てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第19回てつがくカフェ@ふくしま報告―「ほんとうのワタシって何?」―

2013年10月27日 08時52分04秒 | 定例てつがくカフェ記録


第19回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日、agatoで開催されました。
参加者は16名。
テーマは「ほんとうのワタシって何?」です。
〈ワタシ〉をめぐっては、無数の論点に広がる可能性があります。
そのため今回はこのテーマで開かせていただくにあたって、香山リカ著『生きづらい〈私〉たち』(講談社現代新書)にある「いくつもの私、本当の私?」を一部資料として配布させていただきました。
ある意味で、議論の方向付けというか起点となればと思ってのことです。
そこには「生きにくい」と感じている人々が、「どんなときでも自分の中心はここと感じること」ができず、「自分はまわりに合わせているだけ」という意識を持ちながら、「たくさんの自分が別々にいる。どれが本当の自分なのか、自分でもわからない」と心の病に陥っている人々の姿が描かれています。
これは哲学的な問いというよりも、文字通り心理学から立ち上がってきた議論ではありますが、今回のカフェでは両方の視点からの議論が交錯しました。

まず、「ほんとうのワタシはあるのか?」といった問いに対して、「ない」という意見から議論は始まります。
その意見によれば、私自身が思っている「ワタシ」が「本当のワタシ」であるはずもなく、「ワタシ」というのは他者の評価も含めて成り立つものだということになります。
自分が知っている「ワタシ」と他者が知っている「ワタシ」という話は、「ジョハリの窓」を思い出させます。
けれど、それらの総体としての「ワタシ」はあるのではないか。
これについては、私というのは立場も変われば言動も変わるけれども、その都度その都度自分で判断を下している以上、複数の「ワタシ」と言おうが、それらは変わりつつ同一であるとの意見が出されました。
これは「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という『方丈記』の一節を思い出させられます。
世は諸行無常、一瞬一瞬水は流れつつも「川」は「川」である同一性に変わりはないのと同様に、「ワタシ」もまた複数いようが、昨日と今日の考え方が変わろうが、「ワタシ」は「ワタシ」なわけです。

また、異なる観点から「ワタシ」などほとんどないという意見も出されます。
それによれば、もし「ほんとうのワタシ」なるものがあるとすれば、それは生まれたばかりの赤ちゃんにしかないのではないかとのことです。
私たちは生まれるとすぐに社会に適応するために様々な躾を受けます。
すると、「ワタシ」なるものの大部分は社会によってつくられたものであって、「ほんとうのワタシ」などというのはほとんど見当たらないものだというのです。
仮にあるとすれば、それは玉ねぎの皮のような社会的部分をどんどん取り除いて、ようやく核にある希少な芯のようなものではないかというのです。
これに対して、それでも皆が皆同じような教育を受けても、「ワタシらしさ」は現れざるを得ない以上、完全に社会的部分に適応するものではなく、むしろ社会的なものに抗する形で「ワタシらしさ」が形作られていくのではないかという意見も出されました。
これは「個性」という意味での「ほんとうのワタシ」についての議論だと思います。

しかし、そもそも「ほんとうの」というフレーズに引っ掛かりを覚えるとの意見も出されます。
逆に、「ほんとう」じゃない私とは何か?
それは実は社会的なものを肯定する形で生じた問いではないか。
言い換えれば、「ほんとうのワタシとは」という問いは、すでにある種の価値規範を備えた社会の現状を肯定してしまっていることで生じるのではないか。
つまり、「ほんとうのワタシ」という場合、そこには真/偽を測る物差しがあるのだろうけれど、その物差し自体がア・プリオリに存在するはずもない。
ということは、それは社会的につくられた物差しの問題であって、本質的な答えを探求する哲学の問いとして設定するのは不適切ではないか、という指摘です。

ここにはこのテーマを哲学的な問いとして向き合おうとする参加者の姿勢が窺われます。
たしかに、それ自体を哲学的に問うならば、その指摘は当たっていると思われます。
ただし、この問い自体が心理学や精神医学の分野から立ち上がってきた以上、それは経験論的な議論を避けて通れるわけもありません。
したがって、ここでいう「ほんとうのワタシ」というフレーズは、自己肯定感の過不足を意味しているものだと共通了解を図る必要がありました。
これは純粋哲学的にこの問題を考えようとする参加者にとっては、当てが外れたテーマだったかもしれません。
それでも、この問いを発しながら「生きづらさ」を抱えている人々の問題を通じて、「ワタシ」なるものを考えることは無意味ではないでしょう。
たとえば、ファシリテータからは、若い世代から「キャラを演じる」苦しさを訴える声をしばしば耳にすることから問題を提起させていただきました。
これに関して、高校生の参加者からフェイスブックやツイッターで複数のアカウントをもちながら、それぞれの場に応じてふるまう自分がいることが述べられました。
これ自体、相当疲れることではないのかと思わされましたが、どれが本当の「ワタシ」かと問われると答えに詰まるようです。
ただし、キャラを演じることについては、やはりその時々の気分的な問題もあることから、とても疲れるとのことです。
にもかかわらず、周囲から要求される「キャラ」を演じてしまうのは、その後々の人間関係を考えてしまってのことだといいます。
空気を読まない奴と思われれば、いじめの対象になりかねません。
すると、「ほんとうのワタシ」なるものは、他者との関係で立ちあがってくる問題だといえそうです。

