てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第23回てつがくカフェ@ふくしま・参加者感想

2014年05月28日 17時43分25秒 | 参加者感想
シネマdeカフェの感想に続いて、
今月5月17日に開催された第23回てつがくカフェの感想もアップします。
てつカフェのあと同じ会場agatoで打ち上げも開催されたためか、
シネマdeカフェのときよりもたくさんの感想をお寄せいただきました。
どうもありがとうございました。


●人生をやり直すことは可能か考えさせられました。いろいろな要素やポイントを洗い出す作業が興味深かったです。人生やり直せたら面白い……のでしょうね。

●言葉だけではわからないこともあったような…。理解することはいつも難しいです。アガトさんありがとうございます。すてきな場所だと思います。

●ざせつしたことがないという人がけっこういたのでショックだった。そういう人生に産まれたかった。自分のことで精一杯で原発の話はついていけなかった。やり直したいことはいっぱいあるけど、話をきいているうち内容があんまり難しいので、やり直すこともできないと思った。ざせつしたことがない人に、何が起きたらざせつかと思うのか聞いてみたかったです。おもしろかったです。

●初めて参加させて頂きましたが、日常一人で考えることのあまりないテーマについて深く考えさせて頂くことのできる良い機会となりました。また、皆さん様々な立場から思い思いの考えを述べられていて、私のなかでもやもやしていた気持ちや考えにしっかりとした言葉や答えを見つけることが出来、とても楽しかったです。また是非参加させて頂きたいと思います。ありがとうございました。

●多角的にテーマを論じていると思いました。欲を言えば、もっと対立とか批判とかあってもよいと感じました。(自分でもなかなか実践できないのですが…。)

●何をテーマに話しているのか、途中で迷ってしまいましたが、他の方の意見に耳を傾ける姿勢を保ちたいと感じました。言葉の選択の厳密性に、より意識的になれればよいですね。

●ありがとうございました。いつもテーマの設定、場所の確保からありがとうございます。(人生を) やり直したい、と思ったことがない、という意見が複数出たことが、自分にとっては驚きでした。多くの人が思うことだと思ったので…。でも自分の中では 「(人生の) やり直し」 ⊃ 「方向転換」 です。おもしろかったです。agatoさん、ありがとうございました!

●今日のテーマは 「人生をやり直すとは?」 でしたが、発言した後 「ペシミズムみたいな人」 と捉えられ、「それでも生きる」 などと言われてしまったので (笑)、まだまだ自分の言語能力が貧弱な証拠なのだと猛省しております。


今回も新しい方々に参加していただきました。
今後ともてつがくカフェ@ふくしまをよろしくお願い申し上げます。

第4回シネマdeてつがくカフェ・参加者感想

2014年05月28日 17時24分53秒 | 参加者感想
旧聞に属してしまいますが、4月に開催された 『ある精肉店のはなし』de てつがくカフェの、
参加者感想をアップするのを忘れていました。
(というか、荒れた研究室のなかで行方不明になっていました。)
誠に申しわけありませんでした。
遅ればせながらシェアさせていただきます。


●初めて参加しました。とても面白い内容でした。ルールについてあらかじめ説明されてから行われたので、それぞれの方が手短に意見を述べられていたのでよい話し合いの場になっていたと思います。また機会があれば参加したいと思います。本日はありがとうございました。

●とても良い企画だと思います。見なくてはいけないこと、知らなければいけないことがあると思います。さらに見せてあげること (場の提供)、自分をさらけ出すことも大切かなと思いました。福島にも人がつながる祭りがあるとよいなあ。

●タブー (ケガレ) を人間がどう扱うのか。システム上不可欠なのか?

●興味のあるテーマで、シネマの中でうまく取り上げられており、より理解が深まりました。

●学生の時、焼肉屋でバイトをしていましたが 「感謝」 がなかった。今日の映画を観て感謝できる気がします。ますますささき牛乳へ行きたくなりました。やはり顔が見える生産者を知るって大事ですね。

●みなさんの前での発言はできなかったのですが、多くを学びました。初めての参加でしたが、参加して良かったです。「見える・見えない」 の議論では、「見える」 ことが安心につながるという話もありましたが、逆に 「見えない」 ことが麻痺した安心を生み出すこともあると思いました。「見えない」 と何も知らないので何もさらに知ろうとせず、安心なままでいられることもあるかもしれません。「見える」 と、さらに細部まで気になって不安な状態になるときもありそうです。「見える」 を選べば生産者には答える義務、わずらわしい義務が生じる気がします。生産者はそれに耐えるだけの自信をもっているのだろうかと思いました。宣言は細部まで知ることができて良かったです。「汚い」 仕事を与えることで、人間としての誇りを奪ったはずが、逆にその人たちにしかできない仕事を生み出し、それに依存する社会をつくり出し、の人たちの誇りが生まれたことが皮肉であり、光でもあるなと思いました。


