てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま2023.8.19.「宗教を問う」

2023年07月23日 11時37分50秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2023.8.19.
【テーマ】「宗教を問う」
【日 時】2023年8月19日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86215321285?pwd=SGcxb3V5eTB3TXlXQk9CK05FQ1EwUT09

        ミーティングID: 862 1532 1285
        パスコード: A4v9iG

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

また、当日ぎりぎりの判断で全面 Zoom 開催に変更することもありえますので、

当日お出かけ前にこのブログで開催方法変更が告知されていないかお確かめの上ご来場ください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



昨年8月の「お墓は必要か?」というテーマでは、

お墓の意味や葬式のあり方、死生観などが議論されておりました。

昨年はお盆の時期ということもあり、お墓参りに関するテーマを設定した訳ですが

今年は上記の「墓、葬式、死後の世界」とも関連するテーマであり、

またリクエストにもあった「宗教」について

問い、考え、語り合いたいと思います。



「宗教を問う」という今回のテーマですが、

まず、特定の宗教や団体(宗教法人)を貶める意図がないことをご承知おきください。



ただ、昨年の7月に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件を受け、

犯人とその動機についてニュースで取り沙汰されたことで、

事件が起こる前よりも世間が

「新興宗教」について注目するようになったように思えます。



また、事件に関連して宗教団体が多くの政治家と接点を持ち、

ときに選挙支援をし、ときに広告塔として上手く使ってきた実態が明らかになりました。

さらに、事件の背後に「宗教二世の苦しみ」があったことで、

SNS上をはじめ、メディア等で多くの宗教二世が赤裸々な声を上げ始めています。


海外に目を向けると、現在アメリカヨーロッパなどでは「宗教離れ」が進んでいると言われております。

果たしてこれからの時代、宗教は衰退していくのでしょうか?

そして、変化の著しい現代社会において、

今「宗教」には何が求められているのでしょうか?


当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「宗教」について考えていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.7.15.「いじめ」

2023年07月18日 22時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月15日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは5名の計19名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日は「いじめ」というテーマにしてみました。珍しくテーマを問いの形にはしないで、ただ「いじめ」と言うだけになっております。ちょうどこの数日前にも芸能人の方が自殺されたりとかしてですね。どういったことが「いじめ」になるのかどうかといったことも含めてですね、「いじめ」について色んな観点から話し合っていきたいというふうに思います。それで、ここからはご自由に発言してください。発言がある方は会場の方は挙手をお願い致します。そしたらマイクを持って行きますので、マイクを受け取ってからお話ください。

・世話人の方から、事前にてつがくカフェの対話のルールについて説明があったのですが、その中で気になったことが。対等な人間関係という考えで話し合いしてくださいということと、あと上下関係ということを持ち込まないと。例えば、外では上司と部下の関係性、生徒と教師だったり。ということは、普段の社会生活にこういうことが、蔓延ということではないんですけど、かなり、浸透としてるのかなと。対等な人間関係で行きましょうと言うことだけど、中々そうなってない現実の社会があるということと。あと上下関係で、パワハラなんか一種のいじめだと思いますけど、特に上下関係で圧力をかけたりするわけで。こういうのが日本の社会ではかなり蔓延してるというか。蔓延とまで行かないけど、人々の間で意識されてるいうことなんです。それともう一つは、会場に入ってくる時「いじめる側がなんで逃げなきゃいけないの」と書いてあるのを見た訳だけど、ある意味でいじめられた側は逃げて当然だと。だから、いじめられた側がなんで逃げなきゃならないということでしょ?いじめられる側が逃げるっていうのは、ある意味当然だと思う。要するに暴力とかね、圧力がかかってくる訳だから一人でこういう対象になった場合、逃げないと異常に気づく。暴力でやられたら傷ついちゃったわけだから当然逃げていいんじゃないかと。だから、なんでいじめられた側が逃げなきゃいけないのか。だからそういう風にならないような社会を作っていかなきゃなんないということなんで、やっぱり人権意識とかね、そういうのをよく社会の中に、分かるような状況ということが必要なのかな?大変、世話人の話とポスターの文言を見てそんなことちらっと今思いました。

