てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま2023.12.16.「心はあるのか?」

2023年12月12日 17時26分20秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2023.12.16.
【テーマ】「心はあるのか?」
【日 時】2023年12月16日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
https://us05web.zoom.us/j/88683999508?pwd=zQxSDxt3ROILHgN6dbAGeTJZ9fLEib.1
        
        ミーティングID: 886 8399 9508
        パスコード: 9NvSBM

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp






今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。


今回のテーマは、「心はあるのか?」です。

「心」というのは由緒正しい哲学のテーマであり、

心とは何か?、心はどこにあるのか?、

心は身体の死とともに消滅するのか(それとも不死なのか)?

といった問いは紀元前よりずっと問われ続けてきました。

デカルトは、「私は思考する、ゆえに、私は存在する」を哲学の根幹に置くことによって、

心身二元論を鮮明に打ち出しましたが、

デカルト以降の近現代哲学史はそれとの格闘の歴史であったとも言えるでしょう。


心というのは目に見えるものではありません。

自分に心があることは自明であるとすべての人が思っており、

それとの類推で、ほとんどの人は他人にも心があると信じていますが、

それを証明しようと思うとそう簡単な仕事ではありません。

逆に、AIや ChatGPT などの近年の急速な進歩を目の当たりにすると、

ドラえもんのように、私たちと自由自在にコミュニケーションを取れる

ロボットが開発されるのも時間の問題と思われ、

そのようなロボットが私たちの目の前に現れたとき、

それは機械なんだから心なんて持たないはずだと判断できる常識派は少数となり、

心を持った存在として扱う人間のほうが多数派となるかもしれません。

そうなったとき、そうしたロボットと他人(=他の人間)とはどこがどう違うのか?

これをさらに突きつめていけば、自分にとって自明であるはずの「自分の心」すら、

それほど自明のものではないということがわかってくるでしょう。


てつがくカフェと名乗っているわりには、

本格的な哲学的テーマを取り上げることはあまりないのですが、

今回は満を持して「心」というテーマに挑んでみます。

「てつがくカフェ@ふくしま」は、

誰もが「当たり前」と信じていることを掘り下げて、

みんなで自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

シネマ・本deてつがくカフェ報告2023.11.23.

2023年12月11日 13時25分48秒 | 定例てつがくカフェ記録
11月23日(木)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは3名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、大体1年分くらいテーマを決めてるんですけど、今月は空けておいて何も決めていなかったんですね。どうしようかと思っていたら、8月に「宗教を問う」というテーマでやった時に、沢山の方が参加してくれて、特に新しい方も参加してくださいまして。多分政治的な状況もあるかもしれませんし、宗教に関して関心が高いのかなと思いまして。この「てつがくカフェ」はいつもはテーマについて話すだけなんですけども、たまに「本deてつがくカフェ」という本を読んできて皆で話し合うとか、「シネマdeてつがくカフェ」など映画を一緒に鑑賞してその映画について語り合うみたいなことをやっておりまして。最近その二つをどちらもやっていなかったので、「シネマdeてつがくカフェ」をやりたいなと思っていまして。それで、宗教で結構人が集まったからそれに気を良くして宗教がらみの何か映画はないかなと思っていくつか探して。この遠藤周作原作の『沈黙』はつい最近ですよね、映画化もされてまして。洋画としてスコセッシ監督のもと映画化されておりまして。いつもはこの場で、15時から始める前の時間に、まだ視ていない方のために映画観賞会というのをやりまして、この場で映画を観てやっていたんですが、借りて観たら物凄く長くてとてもじゃないけど上映会やっていられないと。ということで、上映会は無しにしてその代わりに小説も読んできていいのかなということで、小説でもいいですし映画を観て頂いてもいいですし、この『沈黙』という映画ないしは本を題材に信仰とかあるいは疑いとかについて考えてみたいなと思って選ばせていただきました。どちらも非常に重厚な作品で、テーマも非常に重たいという。僕も高校の教科書だかで読んだっきり、重たい暗い話だなと思ってそれっきり読んでいなくって。僕も読んだことがなくって、今回初めて読んだというか。だけど、とても面白かったですね。色々と語り合いたいこともあるんですけども、ここからは皆様にご自由にお任せ致しますので、発言のある方は手を挙げて頂ければと思います。

