで、そういったバーチャルリアリティーがもっともっと進んでいくと、精神的というか文化的な部分が変わっていくのかなと。恋愛の形が変化してきていると思います。

・恋愛がいいとすると何がいいというかと言うと、様々な感情が体験できる所かなと思います。大きな波を体験するみたいに、 様々な感情体験できる道具だと思う。人生は色々体験出来たら幸せかと思うので、貴重な体験と思っています。人生の幅が広がったというか。ただ波風の立たない人生も幸せかもしれないが、手ごたえのない人生と捉える人もいる。恋愛をすると快感や楽しい経験を得られるが煩わしいと思う人もいるのかなと。

・恋愛を何故したがるのか?という疑問がありましたが、恋愛はしたかどうかではなく、落ちるものだと思っています。相手があってのものなので、偶然というかラッキーなもので。片思いも恋か?と言われるとそうなのかなと思う所もある。両思いになって恋愛になるのかなと。一人でできるものではないし、偶然だからやってこないこともあり得る。恋愛は自分でどうこう出来ない、どうしようもないと思っている。生殖活動という話もありましたが、それ自身は恋愛とはズレている話題だと思う。また男女のものだと決めつけるものではないなと思う。

・自分は情と恋愛は違うのかなと思っていて。と言うのは、恋愛は何というか西洋から輸入された概念みたいに思っている所がありまして。お互いを知って相手の内面性に惚れるみたいな文化は江戸時代とかの作品、落語や浄瑠璃、歌舞伎とかには見られないかなと。何というか情の世界というか、相手の内面を知ってどうこうするのは無粋みたいなのが日本の伝統文化なのかなと。可哀想だからとか、親切心からくるものというか。お見合いとか、相手の内面を好きになるみたいな恋愛要素よりも、相手の年齢や家柄や職業に地域とかで一緒になるわけで、結婚してから愛を育むのが普通みたいな。恋愛は近代になってから概念として定着したものというか、例えばパワハラという言葉が普及する以前はそういった行為が無かったかと言うとそうではない。アルハラやセクハラなどと同じで昔からありましたが、概念として浸透したのは最近になってから。恋愛も同じような感じかな思っています。

・恋愛は趣味みたいなもので、趣味をどう楽しむかは個人の自由で他人を傷つけずに行えればいいのかなと思う。劣等感を抱える必要も無いかなと思います。出来ないからしてないかなといって、偏見や見下したりするのは違うと思う。そういった一人ひとりの認識が変わってくればいいのかなと思いました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








次回のてつがくカフェは、

8月20日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「お墓は必要か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

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会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.6.18. 「戦争と平和を考える」

2022年06月23日 20時44分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
6/18(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。



会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17人、オンラインでは6人の計23名の方にご参加いただきました。







「戦争と平和を考える」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

【タイトルに関して】
・話を始めるにあたって、企画者に質問したいのですが…。言葉の整理だけしたいなと思いまして、テーマが「戦争と平和を考える」になっていますが、そこの「と」はどういう繋ぎで考えているのかお聞きしたい。何か意味を持たしているのか、意味はあまり無くて戦争と平和の両方を並列にするために使っているのか、その意図を聞きたいなと思います。要するに戦争の問題だけを考えているわけではなくて、平和の問題も考えたいという意図は何となく理解できるのですが、二つが対立している対の概念なのかそうでないのか今後の議論に関わってくるように思えますので、そこだけ説明して頂けると考えやすくなるかなと思いました。

・何も考えておりませんでした。本当に問いが立てにくいので、問いを立てた場合ある一方向性の立場からの問いというか、反語的な問いになってしまうわけです。「なぜ戦争は無くならないのか?」や「戦争はいけないことなのか?」というように、問いの立てにくい問題になってしまうので、基本「戦争について考える」というテーマだったわけですが、戦争について考えていくということは、私は対概念だと思っておりますが平和に関しても「どうやって平和を築いていくのか?」など色々なことを含めて考えていかなければならないというところで、今回のテーマとなりました。

・先ほど「なぜ戦争と平和の二つの言葉が入っているのか?」という話に関して、対義語としてテーマにしたとの発言がありましたが、私も参加する前になぜこの二つの言葉が今回議論されるのか疑問に思っていました。対になる言葉だとすれば、戦争ではない状態が平和であるもしくは平和でない状態が戦争であるということになると、では戦争になっていない場所が全部平和かというとそうではない。なので、これは明らかに分けて考えるべきであろうと思いました。そうすると議論が拡散してしまって、訳が分からなくなると思いましたので、私は今日は戦争についてだけ考えようと心に決めて参加した次第です。


【言葉の定義】
・冷戦は戦争状態でしょうか?それとも戦争ではない状態でしょうか?

・恐らく戦争状態とは、明確なコンセンサス(意見の一致。合意)が全人類もしくは全宇宙でされていないのではないかと思います。例えば500人以上お互いに集団で殺戮し合った争いが戦争ですという人もいれば、5人以上で殺し合って3人以上死亡者が出れば戦争だろうと言う人もいれば、H・G・ウェルズのように宇宙人が攻めてきた状態も戦争だと言う人もいると思う。そうなると他の生物との争いも戦争となると、今回のコロナも戦争だろうと思います。「ウイルス対人類」の戦いなわけですから、最初に戦争の定義を決めないと議論そのものが出来ないのではないかと思います。

・先ほど冷戦という言葉が出ましたが、もともと比喩的表現だったと思うわけです。つまり「Cold War」という、戦争が実際に勃発していないけれどもあたかも戦争をやっているみたいではないのかと、これが平和なのかと言って、まるで戦争みたいだが戦争はしていない形なのかなと思うわけです。先ほどのコロナウイルスとの戦争についても、それは比喩的表現としては使えると思うけれども、基本今日考えたかったのは「人間同士が大規模集団で戦う」というのを戦争として、近代以降は国家同士になりますが国家と言ってしまうと「内戦的な戦いはどうするのか?」ということになってしまうので、ある程度大規模な戦いというかそこは漠然としたものでしか言えないと思いますが、民族同士であるとか部族間の争いであれば該当するのかなと思います。暴力団同士の争いだと戦争と言う必要はないのかなと思います。定義は自由にしていいと思っております。

・戦争と平和について、昔読んだトルストイの小説のタイトルだったと思うのですが「深いな」と思いながら参加する前に考えていたわけですが、深すぎて定義できるものではないなと感じました。トルストイの小説は人間問題が主軸だったと思うので、人間の心を中心に考えたいということで今日参加した次第です。

・定義づけは難しいと思います。他の方も仰っていましたが、テロとの戦いや国家対国家以外の戦いについてどうするのかなど色々あり、また今回のウクライナの話にしても2014年から戦争ではないふりをして乗り込んでいますから、プーチン大統領も戦争とは言わなかったわけで、本当に定義づけしようとすると難しく、それこそ学者の中でも意見が分かれていますので、はっきり定義づけしてから始めるというのは困難だと思います。むしろ現実にあることとかをベースに話した方がいいのではないかと思います。


【フィクションとしての戦争】
・戦争は自分にとってどんなものか考えた時に、もちろん誰も殺されない平和な状態が良いわけですが、戦争映画やドラマとかそういったものに単純に魅力を感じてしまっている自分もいることを発見しました。

・戦争映画を観た時に面白く感じるという意見について、共感を覚えました。ウクライナ軍がロシア軍に対して攻撃を仕掛ける映像を観て自分も嬉しく思いながら、そういった動画をYouTubeなどで見続けているわけです。なぜそう思うのか考えた時に、そもそも我々人類というのは戦争に勝ってきた種族の末裔なわけですから、狩猟採取時代には死亡原因として2~3割は殺人だったり争いだった言われていますが、そういった中で生き残ってきた人類はいかに人からの殺戮から逃れるか長けた人間しか残っていないわけです。それは人間だけではなくあらゆる生物も同じですが、戦争を見て楽しく感じてしまうのは本能的にしょうがない、戦争は悪とか善とかそういうレベルの話ではないと思いました。

・フィクションとしての戦争映画やドラマ、文学などが面白いのは設定が究極の選択を迫られたりとか、ギリギリの状態に人間が置かれたりするからドラマとして面白くなるのは当たり前で、これが好きだから好戦的だとか戦争を肯定しているとかは全然言えないと思います。戦車を吹き飛ばす兵器の映像なども、映像として面白いということは言えると思うのですけれども、先ほど話にあった狩猟時代から我々が生き残ってきたのは戦争に勝った末裔だという意見は自分は違うと思っています。単純に戦争というのを武力の争いだとすると、人間というのは戦争を起こさない方法をそれぞれの時代において考えてきている歴史があるわけです。上手いこと戦争にならないようにできたという武力衝突を避けて来た人も残っているというふうに考えた方が良いのではないかと思います。


【戦争をなくすために】
・戦争と平和の関係について考えた際に、自分にはロシア人の友だちがいて、彼は2月24日から心を痛めていてチャットとかでやり取りしていますが、どんどん弱っているというか「こんなに長く続くとは思っていなかった」というわけです。自分は「早く終わらないかな」と思っていますが、戦争という定義がまさに難しくていつ終わるのか、また戦争が終われば平和が訪れるとどこか思っています。

・学校の歴史の授業とかで戦争について習ってきましたが、それはあくまでも歴史の授業の話でまさかそれが現実に起こるなんて思ってもいなかったので、最初にウクライナ侵攻があった時は本当に驚いて、そこからいろいろ考えるようになって、考えた結果この場にもいるわけですが、そもそも戦争はなぜ起こしたらいけないのかと考えたら、自分の理想を叶えるために武力を使っているのが戦争なのかと思いました。ただ武力を使うのは手段の一つで、理想としては対話でもって世の中の課題を解決しようとするのが一番平和的な方法かと思っています。そこを対話ではなく武力で解決しようとしているから戦争が起こっているので、戦争を止めるというのは人間一人の力ではどうにもならないですが、対話で人類の問題を解決していければ世の中上手くいくのかなと思っています。

・根本的な疑問として、戦争するのは人間だけであると言われています。もちろん動物の中でも争いはありますが、人間はこれほど叡智を持っているわけですが「なぜ対話で世界は平和にならないのか?」というのがずっと疑問でした。さらに自分の中で解釈が出来ていないのが、戦争の法律というものがそもそもの戦争のやり方を定義づけていることが、自分の中では理解できていないわけです。国連など世界を統一しようとする流れの中で、あまり機能していないのかなと思いました。人間同士の殺し合いというのは決して望むべきものではなく、どのような問題があったとしてもやはり対話で解決したいと思っております。


【戦争は悪か?】
・戦争がもし悪いとすれば、それはなぜなのか?それは人が死ぬからだと言うのであれば、戦争によって死ぬ人の数が少なくなればその戦争は正義なのか、皆さんのご意見を伺いたいなと思いました。一例を言うと、戦争が起こると自殺者が明らかに減るわけです。戦争によって自殺者が減ったら社会的に正義かどうかなど、どう解釈するべきなどお聞きしたい。

・戦争と自殺者の因果関係についての考え方は、非常に功利主義(行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用/有用性によって決定されるとする考え方)的で数を取って比較したらどちらという話になるとは思うのですが、それで戦争が善か悪かと議論したときに「そもそも善悪とは?」という話になる流れだと思うわけです。善悪の問題を考えるときに功利主義に考えるのか、宗教的に語るのか色々とありますが、善悪の深いところに入り込むとこれもまた抜け出せなくなると思います。そんなことよりも戦争は悪だと、人類の歴史の中で人類が培ってきた考え方であると、否定される方がもしいるとすればそれはそれで結構ですが、人類の歴史というのは戦争は悪だと少なくとも近代以降そういった考えに固まっていて、それはそれで前提として認めるしかないかと思いますが、いかがでしょうか。

・戦争をまず初めに始める人、それを受ける人がいる。最初に火をつけた人が悪いとなると、受け身の戦争は許されるという話を聞いたことがあります。しかし、それは果たしてそうなのかと疑問に思っていて、また代理戦争という言葉をよく聞きますが、それは正しい戦争なのか悪い戦争なのか時々気になります。

・今回のテーマについて考えた時に、人類が60億ぐらいいて国も200以上あって、みんなそれぞれ一人ひとり違うので国もそれぞれ事情は違うので波風が立たないことは全くないわけです。思想やら経済状態、民族や習慣など様々違うところで、そこで何か波風が立った時に戦うことや争うこと選ぶことと、平らに穏やかに治めていく、融和や調和といった方向が平和かと思っています。戦いや争いはどうしても他者を殺したり傷つけたり、あるいはその国の習慣やら民族やら破壊してしまうこともあるかと思います。自分とは違う、あるいはこの国とは違うものに対する尊重とか尊厳というものの考え方が低いのかなと思ってしまう平和の方で考えると、波風が立った時に相手は自分とは違う考えや感情を持っているけれども、そこを違うということを尊重して対話ですり合わせて解決していこうと他者への尊厳などを大切にするのが平和を考えることかなと思います。これは人間だけではなくて、例えば庭にハチの巣ができた時に駆除する考えもあるが、工夫して共存するように考えられるということもあるので、人間だけの問題でもなく自分とは違う人種とか植物なり動物なり、他者を同じ地球に生きているものとして生命の尊厳を人間と同等として考えられるようなところが平和に繋がっていくのかなと思っています。

・今の話は同感ですが、問題を解決する時に武力を用いるのか、それとも相手を尊重して対話をするのか。対話をした方が相互理解や協調とかになっていくとは思いますが、難しいのはお互いを尊重しないとダメで、片方だけでは成り立たない。武力だとこちらが一方的に侵略すれば、服従させられるのでそちらの方が楽というか、力を持っているのであればそちらを使ってしまった方が楽で自分の思い通りになると思うのですが、もし相手から一方的に武力とか来た時にどう対応するべきなのか。お互い対話とか、協調する姿勢とかあったから時間はかかるかもしれませんが話し合いで解決するのではないかと考えています。武力で来た時にこちらも武力で対抗してしまうとそれが戦争になってしまうのかなと思うわけです。

・ごくごく身近なところで言えば、日常生活の中で隣り近所で我が家の樹木がお隣の敷地の方に入ってしまった場合、あるいはその逆とかで迷惑しているといった時に、まずは話をします。勝手に枝を切ったりせずに話し合いになる。それくらいだといいのですが、何年か前にはご近所で十何匹猫を飼っているお宅があって家から自由に出して育てていたので、非常にご近所は迷惑していたわけです。町内の班でそのお宅に申し入れして、最初は戦うといった心持ちではなくてまず困っている状況を伝えましたが、結果その方は考えてくれなかったわけです。その後も改善されなかったのでどうするのか見守っていたら、町内会の会長から言ってもらうことにするなどいくつかの知恵を出し合ってやりましたが、それでもダメでした。その後も様子見をしていましたら、何年かした後突然その方が亡くなってしまってた。その件は一件落着となりましたが、やはりご近所のことを考えれば誰もお隣と争うといった考えを持たないのに、こちらの申し入れを聞き入れてもらえなかったという人もいるのですが、相手をやっつけるとか殺すとかいう状況が、どうも別の力が働いていて大きな戦争とか大きくなくても小さなところの内戦とかになっているのかなと思ったりします。

・よく戦争を無くすとかの話になると、コミュニケーションが大事であるとかお互いの相互理解が進めば平和になるとか、そういったことが良く言われるのかなと思います。恐らく人類の歴史から見ると、戦争行為とか人殺しによって死ぬ人類の割合は少なくなっているように思いますが、専門家ではありませんがこのままいけばあと一万年後には戦争が無くなる、人殺しも無くなるのでそのままにしておけばいいじゃないかという考えも一つあるかと思います。そんなこと言ってもしょうがないので、どうやったら平和な状態になるのか、平和な状態とは何かその定義の話になりますが、人殺しとかが無くなる状態がどうしたら早く来るのか考えた時に、そいうったロールモデルを探すということが大事になってくると思います。争いごとの無い社会はどんな社会か見渡した時にそれを目標にすればいいのではないかと思います。一つはボノボという小型チンパンジーがいまして、彼らはチンパンジーの中でもお互いに共食いをしたり殺し合わない稀有な類人猿だそうです。ボノボの習慣とかをフィールドワークで勉強して少し真似をしてみるの有りかと思います。

