てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第26回てつがくカフェ@ふくしま報告―老いることは悪いことか?―

2014年09月21日 09時04分19秒 | 定例てつがくカフェ記録
    
昨日、第26回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
テーマは「老いることは悪いことか―〈老い〉を問う―」。
参加者は19名。遠くは愛知県からお越しいただいた方もおられました。ありがたいことです。
今回は、初めて「かーちゃんふるさと農園わいわい」を会場として使用させていただきましたが、空間も広く、椅子や机の他にもピアノや大型TVまで備え付けられていました。
そして、今回はその大型TVにパソコンをつなぎ、初のマインドマップのソフトを用いて記録が表示されました。
それがこちらです ⇒ 

ホワイトボードに比べ、字が小さく読みにくいという難点がありましたが、毎度カフェ報告する身とすれば、とても読みやすくありがたいです。
何より概念的にきれいに整理・分類されています。
これは@ふくしまの新しい文化になるでしょう。

さて、カフェの議論はまず「老い」とは何かという問いから始められました。
「老い」とは生まれてから成長する過程の後半部分を指すものだという意見が挙げられます。
ある段階までは成長していきながら、ある点に到達すると下降し始める放物線のグラフの後半部分のようなものだというわけです。
               

その発言者は、個人的に更年期を迎えたことで、「衰え」を実感しながら生きることの見方が変わり、「老い」の始まりを認識したと言います。
また別の参加者も、「不活発になる」、「積極的でなくなる」、「好奇心がなくなる」、「あったはずのものが弱まる」、老眼や物忘れなどあらゆる機能が低下することが「老い」であり、それらの「なくなる」という事態が「老いは悪い」というイメージをもたらすのではないかといいます。

それに対して、「老い」は悪いことばかりではなく、むしろ「経験を積む」や「年功序列」といった言葉に表れているように「尊敬を集める」側面もあるとの指摘もなされました。
また、身体的な衰えは確かに大変であるものの、年配の参加者からは「個人的には生きるのはむしろ楽になり、おもしろさを感じるようになった」という意見も挙げられました。
年齢と共に経験が積み上げられたことで、若いころには見えなかったことがより多く見えるようになったというのです。

これらの意見は60代前後の年配の参加者(といっても、まだまだ「老人」とは言えない方々ばかりだと思うのですが…)から出されたものであり、その意味で経験を踏まえた含蓄のある言葉でした。
では、若い世代から「老い」はどのように見えるのでしょうか?
高校生を教える参加者からは、高校生が老人に対して「キタナイ」、「クサイ」というイメージをもっていることが述べられました。
そこには若いのが美しく、能力が低下することをバカにする傾向がみられると言います。
しかし、その一方で、老いた側にも経験至上主義ともいうべき態度が見られたり、そのことが若い世代を抑圧的に扱う「パワハラ」的な態度に結びつく問題もあるのではないかとの指摘もなされました。

こうして序盤は「老い」を規定しながら、それに対するいい/悪いという価値的な評価の根っこがどこにあるのか取り沙汰されてきました。
それに対して、80代の参加者からそもそも「老いに良いも悪いもないだろう」というツッコミが入れられました。
それによれば、「老い」は自然法則に基づく現象なのであり、自然に対して「悪いか」という問い自体がナンセンスだと言います。
毎度、世話人たちが設定したテーマに対しては、参加者からその不出来に批判が寄せられますが、今回もまた「老いは悪いのか?」という価値を問うこと自体に疑問が差し向けられたわけです。
その参加者によれば、「老い」とは人生という芸術作品の完成に向かっている終わりの部分だと言えるだけだとのことです。

