goo blog サービス終了のお知らせ 

てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.10.22.「人間はどういう存在か?」

2022年10月31日 11時47分19秒 | 定例てつがくカフェ記録
遅くなりましたが、10/22(土)に開催された

「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10人、オンラインでは7人の計17名の方にご参加いただきました。






「自由とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・さてそれでは本日のテーマに入っていきたいと思います。本日は「人間はどういう存在か?」という、これも多分二月の時に皆様に色々とテーマを頂いて、その中に出てきたテーマだったんじゃないかと思いますけれども。まあ「人間はどういう存在か?」、他の動物と比べてとか他の存在者に比べてどういう特徴があるのかとか、もっと言うと人間にとって何が一番本質的な特徴なんだろうかとか、色んな事が考えられて古くからずっと語られてきたテーマだと思いますけれども。今日はそのテーマに挑戦していきたいと思います。それではどなたからでも、どうぞ。

・言葉の整理だけしたいので、そのための質問なんですけどもここでは「人間」という言葉を使っているけれども、それは「ヒト」とかあるいは漢字で書く場合の「人」もあり得るだろうし、カタカナで書く場合もあるだろうけども、あえて「人間」って選んだのか、それとも何か取り敢えず一まとめで選んだのか、その辺りの意図があれば、元々提案された方でもいいですし、あるいは今日の主催者でもいいんですけれども、ここだけ教えていただけると話しやすいです。

・この件に関しまして、主催者から申し上げますと全部含んでいます。特にいくつかある中から選んだ訳ではなくって、人はどういう存在かとか、カタカナだろうが漢字だろうが、よりは人間の方が伝わりやすいだろうなというだけの話で、特に理系的に言うとカタカナの「ヒト」って言ったときの色んな意味を含んでいますけども、そこは特に限定しておりませんので、全部ひっくるめております。

・前の方が仰っていたように定義が曖昧だったのですが、私が思ったことは「人間とはどういう存在か?」を聞いて思ったことをお話ししようかと思います。私は人間は主観で生きる存在だと思っています。ここで言う主観というのは、知覚に基づいて物質世界を認識するという状態なんですけど。物質世界を正しく認識できないのが人間であって、正しく認識しようとするとゲシュタルト崩壊という状態になってしまう生き物だと思っています。それで知覚に基づき、物質世界を認識するっていうところはバークリー(George Berkeley, アイルランドの哲学者)という方と同じなんですけど、私は「認識されないものは存在しない」とは思っていなくて、断言しないんですがバークリーという方は「知覚されないものは存在しない」と言っていて。ちょっと、まとまりなくて申し訳ないんですが、結論としては人間とは物質世界を正しく認識しておらず、主観の中だけで生きている存在であるというのが、私が今日考えた感じです。

・今の話を聞いて僕は全然分かんなかったんですけど。もう一度仰るか、つまりどういうことなのかと仰っていたその「つまり」も分からなかったので、もうちょっとかみ砕いていただけると、理解がしやすいかなと私は思います。

・ついでにゲシュタルト崩壊も分からないので教えてください。

・今質問ともう少しかみ砕いて欲しいとお話しいただいたので、かみ砕こうと思うのですが人間が見ている世界というのは主観の中だけで生きていて、現実的な物質の世界を正しく認識できているかというと、例えば動物ですと色がちょっと見えるものと見えないものとがあるように、人間も全部見えていると思っているけれども、もしかしたら見えていないかもしれないし。というような感じで、なんて言ったらいいんでしょう。主観てあるんですが、うまく言えなくて、ちょっと。自分の中というか、自分の心というか自分の世界だけで生きていて、自分の世界の認識の中だけで生きている存在みたいな感じで。ちょっとどうでしょう?こんな感じで。ゲシュタルト崩壊については、簡単に言うと精神崩壊っていう状態なんですけど、精神を病んでしまう状態で自分が誰か分からないとか、その精神医学的な話になるんですが、自分が自分であるっていう自己が分からなってしまったりとか、発狂してしまうというような状態で、簡単に言うとそんな感じです。

・今の方に質問なんですけど、今仰られたことは、人間というのは主観の中でのみ生きているということなんですが、その場合前に知覚で物質世界を認識しようとする。知覚と物質世界というものも前提にされていると思うんですが、それは要するに主観との関係でいうと存在は認めるわけ?知覚というのと物質世界というもの、存在を認めた上で主観は自分の中だけで生きているということなんですか?そうすると、物質世界と主観との関係はどういう風になるんですか?