・正しい戦争とか功利主義とかにも繋がってくると思いますが、少し前に「やられたらやり返す。倍返しだ」という言葉が流行りましたが、それが流行ること自体が問題かなとこの戦争が起きている時に思いました。それだったら倍返しが続くわけですから、それはダメだと思わずにそのドラマが流行った日本は恐ろしいなと感じました。やられたらやり返すのが正義とする価値観が流行ってしまうのはどうなのかと疑問に思いました。

・結局は対話的なことを探求して、物理的に傷つけ合いことは避けた方がいいだろうという意見が非常に強いわけですけど、私は戦争するということはそういったことが面倒くさいと思っていて物理的に問題を解決する方が手っ取り早いということだと思います。問題の解決は今の倍返しではないですけど、物理的な対応でもって問題は解決すると信じている人たちが引き起こす現象かと思っています。ですから彼らは物理的に戦うわけです。最終的に殺し合いという状況にまでなるわけですけど、問題は話をすれば何とか解決の道を探れる、対話をすれば見つかると思っている人たちをも巻き込んでしまうという現象が一番問題かと思います。戦争がしたいのであれば戦争したい者同士がどこか迷惑をかけないで勝手にやったらというふうに思うわけですが、現実的にはそうではなくて法律であるとか徴兵制とかで、暴力でもって望んでいない人を暴力に追い込む動きをするわけです。ですから、私は暴力には限界があり暴力では問題の解決にはならないと世界中の人間が理解すれば戦争は無くなるのではないかというふうに思います。ただ、残念なことに暴力の方が手っ取り早く問題を解決すると、自分の欲求が上手く満たされると思っている人が多いので、まだまだ戦争は続くのかなと思います。


【ウクライナ侵攻について】
・今回プーチン大統領は突然ウクライナに攻め込んだ、つまり暴力を振るってきたわけですけど、彼の理屈からするとウクライナの東側の地域で、ロシア系の人々が暴力を受けているとしてそれを救いに行くという最初の理屈があったと思います。それが嘘か本当かは別に置いておいて一応の建前があるわけですが、それがプーチン大統領にとってはNATOがどんどん東に出てくるというのは、彼にとっては暴力を受けていると、あるいは暴力を受ける可能性があるという認識であったことは間違いないと思います。難しいのは果たして話し合いの余地があるような戦争の現場というのがどれくらいあるのか、それから話し合いとか理性というものにどれだけの信頼が置けるのかというのは、今回の戦争を見ていると悲観的にならざるを得ないという気がします。

・今の話凄く刺さったのですが、自衛のために暴力を発するのはいいのかという議論があって、先ほどの半沢直樹のセリフも自分を守るためだったら倍返しにしていいというのがとてもキャッチ―だったから周りに広がったのかと思います。日本は仇討の文化がもてはやされていたと思います。例えば、赤穂浪士もこの間の大河にあった曾我兄弟の仇討ちも正義があるように見えてしまう。現状で言うと、プーチン大統領の話も自分に自衛権があるように見せて正義として武力を行使する。日本の話になると尖閣諸島に中国が来る、北朝鮮のミサイルがたった7分で届くという距離感でも極端な指導者によって戦争が起こる可能性があるから芽を摘んでおこうという論法にまでもっていくことが可能だと思うわけです。ただそこまでもっていっていないのが日本で、これは穏やかな国なのか、それとも呑気な国なのかというのも考える余地があるのかなと思います。自衛隊の話は今考えるきっかけになっていると思っています。

・まずウクライナ侵攻は本当に戦争なのだろうか考えたいなと思いました。武力をもってその土地を自分たちのものにしようということは間違いないわけですが、例えば元寇は戦争とは言わないと思っています。近代ではないので戦争と言わないという言い方も一つはできるだろうと思いますが、それを置いたとしても恐らく元寇を戦争だとする考え方はしないと思う。あと豊臣秀吉の朝鮮侵略も戦争ではなく侵略と言っている。今回も戦争ではなく侵略のような気がしていて、戦争とは恐らく第二次世界大戦の時も宣戦布告をしたうえで、手続きに則って行うようなものが戦争なのかと考え始めています。平和状態ではない侵攻ですが、それでも戦争ではないような気もしています。だからプーチン大統領も戦争にしたくないから、戦争にしてしまうと恐らく第二次世界大戦の時のように色々なものが巻き込まれていって、それこそ第三次世界大戦になるのではないかと恐れがあるから、あえて戦争にしないようなやり方でやろうとして侵略になってしまっているのではと思っています。だから戦争と平和だけを考えていてもダメで、もう一つ別カテゴリーがあって、それも平和を乱しているという構造なのかと思いました。

・ウクライナ侵攻は戦争かという定義の話もありましたが、何か問題解決のために武力を用いたら大小関わらず戦争かなと思っています。今まで歴史を見ると武力を用いて強引に叶える方法がほとんどだと思うわけですが、現代であれば対話が平和的な解決方法というか血が流れたり命が失われない方法で世の中が上手くいけばいいなと思います。今の人類は協力して解決していかなければいけない問題が山積みなので、環境問題やコロナウイルスとか色々ありますけれども人類同士で争っている場合ではないと私は思っているので武力による現状変更は無くなる世の中になればいいなと思っています。話は変わりますが、どうすれば戦争は無くなるのかと思った時に、例えば日本は今戦争が起こっていないことを考えると、日本政府があって国民は銃とか武器を持てないので、反乱を起こしても警察がいて、世界には国家はありますが世界政府のようなものは無いので机上の空論なのは承知してますが、仮に世界政府のような組織が樹立したら平和になるかどうかは分かりませんが、武力による現状変更は少なるなるのではと思いました。理想というか妄想ではありますが、そうなったら平和になるのかなと思います。

・戦争や紛争を無くすには、きっと世界中のだれもがプーチン大統領さえも世界を自分なりの見方で平和にしたいとそれぞれの立場で思っているのではないかと思っています。なぜなら自分の考え方は正しいというふうに思っていること、相手の考え方を尊重することができないから、結論で行くと自分自身の考え方に固執してしまって自分を変えることができない。その小さなものが積み重なってゆくゆくは国の考えになり、世界の紛争を招いていると思っております。結論は自分の中では一人ひとりの意識を変えないと世界は変わらないと思っています。

・今回のウクライナ侵攻が戦争かどうかというのは、これは戦争だと断言しなければいけないと自分は思っています。明らかに侵略戦争です。例えば、戦争というのは少なくとも近代以降我々人類の中でも「悪だ」と「やってはいけない」ということに基本的にはなっています。国際法の中で自衛のための戦争は良いとかありますけれども、基本的に戦争は悪だという考え方を世界共通の考え方として人類は打ち出してきた。それに対してプーチン大統領は「戦争をした」と言うと自分が悪者ということになってしまうので、「戦争はしていない」と「軍事行動だ」と言っているわけですけれども、これは別の形の戦争だというふうに断罪しなければいけないと思います。戦争の形はよく報道もされているのでご存じだと思いますけれども、大きく変わってきてかつての宣戦布告をして始めるような戦争ではなく、今回のウクライナ侵攻も宣戦布告もしていないので、その前ロシア連邦がウクライナに押し入った時も宣戦布告しておらず、していない戦争が最近多い。それからテロ対国家権力という戦いもあるので従来の形と変わってきている認識は共通としてあると思う。戦争は時代とともに変わるが、新しい形の戦争としてそれを糾弾しなければならない。プーチン大統領は糾弾されなければならないというのが私の意見です。それが何に基づいているかというと、人類の合意ということになるわけですけれども、人類の合意と言ってもそれは実際に人類全員が手を挙げて合意しているわけではなく、単に国際法がそうなっているという話でしか言えなくなっている。国際法の中では例えば、武力による現状変更はよろしくないというのはその通りだと思います。しかし果たして全面的にそれが正しいかと言うと、例えばある少数民族がある国家の中で虐げられている状況において、そこが独立して主権国家になるということを認めないのかというと、そういうわけにはいかない。それを認めるとすると、武力による現状変更というものが有りということになる。そのように単純に割り切れる話でもないと思いつつ、何が言いたいのかと言うと「あれは戦争だ」と、「断じて戦争だ」ということです。

・先ほどの発言にコメントしたいのですが、自分は「戦争だ」と言い切ってしまうことで「それはダメだ」というのはあまり力にならないと思っています。なぜかと言うと、プーチン大統領はその土俵に乗ってこないので結局のところ話にならないと思う。戦争だからダメなのではなくて武力行使自体がダメだと、そのような侵略の仕方自体がダメだということです。プーチン大統領のやっていることは「戦争ではない」と言っていたり、ほとんど言葉遊びだと思っています。その土俵に乗ってこない者に対して言葉を加えていっても、あまり武器にならないような気がしています。単にプーチン大統領は否定して、へそを曲げるだけな気がしてならない。彼自身が言っていることに対して、それ自体がダメだという言葉を待たない限り、説得することは少なくとも出来ないだろうと思います。さらに似たような手はどんどん出てきてしまうだけなのではないかと思います。なので彼がやったことが絶対的に悪であるかどうかという言い方で聞かれたら、もちろんそこは先ほどの方の意見に同意しますが、「戦争だからダメだという言い方ではない何か」というのを考えられるのではないか?ということは少し追求する価値があるのではないかと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








次回のてつがくカフェは、

7月16日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま対話録 2018.6.16「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」

2022年06月06日 16時10分08秒 | 定例てつがくカフェ記録
※冒頭のてつがくカフェのルールなどの説明部分は省いております。また内容を理解し易くするために整文を行っております。なお、発言者の特定を避けるため誰がどの発言をしたか明記しておりません。

「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」
 2018.6.16(土)16:00~18:00 参加者9名


 前回の最後に、次回のテーマということで「田舎と都会はどう違うのか」とか「どこからが田舎か?」「田舎と都会はどちらがいいか?」というテーマであるとか、「薩長はいまだに和解していないのか?」というテーマのどちらかになるかもと話していましたが、今回の予告をしなきゃいけない頃に、日大のアメリカンフットボール部の事件が相当流れていて、スポーツもいずれやろうとは思っていたので、ちょうどいい機会かなと思って今回スポーツの問題にさせていただきました。会津の問題や田舎の問題はいずれ扱いたいと思っておりますけれども、今日は「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」というテーマで問いを立ててみました。この問いの立て方がこれでいいのかどうか、日本に限った話なのかどうかとか、そこのあたりもいろいろとご議論いただければと思います。まずは、最近の流儀の『たねろぐ※』に、皆さんに先にいろいろと書いてもらったので、それを使いながら話に入っていければなというふうに思っています。「そもそもスポーツとは何か」とか「スポーツにおけるステークホルダーは誰なのか?」と書いてくれた方がいらっしゃいます。ステークホルダーは難しい言葉ですね。これを書いていただいた方、分かり易く言葉の説明をしてもらえますか?
※たねろぐ…議論の前にテーマについて参加者の思ったことを自由に記入してもらう一言メッセージ。議論したホワイトボードの記述とは別に壁に掲示される。

 ステークホルダーを簡単に言えば、「スポーツにかかわる人は誰か?」という話です。利益関係者とか経済用語で使いますがスポーツにかかわる人や企業というものはいろいろあるはずですが、そういう人たちの視点でものを考えると何が見えてくる視点は大事だと思います。それに関わっている人たちというのはいったい誰かを探らないと、それ自体考えることができないので、「ステークホルダーは誰か?」というのを考えてみたいと思いました。

 そもそもスポーツとは何か?これは相当根源的な問いですが…。

 皆さんが「スポーツ」と聞いて何を思うのか?ということに加えて、「スポーツとは一体何なのか?」ということを明らかにしていかないといけない。例えばサッカーのワールドカップは、本当にスポーツなのでしょうか。スポーツというものが一体単なる種類の話なのか、成り立ちの話なのかというところをもう少し深堀りしていく必要があると思ったのでそれを考えてみたいです。

 この「スポーツは誰のためのものか?」というのも、先ほどステークホルダーの話とも似ているかもしれません。

 そうですね。私自身、小中高とバスケットボールをやっていたのですが、自分の世代は『スラムダンク』という漫画が流行った時代でした。もう猫も杓子も皆でバスケ部に入るという勢いでした。自分もご多分に漏れずバスケットという競技に取り憑かれたというか。やってみて面白い、観ても面白いという形でハマっていきましたが、年齢が上がるにつれて、正確には指導者が変わるにつれて、どんどん勝利至上主義的になっていき、学校の名を高めるためとか、スポーツの楽しさ以外の部分に神経を注いでいるところが嫌になってしまいました。指導者が選手を駒のように扱いそれでもし怪我をしても見捨てて次といったように、選手のアフターケアもせず違う駒を配置するという感じを自分は受けました。いわゆる強豪校と呼ばれる高校でバスケをしていましたが、同級生が指導者やバスケ部の体質と合わなくて部員がどんどん辞めていき、最初は20人以上いましたが3年生になると2人しか残らなかった。自分は2年生で辞めましたが、その時に「自分はなんでこのスポーツやっているのかな?」とか「何のために?誰のために?」という想いがすごく強くなっていました。怪我をして日々の生活にも支障をきたすこともありました。先輩から理不尽に殴られるなど辛い思いもしました。日中は吐くまで走って、夜は足がつって起きるなんてことは日常茶飯事で、勉強の時間も削ってスポーツに取り組んできた。それでスポーツを辞めた後、「何をやっていたのだろう?」と今までのことを振り返った時、授業には全くついていけないし、部活の友達としかコミュニケーションを取っていなかったので、バスケ部以外の他のクラスメイトの名前と顔をほとんど知らない。そういった経験もあって、スポーツを辞めたプレイヤーとして「誰のために?何のために?」と悩んだ時期もあったので、この問いを皆さんと共有したいなと思いました。自分の中でもまだ言語化できないところがあるので、皆さんの意見を聞きながら、納得したいなという想いでメッセージに書かせていただきました。

 今回のテーマに見事にはまっているような、そういった経験をしてきているのかなと思います。その問いに行く前に、皆さんのメッセージを全部紹介していきます。今の話とも相当関わってくる「勝っても褒めない」「ラグビーみたいに国籍を考えない」とありますが、これはどういうことでしょうか?

 「勝ってもそんなに褒めない」というのは、私も学校の部活とか勝利至上主義みたいなところに疑問を感じていました。中学高校と私もバスケットをやっていたのですが、練習に来ない奴に「何でお前部活入ったの?」みたいな感じで、いじめるわけじゃないけど段々とその子も部活に来づらくなって、結局彼は部活を辞めてしまった。大学に行って私もバスケットを続けていたのですけど、そんなに本気でやっていたわけでもなく、ただ体育会系の部活は練習が厳しくてついていけないと感じて、浪人して運動していなかったこともあり、サークルに入って楽しくやっていましたがこういう形のスポーツというのもアリかなと思いました。やはり日本は勝利至上主義的なところが濃くて、国を背負って戦う場合は、ワールドカップとか見ていて楽しいですけど、すごいプレーや素敵なシーンを観ると驚きはしますが、「勝っても褒めない」ということを実践するのは中々難しいと感じました。

 「勝っても褒めない」というのは、つまり「勝っても褒めないようにするべきだ」と言っているのでしょうか?「勝ったら褒めるようにする」ほうがいいのではないでしょうか?

 勝利至上主義から脱するために、そんなにチヤホヤしない。むしろ、負けた方を取り上げるべきかと思います。難しいとは思いますが、抜け出すためにはやるべきかと思いました。もう一つ最近知りましたが、ラグビーはあまり国籍関係なく日本のチームとか、色々な国の人がいますが、あまり詳しくは分かりませんが、日本のリーグに何年か所属していると日本のチームには入れるとか、もしそういったラグビーみたいな形で、国籍など考えずにフランス行ってサッカーやりたいですとか、将来有望な選手を支援する取り組みや可能性があれば、そうしたやり方もありかなと思いました。

 これは二つともまさに「どうすればいいのだ?」という今後に向けての提言として書かれた気がします。それから「指導者の皆さん、そして私たち皆、『奇跡のレッスン』を観て。親になっている人も必見。コーチングが学べる場所ができるといいな」とありますが、『奇跡のレッスン』とは何ですか?