・ポスターに書いてあったセリフはあれはちょっと前にドラマ化されていた。原作は漫画なんですけども、そこに出てくるセリフなんですけど、あれは要するに学校でのいじめを念頭に置いて、いじめられた側が逃げなければならないのか、あるいはいじめられた側を隔離するみたいな、そういうことが行われるんだけど、それはおかしいんじゃないのという。むしろ、いじめる側を隔離すべきなんじゃないのかっていう。そういう文脈で言われているセリフですね。まあ、当然逃げていいし、逃げるべきだと思うんですけども、要するにその学校とか会社もそうかもしれませんけど、やっぱ逃げようがないっていう状況の中で、いじめられた側が逃げなきゃいけないっていうのはおかしいんじゃないのという。逃げるってことは、例えば会社で言うならば、要するにもう仕事がなくなるっていう収入がなくなるってことだし、学校で言うならば、要するに勉学が遅れるっていうことですから、そういうなんでそのいじめられてる被害者側がそういうふうな不利益を被らなきゃいけないのかっていう。そういうちょっと捻った文脈で語られたセリフのかなというふうに思います。

・いじめにあったような時は、状況を正しく理解して逃げるなり、その場の責任を持っている人に対応せまるなり、正しく反応するべきだと思ってたんですけれども、あのテレビを見てびっくりしたのがあの浅田美代子さんっていう女優さんがテレビを見ていて、「ああ、いじめなんてあるのね。大変ね、私の頃はあったのかしら?」みたいなこと言ってたら、お母さんが「あなたいじめられてたじゃないの?学校でひどいいじめが起こってるって大問題になったのよ」って言われて「え、そうなの?」とかいって。浅田美代子さんは周りの人が、「あー、機嫌悪いな」としか思っていなかったという話で。差別とかいじめとか、無視しないで対応すべきだと思うんですけれども、いじめられてる当人が気づかないとかスルーするという状況はどういう意味を持つんだろうと思っていたんですけれども。それで最近のことで、汚染水の海洋放出について、福島の人があまり反応していないのは、自分たちが差別を受けたり、いじめられてるのに、その自覚が無く気づいていないんじゃないのかなっていう状況なんじゃないのかなと、ちょっと結びつけて考えてしまったりしました。

・今の「いじめ」に気が付かなかったって話と繋がるかわかんないんですけど、「いじめ」とあとちょっと笑いにするために「いじり」という言葉もあって。その捉え方って難しいんですよね。本人にとっては「いじり」のつもりでやってるんだけど、受けてる方は「いじめ」に感じてしまう。けど、そこでちょっと笑いが起きちゃったりすると、全体としては笑いとしての答えになっちゃうのってあるなと思って。今、例えばテレビでそういった「いじり」の文化が減ってきてるようです。私もテレビ見なくなっちゃったんで、あれなんですけど。「いじり」で嫌がる人がいたんだなってのは、最近になって風潮で感じるようになりました。

・昔と今が大分違ってるっていうのは、子供が小学校の時にすごく感じたんですけども。昔は近所に駄菓子屋さんがいたり、お店屋さんがあって、学校と家だけでない別な逃げ道があったと。私の知り合いは山で日々過ごしたりとか、逃げ道があったのに今はそれが無くて。学校と家だけの人間関係。そして学校の教師がなんかいじめを見過ごしてしまう。それこそ「いじり」だって言われるけど、やられた方は「いじめ」な訳ですし、そういう世の中が私達が子供の頃とちょっと違うという。親のストレスが子どものはけ口になったり、父親のストレスが母親、母親の陰口が子供にっていうね。それで勝ち組、負け組でいうのがすごく出てきてる感じがすごくあって。お笑いなんかも素直に私はこう全然面白くない人がとっても多いんだけど、こういじって喜んでるみたいな風に感じています。

・先程ありました「いじめ」と「いじり」についてなんですけれども、個人的に高校生の時に、「いじめ」ほどでは「いじり」というか、先ほどおっしゃったように、当時で言うと肩パンと言われるものを受けていた時に、個人的にはそれは「いじめ」ではなく「いじり」なんだと思っていて。でも、今考えるとそれを「いじめ」だっていう風に、例えば先生なり親なりに言ってしまったら、それが本格的な「いじめ」、「いじり」から「いじめ」っていう進化というかというか退化というか、そういう経過を辿ってしまうんじゃないかなっていうふうに思ってしまいまして。だから、当時もその「いじり」なんだと思って。他のその「いじり」の当事者以外のクラスメイトもある意味それを「いじめ」だってこう周りが思ってしまったら、また外から「いじめ」という評価を受けて、自分達がこれいじめられてた、いじめていたんだっていう認識に変わってしまうこともあるのかなと思いまして。だから自分は当事者から「いじめ」という認識が生まれたり、他の第三者から「いじめ」という認識が生まれたり。そして結局、当時はその「いじめ」にしたくなかったっていうところから、何も言わずに過ごしてはいたんですけれども。そういう「いじり」と「いじめ」っていう関係性があるのかなと思います。