皆さん、どうもありがとうございました。
またのお越しを心よりお待ち申し上げます。

第23回てつがくカフェ@agato報告―「人生をやり直すとは?」―

2014年05月19日 21時19分17秒 | 定例てつがくカフェ記録


一昨日、agatoで第23回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
事前にお伝えしましたように、これまで会場をお借りするなどたいへんお世話になってきたagatoさんが店じまいをされるとのことで、@agatoでの最後のてつカフェとなりました。
参加者は20名。

ところで、これまでのてつカフェではテーマ設定に関して、問いの立て方の不十分さを指摘されることがしばしばありましたが、今回のテーマほど参加者を迷わせたことはなかったように思われます。
そもそも、あまりこのテーマに興味がわかなかったという意見も少なからず耳にしました。
たしかに、カフェで出される意見も、ご自身のリアルな体験を挙げられることはほとんどありませんでしたし、ほとんどの人が「人生をやり直したいと思ったことはない」と仰ります。
それについて、カフェでは「皆さん、幸せな人生を送っている人ばかりだ」という意見も挙げられました。
そのせいか、議論も割と抽象度の高い展開となります。


まず人生の失敗に関して、①自分の努力不足などでうまくいかないことを受け入れて、そのうまくいかない人生を継続していくというパターン、②人生の失敗に絶望することで人生そのものを終わらせる(自死)パターン、③うまくいかなかった過去を否定することで新たに再挑戦するというパターンを類別しながら、「人生をやり直す」というのは③に当たるという意見から始められました。
その上で、「人生をやり直す」ことは「自分を信じられるからこそ再挑戦できる」という意味で、ポジティブな意味合いがあると言います。
ここでは、過去を否定し、未来への展開を期するという点で、過去―現在―未来という時間との関わりも示されました。

それに対して、そもそも自分自身をやめることはできないのに、「やり直す」とはどういうことなのかという疑問も出されます。
私たちは時々刻々と選択しながら生きています。
たとえば、これまでの朝食をパン食から米飯食へ変えるということもあるでしょう。
あるいはダイエットや禁煙というケースも日常的にあり得ます。
すると、この場合でも「人生をやり直す」ということになるのでしょうか?
そのような問いが挙げられました。
これに対して、単なる選択ではなく人生の「ターニングポイント」となるような要素が条件となるとの答えが返ります。
「過去の自分にとって何がベストだったのか」と振り返るとき、この思いは到来するものでしょう。
しかし、時間を戻すことはできないわけですから、このテーマが「再び過去に戻ってやり直す」という意味でのことではありません。
そうではなく、これまでの人生の延長ではなく劇的に変わるような出来事こそが「人生をやり直す」ということになるのだというわけです。
その点で、禁煙やダイエットはそこまでのものとは言えないのではないか。
いや、禁煙やダイエットだって、200kgだった体重が70kgに落ちたらまるで異なる人生をやり直すことになるのではないか。
だから、それは時間というよりも、「これまでに積もってきたマイナスをプラスに戻す」という営みなのではないかという意見も出されました。

これに対して、①「人生をリセットする」ということと、②「人生をやり直す」ことの違いを問い質す意見が出されました。
リセットするというのは文字通り、人生をゼロにするところから始めるという意味なのに対し、「やり直す」とは途中までの蓄積を前提にしながらそれとは別の選択をするという意味ではないか。
これは人生のある選択を迫られる分岐点Xにさしかかり、Aを選択したけれども、やっぱりそれは誤っていたことに気づき、Bの選択をやり直すということになりそうです。
すると、X-Aの過去時間はなしにすることなるということでしょうか。
いや、そうはいってもX-Aの時間そのものは存在してしまったのだから、やはり過去をなしにすることはできない。
やはり、その蓄積を前提にX-A-Bという連続性は否定しえないということになるのでしょうか。
これは「そもそも人生をリセットできるのか」という問いとも密接です。
あってしまった過去をなしにすることはできない、ということは「人生をやり直す」なんてこと自体が空理空論ではないか。
このような疑問は、今回のカフェの時間を通奏低音として流れていたように思われます。