 NHKで放送しているスポーツドキュメンタリー番組です。世界のトップコーチが小学校とか中学校の部活動に1週間来て子どもたちに教えて、成長した姿を撮影するわけです。

 それを観てもらいたいという、その心は?

 全く日本の教え方と違いました。まず感想はこんなふうに教えてくれるなら私ソフトボールだって、サッカーだって、野球だってやってみたいと思いました。それはなぜかと言うと指導者の皆さん、コーチに来る人が言っているわけですけれども、ほぼ「楽しんでいこう」「楽しいから、好きだから君はこの部活に入ったわけでしょ?」というのが皆さん最初で。子どもたちは面白そうだなとか、楽しかったとかいう動機で入っているわけですよね。だけど、指導者は怒り飛ばして、𠮟り飛ばす。子どもたちは声が出ないぐらい。「帰れ!!」とかひどい暴言を吐くような日本の指導の現状ですが、トップコーチがそれを観て1週間の中頃ぐらいに「怒るのは無しだよ」と指導者を窘める。とある回で「勝つことも大事だけれども、いい試合をして、団体競技だったら自分が仲間とグループの中で判断できるようになる。選択肢を選べるように自分でなれる、自立性を持つと。さらにそれをお互いに応援し合う。そして笑うの」と言ったわけですけれども、確かにどうして好きなスポーツをやっているのに笑ってないのか、笑えないのだろうかと自分も考えました。以前、世話人の方が言っていた「怒っている人は困っている人だね」とおっしゃっていましたが、まさしくその通りだと思いました。先生方、指導者の方、親も含めてですが導く側の人間が決して子どもたちが憎いわけではないが、適切な対応ができてない。次々にストップモーションで止めることはできないから、状況がすぐ変化して動いているので、導く側の自分が対応しきれない。自分にとっても生徒にとっても良いと思える対応策を知らないが故に安易に怒って、子どもたちを怒鳴ってしまう。親もそうだと、自分が子育てしていた時を振り返ってみると怒っていたなと反省しました。ですので、皆さん企業では始まっているわけですが、コーチングのやり方とかを取り入れて、ティーチング=教えることと、コーチング=導くことの両方でコミュニケーションをしてお互いに人間として成長していけるというのが、大体トップコーチの考え方だったので、これはもう日本の人たち、指導者も親も私たちも学んだら楽なのだと思いまして、是非観て欲しいと思った次第です。

 ありがとうございます。僕もスポーツの問題というのは、今のところ現れているのは、基本的には指導の問題じゃないかなと思っています。だからメッセージに「安西先生以外、全員指導者失格」と書きました。安西先生というのは、先ほど話にあった『スラムダンク』という漫画に登場する太った体型の監督ですけれども、彼は非常に上手いこと選手の能力を引き出していく。スポーツコーチングを分かっていた上での、そういう指導者なのだと思ったわけです。それこそ勝利至上主義とか、プロになれば商業主義とか、そういうものに走ってしまうと、すぐに結果出さなければみたいなことになってしまう。けれども、結果を出すためにこそスポーツコーチングが非常に重要になってくるのだと思っているわけですが、ただ昔ながらの子どもを怒鳴りつければいいとか、命令すればいいとか、相も変わらず指導者の中にそういった思考の人間が未だにいるのが本当に驚いています。その『奇跡のレッスン』に出てくるようなコーチの方が、もう世界の主流だと思うのに、日本のスポーツ界では未だに「怒る」というのが残っているのが現状です。相変わらず体罰とか、ルールを無視してとにかく勝てばいいみたいなことが横行している。これは多分日本のスポーツの指導者の問題じゃないかというふうに今のところ思っています。もう一つはシステムとして、例えば相撲で言うと部屋という制度も上手くやればできるのかなと考えております。要するに親方次第というところがあるのかなと思うのですけれども、それが問題なのかと思っています。実はスポーツの指導の問題なのかという疑問からメッセージを書いてみました。書いてくださったものを今一通り皆さんに紹介してみましたので、何も書かれていない方、何か特に今日話し合ってみたいことがあればどうぞ。

 スポーツといえば、スポーツマンシップがことあるごとに出てきますがきちんと説明できない。今若い人にスポーツマンシップと聞くと、宣誓式の時のアレというのが大抵です。だから、いつもどういうふうなものか、何かあれば喧伝されるけどそれがどのくらい理解されているのか、その辺りがちょっと分からないです。

 スポーツマンシップというものが、非常に重要なキーワードになってくるのかなと思います。ほかに何か今回のテーマについて思ったこと、感じたこと、考えたこと、今日皆さんに聞いてみたいことがあったらどうぞ。

 ちょっとまだこのイベントのこととかよく理解できてなくて。今回はスポーツに関して何か話すということでよろしいのでしょうか?

 今日は「日本のスポーツとはこれでいいのか?どうすればいいのだ?」というテーマで、日本のアメフトの事件や伊調選手と栄監督の話もありましたので、今回はスポーツのことを考えられればいいかなという感じです。もうどなたからでも、いくつかテーマ出てきますので、どこからでもあるいは全然違うところからでもOKです。

 指導法のことで皆さんにお聞きしたいのですが、コーチングと書いてありましたが、あとティーチングという言葉も出たと思うのですが、私はコーチというのは何か達成する時に助言を与えてくれる人というか、個人個人を観てこれをできるようになりましょうとコーチをする人で、一方でティーチングというものは、技術的な面でこういう場面でこういうことができるようにしましょうという認識です。プロの世界だとコーチはいても、ティーチというのはいないと思うのですが、いろいろと競技によって細かく分かれておりますので詳しいことは存じておりませんが、私自身学生スポーツしか経験がないので監督が全部コーチングもティーチングもケアも色々とやっている姿を見ていました。もしかしたら監督が怒ったりすることは、自分ができることやることが分からなくなって怒ってしまうのかなと今は思いますが、もしかしたらコーチングとかティーチングとか細分化した上で、自分の職務というのが分かっていたら怒ることは無いのではないかと思ったわけです。

 日本の部活の顧問はコーチも兼ねているから、少しそのスポーツをやったことがあるから顧問になったという先生もいる。顧問は顧問という職域というか任務があると思う。それとは別にコーチというものがあるのが普通じゃないかなと思うのですが、日本の場合そういう感覚がないのかなというのは、私の中学校、高校時代も、娘の中学校、高校時代も同じなので、そこがやはり日本はずっと変わってきていないこともあって、なかなか気づけないのだと思います。本当に私の意見に世話人の方が言ったように、世界は日本のやり方のもっともっと先を言っていることに気づけていない。だからコーチになる人だけじゃなくて、親を経験して思ったのですけれども、親になって子どもを養育する上で、コーチングを知っていたら、もっと違う育て方できたなとか考えてしまう。あとは、職場で私より下の新入社員が来た時に、コーチングを知っていたらこんなふうにならなかったのにとか後悔も結構あります。私はコーチングについては詳しくは知りませんが、今まで私たちが学校および社会で学べる場がないような、なかったというようなことを海外では、もう当たり前になされているということを考えると、学校とか大学など、地域もそうだけどコーチングを誰もが学んでいれば、コミュニケーションのやり方とか、相手への問いかけの仕方とか、学べる場所があれば皆が変われると思ったりするわけです。どんな時でも、良いとか悪いとかではなく、教えなくてはいけない。あるいは、皆が解決していくとか、協力していかなければいけないという場は、家庭でも社会でもスポーツの場でもどこでもあるので、コーチングとかNLP※ですか?それらを使って、お互いが育ちあえるようなコミュニケーションの仕方に気をつけようと、そういうものを学べる社会に、社会構造になってほしいなというふうに思いますね。
※Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラミング)の略称。別名「脳と心の取扱説明書」とも呼ばれる最新の心理学。

 今の話、スポーツから大分離れている気がしないでもないのと、それから先ほどの質問で要するに「特にコーチと何かを兼ねていいのか?」みたいな分ければいいのではという話をされたかというふうに思いました。多分一つは学校の部活の例を出されたのですけれども、学校ごとに部活があって、学校ごとに対抗戦をしなければいけないとか、そうなれば当然指導者が全種目揃うわけはないよなとは思います。これだけ少子化が進まるとそもそも学校に部活が全種目揃っていないというか、どんどん減らされているらしいですけど。野球部とサッカー部しかないから皆そこに入らざるを得ないみたいな、そんなふうになっているみたいですが、そもそも部活を学校でやらなければならないのとか、スポーツを国対抗や国家単位でやらなければいけないのか?みたいな話にも関わってくるのかもしれません。スポーツというものをどういうところがやらなければいけないのか、学校でやるとなると、やはり顧問とコーチと監督とみたいなことというのが、そんなに全員、いろいろ揃えられないから、一人の先生が全部やらなければいけないのか?でも、場合によっては素人の先生がただの顧問で、要するに部活動の運営をやっているだけで、中身は誰かどこから呼んできて、新しい指導者を呼んできてやってもらうなどということもあるかもしれない。その方が当然いいだろうなと思いながら、でもなかなか各学校でちゃんと指導者を揃えるのは難しいことなのかなとも思う。そう言ったときに、そもそもこの少子化の時代に学校単位でスポーツをやらなければいけないのかと疑問に思う。高校野球だけやれればいいのではないかと僕個人は思っております。それでもやはり学校にとってそれこそ特に私立になると学校のスポーツがある種宣伝になるから、それはある種の商業主義的な問題と関わっていますので、多分日大もそうなのでしょうけれども、だから日大のトップも今、理事長も相撲部の人であの監督も日大の中でも非常に上の方に行っていてというのは、やはりスポーツというものが、そもそも学校運営にとってどれだけ重要な意味を持っているのかと疑問に思っています。でも、逆に今回の例のようなことが起こってしまえばものすごい打撃になると思うのですが、今はまだ結果が出ていないので分かりませんが、日大の受験者数とか。僕が受験生だったら受けてみようと思っただろうなとか、今受かりやすいとか考えてしまう。

 大学の先生もいるので聞いてみたいのですが、日大のニュースで国から大学にお金が行っているとの話を聞いて、それを獲得するのにある程度成績があれば多額の援助を受けられるというのがあるのですか?

 成績というのはスポーツですか?例えば私の大学は非常に良い陸上のトラックがありまして、これは最先端の技術で作られていて、億単位のお金がかかって作られていて。それはやはり大学の陸上部がある種成功していたから。要するに普通の予算とは別に、それを作るという話が降りてきたというのがありました。そういう意味ではあると思うのですけれども、普通の運営交付金でスポーツの成績云々ではないと思っています。ただ特別何かあれば、それに対して特別に補強のための何かを作るとかいうのは、ないわけではないですね。逆に言うと、陸上部以外にそういったお金の話が来たことは無いので。だから陸上部があれだけ成果をあげたからこその今の立派なトラックがあるわけです。

 スポーツは遊びじゃないのですか?遊びとは違うのでしょうか?

 そこはどうでしょうか?本来的にはスポーツという言葉の語源はディスポート(disport)といって、「気晴らし」という意味です。気晴らしや娯楽という意味の言葉ですから、本来は遊びだったのでしょうが、ただ多分個人の稼ぎで言うと今スポーツ選手が一番稼いでいるといってもいい。だから大統領とか首相などよりよっぽど稼いでいるという意味では遊びではなく、特にプロスポーツの場合たかだか遊びとは言え、億単位のお金が動くようなものになっているのが現状です。

 ちょっと遅れてきたのでまだ飲み込めないのですけれども、「誰のために?」とホワイトボードに書いてあるのはどういうことなのかとお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか。

 まず「スポーツは誰のためのものなのか?」というのは、それぞれ選手なのか、指導者なのか、あるいは親とかそういったことを考えたり、ステークホルダーというのは、ちょっと難しい言葉ですけれども、スポーツに関わる利害関係者というのを考えていった場合に、もちろんやっている人達もいるだろうし、それから見てお金を払って観る人達もいるかもしれない。大学のスポーツは別にお金を払って観るわけでもないけれども、ただそれを観て入学してくる人もいるだろうし、そういったいろいろなことがあるますよね。それらを含めて「スポーツは誰のためのものなのか?」という、多分いろいろな観点が考えられるのではないかというふうに思います。

 あと例えばスポーツでもプロスポーツもあり、アマもありで私は全然スポーツの世界を知らないので、スポーツと言われると今度の五輪オリンピックのイメージが強いわけですが、そうなると誰のためといったら国民のためなのかなと思います。今スケートの羽生選手の人気はすごいので、そういったものを考えるとスポーツの延長なのか、スポーツはそれだけのすごいものなのか、その辺が私も「誰のため」と言われたら、国民のためのスポーツというのはありかなといった感じです。

 たぶんオリンピックというのが、まさにそういう競技大会なわけです。「国家のために日の丸を背負って」という言葉はよく言いますが、ワールドカップも然り、要するに国という単位でやるからオリンピックはよく言う国家のために、国民のためにというふうに運営されるのかなと思うわけです。ただ、それはそれで一番は特にベルリンオリンピック、つまりナチスドイツがオリンピックを国威発揚のために非常に意図的に使って、多分次の東京オリンピックもそうだろうなと思っているわけです。オリンピックは国民のために、国家のためなのだけれども、それが良いことかどうかというのは、もちろん確かに羽生選手の活躍を見て、日本国民狂喜しているけれども、実際にスポーツマンとしての羽生結弦というのを見た時には、別に日本人だからというのは関係なく、多分フィギアスケートのファンの人はみんな尊敬していたりとか、憧れたりとかするのかもしれない。そこは別に国家国民と連動しているかどうかというのは、いろいろ考えようかと思います。

 オリンピック憲章というのは、オリンピックとはこういうものだというものの中には、国を前面に出してはいけないというようなことが書いてあるわけです。そこからどんどん離れてきて、国旗を揚げたり、君が代とかの矛盾もあり、それをうまく商業的に利用している人もいるし、アーティストが上手に使われるのも、その流れの一つかもしれない。オリンピックにしても、他のスポーツとかにしても、上手に使われている。あるいは、上手に使っている人もいるのかなというふうに思ったりもします。

 私はオリンピックはあまり興味がありません。実は子どもの頃に、東京オリンピックがすごいもう開催前から三波春夫が毎日のように歌うわけです。あれを見ようと興行して、全国聖火が回ってそういうこともあってかなり興行していたわけですが、東京オリンピックが終わってそのあとのオリンピックの声を聞いても、ほとんど何も感じない。そこで途絶えてしまった。その当時日本はまだ戦後で、一流国家にはなっていなかった。スポーツもアジア大会何位だとか、ラジオで流れてくると「そんなものか」と関心を持って、その挙句の東京オリンピックということで、かなり国民の関心が高かったと思うのですが、いざその東京オリンピックを過ぎて、数々のこれまでのオリンピックが各地各国で開かれてはいるけれども、それほど感動がまるでないわけです。だから今、これから東京でオリンピックやるといっても、ほとんどまず人よりも関心が低い。勝手にやるなといった感じです。何故そんなにも宣伝をテレビでするのか疑問に思います。オリンピックの先ほど言われたステークホルダーの連中ばっかりだから、いろいろな宣伝をしていますが、そう言うと私は非国民と言われるかもしれません。

 この中で前回の東京オリンピックをそんなに覚えているのは、自分でも三歳くらいですからほとんど記憶にない。会場で迷子になったらしいのですが、それぐらいのエピソードしかない。むしろ札幌オリンピックで、日の丸のジャンプなどすぐに映画になりましたのですごく自分の中では覚えている。福島に来た時に長野オリンピックがありましたが、あの時も若干見ましたが、船木とか原田とかの選手しか記憶にないです。