・今「いじめ」と「いじり」と言うことを対比的に話が出てきたんですけど。私は思うんだけど、「いじり」っていうのはまあ、何かをいじるっていうのはどういうことなのかなって私が考えたのね。思ったのは「弄る」というのは、人について使う言葉じゃないんじゃない?物について何かを「弄る」ということで。「弄る」というのは物扱いから来てると。要するに、「いじめる」は人間、「弄る」は物扱いなんだけど、それを人間に持ち込んでくるということは、人間は元々物じゃないんだと。それで、物扱いされるの非常に傷つくんですよね。要するにドメスティックバイオレンスなんかもそうなんですよ。例えば、男の人が女の人に暴力する。気に入らないとぶん殴る。要するに物扱いなんですよ。だから、「いじり」と「いじめ」に発展するっていうのは要するに物扱いが段々講じて、いじめになるというのはなるほど、そうだなというふうに思ったんです。

・今のは確かに「いじり」というのは「弄る」から来てんのかなというのは、ちょっとそこまで考えたことなかったんですけども、ただ僕達が子供の頃「いじり」という事は無かったと思うんですね。多分、僕達が子どもの頃は「ふざける」とか「からかう」という言葉があったと思うんです。でもやっぱり、「ふざける」と「からかう」というのは、最初は正に楽しくてというか、お互いにそんなに「いじめてる」「いじめられてる」ということは思ってはないけども、ふざけたりからかったりしてるんだけれども、ただ子供って限度を知らないから、どんどんそれがエスカレートしていってしまって、どっかから要するに別の次元に何か変わってしまうっていうことが僕なんかの頃にもあったような気がしていて。なんか物扱いっていうのかどうかちょっと分からないんですけど、要するに「ふざける」と「からかう」というのは別に「ふざける」「からかう」て言葉は物扱いしている訳ではなくて、友達同士でお互いふざけあったり、からかいあったりっていうのはあったんだろうと思うんだけど、なんかそれがどっかからこう特にある特定の人が常に常にからかわれるそのからかわれるが、もうちょっと段々エスカレートしていくっていう。そういうその正にこの線引きがうまくできないけど、エスカレートしてしまうっていうことはあったような気がしています。

・今、「いじり」という言葉が出たんですけれども、TVなんか見ているとメディアがね、よく「いじる」とかっていう言葉を使うので、そういうところからこの言葉が使われるようになってきたのか。それともどうなのかなと思って、いま考えさせられたんですけれども。やっぱり人間の尊厳っていうものがありますから、そういうことを考えたところ、時に凄く微妙なところがあるだろうと思うんですよね。例えば、「いじり」なのか「いじめ」なのかっていう微妙な他人が見たことと当事者は思ってたことが違うっていうことなんですけれども、その社会って結構勝ち組、負け組っていう話が先ほど出ましたけれども、そういう社会ですので分断して支配するような社会なんですよ。分断しないと支配的できない国家は。なので、こうした回なのであのうやっぱりいじめられてる子が「このいじりはちょっといじめじゃないの?」と思っても、やっぱりいじめられたと思いたくないっていうようなこともあるんじゃないかと。実際、「これいじめじゃないよ」という場合と「いや、そう思いたくない」という人も、もしかしたらいるかもしれないなあって。そういう微妙な大変な大切な心の動きの問題じゃないかなと今感じました。