それに対して還暦を迎えられた参加者から「これまで為してきたことの1つの結果に直面した時、人生のやり直し」が立ち現れる」との意見が挙げられます。
それは言いかえれば、「大きな可能性を丸ごと手に入れるとき」なのだと言います。
結局は、それまでの人生に満足してこなかったという面があるからだと言いますが、人生の延長線上にそまでとはまた別の在りようの可能性がふってわいたときに、この「人生のやり直し」が到来するというのです。
また、このたびの大震災に衝撃を受け、これまで大企業のサラリーマンとして安定した人生を歩んでいた人が、突如としてその流れを断ち切って医師を志すようになった例が挙げられました。
果たして、その人の行為は「人生のやり直し」と言えるのか?
いずれの例も、そこには「反省」が含まれており、「やり直す」上ではこの過去を振り返るという要素が必要であることが確認されました。

では、犯罪を犯した人間が更生するという場合はどうでしょうか。
この場合には、犯罪を犯した当人がいくら反省しようとも、自分の納得以上に周囲の承認が必要ではないかという意見が挙げられました。
カフェの議論では挙げられませんでしたが、これは「赦し」という問題と関連するのではないでしょうか。
というのも、他者に危害や損害を与えたものが、いくら自分で「反省しました」とくり返し意思を表明しても、相手側がその反省を承認しなければ真の解決に至りません。
もちろん、法制度的には刑罰に服した時点で免罪となるのでしょうが、それでも裁きを受けるとか、他者とか社会といった自分以外の承認を得られない限り「やり直し」はきかないことになるでしょう。

すると、これまでの議論の展開を踏まえて、「そもそも、何をしたらやり直しと言えるのか?」という問いが投げかけられます。
犯罪を犯した人が更生するのは「やっと普通の社会人に戻れた」という点で、マイナスからプラスに戻ることになるけれど、大企業を辞めて医師を志すケースについては、プラスの人生にさらに新しいプラスが上乗せになるだけなので、「やり直す」とは言えないのではないかという意見が出されます。
そこから、「やり直す」ためには「無念」が必要になるというわけです。
あるいは、その出来事を「生まれ変わる」と表現してもいいとのことでした。

いや、それは結局、「人生をやり直す」というのは単に修辞的な言い回しに過ぎず、結局は「人生をやり直す」なんてことはできないのだ、という意見も出されます。
あえて言えば、それはダイエットや禁煙のように自分のためという「自己完結的な選択」と、犯罪者や医師への転身を志した人のように「他者に関わる選択」という違いはあるのではないか。
いや、ダイエットや禁煙だって家族のためにすることもあるのだから、完全に自己完結的な選択というのはないだろう。
そもそも「人生の」とあるのだから、単なる「やり直し」ではないことをどう考えればよいのか。

そんなやり取りがいくつか交わされながら、ある参加者から次に挙げる3つのケースについて「人生のやり直し」に当たるのか判断してもらいたいとの問題提起がありました。
①夫と離婚し、それまでの専業主婦生活から一転して就職しなければならなくなった女性のケース
②大震災による津波に被災し、船が流され漁師としての仕事の術を失った人がサラリーマンへ転職したケース
③浮気性だった夫が、震災をきっかけに妻一筋の愛妻家に一変してしまったケース

まず①について。
他者の承認や評価が「人生のやり直し」に必要だという意見が挙げられたけれど、結局は自分で「やり直した」という自己評価こそが重要ではないかという意見が挙げられます。
そもそも、「人生をやり直すとは?」というテーマ自体が、自分の中から出る問いである以上、他者の意見や評価によっては解決されえない類のものだというわけです。
一方、離婚が単なる人生の選択とは異なるのは、「今の状態をやめないと生きていられない」という要素があるのであり、「生」の可否が「人生のやり直し」のメルクマールになるという意見が挙げられます。
そのことを「断絶」という言葉で表現された参加者もいました。
それまでの人生の流れにある種の「断絶」を生じる、あるいは生じさせることが「人生のやり直し」の条件であるというわけです。
ただし、そうは言っても、再び同じ結婚-離婚の失敗、あるいはダイエットではリバウンドを繰り返してしまうケースもままあるようです。
するとそれは、「やり直し」ではなく、単なる「くり返し」になってしまい、その点で先に挙げられた「反省」が加えられる必要はあるわけです。
これについて、「人生をやり直す」とは、「一つの未来を捨てることだ」との意見が挙げられました。
どういうことか。
単なる禁煙やダイエットのケースでは、タバコを吸い続けても吸わないでいても両方の選択がさほど自分の未来を変えることはなさそうです。
しかし、その選択が差し迫って生死にかかわる場合、明確に予測される一つの未来の生き方を捨てることが迫られるでしょう。
それは、肉体的な生死の問題に止まらず、精神の生死の問題にも広げて考えられるのではないでしょうか。
大企業の務め人から医師への転身を選ぶ人は、ある種安定した生活という未来を捨てた選択だとも言えます。
よりいえば、それは安定している「にもかかわらず」という逆説を含むほどの未来を捨てる覚悟を含み込んでいるとも言えるでしょう。
しかし、それは単なる方向転換ではないのか?
単なる方向転換ではなく、「やり直し」と言えるほどのものとは何か?