 私もオリンピックにあまり興味がないのですけれども、今回の東京オリンピックの誘致にあたって、もう完全にお金が流れているというのが、はっきりしているようですけれどマスコミはそういった情報は出さない。そうすると結局、開催すると儲かる人がいるわけです。儲かるところはどこかというと、広告業界、建設業界、その他それに関するいろいろなところがあるのでしょうけれども、そういうのがはっきり後ろでは分かっている。オリンピックに対してはそのような印象で、選手一人ひとりは純粋にプロとかアマとかありますが、競技を精一杯楽しんでもらえればと思うのですが、それを上手に利用している人はいるだろうなと感じました。また「スポーツとは?」ということが出ましたが、この場合遊びだと私は思うわけです。遊びも同じ遊びを何回も毎回やっていると、磨かれてすごく上手になったりする。鬼ごっこでも何でも。ではルールを作ってやろうとかなったりして、それをそのうち応援するからプロとしてやらないかとか、私たちはアマチュアで楽しめた方がいいなという人はアマチュアになったかもしれない。そのようなことを考えると、本来スポーツはスポーツをするその人が楽しいと、技を磨いてさらに面白くなる。というような、そういう気分の高まりとか自分で選べる、自分を表現できる一つの場だと思うわけです。絵の上手い人は絵で表現する、歌が上手い人は音楽であったりするのが、そういった純粋に人間としての喜びや楽しさを表現するものだと思うわけですけれども、それを忘れてしまうとお金とか権力とか欲とか、商業や国に利用されてしまうというのがあるのかなと思います。そのとばっちりが実際にプレーしている選手や生徒に来ている気がします。

 この間の平昌オリンピックのジャンプはひどかった。なぜこんな深夜にやっているのかと思った。寒くて死んでしまうだろうと考えないのか、どうしても時間帯は欧米の放映時間に合わせてやっているから都合をそちらに合わせる。つまり選手のことなんかまったく何も考えていない。今度の東京オリンピックもまさに、そういった放映権の問題と絡んでいて、それによって選手のことを忘れてしまっている。本来スポーツというのは、実際に競技をする人たちということが忘れられているなと感じるところがあります。

 先ほど放映権について時間帯のお話がありましたが、私は時期についても疑問に思っています。今度の東京オリンピックの開催時期が7月から8月にかけて行われますが、真夏の東京でフルマラソンを走るなど選手のことを考えていない。前回の東京オリンピックの時は10月に行っていたのに、なぜ2020年の東京オリンピックは真夏に開くのかが理解できない。炎天下で走ることがいかに危険か分かっていない。もう一つスポーツにおける上下関係の話をしたいと思いますが、先輩後輩というのは監督やコーチとは別の問題が存在しています。フィールドやコートの中では実力が評価されるべきなのに年功序列が優先されていることがある。自分の体験談ですが1年生の時シュートを打って入れた際、上級生から「調子に乗るな」とか「あれはお前が打つ場面ではなかった」など言われたことがありました。シュートを外したら何か言われても仕方ないなと思うのですが、シュートを決めてグチグチ言われるのは納得できなかったです。たかだか三ヶ月や半年しか違わない年の連中にでかい顔されるわけですが、日体大の出身の方から聞いたのは「一年奴隷、二年平民、三年天皇、四年神様」という話で、一年生が四年生に声を掛けるなんてとんでもない行為で四年生の神様の言うことは絶対なわけです。けれど実力のない上級生が、有望な下級生を潰したり、怪我させたり、いじめたりして辞めさせるなどは当たり前で、事件になったりニュースになるのはその中のほんの一部で氷山の一角に過ぎない。自分もトイレに連れていかれて先輩から腹を殴られたり、退部してから部活の先輩に校内で会った際に挨拶したら唾吐きかけられたり、学校外で部活のOBと出会ったときに公衆の面前で足の先を両方思いきり踏んづけられながら顔近づけられ「何辞めてんだよ!」と問い詰められたりしました。自分は暴力とか怪我などが理由で途中で部活を辞めたので、一番上の神様になることはなかったわけですが、スポーツの上下関係は非常に根深い問題があるなと昔から感じていました。どうしてそういうことが起こるのか考えると、試合に出れない鬱憤なのか、実力ある下級生の活躍が妬ましいからなのか、理由は人それぞれいろいろあると思います。あと試合に出る/出ないは選手にとって重要なステータスで、レギュラーになると部室の掃除免除やボールを使った練習ができるとか特典が与えられ、反対に控えになると監督に「外走っておけ」と言われて指導すらされず、見てももらえない。ただ控えだった選手がレギュラーになると急に態度がでかくなったり、天狗になったり練習サボったり、上手ければいいという思考になっていく姿も見てきました。選手自身もベンチとスタメンでは扱いが違うことを理解しているので、同じ学年でもレギュラーが控えの選手をパシらせたり虐めたり、部内の権力闘争というか先輩同士の派閥もあったりで本当に諸々あって闇が深い。こういったことが当たり前の環境から抜け出した時に「スポーツはこれでいいのか?」と思うようになりました。

 今の話を聞いていたら、他の分野で例えば、医療とか大学の教授とかすごくあるのかなというふうに思うのですが、学長とか教授は神様で研修医はペーペーみたいなそういうのはスポーツの話だけではなく、その構造自体いろいろな業界にあると思いますけども、いかがですか。

 もちろん、それはあるのかなと思います。しかし、今の大学はそうでもない。医学部とか理系は、割と上下関係とかあったりする。偉い人の下で研究するみたいな、チームでやっているからというのもありますが、一方で文系はもう完全に一人です。みんな一匹狼なので上下関係とかそういったものは全然ない。だから、よく来てくれる同じ大学の方も普段から自分とタメ口なわけです。全然こちらが年は上だけれども同じ大学教員としてもうタメ口ですから、自分の周りはそんな感じです。

 気になったことは最初は何というか日大の問題が出た時に、日本の組織は結構無茶なことを言われたり、「カラスは白い」と言わなければいけなかったりする。日大の後も相撲部屋のことも日本の組織の問題だと思っていたのですけど、今の方のお話を聞いて体育会系みたいなスポーツだけにある問題は確かにあるなと思いました。日本の組織はスポーツクラブというのも体育会系だけが持っている悪癖みたいなものがあるのではないかと。それがなぜ出来てしまったのか。体を使うからとか、相撲部屋だったら格闘技だからみたいな感じがあると思うのですが、なるたけ日本のスポーツ組織だけが持っている悪いところが、もちろんあってはいけないことだと思うのですが、なぜかそれが許されている。いつまで続いているのかなというのが、すごく疑問に思ったことというか、あってはいけないと怒りのようなものを覚えました。

 話を聞いていたら、多分みんな素直なのかなと思います。自分は中学の時、テニスがやりたくてテニス部に入ったのですが、顧問の女性の先生がすごいヒステリーを出す方で、すぐ怒鳴るし、つまらないなと思って1ヶ月で辞めてしまった。でも他の子はテニスが上手くなりたいという一心で、部活を辞めない。なぜ怒られたり、怒鳴られたりしているのに、辞めないのかなと。辞めるという選択肢をまず取らない。あと自分が親になって二人の息子が野球部に入った時に、50~60人くらいの部員数になって。そうすると、先生は新人戦もあるし、試合に勝つために上手い子を選りすぐって試合に出す。勝たせるために、そっちに集中してしまう。そうなると、先ほど言われたように「余っている奴は走っておけ」となる。それであるお母さんに相談されて、自分はそういった野球部の事情を全然知らなかったので、学校に一緒に抗議というか提案をして。知り合いのスポーツ少年団の顧問をやっているおじいちゃんがコーチを頼もうと、教頭先生にお話ししたら今年は無理だが、来年にという話になり。そして人数も多いので、先生だけでなく外部の方も野球部を見てくれるようになった。だから、多くの方がそういった提案というか、抗議する人が少ない。本当に素直に従っているというか、嫌だったら声をあげてもいいよと。でも、何かおかしいと思っても声をあげないで。先輩にしてもコーチにしても校長にしても言えないというか、良い悪いではないけれども言うべきだと思う。他の国だと個々の国が嫌なら別の国に移動できる。だけど、日本は島国だから逃げられない。ある程度手段がないと、海を越えて大陸まで渡るというか、そのDNAが昔からそういうものがあったのではないかと思う。幸い自分は昔からおかしいと思ったことは言えるタイプだったので、そう思うのかもしれません。もちろん、自分も違うなと思っても言えない時もあるけれども、言ってもいいという下地作りが大事かなと思いました。あと大学によっては、教授だからといって先生と呼ばないでとか、さん付けしたりするところもあると聞くし、海外だと当たり前なわけです。その辺の自分の気持ちの出し方というか、上下関係とか関係なく、自分の意見を言う練習がされていないというのが、まだ小学校でも中学でも高校でも見える。一方的なティーチングという、テクニカルに教えて質問も受け付けずに常に一方的に教えるやり方。今でもそれがずっと習慣化されて、そういう形で来てしまった。『奇跡のレッスン』で、コーチが普通の授業を見せて欲しいと言って、授業風景を見た際に「どうして生徒は黙っているのか?」とか「何で誰も何も言わないのか?」と驚いていて、こちらがその反応に驚きました。そういうことを聞くと、教育が大きな力をもっているのかなと思ったりします。日大のアメフト部のことでも皆がおかしいと思ったわけですが、そういう時におかしいと言える人間に自分も含めてなっていきたいなと思います。

 今の話はすごく身に染みて分かるのですが、もし言えるとしてもタイミングが大事なのかなと思いました。例えば先ほどの話で、神様とかそういう構図になっていて、自分が一番下っ端でおかしいと感じても「では、言えますか?」と言われたら多分言えない。先ほどの方が言われたように裏に連れていかれてボコボコにされて終わる。だから分かっていても難しいと思う。ということは、彼は途中で辞めてしまったかもしれないが、本当に言えば自分が神様になるまで行って構造を変える。結局そういうことでもしないと難しいと思う。例えばスポーツでなくても、いろいろな場面で社会や企業だってそうだと思う。上司が言ったことで下っ端が騒いだって何も変わりはしない。でもおかしいとは思っている。それは自分が上の立場になった時に変える。それはもうしょうがない。そうしなければ潰されるだけで、いくら思っていても厳しいのではないかと思います。

 その意見に100%賛同しますが、組織で悪い前例があったから自分が偉くなった時に変えるのが望ましいと思いますが、きっと時間もかかる。それよりももっとあり得るというか現実的なのが、もし暴力を振るわれたら、暴力をふるった方が現実世界では負けです。もう傷害罪になるのでそこで終わりになります。もし今回のアメフトみたいな違法行為を命令されてしまったら、それは命令した方が悪いと思います。それを訴えれば犯罪なので、罪を犯した方が負けになる。普通社会で殴られたりしたら、その時点で終わりですがスポーツ界では、それが通用しないというのが一番大きな問題になっている。その他の世界では、法の秩序があって法律が上なのにスポーツだけが先輩の方が神、法律よりも監督の言うことが絶対になってしまっている。なぜそうなってしまうのかと常々疑問に思っています。

 それは、いわゆる軍隊の組織がまだ残っているからだと思います。一つ位が上がれば、もう下は虫けらと同じで。昔の警察だと一つ階級が上なら絶対服従。本当に見事なくらい社会がそういう仕組みになっているわけです。だから、やりやすいということで残っている。あとスポーツクラブについて、ひと頃流行った同好会というのがありましたけど、あれは縛りから抜けたいがために、同好会という形になったのかなと思うのですが、それはいわゆるスポーツクラブというものとは違うのか、その辺についてお聞きしたいと思います。

 自分は大学でスポーツ系の同好会に入ったのですが、同好会といっても皆意識が違います。それぞれ同好会に所属している理由もバラバラですので、自分がいたサークルはいろいろと行事や飲み会などもありました。春は新入生歓迎会にカラオケ、夏はバーベキューや合宿などやっていましたが、練習はあまり来ないけどそういったイベントごとには必ず出席してくれて場を盛り上げたり企画したりする人もいれば、そういった馴れ合いというか交流には無関心だけど、「上手くなりたい」「勝ちたい」という意識が強くて、練習には必ず出席、合宿とか大学の対抗戦とかになると本気という人もいました。意識の差といいますか、同じ同好会の所属でも非常に多岐に渡っていて、スポーツの捉え方なども全然違っているなと感じました。学年も関係しているのかもしれませんが、大学に現役で入った人、浪人した人、大学の部活を辞めて途中で同好会に来た人など、特に自分がいた時はまとまりもなく、同好会に所属しているメンバー全員がそろった時など一度もなかった。同じ学年でも4年生は神様だからと後輩に威張る人もいれば、別に年は関係ないからタメ口でいいよ、楽しくやろうという人もいて。今思えば成熟してない20歳前後の若者の集まりだから仕方ないと言えるのですが、振り返って当時は大変だったなと思います。

 先ほどの神様とか奴隷の話で、神様になった時に変えればいいと仰っていましたが、正論は正論だと思いますが、何か違うような気もしています。そこでしか行動できないのであれば、言うことによって変える必要があると思うのですが、上に行ってから変えるというのは、上に行くまで耐えなければいけない。うちの甥っ子は、高校からバレーボールを始めて全国大会まで行きましたが、その部活には少なかったようですが上下関係に厳しいメンバーもいて、甥っ子が三年生になった時、チームとして勝つために上だ、下だと言っていては、チームとしてまとまらないから止めようといった意識改革を上の立場になってから変えることを実践したわけです。ただ正論なのですが、ちょっと腑に落ちないところがあって、本当に変えたいのだったら表現しないとやはり周りに伝わらないというのがあるのかなと思いました。

 基本的に残る人がそのシステムに乗っかる人だから、神様になりたくてなった人だから、やはり神様として振舞うでしょう。例えば元巨人の桑田はとにかくずっと体罰などが嫌で止めてやりたかった。それで自分が上になった時には、後輩にそういったことはさせないようにした、ということを言っていました。けれど、だから続くかどうかというのはまた別の話であって、その代限りかもしれないし伝統としてずっと続くかもしれない。

 やはり、そういった状況でなければ変えられないのが、本当に悲しいことだと思います。では、何か現状のもので変えられる方法があれば、もちろん一番いいと思うのですけれども、それが今のところ中々見つからない。

 日大の件も教職員組合が立ち上がりましたからね。それで立ち上がるべき人の中の一部の方が、声明を出したということは非常に勇気がいることだと思うのですけれども、それが出来たという前例が出来たから、これからの人がやりやすいと思います。それから、学生と保護者の方たちも声明文を発表してくれて、本当にお手本のようなものを出してくれたので、スポーツをやっている人たち、やっていない人たち、少なくとも見聞きしているような人たちも嬉しかったと思います。本当にやっていくつもりだというものを見せてくれて、かつ怪我をさせられた学生のお父さんも彼を恨んだり憎んだりせずに、彼の処罰の減刑も求めているという非常に理想に近い形で、本当に嬉しい形で表明してくれたので、アメフト部の件はショックでしたが、とてもいい能力が引き出されて前例として良いモデルとして出されるので、そういった意味ではこういうふうにこれからなっていくのだろうなという気がしました。

 今の大学もパワハラ研修、セクハラ研修みたいなものは非常に繰り返しさせられるようになっています。多分スポーツ界もそういうことが、もう必要になってくるだろうと思っているわけですが、こういう事件があれば余計にそういったことがあるわけです。だから相撲だけがとにかく変わらないと思うけれども、特に学校でやるスポーツというのが、今のままではいけないわけで、課外活動とはいえ教育という場でやっているわけで、あれでは絶対にまずい。今後はスポーツの部活動の指導者を集めて研修みたいなものが必要になってくると思う。やはり小学校から大学までの部活は、特にいろいろなものの温床だったわけで、まさにスポーツの中で実力の問題と上下関係の問題というものは指揮系統という意味で残るだろうし、監督の指示は当然従っていかなければいけないとは思うけれど、先輩後輩の上下関係というのはやはり学校スポーツだから余計にそれが起きるのかなという気がしています。特に学校には学年がある。本来スポーツ的に言うと、小さい三年生とガタイの良い一年生とでは、ガタイの良い一年生の方が有利ということが当然あり得るわけだけれど、やはり年功序列でレギュラーになる。先輩からすると上級生だからレギュラーだというのがあると、桑田みたいな選手が入ってくるとボコボコにされるみたいなことがあるのかなと思います。そこは学校だからこそ起こりやすいわけで、指導者がきちんと分かったうえで、全部コントロールできないといけない。だけどそういった指導者はいない。部活の指導者はとにかく学校のスポーツでうまくやってきて、実は教員になりたいというのに結構そういうのがいるのだけれども、教員になって部活の指導がしたいという気持ちの人がすごく多い。それはもう大学にもたくさん通ってきていて、この子ら大丈夫かなと思いながら、そういう学生には正直教員になって欲しくないと思っています。部活動で成功体験がある人たちというのはそうで、今度は自分も学校に行って指導がしたいと思っているけれども、それは違うわけで赴任する学校に行ってみると、そこにはすでに指導者がいるから自分は別の部に回されるということが、ごく普通にあるわけです。学校におけるスポーツ指導というものが、もっと考えなければいけないのかなという気がしています。