これまでの議論の展開では、「老い」は個人における主観的現象として論じられてきました。
しかし、比較的年配の参加者の皆さんは、「衰え」は感じられるものの、一様に自らを「老いた」とは感じていない方々ばかりです。
すると、「老い」とはそもそも主観的認識できるものなのでしょうか?
この問いかけに対して、認知症の親を介護する経験をもつ参加者からは、「老い」は本人だけの問題ではないことが指摘されました。
健康な状態のままで老いることであれば、これまでの議論は通用しますが、自分や家族が誰であるかも忘れ、徘徊し、排便も自分では処理できなくなり、挙句の果てには妄想も伴う認知症の家族との格闘は、単に「老い」が個人的・主観的なものではなく、周囲を巻き込む社会的・関係的な概念であることを示しています。
これについては、「老い」が「所得がない」、「家族がいない」、「社会参加ができない」などの条件から規定していくことも重要ではないかとの意見も挙げられます。
それによれば、「~できない」という点を福祉などでサポートされながら「生き難さ」を感じなければ「老い」は前面にせり出してこないが、そのサポートが周囲から得られなくなったとき、「孤独死」など「老い」の問題が深刻化するのではないかといいます。
また、別の参加者からは、人生のステージでいえば、生まれて方保護・養育される存在だったものが、自立して生活できる存在になることを経て、最後はやはり誰かに面倒を見てもらう段階に至った時に「老いた」ということになるのだろうが、その段階では周囲から客観的に見て、「自分で自分の世話ができなくなった」と判定されるものではないかとの意見が挙げられました。

いや、それでも「老い」は老化現象のように物理的・生理的な客観的に判定される部分と、経験の積み重ねで若い時よりもよく見えるようになったという意味で主観的に判定できる部分があるのではないかとの意見が挙げられます。
ただし、そのモノの見方や世界観については、社会的に年齢相応の見方が遅れていることはあるのではないか、と言います。
かつての60歳といえば達観していた人生観が、現在ではそれに及んでいないケースが多いことは、しばしば青年期のモラトリアムの延長などで問題化されましたが、それが「老い」においても指摘されるということです。
60歳になっても「まだまだ青い」と言われる時代です。
その点でいえば、「老い」とは高齢社会に伴って自分よりも年齢が上の世代が増え続けることが、相対的にかつて「老人」と言われた年代に到達しても「老い」を感じにくいことにつながっているのではないかとの指摘も挙げられました。

さらに、「老い」とは社会制度につくられるものであるとの意見も出されます。
定年退職制度は、雇用者に対し「もうあなたは働けませんよ」と一方的に告げるものであり、働くことに生きがいや社会的存在としての自己を見出してきた者に対して、それらを恣意的に剥奪するものだといいます。
たしかに、還暦で赤いちゃんちゃんこをプレゼントされたり、それは本人が決めるものではなく、通過儀礼として設定される側面もあるでしょう。
しかし、生きがいや自尊心を社会的に奪われたりすることで「老い」を悪いものだと決めつけることではなく、歯が抜けても目が見えなくなっても「ありのままでよい」と「老い」を肯定する社会を目指すべきだという声も挙げられます。

では、「ありのままの老い」を肯定することはいかにして可能なのでしょうか?
祖母が亡くなる間際まで「周囲へ迷惑をかけたくない」としきりに言っていたという参加者の経験談から、「老い」が周囲へ迷惑をかけることへ抵抗があることから「悪い」というイメージがあることが浮かび上がります。
その上で、迷惑をかけることが前提にあり、「できなくなることはしょうがない」ということを本人も周囲も理解した上で関係性を築くことが重要ではないかと言います。
しかし、他方で、老化は脳にまで及ぶので、すると必然的にわがままになったり感情的になったり、理性を失っていくことも「老い」現象の一つだとすれば、そのように迷惑をかけることを前提とする合意すら成立が難しいかもしれません。
すると、「老いることは悪いことか?」という問いは「自律できなくなることは悪いことか?」という問い直すことができるかもしれません。
それに対しては、自立/自律観を社会的に組み替えていくことがどのように可能かという課題と結びつくという意見も挙げられました。

逆に、この段階で「よい老い方とは何か?」という問いが浮かび上がってきます。
いつまでも権力の座に居座り、「老害」と呼ばれる存在もいますが、これは「老い」を自覚していないことに原因があるとの指摘が為されました。
すると、「自覚」がよい老い方の条件の一つになりそうです。
しかし、前半ではすでに「老い」は自覚できるのかという問いが為されていました。
また、今回の年配の参加者の方々は一様に「老い」を感じている風には見えません。
これについては、「老い」の客観的な状況(老化現象など)を主観的にどう受け止めるか(評価できるか)が重要だとの指摘が挙げられました。
老害の場合、まず客観的な「老い」を認識すること、あるいはその評価を誤った際に起きることとも言えるでしょう。
それにしてもその自覚とは残酷なものです。
チャップリンの『ライムライト』はそのことをうまく表現しています。