・私が小学校六年生の時に田舎に母子寮があったんですね。それで、凄く貧しい人がいて、今思えばなんかいじめられてたのかなっていう感じもするんですが、その当時は気がつかなくて。例えば小学校二年くらいの時に「ちびくろさんぼ」っていうお話が国語で取り上げられて、あれはアフリカの人から見るとステレオ化された気分を大変害するものであって、今はもうないんですけども、人権についてとか、その歴史的背景とかを知らないと、自分がいじめてるっていうか、そういうことに気がつかないまますぎるのかなって思いました。だからいろんな人と対話したり、世界を見たり、本を読んだり、何が人権に違反してるのかってのを常に意識しなくちゃいけないのかなと思うんですけど。ちょっと長くなりましたが、うちの子供は小学校一年生の時に、別な子供が「〇〇君がいないから、僕の代わりに叩かれたりしたんだ」ということで、初めて自分の子供がいじめられてたってことに気が付いて、学校の先生がそのいじめる子を暴力振るう訳ですけども。大変なことが起こるんだっていう風に、学校の先生が言ってくれて、その後いじめが続いてかどうかはわからなかったんですけども、小学校五年生で転校して、転校先になじめなくて、空気のような扱いで他の学校の人に「〇〇君はキモイって言われてるよ」というのは、不登校になってから初めて他のお母さんに聞いて、「自分の子供がキモいって言われたの?」みたいな感じで。本当に先生からは「異質だ」と言われたんですね。だから「このままいくと中学校でいじめられるから、今から対策してください」と、その前の学校の学年の先生は勉強ができたので、家庭訪問も5分もかかんないで「〇〇君は問題ないです」と言うから、自分としては変だなと思いながら。まあ、学校の先生がなんかあれば言ってくれると学校を信じてたわけですけど。今の学校というのは昔と違うってのは初めて知りました。もう一言言うと、私が中学生の時にスクールカーストみたいにいじめっ子がいて、「あの子はかわいい。あの子はバカで、あの子はブスで」と全部ランク付けして、いじめる男の子がいたんです。それで、一緒にいじめられてる子と帰っていたので、「どうやったらあいつをやっつけられるんだろう」と毎日話して帰ってて。でもお母さんに言いつけるのは。ちょっと恥ずかしいし、学校の先生に言いつけるっていう気持ちは思いつかなくて、ふっと思いついて次の日、「〇〇を無視する女子の会」を作ったら、そいつが「いや、それはやめてくれ」ということで、いじめが止まって代わりに私がからかわれるようになったんですけども。私もいじめられているのか柱に縛られたりして、最初は遊んでるみたいな感じだったんですけど。そんなあの昔は可愛い「いじめ」みたいなのしかなかったです。ちょっと長くなりましたけど。

・「いじり」というのは、なんとなくあの関西文化なのかなって気がしていて。関西の人達って、とりあえずあの笑い合ってなんぼでがなかった。オチはどこ行ったっていうような世界のような気がするんだけれども、その「いじる」というのは、物扱いかどうかわからないけれども、でも、例えば物なんかでもどういう時に使うかっていうと、何かを引き出そうとするとき、要するになんか計算する時に、「そこのパラメーターいじろうか?」という言葉を使ったりすることを考えると、何かを引き出すことによって、何かを「いじる」ことによって目的に達するための何かを引き出すものが多分「いじる」という。もともとの言葉の使い方で、その関西的なノリから行くと、その笑ってなんぼのものだから、相手の何かをそこから笑いを引き出すために、何か突っ込みを入れる。ていうような話なのかなと思って、その関西のお笑いが関東の方にドッと進出した後に「いじり」文化っていうのはすごく広まったような感覚的に思ってるんです。日本全国で見た時にそういう笑ってなんぼみたいな、お互いにそれをやり合うような文化がないところに、でもその芸人の人達が「いじって」何かするようなものっていうのが、あたかも当たり前かのように入ってしまっているっていうのは、「いじりってのは別にやっても問題ないんじゃない?」みたいな雰囲気で「いじる」という言葉を使って、世話人がさっき言った言葉を使うなら「からかう」とか。多分「からかう」という言葉の方が、その言葉を使う時に自分がやってることが、いいことだとは思わないですね。「からかう」だと明らかに何かを相手の特徴を何かよく引き出すためにの時には「からかう」という言葉は使わないですね。必ず悪いところをあげつらう時に「からかう」という言葉を使っていて。なんだけれども、「いじる」という言葉が手に入ってしまったことによって、「いじる」だと必ずしもだから悪い方に行くわけではない。なんかその言葉が変に、やってることマスクしてしまう。本質をマスクしてしまって、それでその、なんかより「いじめ」がしやすくなってしまった環境にあるのかなって気はして見ています。