 軍隊主義がまだ残っているという話で、私もそれはあるだろうなと思っています。ある人が私の年代60代よりも上の人がいなくなったら、大分意識が変わるかもという話をされていましたが、確かにそれはあるかもしれない。軍隊の上下関係、厳しい規律みたいなものが、ある時期に定着して、それを受けた人たちが指導者や教える立場になっていたりして、その人たちはそれで良しと思ったかどうかは分からないにしても、それを受けて身に染みているというわけです。そうすると、他の選択肢を知らないからこうやったらいいとか、ああやったらいいとかを知らないから、手が出てしまう。上の人たちがさっさと辞めて、あるいはチェンジしてくれて本当にコーチングとか、海外の良い指導方とか教え方をどんどん取り入れてもらって、少しずつで時間がかかっても変えていけるように本当に国際レベルというか教育レベルというか、是非その辺りも変わってほしいと思います。

 私も軍隊の話が出た時に、内容一つとってもそうだし、人間性の方で見ていくとDNAというか、日本人のDNAはどこにあるかというと武家だと思う。侍の時代まで考えられるのかなと思いました。ルーツがどんどん刷り込まれていってる。でも今の若い人の中には、そういったDNAみたいなのがないかといったら、そうではないと思う。だってもうすでに味わっているものだから、年齢とか世代とかでは様な気がしていて女性の世界のパワハラもすごいと思いますが、それも大奥から来ているのかなと思いました。だから軍隊の話が出た時、歴史的なルーツも引っ張っているのではないかと思った次第です。若い子だってお局さんにシメられていて、だけどその人たちが60歳以上とかいうと必ずしもそうではない。40代だってすごくいじめるし、10代のいじめもある。

 そのことで言うと、私が60代以上と言ったのは、年代が下がってDNAが残っているけれども、薄まっているのではないかと思いました。その残っているのはどうやってそれを克服していくかというのが、若い人たちの課題だと思うわけです。

 国民性とか歴史的なルーツというお話しが出てきたので。「スポーツというものは何か?」と私が聞きたかったと最初に発言しましたが、ここの話は一応「遊びが原点ではないか?」というスタートで来ていると思うのですが、スポーツはそれだけではなくて例えば、今話題になっているワールドカップで行われているサッカーの歴史的なルーツを考えてみると、もともとは宗教的な儀式であるモブフットボールと呼ばれるものが原型だという説があります。そのモブフットボールとは何かというと、Aの町とBの町に住んでいる人たちが、一つのボールをある特定の二本の柱みたいなものをゴールに設定して、そこにボールやくぐらせれば勝ちという単純なルールに基づいて、参加者も無制限で、ルールもほぼ無いという状態で行われていた。そういったところから始まっているという説があるらしいです。それを考えるとやはり遊び心は確かになくはないですが、それだけではなくAとBという町の対抗意識である闘争であったり、体を使った極限に激しい身体活動だというところの、三つの要素というものがどうしても考えられる。遊びだけから見たら、勝利至上主義という発想は出てこないわけですが、そういうのがあるということは、やはり対抗意識であると思われますし、体を使って競い合うところにも根源があるから、恐らく出てくるものだと。これは西洋の話ですが、日本の場合武家社会ではないですが、そもそもスポーツの概念がなくて体を鍛える、心身の鍛錬というのがある。心のメンタリティーというか精神性を養うという意味で、スポーツではないけれども鍛錬という形でずっと生成されてきたものが、明治になって西洋化の流れを受けて、イギリスのカレッジスクールで行われるような近代的なスポーツの概念に触れた時に、教育に活かせるのではと持ち込まれたわけです。なので、軍隊ではないですが、一部のエリート層が心身の鍛錬という意味で「体育」というものが持ち出されてきた流れがある。それを上手く、都合の良いところだけを抜き出して、育てられてきたのが軍隊に繋がっていくのでしょう。そうしたことから「日本のスポーツとは一体何か」ということが見えてくる。今のスポーツがやっていることを考えていく必要がある気がします。今出てきたスポーツ運営についての問題で言えば、まずはその方がすぐに結果が出るからです。つまり従来のティーチをするような指導法で、結果が出ているところに魅力を感じている人たちがいる以上、それが廃れることはない。部分的な話で全部が全部それでいいとは思わないけど、何かしら結果が出てくる仕組みが、従来の指導法の中にある以上、それだけが全て悪いわけではない。その中に結果が出るプロセスがあり、変な部分が多くありすぎるから問題だというところの意識は当然出てきて、それは改善すべきだと思います。あとは、プロアマの話で特に学校の部活は閉鎖的な組織だから、これは組織体の問題で構造上世の中のどこにでもあるという話が出ましたが、ではなぜ普通の民間企業においてそれが起きにくいのかというと外部の目が光っているからだと思います。外部の目に触れやすい状況で活動が行われているから、中だけの論理では上手くいかない。今回日大の問題が取り上げられたのも外の目に触れたから。YouTubeに動画が投稿される、そしてマスコミに取り上げられる形になったわけで、周りの関心を引き込めたということは、外部の目が入ったから問題が浮き彫りになっただけで。もし、外部の目に触れられなければ、それで終わっていたはずで、つまりどのような形であれ透明性をどう担保していくかというところが大事になってくるのかなと思います。

 組織の透明性を確保するためにメディアが必要という話が出ましたが、それに関連して言うとスポーツメディアの成熟度が日本はまだまだ低いというか、個人的にリポーターに対して不満に感じているところがあります。例えばスポーツ選手に記者がしょうもない質問をする。「それを聞いてどうするの?」と逆に問いただしたいぐらいの質問を平気な様子で記者がするわけです。「この活躍を誰に伝えたいですか?」とか心底どうでもいい質問をして、活躍の裏側にある感動話などを引き出させたいのが見え見えというか、マスコミはいつまでこんな質問するのかと頭を抱えてしまう。質問する側が競技に対して不勉強なのか選手に敬意を持っていないのか、くだらない質問をする理由は分からないが、とにかくリポーターの失礼な言動が目立ちます。「あなたにとって野球とは?」みたいな抽象的なことをプロの選手に聞いてどうするのかと思えば、この間は「今、羽生結弦選手が活躍していますがどう思いますか?」と大谷翔平選手に質問していた。別の競技の選手にそのような質問をして、一体どんな回答をしてもらいたかったのか全く理解できない。何の役にも立たない馬鹿げた質問というか、質問自体良く分からないというか、質問の意図が見えないというかとにかく日本のスポーツメディアに落胆してしまった。逆に自分で答えが分かるようなことを聞くなよと思ってしまうこともある。他にも質問の前に長い演説をして質問のところに中々いかないというか、質問のふりをした知識披露の場というか独演会みたいに感じることもある。スポーツに限らず、答える価値の無い質問をするメディアに対していかがなものかといった思いです。それがスポーツの場であるから余計目立つというか、一体どんな答えを期待して聞いたのか分からない質問がある度に日本のスポーツメディアはレベル低いなと思ってしまう。

 観客が少ないから、活躍したそれだけでは売れないのかなと思います。

 先ほどのメディアのところだと、はっきり言って女性でスポーツ新聞を読んでいる人は私の周りでは見たことがない。だからメディア関係で言うと大体スポーツ新聞なのかなとイメージしてしまうが、先ほどの方がメディアの成熟度について仰っていましたが、選手一人ひとりのすごい情報とか個性などが書いてあれば女性だって読むと思います。だけど今の時点で、スポーツ新聞と聞いただけでは、読む気にもならない。そういうイメージというか、スポーツ系の情報誌とか雑誌とか知らないですけど、メジャーではないのかなと思いました。

 先ほどの「スポーツとは?」という話が出ましたが、私は最初遊びというものしか思いつかなかったが聞いていると、競争性や対抗意識というので思い出しました。日本の相撲の元々は分かりませんが、江戸時代とかその前に、時の権力者が地域で戦わせて、いわゆる余興ですけど。余興で戦わせて勝ったら褒められるわけです。勝てばいい気分になるし、褒美も出る。そうすると、競争性とか対抗意識が当然出てくる。その地域でも強い人やそれを育てた人を偉い人が上手く使ったのかなと思います。上に立つ人がそれを身に付けて、競争性とか対抗意識を上手に使いながら、選手には勝った高揚感を育てた人には優越感を与えて、それが一番と思ってしまうという一つの意識があるのかなと。それだけではなく利害関係や地位や名誉とかがくっついてくる。そういうものは誰の中にもあって、それが突出した際に事件とか起きる。このてつがくカフェの意義のところで、誰もが平等にいろいろな意見が言えてとあるが、既にあるように疑問を持っていこうよという考えが、実はあると思うのですが。一方で人間は簡単に破ってしまうこともある。てつがくカフェは小さいコミュニティかもしれないが、解決策の一つの場になっているのかなと思いました。何でも疑問を持つことで、例えば先輩から上級生は神だと聞かされた時、そのまま受け入れるのではなくクエスチョンマークを持ってみる。それって本当にそうなのかとか、どういうことなのかと疑ってみる。日大のアメフト部で言えば監督に言われたこと、コーチに言われたことを素直にストンと入れるのではなく、まずクエスチョンマークを持つことが重要だと思います。何のために?本当にそれでいいのか?など問いかけるというレッスンを、ここではある程度できるわけですから、こういった場があるといろいろな見方ができるのでそういう場を経験していると、変えるきっかけの一つになるのかなと思いました。

 僕が話を聞いていて思ったのは、多分一昔前であれば上下関係は絶対服従で、上の言うことに従うのが、勝って結果を出すための最短距離というか、一番簡単な方法だったと思いました。それがずっと日本だけではなくスポーツというのはどこでもそういうふうにやってきたのだと思うわけですが、そこからどんどんレベルが上がっていった時に、そこから先を目指すとなると最初に出てきたコーチングや『奇跡のレッスン』みたいな話があるわけです。やはり一昔前の古い考えが日本のスポーツ中にあって、だからもうすでに勝てなくなっているのかなと思うわけです。そこから突破するには一人ひとりの力を引き出すコーチング的なことが出てきて、要するに世界のスポーツがどんどん変わっている時に、日本は本当にいつまでも日大のようなことをやっているのは何なのかなと考えてしまう。調べてないので分かりませんが、レスリングの栄監督はそういうものを取り入れて一人ひとりを伸ばす指導をして上手くさせるというか、競争というものはもちろんあるが、その前に向上というか上手くなりたいというのがあるのかなと思っているわけです。やはり上手くなりたいという気持ちには当然相手があるものだから、それに勝ちたいという話になるのだけれども、勝つために上手くならなければいけない。上手くなった上で勝つというのがあって、そうするとスポーツのメインは何か?指導者とは何をする人か?となった時、一人ひとりを上手くさせなければならないというところがあると思うわけです。だけど、特に集団スポーツの場合には、勝つために取り敢えず上手いやつを抜擢して、他は放置みたいなふうになってしまっているというのは、当然指導の本来の在り方ではないと思うのですが、その伸ばすといった時にやはり伸ばし方というものがあって、それもどんどん新しく入ってきている。それはある種、楽しませるというふうにも言ったけれども、そういうのを引き出さないといけない。要するにそれ以上上手くならないからということもあって、だからスポーツというものが今ちょうど変わり目にある。そうしてこそ結果が出せるはずなのに、いつまでも古い形でレスリングの方はひょっとすると一人ひとりを上手く育てようとしている内に、そこに恋愛関係が育ってしまったとかの問題があって、栄監督の奥さんは元教え子で、そうなるとまた今度は別の話に流れていくのかなという。その延長線上に伊調選手の問題がある気がしています。高橋洋子選手の監督も若干怪しくないわけでもなく、昔ながらの上下とかがないふうになると、今度は恋愛かと思ってしまうような、それはそれで間違っているわけです。難しいとは思うのですが、新しいやり方がこれからそうなっていくのではないのかなという気がしています。

 スポーツの世界がどんどん広がっていくという話で言うと、世界基準というかワールドワイドになっているのは間違いないと思います。自分は身長175㎝以上で日本人の平均身長よりも高いのですが、海外だと小柄という扱いになる。今は混血の方をハーフではなくダブルと呼ぶ時代ですが、ダブルのスポーツ選手が高校野球や高校サッカーなどで活躍している。プロ野球でいうとダルビッシュ有選手が有名ですが、そのほかの競技でも人種や民族を超えて様々なダブルの選手がプロスポーツで活躍されている。パワーやスピードといった身体能力が優れていることに加え、理論的な戦術や科学的なトレーニングで培われたテクニックを持つ海外の選手相手に、日本はというと子どもたちのスポーツの入り口となる学校現場で未だに「気合だ」「根性だ」という精神論や体罰などの暴力が蔓延っている。また世界基準の指導法やトレンドの戦術を学んでいくこともそうですが、人種や宗教などの価値観の違いや多様性なども考慮していかないと日本のスポーツは衰退していくというか取り残されていく気がしています。例えばイスラム教のラマダン(断食月)は日中は水も飲んではいけない、食べ物は日没後にという宗教的・文化的な話も指導者なりコーチが理解していないと敬虔なイスラム教徒の選手とトラブルになる。日本のスポーツは単一民族で長いことやってきたことを考えると、言語の壁もそうだが海外の文化や宗教についての理解やコミュニケーションが遅れているというのが感じられる。ある一部のスポーツの事件でちょっと過熱して取り上げられて、時間が過ぎたら元に戻るということを繰り返しているというか。事なかれ主義というか反省や進歩がない国なのかなと思ってしまう。

 今のお話を聞いてまったくその通りだと思いました。今日の話に繋げてみると、グローバル化が必要で、グローバル化出来れば日本的な悪い習慣というのも無くなるのではと期待している。グローバル化している団体やプロリーグで言うと、サッカーであれば海外の監督や指導者の方に来てもらってコーチングしてもらう。言葉を変えて言えば、勝利至上主義は一番商業的な理由でもあるので、海外の方に来てもらって日本の遅れている部分を進歩させてもらったらといいなと思いました。もしかしたらオリンピックで商業利用はいけないという話もありますが、日本のスポーツに必要かもしれない。例えば、高校野球でも海外の監督を招聘して、甲子園で勝っていけばコーチングなどを日本でも取り入れていきましょうと、もっと日本のスポーツを良くしていきましょうという感じになるのではないかと思っています。

 高校野球の話ですが、真夏の炎天下で一人の投手が160球とか投げさせるのは十代の体が出来ていない子たちに対していかがなものかと思います。これを熱闘とか盛り上げて取り上げるのは非常に懐疑的です。本当にそれで潰れたり、怪我したりする子もいるわけですから、彼らの競技人生はその後もプロ野球に入ったり、社会人や草野球などもあったりするのに、ただ一時に費やしてしまう。それをエースが完投したとかで喜ぶのが非常に遺憾というか度し難いなと思います。ただ、今度は球数制限で一人の投手が60~70球までとかにすると今度はピッチャーを揃えられるチームが勝つ仕組みになる。例えば、140㎞投げるエースはいるが他にピッチャーできる選手がいないとなると、待球作戦で出来るだけ投げさせてエースが降板したらほぼ負けという感じになる。そうすると、結局は選手層の厚い強豪私立が勝っていくというのであれば、学校という単位で行うのではなく、地域など県選抜や東北選抜など選抜方式でやる方がいいのではないかと思いました。

 本当に今の意見のように、まず少子化の問題にあってスポーツを語っていくとその問題に当たると思う。結局子どもたちの人数が少なくなっていくと試合のメンバーすら揃えられなくなる。本当に近い将来無くなるかもしれない。今のうちに地域でやるとか連携というか抜本的に変えなければならないと思う。大枠を学校単位と言っても子供の数は減少しているわけですから。そもそも論になってくると、もう本当に何か変えなければまずいかもしれない。だから世界基準で戦うとなった時に、日本は選手がいなくて参加できないという時代が、もうあと何十年後に来てしまうかもしれない。

 今の話を聞いていて、あとメディアの成熟度も必要ということで言うと、経済界にも成熟度は必要かと思います。「スポーツは誰のために?」というと選手のためですけど、そこを考えられる成熟さが必要なのかなと思いました。

 学校でやっているスポーツだと上下関係があって、地域とかの集まりや学校とは別にやったらいいとかお話がありましたが、結局それでも上下関係はあるのかなと思いました。どうやったら上下関係やコーチや監督の教育の問題もあるかと思いますが、体育会系というくらいだから文科系とは違うわけで。日大のアメフト部を見ていると中学高校だけでなく大学でもあるとか。体を動かす部活の上下関係というのは、何か身体性というか体を鍛えることと関係があるのかなと疑問に思っていまして。皆さんどう思われますか?