それに関して、自分というものは時々刻々変化するものでもあるけれども、「やり直す」という以上は、時間的に一定の持続性があって初めて言えることではないかとの意見が出されます。
単なる選択とは異なった「やり直し」と言えるのは、実はその瞬間に思えることではなく、その持続性があって、後々になって初めて明かされるものではないか。
あるいは、ひょっとしたら、それは新たに自分の中に芽生えて「やり直す」というよりも、かつて自分の中にあって忘れ去られていた大事なものが、何かの拍子に取り戻そうとし始めた時に、「やり直し」の契機が生まれるのではないかとも言います。
ある種のドラマの中で、ふと主人公が「私は何か大切なものを忘れてきたような気がする…」といった類の台詞を口にする場面は容易に想い起されますが、社会人として仕事まみれになる中で、かつて純粋に理想としていたものを取り戻そうと再出発するという展開は実時世でもあり得ることです。
なぜなら、昔の人生に戻りたいけれど、それは物理的に不可能である以上、ここで言う「やり直し」とはかつてのことへの再挑戦としての在りようでしか語りえないからです。
ひょっとすると、医師に再挑戦された方はこのようなタイプだったのかもしれません。

これまでの議論はどこか自分の人生を自分の意志で変えようとする話ばかりだったけれど、震災や津波のように、自分の力ではいかんともしがたい出来事に外側からきたものによって人生をやり直さざるを得なくなったケースを「人生のやり直し」と言っていいのかという問いが投げかけられます。
これは先ほど挙げられた②のケースへの答えにもなるでしょう。
これに対しては、冒頭で挙げられた「受け止め方」次第でその後の人生の在りようが変わるのではないかとの意見が挙げられました。
その出来事によよって変えさせられた人生を「受け入れる」ことで、どんな生き方をするかが変わってくるというのです。
けれども、この震災に関して言えば、やはり津波による被災地域と原発事故の被災地域での「人生をやり直す」ための「受け止め方」は根本的に異なるのではないだろうか。
そのような意見が挙げられました。
津波被災の場合、あれだけの自然の猛威を受けた後では、すべてをやり直さざるを得ないゼロ地点に立たざるを得ないわけで、その意味では「やり直す感」はあるのかもしれない。
しかし、原発事故の被災地、しかも放射能汚染がひどいにもかかわらず避難を強制されたわけでもない福島市という地域に住んでいると、頭では人生を変えられたと思えるけれど、風景自体は被災事故以前とほとんど変わりがなく、どこか震災前からの惰性で生きている感じがあり、「人生をやり直す」という意識が立ち上がりにくいというわけです。
それに対して、岩手の沿岸部で被災された参加者からは、そもそも「やり直す」という意味での「戻る力」というのは「記憶をたどる力」であって、あまりに壮絶すぎる出来事を体験した後には、その記憶を思い出すことすら辛すぎてできないという意見が出されました。
「やり直す」と思えることすらできないのだから、このテーマを思いつくこと自体が信じられないというのです。
これは被災のケースの違いがもたらす差異なのかもしれません。

一方、別の参加者からは「やり直せない」ということは「死んでいることと同じだ」との意見も出されます。
死んだらやり直しがきかないという意味ではその通りでしょう。
また、別の参加者からは、すべてを失った、「にもかかわらず、それでも生きていく!」とか、「生きろ!」という意思が働きかけてくることそのものが「人生のやり直し」ではないかとも言います。
しかし、そうした意見は主体的に選び取った人生であれば通用するかもしれないけれど、主体的に選べない自然災害に壊された人生などは、果たして「人生を取り戻せるか」といった問いの対象になりうるのでしょうか?
いや、そもそも「人生をやり直す」とはいったいどういうことなのか?
それは結局は「方向転換」ということに過ぎないのではないだろうか?
そのような問いが、今回のカフェでは幾度もたち現れては再びその問いの地点に舞い戻ったものです。