さて、終盤に入り比較的若い30代、40代から「老い」に対するイメージが挙げられました。
印象的なのは、50代の参加者から「老いたくはないが長生きしたい」という人間の矛盾した欲求が挙げられたのに対し、
「老いることへの不安や恐れはあまりないが、それでも長く生きたいとは思わない」という声が、30.40代の参加者からあげられたことです。
生まれ育った時代背景もあるのでしょうか。
仏教の四苦(生老病死)でいえば、「老」や「死」よりも生きていることそのもの苦しみの方が大きいのかもしれません。
(※ちなみに、仏教の四苦の一つである「生」は「生きること」ではなく、「生まれること」の苦を意味しているそうです。)
その一つに、自立して生活することが今でも困難なのに、それが老いることでますますできなくなるのだとすれば、「老」をとばしてすぐにでも「死」に至りたいという意見がありました。
やはり「自立/自律」概念が社会的に抑圧的な力として作用しているのでしょうか。
これについて「人間としての尊厳を保ったまま老いること」を挙げられましたが、そこにはすでにそれを全うできる層とそうではない層とに分かれ、「老い」の「勝ち組と負け組」が生じる問題を指摘する声が上がりました。
これから迎える未曽有の少子高齢化社会に向けて、「老人がありのままでいられる」ことや「人間の尊厳を保ったまま老いられる」ことを、いかにして確保するかは社会的に重要な問題になるでしょう。
子どものいない者同士、老後をお互いに世話しあえる「老老介護の会」の構想も紹介しましたが、しかしそこには友人同士の関係においてでさえ、排泄処理や入浴の面倒など「ありのままの老い」を受け止めあえるかという課題の難しさが残るでしょう。
「ありのままの老い」と「人間の尊厳を保ったままの老い」とは両立しうるものなのか。
この問題は世代を超えてまだまだ問い続けなければならないように思われます。

次回のてつがくカフェ@ふくしまは10月25日(土)16:00~18:00、会場は今回と同じく「かーちゃんふるさと農園わいわい」での開催に案ります。
福島県知事選挙を翌日に控えたその日に、まさに「政治」を問うテーマで開催させていただきます。
福島の明日を問うために有意義な時間となることを期して、多くの皆様にご参加いただけるよう、お待ち申し上げます。

第26回てつがくカフェ@ふくしま開催のご案内

2014年09月14日 06時54分07秒 | 開催予定
【テーマ】「老いることは悪いことか?―〈老い〉を問う―」
【日 時】 9月20日(土)16:00~18:00
【場 所】 かーちゃんふるさと農園わいわい 
      2Fオープンスペース
 住 所:福島市栄町10−3 キッチンガーデンビル2階
 TEL:024-573-2634

 ※産直カフェの店内をつっきり、一番奥のエレベーターor階段で2階に上がってください
     
【参加費】 飲み物代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


9月15日は「敬老の日」です。
だから、というわけでもないのですが、今回のテーマは〈老い〉です。
老いることは悪いことなのか?
「敬老の日」の後にいきなりこう問うのも気が引けますが、世はアンチエイジング流行りです。
老化に抗する以上、それは「よいこと」であるはずもありません。
仏教では生老病死という四苦の一つに含まれています。
目や耳をはじめ、身体は若いころのように動きません。
年寄りの知恵と言っても、パソコンやらスマホやらが蔓延る複雑な社会にはついていくのがやっとです。
果たして老いることでいいことなんてあるのでしょうか?