 今の意見を聞いて思ったことが、以前てつがくカフェに来ていた方で、アメリカで生活していたという女性から聞いた話ですが、アメリカの場合アメフトが主流で、時期になるとアメフトをやるけれども、それ以外のシーズンは他のスポーツに自由に行っていいという話で。それはもう目から鱗でここだけではない多様性というか自由さというか。だから「このスポーツしかないから、ここに行け!」みたいなものは無いのかなと思いました。

 そうすると、先ほどあった怪我の話に戻ると別にアメフトだけではなくて、テニスやるのも何でもいいということになると、今回の日大みたいな「やるしかない」というところまで追いつめられることはないのかなと。ただそのように器用にできるものなのか、スポーツを分からないから言えませんが。一つのことをやっていると他のスポーツも結構こなせるものなのか分からないのですが、いろいろとやれるものなのでしょうか?。

 経験から言うと、自分の競技以外にも夏は水泳、冬は陸上と合同練習をさせてもらったこともありました。あとは相撲の四股を練習に取り入れていましたが、下半身や体幹の強化につながるということでトレーニングのメニューに入っていました。同じ動きを続けていると疲労もするし、筋肉の偏りも出てくるのでいろいろなスポーツをやるのはいいことかと思いますが、ただ帰結するのは自分の競技というか、自分の主軸としているスポーツの向上のためなのでシーズン事にいろいろな部活に入れるシステムは面白いとは思います。ただし、所属している部活の監督が兼部を認めてくれるのかどうか、人数によってできる練習も違うので当然メニューも変わりますし、練習できるスペースの確保や時間の制限など場所の問題、ボールやラケット、スパイクにシューズなど人数分揃えられて、かつ自分の体のサイズに合ったものを用意するなど用具の問題もあって、現実的ではないというか運用するのは難しいのかなと思います。

 その彼女が言うには、アメリカは部活ではなくて地域のクラブと言っていました。アメリカではアメフトが人気なので、シーズンになるとほとんどアメフトばかりやるらしいですけれども。自分の行きたいクラブに地域で好きに選べるというようなことを言っていました。

 上下関係の問題は、身体性から生まれるというのはまたちょっと別の話のような気もしています。多分組織の作り方次第なのかなという気がしなくもないですけれども。日本はずっとそれをやってきたからというのがあるのだけれども。先ほども実力とは別の問題という話もありましたが、実力の上下は当然出てくるとは思うのですけれども、そこに学年という話はまた別にあって。やはり、やる人のためのスポーツになってほしいなと。スポーツすることで心身が健康になるとか、上手くなるとかということがあった上での話なのだと思うのですけれども、その一番大事なところがすっぽ抜けている気がしていて。そろそろ時間になってまいりましたが、最後に何かありましたら。

 For the選手であるならば、最初に私が話したいなと思っていた「ステークホルダーとは誰か?」という話と関連して。出てきたのはまず競技者で、その競技者が所属している組織体、それをマネージメントしている人たち、行政なり商業主義の関係で企業体というのが出てきたわけですけど。最も欠けているのは我々自身というステークホルダーを見失っているというところが、最後に指摘したいなと思っていて。スポーツと直接関係ない、興味ないという方が仰っていましたが、確かにスポーツに対してのステークホルダーではないという見方もできますが、間接的に商業利用と言いますか、スポーツを支えている側の企業の商品を私たちは購入している。サービスを提供されている。その受け渡しの可能性がゼロではないと見ると、私たちは何かしらのステークホルダーであり続けているわけだと思うのです。例えば、女性だからスポーツ新聞を読まない、興味がないといってもその新聞社にどこかの企業の広告が打ってあるわけで。その広告と我々は新聞を買っていなければ直接的ではないけれども、間接的にはやはり影響がある。つまり私たちがどういうふうなスポーツ像を持っているかによって、このスポーツがどうしていくべきか?これでいいのか?と思考し、どうすればいいのか?というふうなものの答えというのが、我々自身にあると思うわけです。今度どこにその答えや意志を伝えていくかというところでは、ステークホルダーたり得るはずなので。東京オリンピックがあまり好きではないという話であれば、スポンサーにお金を回すようなことは個人でも避けられることなので。それにお金を出すような人に対して、自分はこう思っていると、その企業が応援している〇〇についてどう思う?というような形というのも思い浮かぶのかなと。朝日新聞などが甲子園のあの熱闘や感動の一戦というふうに伝えていて、それが嫌だと思うのであれば買わないという手段だって一つにステークホルダーとの関わりではあるし。要するに朝日新聞も高校野球だけやっているわけではないので、その一面だけで評価をできるものではないのですけれども。というようなところを、自分たち一人ひとりがどう考えるか?という視点を、やはり持つ必要があるなと思いました。スポーツの好き嫌いに関わらず、関係しているはずなので。

 はい、ありがとうございました。時間が過ぎてしまいましたが、取り敢えず本日のてつがくカフェはこれぐらいにしたいと思います。どうもありがとうございました。


てつがくカフェ@ふくしま報告2022.5.14. 「私はどう介護されたいか?」

2022年05月15日 22時48分37秒 | 定例てつがくカフェ記録
5/14(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。



今回は主催者が濃厚接触者となってしまったため、

急遽全面Zoomにせざるをえませんでした。



変更のお知らせが前日となってしまったことも含めて

皆様には大変ご迷惑おかけいたしました。深くお詫び申し上げます。



また会場参加を楽しみにされていた皆様におかれましては、誠に申し訳ありませんでした。






さて、急な変更にもかかわらず

今回9名の方にオンライン参加いただきました。

ご参加いただきました皆様、この場をお借りして御礼申し上げます。



なお、Zoomの様子を録画・録音はしておりませんでしたが、

参加者の皆様のご意見については↓の「マインドマップアプリ」でまとめさせていただきました。







次回のてつがくカフェは、

6月18日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「戦争と平和を考える」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.2.12. 「         」

2022年02月21日 15時25分06秒 | 定例てつがくカフェ記録
2/12(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には12名、オンラインでは7名の計19名の方にご参加いただきました。








定刻通り15時からの開催となりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。


【本日のテーマの候補】
・宇宙開発は宇宙破壊か?

・どこで暮らしたいか?

・選択的夫婦別姓制度の是非について

・同性婚を国として認めるか?

・ワクチンを打つべきか?

・人に迷惑をかけてはいけないのか?

・自由と責任、権利と義務について

・後悔・反省・謝罪について

・お付き合い宣言は必要か?

・恋愛とは何か?

・勉強とは何か?

・なぜ見て見ぬふりをするのか?

・スポーツの意義は?

・人間はどういう存在か?

・日本人とは何か?

・人生とは?生きる意味とは?

・今後てつがくカフェはどう進むべきか?

【どのテーマにするか?】
・話し合っていくと手間がかかるので多数決ではどうか?
→決めるの(過程)も楽しんでほしい。ただ、2時間も話せないので、今日は短い時間で話せればと思う

・一つずつやってたら何時間もかかる。世界の中で重大か、世界規模で見たとき何が緊急か?で決めてはどうか?
→それだと社会的な問題や経済的な問題だけになってしまう。個人的には哲学的な問題のほうがいいなと思いました

・どこで暮らしたいのか?というテーマについて、どういうイメージをほかの国に持っているのか聞いてみたい
→3.11直後は大問題だったが今は落ち着いて語れるかな

・時間内で出来る範囲で語れればいいと思います

・どの問題も繋がってくると思う
→今日のところは「どこで暮らしたいか?」ということで。このテーマから広げていただいても結構です

【どこで暮らしたいか?】
・自分が話したいなと思った経緯について話すと、自分は色んな土地にあっちこっち行っている。今勤務している会社では東北から異動したい若い人が増えている。どうすれば地方に人が来てもらえるのか?という話が社内で出た時に、(自分の)「暮らしたい場所」を考えるようになった

・若者は(都会など)勢いのある所に一度は行ってみるといいと思う

・自分は東京でしか暮らしたことがない。便利だし、若い人は街に出てきたほうがいいと思う。震災直後、福島から出てきた人が多いが、今でも福島から出ていきたい人はいるのか聞きたいなと思った
→若い時は福島から出たかった。ただ地元に戻ってきちゃうと、東京ではいくら通ってもお店のなじみの人にはならなかったりして。福島に仕事があれば残る人もいるのでは?

・自分は30年以上横浜に住んでいたが、仕事でたまたま福島に来て。福島は一人も知り合いのいない街だったが、すぐ仲間ができた。今思うと東京や横浜は人が多すぎる。どこで暮らしたいかは、人それぞれだが(その土地に)仕事がないと困る

・東京のラッシュとあとは家賃が高い。正直、東京は人が住むところではないなと感じた

・生まれは福島だが、自分が暮らしたところは嫌いになれない

・置かれた立場や仕事で暮らしたいところは変わってくるのでは?

・嫌なところから離れたり、(どこで暮らしたいかは)目先の問題になるのかと

【都会と田舎】
・田舎は出歩くとすぐ知り合いにあうなど、都会とは違って狭い世界
→自分も田舎出身だが、母親同士のネットワークが強すぎて。それが度が過ぎていると感じることもあった

・岩手に行ったとき、町が何となくまとまっている感じがした。反対に福島は(一つに)まとまっていない気がして。災害でないと隣近所と顔を合わせないというか

・地元の田舎は監視社会というか。そこから逃げ出したい思いがあって。とくに学生の頃は(他者に)見られているのが嫌な時代でもあって。今は地元に近いどこかに暮らしたいという妥協点になっている

・(どこに住むかは)人と人の付き合いが大事で、社会的な弱者を救えるそんな環境に自分は住みたい

・地元が田舎で、都会に行くと(田舎とは)常識が違うなと感じた。移動は車じゃないんだとか、学校は私立が当たり前とか。また住み慣れた場所から違う場所に行く困難さもある
→常識=風土というか。海外に行った際いつも同じように思うのは向こうの方は笑顔が素敵で。ハンドシェイクや笑顔から「人間」として生きているなと感じた

【ここにいる理由】
・帰国子女の自分にとってのホームというか暮らしたい条件はあるが、家族の個々の事情もある。ある程度制約されるというか。人生の背景から暮らしたい場所が現れる。自分は家族と一緒にいるところがホームで。仕事があればはどこにいても暮らしていける

・世代間の共通理解というか、そこが対立していると次の世代に発展していかない。日本は若者の投票率が低い

・首都圏にマンションを買った友人がいて、夫婦仲は良いがローンを払うのにすごく働かなければならない。結果、マンションは売却し田舎に古民家を買った。(どこで暮らしたいかは)人生をどういう風に過ごして生きていきたいのかで決まるのかと

・資格があればどこでも住みたいところで住んでいけるなと。ただ放っておくと日本では暮らしていけなくなるという危惧があって。この国の政治についてはまったく信用ならない

・どこで暮らしたいかは、「どういう生き方をしたいか」によるなと。ローンは組みたくない、田舎が嫌だからなど理由は様々

・放浪したい思いがあって、自分はいろんなところで住んでみたい。行ったことのない場所を見たい・行きたい。ただ引っ越し=人間関係のリセットになるなと

・あこがれの場所はいろいろあるが、人それぞれの合う合わないはあるが自分は変化が好きだからいろんな場所に行きたい

・家があると縛られるのではないか?そこに一生住みたいのと思ってしまう。賃貸でどこでも行きたいなと思ったから今の場所に住んでいるわけで。ただ年になると動くのがめんどくさい。また家が欲しいと放浪したいは別の話ではないかと思う。あと日本で暮らす不安というのは、国が劣化しているからだと思う

・マイホーム志向というのは社会状況で変わっていくのかなと。高度成長のときは仕事を求め大挙して上京した。そういう人は実家には戻れないから落ち着く場所が欲しいという思いからマイホーム志向になったのではないかなと。結局前の時代を背負って動くしかないのかなと

・最後はどこで暮らしたいか、死にたいかになってくるかと。自分は介護施設では死にたくないと思っている
→質問ですが、介護施設で死にたくないというのはどうしてかお聞きしたい
→自分の家で死にたいという思いからの発言です
→ご家族の手をかける場合が多いと思うが、それは今の介護施設のイメージがあるんだと思う。政策などで変わっていくのかなと。介護施設にいる人は(介護施設で死にたいと)思ってないじゃないのかな
→最後が病院や施設では難しいと思う。介護の経験や住宅の条件などあるが、今後は自宅で看取る世の中になっていくんじゃないかなと

・旅行の場合は、見えるところから行きたい場所が定まる。住むとなると目に見えない美しさで決まるというか。暮らしは自分で作っていく、自分で決める重要なポイント

・自分が福島にいる理由の一つに、この「てつがくカフェ@ふくしま」の存在がある。全国で哲学カフェは開催されていて、オンラインでも参加できるが、ここのてつがくカフェは(自分が参加しやすい)月一ペースで行われているので

【ここではないどこか】
・話を聞いているとみんな大なり小なり「ここではないどこか」を求めているのかなと感じた。それが都会だったり海外だったり

・幻想の部分というか、自分の置かれている立場が曇っていると移りたくなるのかなと。自分は変化を求めている気質なので色んなところで暮らしてみたい

・自分は本当のことが知りたいので、(そこが本当に情報通りの場所か)一年ずつ移り住んでみたい

・今の政治を多くの日本人が認めている。政治状況を変えるにはどうしたらいいかの話になるのかな。どう変えるのか理念上のことを考えているわけだが。ささやかな貢献でてつカフェに参加しているが、多くの日本人が今の状況を選択している。徒労感というか、毎回選挙のたびに落胆する。ここ最近一気にひどくなっている。自殺数も多いし、弱者が救われない。ここではないどこかを思い浮かべないわけにはいかない

・選挙制度の問題で、結局は保守系が勝つ。田舎の人が支えているというか、地方が今の政権を支えている。非常に保守的で、それが諸悪の根源の一つではないかと思っている。変えていく方向と維持していく方向だと維持の方に流れて行っている

・投票以外で変える方法としては、学校教育で哲学をするのはどうか?


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓











さて、次回のてつがくカフェは、

3月12日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える-」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


▶てつがくカフェ@ふくしま Twitter

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。


てつがくカフェ@ふくしま報告2021.12.18. 「どこからが差別か?」

2021年12月20日 14時17分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
12/18(土)に開催された定例てつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。







定刻通り16時から始まりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。

【テーマについて】
・今日のテーマなんですが、境目があって、そこを過ぎてしまうと差別なのかなと。また、どうして差別があるのかも検討したい

・昔海外に住んでいたが、そこでは500人に1人ぐらいの割合で自分みたいな移住者がいて、町のみんなが親切だった。ただ1980年代頃から移民が増えて、今まで移民が来る前に住んでいた人=マジョリティー(多数派)が移民というマイノリティー(少数派)に感じることというか。例えば、家の前に車を止めるのは禁止というのが分からないといったご近所トラブルも出るようになって。移民というのは政府から認められているので、(国ではなく地域では)マイノリティーとマジョリティーが崩れたときに差別が生じるのではないか?