これについて、まず他者に対して「自分が出せない」、「言いたいことが言えないとき」に「ほんとうのワタシ」を感じざるを得ないのではないかという意見が出されました。
これは自分のことを他者に受け取ってもらえるかどうかという、「承認」レベルでの困難を意味しているように思われます。
続いて、「自分が出せない」というのは実は、この社会に信頼を築ける人間関係が希薄になったことに起因するのではないかという意見も出されます。
そもそも、言いたいことが言えない文化になるのは、学校教育で個性を出す自由よりも周囲に合わせる作法ばかり強調されるからではないかというわけです。
これらの意見に対しては、そもそも「ほんとう」なるものなどこの世界にはないのであって、この言葉を持ち出さずにいられない人々にがどのような存在かが問題になるだけではないか、という意見が出されました。
そして、「ほんとうのワタシ」という問いは、自己肯定できないことが切実な人々に生じる問いであって、そうではない人からは生まれないの問いであることが指摘されます。
言い換えれば、他者との関係が拗れた人々にとっての特殊な問いであるというわけです。

しかし実は、この問いそのものが、ある社会的な規範や価値観に規定されているのではないかとの意見も出されました。
というのも、先ほどから出される「自分を出せない」や「言いたいことが言えない」、「信頼を築ける人間関係が希薄だ」という言説が「ほんとうのワタシ」に関わっているのだとすれば、それは「自分を出す」や「言いたいことが言える」、「信頼のある人間関係」ことが、あたかもよいことだという規範に規定されているから生じるのではないか、と言うのです。
すると、自己肯定できない人々の根底には、これらの価値観や規範に縛られているがゆえに「ほんとうのワタシ」という言説を口にしてしまうものだとも言えそうです。
価値観や規範が、いわば歴史的社会的につくられたものである以上、時代社会が変わりさえすれば、一緒に吹き飛んでしまう相対的な悩みの問題に過ぎないということになるでしょう(だから、普遍性を探求する哲学的問いに馴染まないということになるのでしょうが)。
これについては別の参加者から、たしかに「自分はこうでなければならない」という意識を捨て去ることができたとき、「ワタシ」を丸ごと受け入れることができたという意見も出されました。

この他にも他者との関係で「ほんとうのワタシ」を炙り出すものとして、「他者の存在が欠落した時にこそほんとうのワタシに気付くものではないか」との意見も出されました。
これによれば、たとえば自分にとってかけがえのない人がいなくなったとき、その人との関係で形成された自分に気づかずにはいられないといいます。
その発言者によれば、この在りようを「共存在」と呼び、かけがえのない他者によって自分が規定されざるを得ない在りようなのだと感じられることだといいます。
ふだん、そのことには気づかずにいる自分も、それによって形成されたり存在が規定されていることが、「ワタシ」を感じる端緒だというわけです。
これについて、「ワタシ」とは他者の鏡なのだという言い方もありうるでしょう。

あるいは、別の観点から「ワタシ」というのは他者にも自己意識があると想定して、しかしそのそれぞれの場所から見えるようにしか、それぞれが眺められないという特異な「ワタシ」は他者を介してしか知りえないのではないか、という哲学的な視点での提示がありました。
これについては別の参加者からも、360度の円のような世界に各人が配置されていて、各々の位置から中心にある同一物を見ながら、それぞれに異なる見方があることこそが、「ワタシ」と世界との在りようだと述べられました。
これは自我論的な発想ですが、いずれにせよ「ほんとうのワタシ」をめぐっては、他者からの承認など、他者との関係において生じる問題として議論は展開されました。

すると、この流れに対して「ほんとうのワタシ」とは「自分と自分との関係」の問題として捉えていたという意見が出されました。
実は、筆者も「ほんとうのワタシ」という言説が生きづらさという問題と結びついているのは、自分自身と不調和であることに起因しているのではないかと考えていたものです。
そのことを「自己矛盾」するとき「ほんとうのワタシ」とか、あるいは「本来の自分」という言葉が持ち出されるのではないかと考えていたわけです。
ところが、この意見に対しては「自分自身との関係というのはよくわからない」という意見が多数を占めました。
自分が自分と矛盾するとはいったいどういう事態か?
筆者にしてみれば、そんなことはしょっちゅうあることで、職業に規定された役割(たとえば教師)を演ずることが、自分自身の思想と折り合わない場面などというのはいくらでもありうることではないでしょうか。
いや、それでも結局はそう行為を選択するわけだから、あなたはあなた一人なのであって、複数いるなんてあり得ないだろう、との反論もいただきました。