・最初にうまく言えなかったので申し訳ないんですが、知覚と物質世界の関係性は、私は知覚自体はあるものだと思っていて、動物にもありますし、人間にもありますし、その知覚という状態で物質世界はあるんです。あると思うんです、私の中ではあると考えていて、ただそれは人間は正しく認識できるかというと、正しいとされている人間のルールなんですが、もしかしたら違う生物から見たら違うかもしれないという状態だと考えています。

・はい、ありがとうございます。今日のテーマで最初からこういう本当に哲学的な話が出て楽しいなと思っているんですけれども。つまり知覚というのは、各生物が知覚を持っていて人間は人間の知覚によって物質世界を受け止めているんだけども、それはあくまでも人間が人間の知覚で受け止めているだけの話だから、物質世界そのものは存在してはいるんだろうけど、それそのものを正確にというか、そのままありのままに捉えているわけではないという考え方かなと思っていて。それは僕が研究しているカントという人と、カントも当然バークリー、これも近代の哲学者ですけど。バークリーの後に出てきて、バークリーの事なんかも分かった上で、人間というのは人間の感覚能力で世界を捉えて、受け止めているんだけども。その受け止めたものそのものは、世界そのもののあり方とはちょっと違っていて、正に人間の固有の世界なんだと言ってるんだと思うんですが。その場合に、主観で生きる存在と一番最初に仰っていた「主観」というのは、つまり受け止める側の人間という意味なんだと思うんですけども。ただ、カントだとそれこそ人間にはみんな共通に、人間に知覚能力があるから人間同士の間であれば、知覚された世界は人間として知覚した世界だよということで、共通だとカントは考えるんですけれども、バークリーなんかはもう少し先まで言っていて一人ひとりの人間が知覚するわけだから、一人ひとりの人間のあり方で知覚のあり方が変わるかもしれなくって。そうなるとまさに、主観というのは「人間みんな一緒だよ」と言っているわけではなくって、人間同士でも知覚もバラバラ、受け取ることもバラバラっていう風にもそういう風な議論にも展開することが出来て、どのレベルで仰っているかが、まだちょっと分からなかったなというのがあったのと。それからゲシュタルト崩壊は主観の中で起こるというのは、その通りでしかなくてどちらの意味においても、要するに自分たちが受け止めたものの中でしかないとは思うんですけど、問題は人間同士、同意しているのかしていないのかっていうのが一つと。この場合主観の中でのみっていうのが、一人ひとりの人間を指しているのか、それとも人間全体を指しているのかっていうのがどうなのかなってちょっと思いました。

・彼女の話を聞いた時に、「物質世界を正しく捉える」って言葉が出てきたんですけど、正しいというと正しくないというのも出てくるなと思って、今話を聞いたら「ありのままに捉える」というのを聞いて、そういうことを言っていたのかなと思って理解しました。

・ちょっと確認なんですけども、要するに私意見を聞いていて、こういう事なのかなと思ったのは、主観というのは大雑把に言うと「心」と解釈していいのかなと思うんですよ。主観すなわち心というのは、物質世界を解釈するんだと理解してよろしいんでしょうか?

・二点ほど質問頂いたので、お答えしたいと思います。まず、人間個体の認識の主観か、もしくは人間共通の認識なのかという点なんですけど。私は人間個体だと思っているんですが、基本的には色を見ててもそうなんですが、感じ方というのは大体同じだと思っているんですが、実際には微妙にズレがあると考えていて、全く同じではないと思っています。ただ、人間という生物の中で、ここからここまでぐらいは人間の認識が可能という範囲が、あると思っているので、その中で同じ思いをしたとか同じ感情だという風にカテゴライズすることは可能だと思っています。なので、その答えに関してはちょっとバークリーとカントの中間ぐらいになるかなと考えています。主観は心という理解でいいのかという話なんですけど、まだ私はそこまで考えていなくて、心と言ってしまえば心なのかもしれないし、確かに心に近いものではあるんですが、心というのを考えたことがないので、ちょっとまだ分からない状態です。

・よろしいですか?ちょっと提案なんですが、今心と主観という話を仰っていて、また哲学的なターム(述語、専門用語)が増えちゃうと非常に複雑になりすぎちゃうとないう気がしているんですね。心というのと主観というのは、概念として全く別のものだと思いますので、それを一緒にしちゃうのは不味いかなと。例えば主観で言えば、対概念が客観ですよね。心の場合は、肉体だったりなんだり、そういう風に言葉の聞き分けをちゃんとしていかないとこの話が、ぐちゃぐちゃになりそうだなと思うのが一点ですね。それから先ほど仰っていた主観的とか、人間一般がそうなのか個々人がそうなのかというところの問題なんですけれども、確かに色の見え方なんてのが全員人間が同じように見えることを証明することは不可能だという意味においては、バラバラかもしれないんだけど、僕ら実際に人間社会生きているにあたって、何の問題もなく言葉を使って、色んな話をしているわけですから、その意味では共通しているということでいいんじゃないかなと思います。いろいろありすぎて取り敢えずこれぐらいで。

・主観で生きる存在が人間だと定義してしまうと、例えば赤ちゃんとか生まれたばかりで、まだ自分のアイディアをまとめ上げるような状況は出来ていない場合はどうなんだろうか。あるいは、死ぬ寸前のヒト、それはもはや人間ではないんだろうか。どうなんですかね?