・アメリカに渡った人たちは、経済と銃器でインディアンを追いつめて地位を得た。そういった歴史的背景からアメリカ人は(土地の)支配を行っているのは私たちだという意識がある。話は変わるが、学校では支配層と被支配層に分かれるのが現状で、この関係をほどいていかないと区別じゃない差別が生まれると思う

・どこからが差別か?というテーマだが、(一方で)どこまでが差別じゃないのかというのも考えられるのではないか?また差別はされている側が感じることでは?あと差別する側の論理=強者の論理が強いと思う

・多数派と少数派の話だが、差別するのは多数派が少数派に立場を脅かされるといった排他的行為からの心理が働くのでは?またいじめと差別の境界線はどこにあるのかが疑問に思う
→少数派だから差別されるというわけではないのではないか?ルワンダの事例でいえば、ツチ族という少数派の民族が多数派のフツ族を支配していた。差別は一概に少数と多数(の対立)では語れないと思う

【差別と区別の違い】
・区別と差別の認識というか、区別に例えば文化の違いとか行動の仕方や考え方が加わっていくことで、差別が生じかねないのでは?と思うことがある。 また「白人」というのも(言語的に)差別になるのかどうか。白人が黒人を支配していた時代もあるが、自分は区別に何かが加わって(結果的に)差別になると思う

・差別のなかに優劣という考えがあって。(差別をなくすには)お互い文化として認めていかないといけない

・自分たちは根本的なところで間違ってきていると思う。未開人だから=人権を認めていないという(植民地時代の)考えは、それはただの(支配する側の)ご都合主事でしかない。未開の土地でも文明や文化に優れた民族もいる。非文明的だといって一つの倫理観で定めるのはどうかと思う

・力を持つ者と力を持たぬ者という考えは、どこから出てくるのだろうか?どちらが上か下かといった構造的な物の中に生きてきてしまうとそういった思考になってしまうのか?

・差別と区別の話は、自分は人間社会では当たり前の話だと思っている。また差別された側が差別と思っていないこともある。差別だと思ってやる意図の問題かなと。むしろ差別の問題は心理的な所に還元するのは無理があると思う。差別は歴史的な問題で、昔の人々がやってきた行いを今の人から見れば差別だが当時の人はそれが差別だとは思っていない。人権意識の拡張で差別という意識というか、差別概念が変わってきているのではないか

・差別について考えてきたこととして、今の自分の生活では差別を感じていない。ただ個人の心の中の差別と社会のルールとしての差別があると思っていて。組織の差別と個人の差別があるのではないかと。差別は比較や競走から自分を守るために、自分の防衛本能から本能的に生まれてしまうのかなと

【日本にある差別】
・日本の中でも地域格差があって、例えば引っ越してきた人を阻害(排除、除け者に)するようなことも差別になるのかなと。そういったことがない地域は、どういう人で構成されているのかな?どういう傾向があるのかな?と疑問に思っていて。すごく地域差があるなと感じる

・当人が感じていない差別があるのでは?という話があったが、当人を取り巻く環境(居場所)から追い出されるのではないかという不安はあって。また東北には「サンカ(山窩)※」という言葉もあって
※日本にかつて存在したとされる放浪民の集団。差別用語としても使われる

・自分は転勤族であったが、(その土地ごとに)受け入れる土壌というのがあって。例えば郡山は転校生の多い地域ですごく受け入れてくれたが、逆に福島は転校生が少ない地域なのか(郡山と比べると)排他的なところもあった
→郡山は土地の発生から開明的な地域だった

・差はみんな持っている。その差で分けるには、どう扱うかが重要。(その差を指摘すれば)なんでも差別と言えてしまうのでは? 時代とか場で変わってきてしまうのでは?と思う。移民が差別されるという例も、どうやったら差別が生まれるか?と考えたとき、(差に)気づくことで差別といわれるのではないかなと。また入試は学力で分けているから差別といわれても仕方ないのでは?と思うこともある

・地域的な差別=部落民の話は、30年前にかなり問題になった。明治維新の時に負けた側の会津藩は新政府の要職につけないなど差別された。また試験については標準偏差値というものがあって、偏差値を区分するという評価で、「区分」そのものは評価された結果なんだけど、「区分け」することで差別する可能性を持っている。大学の助手と准教授と教授の例でいえば、どういう差があるのかと(外から見ると)思うこともある
→大学のヒエラルキーというか政治力も教授になるにはあるのかなと。入試の問題も教える先生のレベルが違うから学力に分けていて。研究や勉強というのは学力には寄らないと思うが、試験はそれぞれの学校が勝手にやっていることだから

・良くない不当なことを差別というが、合理的な差別というか線引きをどうするのかなと。例えば商品の差別化なんかは経営方針の違いなどによるもので。差別だと言ってもそれで裁判できるか?というのもあって。友達作りでも、学校に合わない友だちがいて、こっちが拒否しても向こうが友だちになりたがっている場合、(友だちになる人とならない人を分けることの)何が問題か?クレームを申し立てても、本当に差別か検証する必要がある。差別する意図というか。「ちびくろサンボ」※の例もあるが、差別といって(問題が簡単に)決着つきますか?と思う
※世界的に広く読まれている童話、絵本。黒人差別や著作権の問題も絡んで絶版と復刊の歴史を辿りながら120年もの間多くの人に読まれている

【差別が生じる原因】
・人を尊敬する、人に感謝をすることで差別はなくなるのでは?
→尊敬することと感謝することをイコールとしているようですがどういう関係でそうおっしゃられているのかなと。自分はまったく意味の違うことだと考えている
→差別は相手を尊重していないというか。修行というか、自分は対立する意見を言ってくれてありがとうという感覚

・差別=人格自体を否定することになるのでは?差は個性ではないかなと

・根本的に差別が生じる原因は言葉にあるのでは?人類が言葉を獲得した、つまり言葉というのは分けること、思いをはっきりさせること。言葉の獲得が差別に発展した原因では?男女差別の問題も、昔は参政権・投票権が女性には認められていなかったが、これは明らかに差別で、今はもう例えば自衛隊員に女性がいる。LGBTQまで来ている。そうした男女で二分出来ないところまで来ている。問題になるのは「区分け」して苦しむことが生じている。社会的に(差別が)問題になることで、なくすには差別となっている評価の仕方その辺を反省し検討しなければ解決していかないのかなと。「在日はでていけ」「国へ帰れ」なんていうことは、もの凄い差別で。そうした一つひとつ丁寧に検討し考えることで、最後は気持ちの問題になるのかな。差別が無くならない、差別で困った人が出てくるのは、企業や行政が真剣に考えていないのでは?と思う
→自分は言葉の獲得=差別とは思わない。言葉が原因ではなく、考えて行動する生き物なら(差別は)起きてしまうのでは?
→人間の生き方で(差別かどうかが)決まってくる。日本では楽をすること=手を抜くことと言われているが、自分はそうは思わない。動物の世界は弱肉強食だが、人間が楽に生きる心を注いでいけばと思う

・差別の最後は経済行為では?と思っている。方言で差別したり、相手を蹴落とす行為も(最終的に貧富の格差に行き着く)

・仏教では差別(しゃべつ)※という。また(差別用語をなくすには)言葉の認識をやめましょうになるのか、何かに焦点合わせてそこまで遡ってやるのか。性の在り方もLGBTQのどれにも自分に当てはまらない場合、自分の性的指向が分からないと言葉から漏れる者になる。あとヘイトスピーチをやっている一部の人たちは正義感情からきていて、在日特権を許さないということもあって。言葉で差別する(あるいは差別されたと)どうジャッジするのか?
※仏語。万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること

・競争=差別はなるほどと思った。ただ競争の結果から生まれるものでも、良い差別はないと思う。(差別は)結局よくない。また恐怖心からくる差別というか、自分の権利が守られていないと感じるところからくるというのもあるのかなと。それぞれのテリトリーがあって、権利がいかに守られるかを考えないと結局(差別は)無くならない

・個人的には良い差別もあると思う。アメリカでは極めて賢い子が飛び級する制度で、日本のように年齢で(能力を)制限するのはいいことなのか?(飛び級することで)他の子と分けているのは、差別かもしれないが、それが何のためのなのかという目的として問われるのかなと
→差別=悪いものという概念もある。商品の差別は価値中立的であるが、現代の日本で差別の話は悪いものとして捉えていいと思う。LGBTQの話も言葉として可視化されて差別の問題が浮かび上がる。気持ちの問題で言えば、「あいつらは憎たらしい」みたいなネガティブ感情と、正義感という感情心理が差別の十分条件ではないと思う

・偏見や先入観を持つというのは人間の能力かなと。年齢差別の話でいえば、同じ年齢の子に同じ教育を施すというか、日本の義務教育には落第はないが、ほかの国にはあって。それは差別ととらえられるのか?

・差別はどこから生まれるかという話だが、区別が差別の種かなと。それがいつ差別になるかというと、区別しなくてもいいと気づいたときに差別が生まれるのでは?と思う。男性は仕事、女性が家事をするものという昔の考えを、段々とみんなが(差別だと)気付き始めたから生まれてきたのかなと

・ ジェンダーとセクシュアリティに違いはあって。個人の気持ちは重要というか、個別に対面するとイメージが変わったが、集団で考えると個別性を失ってしまうのか。集団でおこなわれる偏見というか。個人同士で出会うことで差別を生まないことになるのかなと。個人間の好き嫌いで思うこともあるだろうが、それはなくすにはどうしたものか?
→集団の中の差別という話だが、それは文化が背景にあると思う。(差別を生まない)アプローチの仕方を考えるというか

・子どものお遊戯会を見た際に、男の子と女の子の演出というかジェンダーのことは考えてるのかが気になって園長先生に「年齢的にも小さいから中性的にやってはどうか?」といった内容のメールを送ったら、子どものセクシュアリティは未分化なので、医者の診断があれば個別に対応するという旨の回答をもらって。そういうことでないというか、なんか認識が違うというか

・(差別を生まないようにするには)個人の自立度というか。(多様性が)文化の発展につながるので、いろんな経験をして培われてくるものというか、差別のないようにするには色んな情報を入手できるようにしないといけないのかなと

・乙武洋匡さんの話で、小さい頃に差別を受けたと感じていなかったそうで。それって逆境力というか、鈍感力というか。自分で全然感じていない、気づいていない、そういったものの見方で差別と感じていないこともあるなと

・男女差別というのは、社会的な性差で。(差別を生む)一番問題なのは、教育だと思う。女性の能力を生かせない、伸ばせていないというのが問題だなと

・差別の問題を考えるとき、個人と組織の話という対概念は違和感がある。そうではなく社会の問題と捉えるべきでは?




上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






さて、次回のてつがくカフェは、

1月23日(日)15時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは『友だち幻想』(菅野仁著、2008年)です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。


てつがくカフェ@ふくしま報告2021.11.13. 「運命は甘受すべきか?」

2021年11月16日 14時31分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
11/13(土)に開催された定例てつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には11名、オンラインでは3名の計14名の方にご参加いただきました。







定刻通り16時から始まりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。


【運命とは?】
・「生老病死」(生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生における免れない四つの苦悩のこと)という言葉があるように、(運命とは)老いる苦しみなど人が生まれながら持つものかなと

・競馬場の人の話で(馬券が)ハズれても驚かないが、当たると驚くというのがあって。それってギャンブルというのは(ある意味)運命を否定しているんじゃないのかなと。競馬場のそのインタビューで「当たったら終わりだよ」って言われたというのがあって。また最近だと「親ガチャ」(ガチャガチャで何が出てくるかわからないのと同じで、どんな親のもとに生まれるかは運次第の意味)という言葉が流行っているが、それは何も親だけではなく、国も時代も選べないというのは当たり前の話で、それを言語化したのが、すごいことだなと。言語化することで(親ガチャという認識が)共有されたというか

・最近のニュースで眞子様の件でひと悶着あったが、あれは彼女があの家に生まれていなければ取り上げられていないことなので、あの騒動は必然だと思う。そうした出来事には偶然と必然があるわけだが、人は偶然を必然化してしまう傾向にあって、それって解釈の問題かなと。(運命として捉えるかは)単なる考え方の一つに過ぎないと思う

・話を聞いていて思ったことは、自分は「運命」というとディズニーの中で出てくるような「運命の恋」とか「赤い糸」みたいなものを思い浮かんでいたが、生き方や寿命という観点で考えたことがなかった。また、運命については信じる/信じないの対比があって、恋愛的な運命は信じていないが、一方で国や生まれは運命かも知れないと思っている

・(運命はあるのかないのか)限定して考えると、起こったことが運命であって、最初から定まったものではないと思う。甘受すべきかどうかについては、無駄な悪あがきでも抵抗することはできるので、あえて受け入れることはせず、逆らう意思を持てば甘受することにはならないと思う
→もし運命が定まってるとしたら、抵抗することも先に決まっているのでは。それなら甘受するしかないのでは?

・運命は事後的に考えるものかと。先回りするというか、未来にいる自分が感じる概念かなと。何もかもが決まっている=決定論の思想はキリスト教などにも見られるが、そうした主張は論理的な証拠をもって話すものではないのかなと思う。偶然とするのか、それとも必然と感じるかのせめぎ合いの話かなと

・運命が決定されているかは分からないが、それって(例えば)最初の座標が決まっていてそこからどうなるというのが決定論だが、その座標に(何が)あるのかは決定論では語れないと思う。分からないという答えに「運命」という言葉が出てくる。(分からない中で)「じゃあ、どうしますか?」という話になるかと

・解釈の話でいうと、足が悪いとか病気がちだというものを「運命」と考えたほうが諦めがつくのかなと

・偶然を必然と解釈するのに「運命」という言葉を使ったのかなと。例えば事故で子どもを失ったなど、それらはすべて偶然だが運命と解釈する人もいる

【甘受するとは?】
・「甘受」という言葉の意味について考えると、例えば事故で足を怪我したとき(人は)歩かないという選択肢ではなく、リハビリすることを選ぶと思うので、(甘んじて歩けないという)現状を受け入れるかどうかの話ではないのかなと

・甘く受け止めても辛く受け止めてもいいと思う。これで良しとするというか、どっちでもいいよという気持ちというか。人と違うことを受け入れることで、気づきや学びがあるわけで。マイナスな出来事はその時はつらいが、長い年月を得て別の展開が見えてくると思う

・ 運命という言葉の解釈でいうと、例えば足が悪く生まれたとき、足が悪く生まれるまでが運命なのか、足が悪くても努力するまでが運命なのかで納得感が違うというか。与えられたものと努力の部分で個人の選択が迫られるというか、どこまでが運命と捉えるかで違うのかなと
→状況改善をするというか、その困難を受け入れ抵抗するまでが運命かなと私は思う
→自分は、運命はないという意見で「ここからは自分の力で進む」というか、甘受する姿勢が想像つかない。甘受するのであれば、(極論を言えば)自殺に行き着くのかなと

・運命は所与(他から与えられたもの、解決されるべき問題の前提として与えられたもの)のものというか、親や家庭など偶然だが受け入れるしかない。結婚した、親友になったなどすべて偶然で、現在完了というか、これまでの話としての運命の甘受であって、「この先の運命の甘受」は矛盾した話になるのかなと。運命論の類推(誤解を招きやすい運命の概念。二つの物事に共通点があることを認めたうえで、一方の物事にみられるもう一つの性質が他方にもあるだろうと推論すること)になるかと

・甘受すべきかどうかについては、『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルの本があったと思うが、咲ける場所で生きればいいのではと思う

【運命はあるのか?】
・運命は未来志向の話ではないと思う。未来を知ることはできないし、どうなるか分からないので、未来に「運命」という言葉を使うのは意味がないと思う。個人的に占いは詐欺だと思っていて、占いにハマるのは愚かというか、引っかかる人もいるんだなと感じている
→反論として、そうしないと占い師が商売にならない。未来に対して運命はあり得る、相関関係があるといった解釈もあり得るが、逆もしかりでどっちもありだと思う

・未来に関しては、扇のように開いていて、毎分毎秒人が選択しているのかなと

・未来と運命は別で、(同一視するのは)矛盾しているように感じる。また「今」についての甘受をイメージしているというか。今を生きてるのだから、必然的にみんな(運命を)甘受していると思う

・宇宙など(おおよそで)定まっていることはあり得ると思うが、それ以外のことは大体フリーハンドなのかなと。また運命について考えたとき、死は逃れられないかなとつい夢想してしまう

・過去が理由で未来を選べないという話があるが、「親ガチャ」なんかはまさにその典型で、過去を覆せるのか?未来は選べるが、選ぶ力はあるのか?といった問題は、分けて考えるべきかなと。選択できたこととできないことがあり、意志の話というか自分の努力で変えていけるものとそうじゃないものがあるのかなと
→3.11があったときのことを思い出すが、震災以前はほかの地域の災害を他人ごとにしか思えなかったが、震災以降当事者になって、こういうことなんだなと良くわかった。震災について一言でなんて答えられないし、ただ福島に住んでいたことが(震災にあう運命を)自分で選んできたかもと思えた