・「いじめ」と「いじり」の話になってるんですけど、個人的にはそういった呼び方に違和感を持ってて。「いじめ」という言葉は問題の矮小化というか、問題のレベルを下げているような印象を受けまして。大したことが無いように思わせるというか、そういうことを考えてしまってまして。というのは、学校での「いじめ」とかを子供達同士の悪ふざけだとか、そういうふうに捉えられてしまうっていうところが、僕は危険だなと考えています。学校での「いじめ」とかって、もっと警察とか弁護士とか、そういった人達をどんどん介入させるべきだなというふうには、個人的には思ってます。というのは、未成年者による暴行、器物損壊、侮辱、恐喝、あるいは殺人未遂といったそういったものの総称が、学校だと「いじめ」みたいになるというように感じてまして。これらの犯罪行為に教師だけだとカバーしきれないから、警察とか弁護士とかそういった人達が学校に介入していくべきじゃないかなというふうに私は考えております。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.7.15.「いじめ」

2023年07月15日 01時00分27秒 | 開催予定
「いじめの正体とは、“空気”です。特に右から左、左から右へと移動するこの国では空気という魔物の持つ力は実に強大です」(ドラマ『リーガル・ハイ』)


てつがくカフェ@ふくしま2023.7.15.
【テーマ】「いじめ」
【日 時】2023年7月15日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
https://us05web.zoom.us/j/87101242628?pwd=V21GK3lmTzdaT0hJTWJJOUVzaHpWZz09

        ミーティングID:871 0124 2628
        パスコード: nQs3br

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

また、当日ぎりぎりの判断で全面 Zoom 開催に変更することもありえますので、

当日お出かけ前にこのブログで開催方法変更が告知されていないかお確かめの上ご来場ください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。




全国の学校が把握した昨年度(2022年)の「いじめ」の件数は、 61万件を超えて過去最多になりました。

いじめによる自殺や不登校もまた、前の年度から191件増えて705件となり、

過去2番目の多さとなったことが文部科学省の調査で明らかになりました。



文部科学省は、いじめ増加の背景に

コロナ禍で学校行事の制限や給食の黙食などが続いたことで、

人間関係を築くのが難しくなっていることがあるとみていますが

果たして本当にそれらの事が原因なのでしょうか?


また、「いじめ」は事件に発展する危険性もあります。

いじめが原因で自殺や死亡した事件は数多くあり、

さらには過去にいじめを受けていた被害者が

「復讐」を目的に殺人を起こすといった事件も存在します。



当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「いじめ」について考えていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.6.17.「ジェンダー×セックス」

2023年07月14日 13時19分21秒 | 定例てつがくカフェ記録
大変遅くなりましたが、6月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは4名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今月は「ジェンダー×セックス」というような形でテーマを掲げさせていただきました。2月にテーマを決めずに、皆様からどんなテーマで話したいかの意見を出してもらったんですけど、その時に色々とテーマ案が出た中で、ジェンダー問題については語り合いたいと。特に男女の話でもありますし、最近はLGBTQみたいなそういう問題もありますし、そのジェンダーの問題について話し合いたいねとのいうのが一方で出されたものですが、それとは別にセックスに関して、これは提案者は皆さんのセックスに対する考えを聞きたいと。自然的な性とか、そういう話じゃなくて、性交のセックスというふうに言っていたかと思いますが、それも含めてジェンダーのことも含めて話すし、セックスのことも話すし。また、このジェンダー×セックスは別にジェンダーとセックスを両方の話をジェンダーに絡めてセックス、セックスに絡めてジェンダーではなくて、ジェンダーの問題は話しもするし、セックスの問題も話してもいいかなというふうに思っているという形で、今日はむしろ二つのテーマを扱っていると言うぐらいのつもりでテーマを立てさせていただきました。なので、ジェンダーであれセックスであれ、どちらでも構いませんので、皆様の方からご自由にご発言いただければというふうに思います。よろしくお願いします。

・ちょっと言葉の使い分けのところで、はっきりしないなと思ったことがあったので、確認をしておきたいなと思ったんですけれども。LGBTQっていうのはジェンダーの問題なんです?セックスの問題なんですか?これをどう考えるのか、丁寧に考えると難しい問題のような気がしていて、なんかその辺でジェンダーとかセックスという言葉をどうやって使っていこうかっていう話のこの場での仮の合意になるのかなという気もしますので、その辺どう考えるのかっていうのを皆さんにお尋ねしたいです。

・これは私もブログでも、まぁ書いたのは別の世話人さんなんですけども。私はプログをアップする時にチェックしていて。一般的にはジェンダーの話のような気もするけども。トランスジェンダーと言った時にセックスの方というか、自然的性っていうんですか?そちらの問題のような気もするしと思って。どうなんだろうなと思って、自分の中で結論を出さないまま、投げかけてしまっていたところがあるんですけども。一番痛いところ突かれました。

