てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

本deてつがくカフェ報告2022.1.23. 『友だち幻想』

2022年01月31日 22時21分34秒 | 本deてつがくカフェ記録
1/23(日)に開催された本deてつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には12名、オンラインでは3名の計15名の方にご参加いただきました。








今回からいつもより早めの15時からの開催となりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。

【本の感想】
・読んだ感想として、時代性で友達の感覚が異なるのかなと思った。自分が子どもの頃、当時は子どもが病気で死ぬのが頻繁で。自分が判断を誤れば死ぬという状況。そういう時代に生きてきた人間にとっては、本に登場する人たちが希薄な生き方をしていると感じる
→なぜ希薄と思ったのか、もう少しお聞きしたいかなと。出版された年が2008年で、ちょうど(中高生にあたる)自分たちの世代のことかなと思いながら読んでいて。自分はこの本に納得感はあった

・(改めて)「友だち」って何か?と思って。身近にいる人というか、今の感覚の友だちってなんだろうなと

・若い方が(この本を読んで)どう感じたのかお聞きしたい
→今学生なんですが、「分かる」と感じることが多かった。自分も(友だちとの)「距離感」に引っかかったというか。以前友だちが初対面で嫌いになった人の話をしていて、理由が「いきなり呼び捨てにされた」というもので。(本を読んで友だちとの)距離感の詰め方を教えてくれたなと

・ここのサブタイトル「人と人のつながりを考える」というのが、苦しまなくてもよいと教えてくれるというか。日本はなんというか「楽をしよう」という人が少ないのかな。(自分が)若い頃に読んでいたら変わっただろうなと思った

・今の人向けに書いているようで、(自分たちの世代でも)共感・共通することがあるなと

・自分が成長することで(友だち関係に)開き直った、楽になった部分もあったなと

・自分以外が「他者」というのがしっくりこなかった。(自分が)突き放した友だち関係をしてこなかったからか、難しいテーマと感じた

・本の最後の方に「楽しても、楽しくない」という言葉があって、それがこの本のメインと思って読みました

・年齢とともに(自分は)友だち関係が楽になった。若い時、学生の時は難しかった友だち付き合いも、(段々と)意識を変えられたのかなと思いました

・楽って感じるのは、多くの人が(同じように)感じることもあるが、自分一人で「何もないのに楽しい」と思うことはあると思う

・「楽」は難しい概念かなと。地域社会では(人それぞれ)様々な役割があるので、(楽をするには)調整して脱却するしかないのかなと

・第8章の「言葉によって自分を作り変える」で、(ムカつく、ウザいなどの)「簡単な言葉」「楽な言葉」で表現するという部分は、まさに(人との)コミュニケーションに溝を作る行為だなと。もっときちんと表現しようよと思う。そういった若者言葉が特に目立つようになったと感じたのは、80年代の漫画『ドクタースランプ』からじゃないかと思っていて。そこから語彙が少ないというか、語彙力が減ったなと感じるようになって。あの頃ぐらいから人間関係が変わったのかなと
→言葉の網の目の粗さというか。「ヤバい」という言葉は、現実を置き換えるものではないのかなと。あまり(そういった簡単な)言葉を信じないほうがいいと思っている

・人は一人で生きていけるがそれは虚しいと思う。また第3章の「同調圧力」の話だが、自分はこの本の2章と3章の繋がりに違和感を覚える。2章は幸福や自己実現、3章は子どもたちの話で共同性を押し付けられる、自分たちでも同調圧力をかけるという話なのだが、話が繋がってるように思えない

・(話も)まとまっていて良い本だと思った。本で書かれた時代状況の中で、自分がそこ(中高生)に当たるだろうと。友だち付き合いに悩んでいる人は多いと思う。ただ(今は)あまりにも人がばらばらでどうかと思う。21世紀の問題提起だけであるように感じる

・著者が解決策として、『友だち幻想』を出しているが寂しくはないのだろうか?というのが、どうしてもあって。なにか他に(解決策は)ないのかな?と思った
→結論が寂しいとおっしゃっていたが、この人(著者)はそうだったんだなと。この本の対象者は人との距離に近すぎて苦しんでいる人に向けた本かなと。共感したのは2章、交流することが喜びというところ

・基本の読者は小中高校生かな。あとはその周りの教員とか。ただ学校のクラスに(『友だち幻想』の教えを)求めるべきではないのかな。「友だちは作るものではなく、大人になったら残るもの」で、節目節目で淘汰されるから、心配しなくていいという苦しんでいる人へのメッセージだと思う


【『友だち幻想』の教えを実践できるか?】
・気になったところが、第6章の「君たちには無限の可能性もあるが、限界もある」というところが、自分は納得いかなかった。夢を奪いすぎると挑戦すらしないのでは?と思ってしまった
→著者の別の本の『教育幻想』は、副題が「クールティーチャー宣言」で教師が自分の理想を子どもたちに投影するのはダメというのが書かれていて。友達百人できるかなは嘘だと思っていて、無理して友だちを作るべきではない。先生がクラス全員を「友だち」と言うが、それは(厳密には)「友だち」ではない。そんな訳がない。(みんな友だちという)幻想は大人の側にある。ただ(みんな仲良くは)できっこないけども、この(学校という)場で学ばなければならないと思う

・現職の教員ですが、私は「夢」を教え続けて教え子の結婚式に呼ばれると楽しい。(夢を教えるのは)先生のパワーもあるが、(現状は)法律でがんじがらめで、それができるかどうか先生による。それを突破すると楽しい世界があるが、縛りが厳しい。学期末に先生が評価され、管理職で夢を捨てていく人もいる。校長の存在を無視すれば楽しいと思う

・小学校の担任の先生が校長に反発して、田んぼを作ったりなどの授業は自分にとって大きな経験で、学んだことも多い。校長の言う通りにしていたら、周りの大人の顔色を伺った子になるのでは?