・私は本しか読んできていないんですけど、それでここのボードに二つ書いてあるんでね、ちょっとお聞きしたいなと思ったのはこの『沈黙』という小説と映画について、同じような遠藤周作さんが出した重大なテーマとして、追及している事と映画でやろうとしている事、この辺の違いというか。同じような突っ込み方でやられていたのだろうかと、その辺ちょっとお聞きしたいなと思った。両方観た方に。

・私も映画と小説両方観てですね、細部は大分違っているところもあるなという感じはしました。脚本なんかでも、映画の一番最後のところなんかロドリゴが亡くなるところを描かれていて、その時に日本人の妻が小っちゃいロザリオなんだか十字架なんだかを渡してみたいなことが描いてあって。でも、(小説では)一つもそんなことはなかったので、多分いつもというか小説と映画があった場合に、やっぱり小説の方は内面の事は書けるんだけれども、それが映画だと画像でしかあるいは台詞でしか表せない訳ですから、その部分映像化という形で小説とは違う形で映画化しているというところは多々あるかなと。あと、人物の描き方に関してもちょっと違うかなと色々違いはあるかなと思いますけれども。でも、テーマ自体は全く同じであったり、というふうに私は受けとめておりましたが、どなたか他に何か両者比べてみて何か思った事はありますでしょうか。

・私は本で読んで、こういうふうな理解をしたんですけど。ここのテーマというのが宗教、ここでいうキリスト教ですけど、キリスト教の弾圧と拷問に対して信仰あるいは教会、団体を維持する、その問題かなと。要するに弾圧・拷問と信仰の維持を扱ってるのかなと。もう一つは、題名にあります通り「沈黙」なんですね、神の沈黙の問題。それともう一つは、弾圧による訳ですけどその時に起こってきた二人ともフェレイラとロドリゴの二人のパードレが出てくるんだけど、その人たちの信仰の変質というか、そういうことがあったと。そこら辺が、テーマと言えばテーマかなと。そういうふうに理解したんですけど。いかがでしょう。

・何がテーマだったのかということで、いくつか挙げて頂きました。

・私の意見はですね、良い映画というか優れた映画、僕本読んでいないんで映画しか観ていないんですけども、これテーマはですね別に一つという事ではなくて色々ある訳で、色んな方面から色んな角度から語れるし、考えられるというのが優れた作品だと思うんですね。なので、僕思ったこと一つは直接これがテーマだと、大きなテーマだという話とは別として、映画の中で大変印象に残った台詞がですね、「沼に何か植えようとしても育たないんだ」という話をしてましたよね。要するに日本という国に、キリスト教を根付かせようとしていっぱい宣教師がやって来たけども、それに対して奉行の方が言った台詞が、「日本は沼だ。沼に何か植えようとしても育たない」と。「日本にキリスト教は根付かない」という事を言いました。それがとても興味深くてですね、なぜかと言うと当時は鎖国の中でキリスト教の弾圧をしてた訳ですよね。その弾圧の理由については色々と諸説あったりしてよく分からないですけども、いずれにしてもかなりの弾圧をしていた。にもかかわらず、その弾圧される前には結構な数の日本人のカトリック教徒、クリスチャンがいた、特に九州、西日本にはということもある訳ですね。ここでもしも、幕府などによるですねキリスト教の弾圧が無かったら日本にキリスト教が根付いたっていうか。今でも当然クリスチャンはいますけれども、もうちょっと深い意味で日本人の一般的なその考え方に根付くことは出来たのかどうか、どうだったのかという事を考えちゃうですね。僕は意外とちょっと否定的でやっぱり日本は西洋と違うので、キリスト教は根付かせようとしても、沼に何か植えようとしているようなもんだというふうに捉え方で。もしそこで、キリシタンの弾圧が無かったとしてもそんなにキリスト教の国にはならなかっただろうと、当然思う訳なんですけれどもどうなんでしょうねと感想でした。

・今の点に関しまして、ちょっと補足しますと小説の方はその辺詳しく書いてあって、映画だとあんまり出てこなかったんじゃないかなと思いますけども。「日本が沼である」と、日本にはキリスト教が根付かないし、日本には30~40万の数字が出ていたかと思いますが、それは別に本来のヨーロッパでのキリスト教信仰とは違うんだということを。要するに、日本人は自分たちなりの宗教、神観、デウス、神の事も大日と言い換えたりとか、みたいな形に。さっき信仰の形の変質って話もありましたが、それとは別に小説の中でも宗教そのものが変質している、キリスト教が変質してしまったんだということは結構書かれていて、それが一つのテーマになっていたのかなというふうには思いました。

・私今回初めててつがくカフェに参加したんですが、今回の宗教に関するテーマなんですけれども、皆さんは宗教って言葉を使う時にどういった面を考えたりしますか?例えば、自分が「宗教」という言葉を聞くと神様がいるかどうかとか、あるいは死後の世界とかそういうふうなことを考えるんですけれども、その他にも話は出たりしますか?