・赤ちゃんとかですと、生まれて間もない名前を付ける間は神の子とか言われているとお話で聞いたことがあるんですが、私としては生まれたばかりの赤ちゃんも段々自分という人間になっていくのかなって思います。人間として生を受けた赤ちゃんなんですけど、そこから自分という人間に、人間にというとそこは厳密に言うとズレがあるような気がするんですが、なっていくのかなって思います。

・多分今の言葉遣いだと人間っていう言葉が二つの意味になってしまっていて、人間として生まれる人間というのは、その主観で生きる存在としての人間ではないように捉えることが出来るような。それで、後者の方は自分という人間になっていく、なっていった先が人間がその定義でもいけるような気がするんですけど、そうするとその中間領域にいるときは、何なんでしょうね?

・中間というのは、生まれてから人間になる間の?そうですね、自分の世界で生きているのは人間なので人間だとは思うんですけど、そこから更にこう自分という自我が発達していって、更にこう二重の意味になってしまうのですが、人間になるのかなと思います。

・あの主観という言葉の定義が、分からなくなってきたので、そこをちょっと抑えていただきたいのですが。

・話を聞いていて、発言されている方の考え方がなんとなく分かるんですけど、非常に未整理な感じがとてもして、主観とかある意味哲学史の中で、ある程度は洗練されてきたといっても、まだ洗練されつくされてはいないのだけれども、ある程度議論されてきた言葉を不用意に使い過ぎているかなという気がしてしまうんですね。それで私としてはもうちょっと、優しい言葉でやった方がいいんじゃないのかなという風に思ってしまうんですけど如何なんでしょうかね。

・主観ということで、我々は主観的に生きていると分かるんですね。それで主観の問題について、色んな広がりが持っちゃうんですけど、これまたちょっと曖昧かもしれないけど、要するに自分ということだと思います。自分とは何かという問題はあるんだけど、普通に考えてあるという前提で議論すると、まぁ主観というのは自分かなという風に思うんですが、いかがでしょう?

・すみません色々ごちゃごちゃになってしまって。主観というのは自分とも言えるとは思います。

・多分この主観で生きる存在という定義ですが、これだけで十分一日中喋っていられるかなと思って楽しいんですけど。皆さんは僕が考えていた「人間とは?」というのは、「意味の世界に生きる存在」という風に考えていて。それは先ほどから仰っていた主観で生きる存在というのに似ているかもしれないなと思いつつ、ただ先ほどの御質問で「じゃあ赤ちゃんはどうなの?」という風に問われると、確かに赤ちゃんは意味を獲得していない訳で、意味の世界には生きていないんだけども、基本やっぱり意味に生きるようになるそのための基本的な能力は、本能的に遺伝子的に受け継がれてきて、勿論言語が話せるというのも。言語が話せるというのが一番大きいと思うんですけど。つまり意味も言語によって成り立つ訳ですから、言語を話していないけれども何語でも話すことが出来るような、そういう能力は持って生まれていて。カントは「人間とは人間になるために教育を必要とする唯一の動物だ」と言っていて。つまり、まだ人間になっていない訳です。人間になるのに、教育が必要だと。意味もそうだし、言葉もそうだし、文化も全て教育がないと生まれてきた時に、素質は持っているんだけども、そのまんま放っておいたら駄目で。そこに教育を施して言葉を教えて、意味も教えていって段々と人間になっていくと。そういった意味で、「意味の世界に生きる存在」だと。意味の世界というのは、客観的な物質世界とも違うし、それこそ意味を共有している人たちとは意思疎通できるけれども、意味を共有していなければ意思疎通もできないかもしれないし。そういう意味で「意味の世界に生きる存在」と考えています。

・今の説明はクリアで理解できるんだけれども、そのように考えた時に問題がいくつかあるなと思うんですけれども。例えば、生まれながらにして知能が低い人、その人は人間に含まれなくなってしまう可能性があるなと。あるいは生命維持装置で辛うじて生き延びている人、今あえて人という言葉を使っていますけども、それもどうなのか。もしヒトと人間を分けていて、その上で人間と呼べるのはその範疇だとすると、何となく曇ってしまう気がするんです。何となく怪しいかなと僕は思っていて、要するにもしそうであるんだったら、最早管を外したらすぐ亡くなってしまうような人を生かしておく理由というのが、本当にあるのかというところに行きついてしまい、でも少なくても現状では中々抜けないですよね。何故管を抜けないかと言ったら、それは少なくとも我々の文化では人間だと思っているからで。その辺りをどう整理するのか。片仮名のヒト、漢字の人をしっかり使い分けてしまって、その内の人間と呼べるものはそうなんだと割り切ってしまうか、どうなのか。その辺りどう考えているか、ちょっと知りたいです。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

11月23日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「反省と謝罪はできるのか?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