・良い教師を覚えていないが、悪い教師は覚えている。今は教師に希望を持っている人が少ない。自分は「一人じゃない」という歌詞が大嫌いで、人は孤独だとなぜ言わないんだ!と。そうした歌詞が蔓延しているというか。方向性としては(自分以外は)他者だと割り切っている

・自分は『友だち幻想』を先生が教えるべきなのか疑問で、第6章でもあるように、子どもに考えさせることが大事で、「限界がある」と大人が教える必要があるのかと。孤独だから考えられることもあると思う

・限界の話で言えば例えば、スポーツ選手として挫折してもトレーナーやコーチなどの道もある。また「ベタベタするのが友だち付き合いだけではない」というのが大人に求められている事かなと思った


【ルール関係とフィーリング共有関係】
・ルールには色んなもの、明文化されたものや内々なものがあって。その中には理不尽さ、非合理さ、根拠があるわけではなく皆がこうしているからというものもあって。それはおかしいと思うものもある。また自己と他者の話で、どこまでいっても他者は自己にはならないと思う

・ルール関係とフィーリング共有関係だが、果たしてその分け方でいいのかな?と思う。色んな(分け方の)種類があるのに(その区別の仕方では)無理がある気がしないでもない

・他者同士が共存するにはルールが必要で、お互い守りあう必要がある。それとは別に友だちは他者より近い関係で、学校のクラスでフィーリングを共有することができない相手でも、守りあわなければならないルールがあって。ただ(クラスでは現状)フィーリング関係を強要する形になっている

・友だちかどうかの判断というか、認識がある気がして。(友だちかそうでないか)他の境界というか別な区別もあるのではと思った
→37ページに「幸福」の本質的なモメントが鍵というか、「親友」と「友達」と「メイト(同僚)」に分ける必要がある

・一人で生きていても繋がりを求めるというところは、ビックリした。同意したが、それは自分が寂しがり屋だからで必ずしもそうでない人もいると考えていたのでみんな繋がりを求めているというのは驚いた

・コロナで人と疎遠となって、孤独だからこそ人とつながっていないと寂しいと感じるというか、相手がいてこそ生かされるのかなと

・自分は他我問題に興味があって。いわゆる他人に心があるかという問題で、あろうがなかろうが自分にはわからない。それをどうやって証明するのか。この問題に悩まない人が分からないというか。それを疑わずに生きている人が不思議に思う

・「みんな仲良く」は雑な言葉だと思う。その場合の「仲良く」はどういう意味かと。「仲良く」は皆とはならないよね。礼儀正しくというか、しちゃいけないことにいじめや窃盗、殺人などが含まれるが、「仲良く」は(色々と子どもたちに)求めすぎでは?と思う


【友だちとは?】
・みんな仲良くは正しいとは思うが、もし学生の頃に『友だち幻想』を読んだとしたら、すごい難しいからいいやとなりそう。皆が(友だちは幻想だと)そう思ってないとつらい状況になってしまうのかなと。また同調圧力に屈すると楽な部分もあって。小中学生で意見を変えるというのは大変

・言葉一つとっても「みんな」という言葉自体も変わっていいのでは?と思う。赤ちゃんはつながりを求めるのは当たり前で、「みんな」という言葉は、幼児期に大人から言われて覚える理解の仕方。そんなこと言ってもわからないし、せいぜい幼児同士の考える言葉の理解で。育っていく過程で言葉を理解する。周りが説明や説得なりすると思う

・自己と他者でいうと、赤ちゃんは親以外の別の他人が入ってきた経験で認識するのでは?自己と他者はセットの考えで、自己があればこそ他者は前提にしているはず。小さい頃は認識が不十分かと

・併存性だけに走ると宗教に走るのでは?と思う

・友だちの存在について考えたとき、今はいろんな人と対話できる環境で、このイベントでのzoomのやり取りも新しい関係性といえる。参加者も友だち同士という訳ではないし、違う人間関係も考えると楽しく生きられるのでは?

・実際に目と目があっている状態でなくても関係性を築けるというか。lineやTwitterなどのSNSなどもあるので、一概には言えない。もう一層(友だちの)意味合いが広がっているので、結論が出せない

・仲良く出来ない人もいて、(その人が)今まで生きてきた全部を受け入れる必要もなく、その人のある部分で流して関係性を作るしかない。友だち関係はある程度の狭い範囲を認めるというか、そうしないと友だち関係は成り立たないのかなと

・(友だちか否かは)無償の行為というか。自然の中に入って自分ですべて見つけていくようなもので。そうした(友だちかどうか)自分で見つけるのは非常に大切かなと



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







さて、次回のてつがくカフェは、

2月12日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは当日の参加者同士の話し合いで決めます。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。