・私が「宗教」というふうに言われた時に思うのは、宗教って神様だとかいうことは当然なんですけど、「創始者がいる」ってことと「教義がある」ってこと。仏教でいえばお経ですね。その他、やっぱりね集まりというか教会というか集団というか、信者による団体。この三つぐらいが大きな要素なのかなというふうに考えて。要するに「創始者」と「集まる場所」とお経というか「バイブル」的なものね。その三つかなと思っているんです。

・今のに対する質問なんですが、そうすると例えば「神道」。「神道」も例えば、本当に神社の神主さんとかになるために勉強している人は別かと思いますけども、一般に我々、我々というと誰を指すのか不明瞭な言葉になってしまうけれども。「神道」を別に勉強した訳でもなく、取り敢えず正月になったら初詣に行く人、あるいはお葬式の時ぐらいしか仏教の経典なんて聞くことが無くて、ちゃんとそれを読んだことが無いような人って、それは宗教の信者に入らないって理解にはならないですか?

・そこはさっき三つ言ったんですけども、ちょっと「神道」の場合は違うなという感じはします。要するに「神道」だって、祝詞(のりと)とかね言葉で書いたものはあるんですね。あと宮司(ぐうじ)さんとか宮仕えの人とか、それとお社(やしろ)とかありますよね。「神道」の場合は、今は「神道」の集団というか団体が作られているよね。そういう意味では、似たところはあるんじゃないかなという気がしますけど、「神道」の場合自然に力というかそういうものに対する信仰というか重視というか、そこら辺から始まってて、ちょっとキリスト教とか仏教とは違うんじゃないかなというふうには思っています。キリスト教の場合は、まずは「創造者」そしての「神様」というものを考えられたんだと。これはもう旧約聖書の創世記からあるわけだけど、仏教の場合はお釈迦様、仏陀という、まぁこれは歴史的な人間が創始したということでそういう色んな初めから言葉をたれていくことで法華経とかね、「仏様はこういうことを言ったんだ」と初めから言葉は発しているんだけれども、その点はちょっとキリスト教の場合は違うのかなと。バイブル以前の問題もあるんだけれども、初めから言葉があった訳ではないかなというふうには思います。あまり質問への答えではないかもしれないけど。

・ちょっと、ズレるかもしれませんけど「神様」と仰いましたよね。「神様」とかあるいは、デウスのことを日本では「大日如来様」と。要するにもっと自然の多神教みたいな形で自然と結び付けて行われて。だから、違いはあると思うんですよ。宗教がなぜ起きたか、なぜこんなに普遍的になるかといったら根本的に人間に「良心」があるからだと思うんですよ。だから、罪悪感があるからだと思うんですよね。何かやった時に「申し訳なかった」「お天道様に対して申し訳ない」とか。それは日本人の感覚だとそういうかもしれないし、西洋の感覚だったらやっぱり「罪の意識」ってあると思うんですよ。そういうところから、何かもっと大きな絶対者みたいな。日本だったらもっと親しみのある自然の神様だったりするんですけど、自分を見守ってくれたり、あるいは自分を戒めてくれる存在っていうものがあるから人間は人間として、形と言うか心を持っていける。そういう意味で、そう思考するために宗教って作ってきたんじゃないかって私は思うんです。

・今のに対する質問なんですけれども、そうすると例えば無宗教の人とかというのは、人間の良心は無くなってしまい罪悪感が無いという話になってくるんでしょうか?それとも、何か別の理由でそのような人が出てきたというのが説明できるんでしょうか?