【占いについて】
・占いに関して否定的な意見も出てきたが、占いにはカウンセリングや娯楽の要素もある。また「起こったことはすべていいことだ」という言葉もあったが、阪神淡路大震災以降は言わなくなったなと。(人生には)肯定できることと出来ないことはあると思う

・「運命」という言葉の解釈でいうと、選ぶしかなかった運命もあると思う。また占いというものは矛盾を抱えていて、「運命」という言葉をいい加減に使っている節がある。運命とは人が生きやすくする言葉でどこまでを受け入れるかの話かなと

・占い師は「こういった解釈もあるよ」というのが仕事で、努力次第でどうにでもなるよと言っているのかなと。また個人的に地震(や災害)については運命と考えることもできるなと

・占いは未来を予言するわけだが、未来が決まっているのなら選択をどうするかと。(未来と個人の)選択の方法とは違う話かと思うのだが。(占いとは結局)偶然の意思決定の話なのか?
→占い師は相手の過去を当ててから、信じさせるわけで。過去を知っているから未来も知っているとなって信じてしまうのかなと
→それは単なるコールドリーディング※という手法で占いの対象相手を推理して、可能性を伝えているにすぎないのかなと
※話術や観察法のひとつであり、外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術や観察法。「コールド」とは「事前の準備なしで」、「リーディング」とは「相手の心を読みとる」という意味

【運命を受け入れるとは?】
・満足感が一つの要素かなと。貧しくても満足ということもあるわけで

・現実を否定しないことかなと。例えば、志望する学校に現状自分の学力が足りないという場合、受かりたければ現実を認めて努力するしかないわけで。理想ばかり話してもダメ

・運命という言葉の解釈を変えると「物語」になるのかなと。これまでの運命=物語を良しとするのか。決定論で話してしまうと未来は決まっているが、普通の人にはそうした因果関係の話は合わないのかなと

・過去が変えられないというはその通りで、否定できないので甘受せざるを得ないし、受け入れざる負えないと思う

・運命と決定論がごちゃ混ぜになっているように感じる。運命と決定論は言葉として分けざるを得ないと思うが

・(運命を)解釈している時点で受け入れているのでは?と思う。運命も無意味だし、甘受も無意味だと思う

・ 受け入れるという話はトラウマというか、不幸な過去を乗り越えるという話になるのかなと。ただどう納得するのかが想像できないが
→不幸な過去を乗り越えるという話で思い浮かべるのが、犯罪者の子どもたちのことで。(彼らの過去は壮絶で)なりたい職業にもつけず、それを受け入れるのは難しいと思う
→犯罪者の子どもたちなど偶然ということで乗り越えるしかないのかなと。必然だと(受け入れるのは)厳しい
→(受け入れる)べきではなく、したほうがいいと捉えるといいのかなと。どちらが幸せになるのかな?と考えたとき「まぁいっか」という考え方で楽になる
→すべてのことに意味があるわけで、(犯罪者の子どもであっても)その人にしかできないことがあって、だからこそ(本や講演会などで)伝えられることなどもあるのかなと

・社会的な背景で「親ガチャ」という言葉が出てきたのかなと。運命と捉えてしまって変えられないという思いから生まれた言葉かと。ただ過去の出来事は変えられないが解釈を変えることは可能だと思う
→解釈を変えられるのは強い人だからできるのであって、(運命と受け入れて解釈を)変えられない人は一定数いる。例えば、災害があったとき役割を見つけて動ける人もいれば、助けを求めてその場から動けない人もいる。強い人は突き放さずに弱い人に寄り添えるようになればいいなと思う

・運命という概念も人間の進化の過程で作られ、その中で言語を持った人類が目に見えないものや存在しないものにも名前を付けるようになったこと(言語化すること)で、すべてが成立してきた
→「運命は甘受すべきか?」というテーマは、海外の文化の違う方と話すとまた違う展開になったのかなと思った


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







さて、次回のてつがくカフェは、

12月18日(土)16時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは「どこからが差別か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。


てつがくカフェ@ふくしま報告2021.10.16「お酒を飲むことは必要か?」

2021年10月17日 12時17分39秒 | 定例てつがくカフェ記録
10/16(土)に開催された定例てつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

肌寒い季節となり、当日も雨が降るなど天候には恵まれませんでしたが、

会場には11名、オンラインでは1名の計12名の方にご参加いただきました。







定刻通り16時から始まりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。

【お酒を飲む意味】
・お酒を飲むこと自体は必ずしも必要というわけではないのでは?
→人間関係を円満にする中で「飲む」「飲みに行く」という選択肢は必要なのでは?お酒の場が好きだとか、趣味が一緒の人と飲むのが楽しいなど(お酒を飲むことで生まれる二次的な要素として)
→(必要かどうかは)時と場合によるのかなと。どんな時に必要なのかの話を聞きたい

・個人的に、テーマの答えとしては必要、不必要、どちらでもないの三択になるのかなと。また、(テーマに)誰がという主体が入ってこないと意味がないと思う。私自身お酒を飲むということは、いまの状況では必要としている。昔は仕事の終わりに飲み屋に直行していたが、今はほとんどないし、飲むとしても家で晩酌するぐらい。昔は、飲み方としていろんな仕事上の人間関係を構築したり、ストレス発散のアシスタントとして飲んでいたので、(飲酒は)毎日少しは必要かな?と思う。必要かどうかは、立場や状況によって変わってくるのでは?

・主体によって変わってくるという話かなと。人間そのものとしては、水さえあれば(お酒は)絶対必要ではないと思う。生命維持だけなら水で十分。ただ、気持ちをリフレッシュしたり、人間関係を深めるツールとして考えると社会的に必要なのではないかと思う。養命酒などお酒にもいろいろあって、適量なら良い面もある

・仕事上お客さんと仲良くなるため、また上司と仲良くなるためのツールとしてお酒を飲んでいるので、「誰にとって必要か」というのが大事なのかなと
→必須ではないが人生にとってあった方がいいと思う。先ほどの方もおっしゃられてましたが、お酒は誰かと心を通わせるツールとなっている

・話をスムーズにできたり、コミュニケーションを円滑にするという話の流れだが、それは、お酒でなければならないのか?お酒である必要性はあるのか?というところが疑問


【飲み会というシステム】
・これまで仕事においてお酒を飲むことが強要されることが多かった。そうした文化は果たして今後も必要なのかと。社会の中で「飲み会」という仕組みが出来上がっていたわけだが
→テレワークの時代において、オンラインで仕事ができる、会社に毎日出社することもないという世の中になったので、そうした仕組みや文化も変えることはできると思う。ただ、誘いやすい文句として、「飲みに行こう」は使いやすいツール(フレーズ)でもあった

・時間と空間を共有する特別な場として、飲み会は必要だったのではないかなと。お酒で深い話をするというか、(人間関係を)作り出すもの、演出としての飲み会という場だったのかなと

・コロナ化で歓迎会など中止となったが、正直なくなってうれしい、ほっとしたという気分になった。考えたらお酒がある場だからうれしいのではなく、人と一緒にいられるから楽しい、友達同士で話が弾むということだったので、お酒は絶対に必要ではないと思う

・オンラインで飲み会する機会があった際に思ったことが、普段一人で飲まない自分は、飲み会がないと人と会わなくなるなと。またそのオンラインの飲みが始まるとタガが外れて、気づいたらあっという間に予定の時間を過ぎていた。お酒を飲むと時間が過ぎるのが早い

・ジェンダー論の話になってしまうとあれなのですが、女性はコミュニケーション力が高い。一方男が集まっても早々話さない。お酒があって初めて語り合うというか。ただ飲む過ぎると何しゃべったか覚えていない。飲みながら語り合うとか盛り上がるというか、お酒がないとつまらないというか。お酒があると意外とまじめな話もできるようになるのかなと

・コミュニケーションツールになっているというのはその通りで、オンライン飲み会はあるがオンライン食事会はない。飲みニケーションが嫌という話は、お酒自体や飲み会自体に問題があるわけではなく、「強要されている」というところに問題がある
→お酒があるからいい悪いの話ではなく、今の若い人は必要以上に先輩や上司と関わりたくないというのが本音かなと。昔の文化を疑問視する若者が増えていて、自分の時間を大切にしている。飲み会は意味がないというか必要なんだろうかという空気があって、必要以上に仕事の人間と関わりたくないというか。関連付けて飲み会まで嫌いになっているのでは?

・考えると節目の時に飲んでいたなと。結婚式や葬式などの行事といった大人の世界に必要なこととして飲んでいた気がする
→お酒の意味というか、別れや祝いの席で飲むことは必要だったという話なのかな?

・楽しいのは飲める人たちだけで、飲めない人にとっては会費は一緒だし、酔った人を最後まで介抱したり、車で家まで送ってあげたりなど飲み会は飲まない人への負担が大きい


【お酒の必要性】
・お酒を飲むと体に影響が出る。メリットもデメリットも、いわゆる功罪がある。また飲むとその人間の本性が出る。昔は女の人は飲まなかったが今は飲む人が増えたように感じるようになった。お酒の効果効用として、現実から離れられるということもある

・酒は世界中で神様への捧げものとしてある(世界中に需要・多くの人が必要と思っている)

・酒はどうして飲みたくなるか自分でも理由が分からない

・自分は日頃は水とお茶の生活で、別にそれで自分自身は満足している。ただ飲んでる人を見ると楽しそうだなと思うので、人生にメリハリというか気持ちが元気になったりすると思うので、必要ではあるのかなと

・普段は自分も牛乳しか飲まない生活で、ビールは味が苦手というか、一人で飲むと美味しく感じない。ただ飲み会ではなぜか美味しく感じるのが不思議

・自分もお酒は苦手な方だが、お酒を飲める人がうらやましいと思うのは、ご当地のお酒を楽しめるところがいいなと

・酒飲みの習慣として、酒と離れられない。気持ちをほぐしたい、飲むとぐっすりと眠れる。日本で酒造業がなくなったら失業率が大変で、経済面の功がある

・酒は毎日飲むが、手が震えるなどもないので、自分はアル中だとは思っていなくて。お酒を飲むのは食事を楽しむためで、餃子にはビール、チーズにはワインみたいな食事とのマッチングを楽しむために飲んでいる

・普段お酒はおいしいと感じないが、友達と飲んだ時はおいしいと感じる。雰囲気やシュチエーションを楽しむというか、お酒によって高まる効果があるのでは?
→お酒が持つ力というかコミュニケーションが進むというのはあるのかと
→一方で、人間関係を壊すというか人間の機能を壊す側面もあるので、そこまでして飲む必要があるのかとも思う

・「酒は百薬の長」というのは本当ですか?
→全くのデタラメらしい(中国の「新」の時代の皇帝・王莽が考えた民から酒税をとるために広めた言葉で、何ら医学的な根拠がないただの宣伝文句)

・酒の席でのセクハラやパワハラが横行していた時代もあった。それらがお酒の失敗ということで許されていたらしいが、それはただの自分の失敗であって、お酒へ責任転嫁してるだけ。昔はお酒を飲めない、タバコを吸わない人にとっては飲み会は決して楽しい場所などではなかった

・「酒は飲めた方がいい」など飲めない人へ無理やり飲ませたり、日本は特にそういった同調圧力が強い。お酒が飲めないやつ= 付き合いが悪いという文化

・酒は心の重荷と取り除くという作用もあると思うが…

・お酒が仲良くなる手段で、飲めば解決ということもあったと思う

・マイナス面というか、使いこなせるかどうかがお酒というツールで、中にはお酒に飲まれる人もいる

・酒が嫌いな人については、社会的な飲み会という場・空間にいること、飲む人も飲まない人も一緒にその時間を共有することが求められていたと思う。調子に乗って暴言を吐くなどもあるが、楽しんで飲めればいいと思う

・お酒を良いものにするのも悪いものにするのも人次第で、飲めるから偉いみたいなことではなく、特性の違いとして認識しておくべきで、飲むように圧力をかけない、飲む人と飲まない人がお互い批判しないで、それぞれ楽しめる社会になればいいなと思う

・奥さんが全く飲めない人で、けど友達との飲み会は楽しかったというので、女性同士なら自分のペースで飲めることや強要されないということも大きいのかと

・酒の強要は個人の尊重によるところが大きく、いわば基本的人権を無視している。個人を大切にする環境であれば美味しく楽しくに通じるのではないかなと

・酒を飲めない人と下戸といい、飲める人を上戸というが、(上下を付けずに)なくなった方がいい言葉だと思う

・素面では話せないというのであれば、普段の付き合い方から考えるべきではないかなと。やりづらいとかそういった印象を与えているというか。また個人的には飲めなければ言えないことは(飲んでも)言うべきではないと思うが

・楽しい酒ばかりではないが、恥ずかしい思いを繰り返してもまた酒を飲みたくなってしまう
→飲みたくなる心境を知りたいのですが?
→(飲むと)心穏やかになる。ただの習慣とは思えない
→もし、偶然今日家にお酒がなくなったらどうしますか?どんな心境になるんですか?
→しまったな(という気持ち)

・依存的というか、溜まったものを発散したくなる。一日の疲れ、ストレスなど。ただの(食事との)組み合わせや(飲む習慣としての)積み重ねというわけではないと思う
→それって、パブロフの犬現象というか、条件反射みたいな気が。自分もイライラしたらお酒を飲むという習慣から、イライラしたら炭酸を飲む習慣に変えていけたので、条件を見直すということも大事かなと

・ノンアルコールの商品が増えているが、それで誤魔化すことはできないのかなと。雰囲気は飲んだ気分になれると謳っているので、そんなに変わらないのかなと。同じ高揚があるのでは?
→お酒は酔い心地というか、酔い心地がないノンアルは全然違う。気分になるのはプラセーボ効果だと(偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられること)
→ノンアルは、はっきり言ってまずい。味が再現されてない。味が大事ということを考えると、自分的にはアルコールのパーセントははどうでもいいのかな?と感じる。あと偽物なら正直食べなくてもいいかな?とも思った

・アルコールが入ってないものはたくさん飲めないので、たくさん飲むにもアルコールは必要かと

・美味しい食事と美味しいお酒をセットで楽しみたいという考えで、ノンアルでも味が再現されてれば昼から飲みたいかなと
→味よりも高揚感を上げたい。個人的には強い酒をガンガン飲みたい、飲み会でみんなの輪の中に入りたいという思いがある

・お酒に代わるものはないのかなと疑問に思う


【コロナの時代における飲酒】
・コロナで夜の酒の提供禁止になって、人との接触を避けるようになった。また食事中にマスクを外すので、感染症対策としては昼から飲むべきではないという意見で、また仕事中飲んでいいのか?とも思う

・コロナでお酒が悪者になっている時代ですが、それはひどい話だなと。飲み方が悪い人がいると酒まで悪者にになるように、マナーやルールを守って飲酒すればいいのかなと

・コロナで学校の先生が飲酒運転して事故を起こしたというニュースもあったが、今の時代の話なのかと驚いた
→コロナ禍において「飲酒」という行為自体が、昔よりも風当たりが強くなった(特に公務員)

・酒が人間の機能をおかしくしてしまっている。ただ飲んでる人にルール守れは酷かなと。飲んだ状態では中々守れないのはあるなと。じゃあ守れない前提でどうするのかと

・道具でも使う上での注意事項というか、使うときは気を付けるというか、お酒を飲んだらどうなるのかも考える必要があるかなと

・飲み会のルールを作る必要があって、飲みすぎる人は飲酒運転しないようにといった集団で守る風土を作るべきで、飲み過ぎて学生が死ぬという事件はあるので、飲めばモラルやルールが守れなくなるというのではいけない

・日本はタガを外せない文化なんじゃないかなと(本音を言えない建前の社会)

・大人になってからでは遅いというか、若いうちから飲酒について学ぶ機会だったり、てつがくカフェのようにみんなで議論できる場が必要かなと
→てつがくカフェはお酒がなくても話せる。ほかの場だとお酒がないと話せない。真面目な話というのは普通はできない



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







次回のてつがくカフェは、

11月13日(土)16時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは「運命は甘受すべきか?」です。



なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。



また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。