しかし、行為を選択する以前に、その行為は妥当かどうか考え吟味する営みを自分自身の中でするものではないでしょうか。
そのとき、考え事をしているワタシは独りなのでしょうか。
自己内対話という言葉があります。
心のうちで吟味するときに内なる心で発する言葉は、誰に差し向けられているのか。
言葉が言葉である以上、それは誰かに差し向けられているはずです。
そして、それは自分自身へ向けての言葉だと思うわけです。
すると、他者との世界へ向けて行為を選択する自分は、たしかに一人の「ワタシ」になりつつも、自分の内面でそれを吟味する「ワタシ」というのは複数存在すると考えられるのではないでしょうか。
しかし、それでも「自己矛盾」という言葉は理解できないとの意見も出されます。
これは後付けになりますが、てつカフェ終了後の2次会で「葛藤」ならわかるとのご意見をいただきました。
そのような悩みという意味で、自分が自分の問題になることはあるということでしょうか。
しかし、ある行為を選択するときに自分自身と矛盾することなど、この原発事故でいくらでも経験したのではなかったでしょうか。

「個人的には(放射能汚染から)避難しなければならないと思うけれど、立場上それは言えない」とした教師。
原発が爆発して放射能がまき散らされた地域で、看護師として病院に留まらなければならない職業倫理と、我が子を県外へ避難させなければならない親としての義務のあいだで引き裂かれた看護師。
あのとき、誰にも言えず心のうちで自分自身との対話に格闘した人は無数に存在したはずです。
彼/彼女らは社会的な批判にも晒されたかもしれません。
しかし、むしろ彼/彼女らにとってそれ以上に深刻だったのは、自分自身との矛盾だったのではないでしょうか。
それは葛藤以上のものが含まれると思われます。
負い目や罪悪感というのは、実はこの自分自身から承認されないがゆえに生じるものではないでしょうか。
その意味で自己肯定感というのは、実は他者との関係ではなしに、「お前それでいいのかよ?」という自分自身との不調和を指す言葉だと思うわけです。

これに関してある知人女性が述べていた言葉が印象に残っています。
「男の人って、ほんとうに大変ね!自分で自由に判断できないなんて!立場でしかものが言えない男の人たちが決定権を握るから、最悪の事態に対処できないのよ!」
(男だけが個人的な意見を殺して立場上の役割でふるまうわけではないでしょうが、その傾向があることは否めないように思われます。)
これに関して、管理職を務める知人が、ふと「公的な自分の言動と、ふだんの自分の言動が矛盾しないように気をつけて生きている」と漏らした言葉が鮮明に蘇りました。
そのとき、その発言を聞いた僕は彼に対して「ずいぶん窮屈な生き方をしているなぁ」と思ったものです。

カフェの中でも、その時々の立場に応じてふるまうのも「ワタシ」であることに変わりはないという意見が出されたことは既に確認しています。
もちろん、それが生きる上での実際だと思います。
が、くり返し述べるように、負い目や罪悪感を覚えるようなときとは、それは社会的にではなく、内なる自分自身に問いただされる時だからではないでしょうか。
たとえ、どちらの選択肢にも正解がないとしても。
だから、「ほんとうのワタシ」という問題は、真/偽を問う存在論の領域ではなく、善/悪を問う倫理の領域においてせり出してくる問題だと発言した次第です。
こうした内的事態を自己矛盾という言葉がふさわしくないのであれば、自己欺瞞と呼んでも差支えないでしょう。
人間は自分自身に平気で嘘をついてやっていける存在でもありますが、他方でそれに耐えられない存在でもあるのではないでしょうか。
「善く生きる」とは決して道徳的な生き方を意味しません。
忌わの際に「これでよし(Es ist Gut)」と呟いた哲学者もいるらしいですが、それがありうるとすれば、それは自己からの承認を得た言葉と言えないでしょうか。