・無宗教=良心が無いってことはないと思うんですよ。宗教が無くても良心というのは、無いとは言えないと思うんですよ。ただそういう方便として作ったんじゃないかもしれないけれども、非常に人間の、人って弱い存在ですよね。それを側面から支えるということが、人間個人が知っているんだと思うんですよね。だから、長い歴史の上で一人の人がそう思ってんじゃないから宗教って広まって来たんじゃないかなと思うんですよ。それは宗教じゃなくても個人的にはこの宗教って持っていないんですけど、帰依しているものはないし。ないけれども、やっぱり心のどこかに罪悪感があって、これは良くないんだという気持ちはありますよね。あると思うんですよ、どの方にでも、犯罪者にでもあると思うんですよね。だから、人間の根源みたいなところに必ず良心ってあるんではないかなって思っています。だから、無神論者だから無いってことはないと思います。

・もう一つ質問させてほしいんですけども、皆が良心があるとしてその上で昔ながらの宗教が信じられてきた。なんだけれども、今無神論の人達が出てきているということは、どのように説明できるんでしょうか?

・今申し上げたのは、神を否定するという事ですよね。良心が無いって事ではないって事ですよね。違いますか?どういう人の事か具体的には分からないけれども、よく日本人だと「信仰ありません」とか「無宗教です」とか結構平気に言いますよね。でも、それを海外に行く時に空港で無宗教みたいに書くと「これはアナーキストじゃないか」と海外では思われちゃうという話ですよね。要するに「良心が無い奴」だと海外では思われるかもしれないけど、でも日本人は良心が無いかというと良心はあると思うんです。宗教とは関係なく良心と言うのは人間のどこかに存在している物だと思うんです。それで、宗教のあるかないかと関係なくあると思うんです。

・宗教は何かしら救ってくれる絶対的なものというふうに考えるとしたら、自分は無神論者でスタンスは神様は基本的に信じていないと昔はそうでした。基本的にというのは実際に自分の目で見ないといるかどうか分からないからと。見ない事にはいないって事も言えないから、だから基本的には信じていないというスタンスでいました。そういった無神の状態のまま3年ほど前に、あの限りなくあの世に近づいたんですけどその時に色んな光景があったんですけども、その中に必ず光の玉があったんですね。これが傍にあるととても安心するというか。それまで自分が置かれていた苦悩とか悲しみとか、そういうものが一切無くなって良い状態の空っぽというか、そういうのを感じましたね。確かキリスト教では自殺というのは一番許されない罪と聞いたんですけども、自分はそれを選んでも光の下に行った。今は神様いるかどうかって言われたら、「分からない」と答えます。というのも、光も何も言わなかったんです。神様だ、キリストだ、仏陀だとかそういうことを言わなかったんです。何も言わずにただ光としてそこにあったという感じなので、無神論者でも救われるようなものがあると思います。

・先ほどの話に倫理学者として話を付け足すと、仰られた通り倫理学もそうだし善悪ってことに関しても、長い間基本は宗教を中心に、「神がこう言っているから」とか「聖書に書いてあるから」とか。これはどこの宗教でもそうな訳ですけども、それは宗教の教義の中に善悪に関する教義というのもあって、それに基づいて善悪が教えられて教会とかそういった所で教えられるというのが、長らくあった訳で多分日本もどうなのかな?「神道」なり「仏教」なり、それがその「教義」というのが善悪の判断の基準だったんだろうと思うんですね。ただ、やっぱりそれが近代以降になって倫理学の方も宗教とか神とかが中心ではなく人間中心に考えて、「人間にとってどうか?」とか「人間は幸福か?」とか「人間は自由なのか?」とか、人間の自由や幸福というものに基づいて倫理学を作り直していこうと。つまり、人間の立場から倫理学を作り直していこうという。それは、近年の化学が人間の立場で人間は何を知ることが出来るのかという形でこの世界を知ろうとして様々な化学が発達していったのと同様に倫理学もその方向に来ていて、私たちはその先の世界としてむしろ神を前提としない、聖書とか何かしらの本とか神様の言葉とかを前提にしないで、善悪を考えることが出来る、考えるのが普通になってきている訳ですけれども。永らくヨーロッパはずっとキリスト教の伝統が強くって、それを中心に考えている。小さい頃に洗礼を受けて、教会に毎週通っていてそこで説かれて、それが良い事というふうに考えて生きている訳でそういう宗教が無い人ってのは正に仰られたように無神論者=良心が無い、善悪が無い、見境付かない何するか分からない人という風に思われるところがある訳です。実際そんなことは無いと僕は思っているけれども、未だにそういう観念は強いのかなと思います。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。