こうした問いの再燃に対して、途中から参加されたある参加者の意見によれば、「やり直す」とは「折り紙に例えると鶴を折っていたけれど途中でうまくできないのでもう一度髪を拡げ直してやり直すようなことではないか」と言います。
それに対して、「方向転換」とは「途中まで鶴を折るつもりだったけれど、途中で紙飛行機をつくることに変えるようなことだ」と言います。
すると、これを人生で考えてみると、そもそも紙を拡げ直す地点まで戻れるのか。
つまり、人生はリセットできるのか?という問いにまで遡ることになります。
これについては、戸籍が丸ごと変わればリセットできるということになるのでh内科との意見が挙げられます。
さらに、「証人保護プログラム」に言及する意見も出されます。
しかし、このプログラムによって戸籍を変えられたとしても、結局それは戸籍という外側だけが変わっただけで、内面的は変わっていなければ「やり直し」とは言えないのではないかという反論が出ます。
やはり、内面で取り戻したいという「後悔」とか「無念」という思いが働くことが「取り戻すこと」の条件だということでしょう。

問いは、「やり直す」とはという疑問をまだめぐります。
3人の子育てを経験された参加者からは、子育ては「やり直し」の連続であり、むしろ教育の「やり直し」は子供とのコミュニケーションをとるための道具だったという意見も出されました。
それは、しかし「教育方法のやり直しであって、「人生のやり直し」というテーマとは異なるんじゃないか。
テーマに「人生の」という言葉がついている以上、そこでの「やり直し」とは何かと再び元の問いに引き戻されます。
すると、その発言者から「人生は日々の積み重ねによって今の自分がつくり上げられているのだから、選択し直しながらより豊かな人生を築いているという実感がある以上、人生をやり直すという命題はしっくりこない」との答えが返されました。
「苟(まこと)に日に新たにせば、日々に新た、また日に新たならん」
『大学』の一説も引き合いに出されます。
したがって、「人生はすべて方向転換しかない」という一つの結論が提起されました。
全て今の自分に至るには必然性がある。
この場合、必然性とは過去の人生から連綿と続くものとのであり、それによって今の自分を形成させた連なりのことです。
どんなに大きな衝撃を受けて「人生をやり直した」と思ったとしても、それはベクトルの角度が大きく変わっただけであり、あるいはベクトルのエネルギーの強さが変わっただけなのだという意見も付け加えられました。

それでも「やり直すこと」とは「人生を新しく始めること」とも言い換えられるし、「第2の誕生」といった哲学者もいたではないかという意見も出されます。
過去をなぞり直すこととは異なるけれど、この「新しく始める」ことと「何かを取り戻すこと」は両立しうるのではないか。
さらに、やはり「方向転換」と異なる意味で「人生をやり直す」ことはあるのではないか、と食い下がる発言者もいました。
その発言を聞きながら個人的には宗教的な「回心」という言葉を想い起しました。
経験的には理解したことはありませんが、それでもまるで別人のように「生まれ変わる」ような経験は、パウロならずともしばしば宗教体験としても語られます。
宗教体験としての「生まれ変わり」は怪しげだというのであれば、たとえば敗戦直後の人々の心理をどう考えればよいでしょうか。
これまた、カフェでの議論ではありませんが、個人的には戦争犯罪と改心という問題を想い起しました。
戦時中の大政翼賛下での政府プロパガンダが、全て嘘だったと敗戦とともに日本人は知ったわけですが、中には愛国主義者だった者が戦後は共産主義へ転じたという話も珍しくはありません。
そこでの「断絶」を経験した人々は、果たして「方向転換」という言葉で語られうるものでしょうか。
あるいは、野田正彰の『戦争と罪責』(岩波書店)では、中国での戦争犯罪を犯した元日本兵たちが矯正指導自分たちの犯した罪を受容し、悔恨へ至る過程が綿密に書き記されています。
罪は裁きを受け、処罰を受ければ解決するというのは一断面にすぎません。
ニュース報道では犯罪者の心からの反省と謝罪を望む遺族の姿を目にしますが、その場合、心が他者には見えないにせよ、その内面での断絶と「やり直し」を期待することはままあることです。
誰しも自分の行為をすべて否定するということは、相当な困難があるのではないでしょうか。
実際、同書に描かれる日本兵は、当初、誰ひとり自分が刑法上の罪を犯したとは考えていなかったそうです。
しかし、「撫順戦犯管理所」では、戦犯者一人ひとりが自分の罪と向き合うようなプログラムを施した結果、彼らは自分の犯した罪深さを自覚し「生まれ変わった」と自ら語るようになります。
それは「改心」という言葉がふさわしいでしょう。
しかし、問題は、彼ら自身はそうした「生まれ変わり」を自覚できたにもかかわらず、日本への帰国後「共産主義に洗脳された人間」とレッテルを張られたということです。
その点で、社会的な評価と自分の「生まれ変わり」は必ずしも一致しないどころか、むしろ理解されえないということがあるということです。
そうした観点方も、単なる「方向転換」以上の何かが、人生に起こりうることはありうるのではないかと個人的には思うわけです。
それは、連綿として続いてきた自我同一性を「断絶」させ、「再構築」を要求されるような経験です。