ただし、僕は自己矛盾の中で自分が引き裂かれる経験をすることは、必ずしも悪いものだとは思いません。
たしかに、それ自体は不快な経験だとしても、むしろこの経験を生じさせない心性の方が、よほど危険であるように思われます。
その例として、僕は「転向」という問題を提示しました。
戦争時には軍国主義者だった教師が、戦後は平和主義者としてふるまえたのは、おそらくこの自己矛盾(欺瞞)そのものが生じないからでしょう。
プルサーマル計画を導入しておきながら、原発事故後にあっさり「脱原発」を主張する政治家も同様です。
彼らの社会的に首尾一貫しない主張や行動の「変節漢」ぶりが危険なのではありません。
一般には、社会的に見て首尾一貫しない主張や行為は批判の対象に晒されますが、肝心なのは「彼らはいったい自分自身にどのように折り合いをつけられたのか」という点です。
「反省する」と書くと安っぽく聞こえますが、彼らは自分自身と「自己-反省」を経て自分と和解できたのだろうかという点なのです。
哲学的にも反省とはreflectionであり、自分の行為や思想を自分に向き直させることで問い直しを図る営みを指します。
そして、この自分自身とのあいだで首尾一貫性がないことをもって、自己矛盾と呼んだわけです。
これは法や道徳といった社会規範を内面化したという意味での良心との首尾一貫性ではありません。
「自分自身との調和した関係」なのです。
(その点で、ではいったいこの「もう一人の自分」とは何かについて問うことは、個人的にはとても興味深いことですが、それはまた別の機会にしましょう。)

いや、そんなものがなくても原発推進派が「脱原発」になり、戦争賛美者が「平和主義者」に変わったんだから、それはそれでいいんじゃないか。
昨日の自分と今日の自分は違う自分なんだし、自分が変わるということは、それ自体何も問題ないじゃないか。
そのような意見も挙げられました。
自我論や存在論としてはありだと思います。
が、くり返し述べるように「よく生きる」といった倫理的な領域では問題化しうるのではないでしょうか。
というのも、そのような自己矛盾を発動させる契機をもたない人間は、容易にまた軍国主義者へひっくり返るからです。
これは、一つの頑強な思想を持つべきだといいたいわけではありません。
むしろ逆です。
自己矛盾を検査する営みこそは、まさに「考える」という営みだと思うからです。
常に自分自身から発せられる「お前はそれでいいのか?」という問いに弁明し、答えていく営みそれ自体を思考と言ったり、反省というのではないか、というわけです。
これは自分自身の中にある、ある種、非(反?)社会的な自分を殺さずにいることで可能になるのではないでしょうか。
いや、社会的にふるまう行為の首尾一貫性と、自分との関係における首尾一貫性とは一致しないがゆえに、倫理は担保されるものなのかもしれません。
ただし、それは内的な営みである以上、社会的な言動からその存在の確証を得られないこともまた事実ですが。

実は、社会的に「仕事ができる人」と評されるタイプの多くは、実はこの自己を殺すことでしかやっていけていないように見受けられます。
もちろん、現実に生きる以上は、多かれ少なかれ誰でもそうせざるを得ません。
しかし、このたびの原発事故のように、どのような行動をとるべきか答えが用意されていない前代未聞の事態においてこそ、実はこの自分自身との関係こそが問われたし、そこにおいて自分とどう対話できるのかが問われる出来事だったと思うわけです。

今回の哲学カフェの終盤は、このようにファシリテーター自身の発言が問題化されたこともあって、自分の考えを報告文に書かざるを得なくなってしまいました。
実際のカフェにおいては、議論の抽象度が高く、それによって発言しにくい状況があったにもかかわらず、その点に配慮できなかったことは、まさにファシリテーターとして不覚でした。
この点につき、充実感を得られなかった参加者の皆様には伏してお詫び申し上げます。
とはいえ、個人的にはものすごく楽しいひと時でした。
今日のテーマ自体まだまだ深められる必要があります。
引き続き、皆さんと一緒に考えてきたいと考えております。
またのご来場をお待ち申し上げます。

第19回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2013年10月21日 07時27分05秒 | 開催予定
テーマ:「ほんとうの〈ワタシ〉って何?」

開催日時 : 2013年10月26日 (土)16:00~18:00

場 所 : agato(アガト)
     福島市置賜町7-5 パセオ通りアドニード121 2階 ℡ 024-523-0070

参加費 ドリンク代300円

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


「自分を演じて生きることほど生きにくいことはない」
最近、若い世代から富に聞く言葉です。
社会に出てから職業や立場に応じて演じざるを得ない面があることはわかりますが
どうも若い世代のあいだでは、仲間内で「キャラ」を演じなければならないことに相当疲弊しているようなのです。
「キャラ」を演じるとは、その場の空気や要求に応じて自分の言動を使い分けることを意味しますが、
すると、「ありのままの自分」でいられる居場所というのはどこにあるのでしょうか?
ケータイやSNSでどこでも誰とでもつながれる今日では、ますます他人の目を気にして演じないわけにはいかないように思います。
いや、そもそも「ありのままのワタシ」なんてありうるのでしょうか?
さまざまなキャラを演じる私とは別個に、「ほうとうのワタシ」など存在するのでしょうか?
次回のてつがくカフェ@ふくしまは、「ほんとうの〈ワタシ〉とは何か」をめぐって話し合いたいと思います。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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