総務省によれば、9月15日現在の高齢者の人口推計は、65歳以上の高齢者人口が3296万人(総人口の25・9%)、75歳以上が1590万人(同12・5%)となり、いずれも過去最高となったそうです
「団塊の世代」の1949年生まれが65歳に達したこともあり、4人に1人が高齢者、8人に1人が75歳以上となるそうです。
未曽有の高齢社会に突入する日本社会において、まさに避けて通ることのできない問いです。
ぜひ、ご高齢の方をはじめ、多くの世代からの参加をお待ち申し上げます。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人

秋のシネマdeてつがくカフェ

2014年09月08日 23時46分58秒 | 開催予定


フォーラム福島の阿部さんと、秋のシネマdeてつがくカフェの打ち合わせをしました。
きっかけは、サブカルチャーに造詣の深いゆうたまんこと、Hさんがフォーラムと哲カフェに持ち込んだ「DANCHI NO YUME」という映画です。
これはヒップホップミュージシャンのAnarchyの成り上がりを描いたドキュメンタリーです。
京都の団地文化から育った本邦初の本格派ヒップホッパーAnarchy。

が、正直、世話人一同ヒップホップ文化に全くなじみがなく、試写用のdvdを見ても異世界の物語です。
その破天荒な人生とサクセスストーリーには関心が持てるものの、これで一体何を哲学的に語れというのか…
というか、根本からその生き方に哲学的な疑問を投げかけたことで、もし熱狂的なAnarchyファンを怒らせてしまったらどうしよう…
一瞬、映画「デトロイトメタルシティ」のクラウザー2世ファンに罵倒されるMCの姿を想い起こしました。
第一、ヒップホップの意義がいま一つよくわかりません…

もっともゆうたまんによれば、そんなヒップホップを知らない人たちがこの映画を見たらどんな反応をするのか、それを哲カフェで検証してほしいとのこと。
ううう、荷が重すぎる…

そんな不安をいだきながら阿部さんと世話人二人で打ち合わせをしたところ、さすが三人寄れば文殊の知恵。
なかなか面白そうな哲学的テーマのアイディアがいくつか提起されました。
まずは、ヒップホップはメジャーデビューしちゃっていいのか?という問いです。
反社会的な内容を歌い上げるヒップホップが、まさにメジャーデビューしちゃったら、それは大衆迎合であり、ヒップホップのアイデンティティそのものの否定になるのではないか、というもの。
そもそも、ヒップホップの歌/詩は一回性のものであり、そこにすべてあるのに、複製/反復可能なCD化してしまってよいのか。
さらに、ヒップホップが地元愛や周辺/反社会性を歌いながら、それがだれにでも共感を持てる音楽に昇華しうるのか、という問いです。
流浪の民族音楽だったタンゴをピアソラが芸術性を高めた音楽に昇華させたように、ヒップホップを普遍音楽へ展開させることは可能なのか、すべきことなのか、という問題です。
むしろ、そんなことを目指すのヒップホップの自己否定であり、むしろそれを理解しうるもののあいだだけで共有されるだけで十分なのだ、ということになるのだとすれば、それは内閉的なカルチャーではないかという問いです。

ともかく、いまのところ11月13日(木)上映時間20:30~22:00、哲学カフェ22:00~23:00という、なんとも一般の方々が参加しにくい時間帯の開催を予定しています。
その意味で哲カフェの番外編とも言えるでしょう。
ヒップホップに興味のある方もない方も、ぜひぜひお越しいただければ幸いです
(時間帯的に未成年の方の参加はお断りせざるを得ませんが。)

それだけではありません。
秋のフォーラム福島の上映作品は、とても好奇心をそそるラインナップとなっております。

女優サラ・ポーリーが自らの出生と亡き母の人生を探る「物語る私たち」

フランスアルプス山脈に立つ伝説的な修道院に、初めて撮影を許可された「大いなる沈黙へ

あの、革命家・重信房子の娘重信メイのドキュメンタリーを撮った「革命の子供たち」

世界記憶遺産に登録された炭鉱絵師・山本作兵衛のドキュメンタリ「坑道の記憶」

ポルポトの大虐殺を人形によって描いた「消えた画―クメール・ルージュの真実

ピノチェト独裁政権の信任を問う国民投票に果敢に挑んだ若き広告マンを描いた「NO

教師たちの葛藤と教育現場の豊かさを描いた「ローマの教室で

等など、
この秋、フォーラム福島が見逃せません。
さて、この作品の中から今秋のシネマdeてつがくカフェで扱う上映作品はあるのでしょうか?
皆様のご希望を募りたいところです。こうご期待。