とはいえ、今回は「人生をやり直す」ということが、その前提から誤っていたのではないかという大方の意見に傾きました。
そもそも時間の流れで「取り戻す」ことはできないし、成し遂げられなかったことがあって、それを再び何とかしたいというのであれば、それは「再チャレンジ」ということになるでしょう。
したがって、「人生の中で再チャレンジできるのか?」という問いでテーマすべきだったのではないか、という問いの問い直しを図る意見が最後に出され、今回の哲カフェの締めくくりが為されました。
毎度のことですが、テーマは世話人二人がいつも酔っぱらいながら決めるので、その設定自体に瑕疵があることは認めるものです。
それにしても議論を尽くしたうえで、問いの問い直しが図れるというのは、意図せずに対話をはかりながらなんと哲学的な対話が実現できたことでしょう。
当初は、「実はあまり興味をもてないテーマだった」とか「何も思いつかないテーマだった」と仰る方が多かったのですが、やってみた後では「実は、自分自身いま人生のやり直しの地点にいることに気付かされた」と仰って下さった参加者もいました。
その意味で、今回のてつカフェはとても質的に中身の濃い議論だったのではないかと思います。

この4月に多くの常連さんが福島を離れていったことは以前にも触れましたが、また新たご参加下さった方々もいらっしゃいました。
福岡伸一風にいえば、哲カフェはどこか「動的平衡」的な空間なのかもしれません。
その動的平衡を保ってこれたのも、agatoの吉成さんのおかげです。
agatoは今月で店じまいとのことですが、吉成さんへのこれまでの感謝とともに、「人生の新しい始まり」を祝しててつがくカフェ@agatoの報告とさせていただきます。

第23回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2014年05月12日 05時39分03秒 | 開催予定
【テーマ】「人生をやり直すとは?」
【開催日時】 2014年5月17日 (土)16:00~18:00
【場 所】 agato(アガト)
     福島市置賜町7-5 パセオ通りアドニード121 2階
      ℡ 024-523-0070
【参加費】 ドリンク代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


5月のてつがくカフェ@ふくしまは、これまで会場としてお世話になってきたagatoでの最後の開催となります。
というのも、agatoさんが5月末で店じまいされるとのこと…残念でなりません。
いつも場所を無料でお貸しいただけただけでなく、会場にはホワイトボードまでご準備いただいておりました。
これまでご協力いただいたagatoの吉成さんにはいくら感謝しても感謝し切れない思いでいっぱいです。

だからというわけではありませんが、テーマは「人生をやり直すとは?」というお題に設定させていただきました。
誰しも「もう一回人生をやり直すことができるとしたならば…」と妄想したことがあるのではないでしょうか。
しかも、これは年齢や人生経験の多少に関係のない問いではないでしょうか。
人によっては結婚や就職のミスマッチでこの問いを考えたことがあるかもしれません。
高校入試や大学入試などでの失敗経験から考えたことがある人もいるかもしれません。
もしかしたら、生まれたことそのものから問い直したことがある人もいるかもしれません。
より社会的な問題に引きつけて言えば、
ある過ちを犯した人が人生を再スタートできるかという社会的「寛容」の問題や、
原発避難によってこれまでの人生を根本から変えさせられた人々の問題としても議論できるでしょう。
このように述べると、「人生をやり直すとは?」という問い自体がなんだかネガティブな印象をもちますが、
これは「人生を新しく始めるとは?」という問いに言い換えることもできるはずです。
では、「新しく始めることができる」とはいかなる意味なのでしょうか?
さまざまな切り口から考えられそうなこのテーマを、ラストagatoで語り合いましょう!

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人