・LGBTは私は単純に両方にかかってくるのかなと。Lはレズで性的には同一の方。Gはゲイでしょ?だからどちらも生物学的に同じ人がカップルを組みたいということで。まず、LGBTがどっちか片方に関わっているということじゃなくて、両方に関わっていると考えて。というふうに私は今お聞きして考えたわけです。それとともに、ジェンダーとセックスということについても、概念というか、どういうふうに考えるかとうのをちょっと整理しておく必要があるのかなと思うんです。ジェンダーって定義になるか?要するに社会的な男らしさ、女らしさというように、社会的に形成される性差といのを書かれたり新聞報道なんか出てるんですけど。これもっと具体的に言うと、ちょっと分からないことが出てきて。セックスについても。通常は男性・女性。肉体的な違いと言うことで分けられることが多いんですが、すぐ思うのはセックスだって。これはどういうふうに分けるのかなという気も起こってくるということで、それともう一つはセックスとジェンダーの関係をこう、ビチっとこう分けてんですが。セックスとジェンダーの間には、グラデーションみたいなセックス的なことからジェンダーの方に流れることもあるのではないかないう風に思ってるんで、まずは ジェンダーとセックスというのをどういうふうに定義的というか概念をはっきりさせることも一つ必要かなというふうに思ってまいりました。

・ちょっと停滞しているようなので、思いつきだけで言いますけど。あのジェンダーだっていうのが、社会的な意味での性別差でありという部分が良いと思うんですね。ただ今回LGBTQの法案が通りましたようですけれども、例えばその中で各党ごとに何案かが出ましたね。それで結局、与党案が通っただけで。例えば自民党与党案がセクシャルアイデンティティとかなんとかとかって言ってたのに対して、確か立憲とか共産党の出していたのが性自認という言い方をしてたわけですよね。その辺が違う。性自認というのは、素直に取れば自分で自分の性をどういうふうにどうなのかと。自分で自分の性がどれだというような話であってですね。非常にその個人的な話というかですね。社会的な性差というよりは、もうちょっと個人的なほうに振ってる案なのかなと思ったわけですね。そんなことを考えると、さっきのおっしゃってたセックスとジェンダーというのが、グラデーションであるかというと、そうではないとそんな感じじゃないんですけれども、切り離せないものだなという気はします。セックスと言った時に、ブログの方に書いてあったのは、いわゆるその性差。生物学的な性差みたいに書いてありましたけれども、日本で普通にセックスというと、性行為のこともいうわけですよね。「セックスしましょう」とか「セックスしました」とか。性行為というのも、例えばLGBTQの人たちって、例えばレズビアンの人だったらば、女同士で性行為をしたいとかするとかね。ゲイの人でしたら男同士で。男でも女でも相手は誰でもいいって、まあそういうふうに性行為の実際の性行為がどういう風になるかというのも、やっぱりlLGBTQの人達にとって非常に大きな問題で、それをジェンダーというような、なんて言うんですかね社会的な意味での彼らの人権であったりとかですね、権利であったりとか、そういうのはどういうふうに保証していくかっていうと、まあ社会的な目から見た話と同時にですね。性行為=性差ということに関しての問題というかですね。いろいろその考えるべき点と言うのも、LGBTQっていうのにもある。そういう意味でもジェンダーとセックスを完全に切り離すっていうことは考えにくいと言うふうに思います。

・今セックスとジェンダーのグラデーション的なことはちょっと考えられないという発言だったかと思うんですが。私が言ったのは、例えばセックスというのは生物学的な性差だよ、ジェンダーは社会的に形成されるんだよと言った時に、生物学的な性差といっても男性、女性それ、よく考えると中身は表面的な外観的なことだけじゃなくて、ホルモンの分泌だとかということで言うと。男性ホルモンあるいは女性ホルモンのその違いでも程度だと。男性と言われる人、女性と言われる人の程度に差があるんじゃないの?それが女らしさ、男らしさに通じていくんじゃないか?肉体的に外観的に要するに、男は男性的なものは筋骨隆々としてる、女性に比べると体格が大きいとか。あるいは筋力が増えやすいとか。それに対して女性は弱いとか、あるいはいろいろ、まあ違いがあるわけですけど。そういう概念的なことだけじゃなくて生理学的なことまで、ジェンダーの方に影響してるんじゃないかなというふうに考えて、それはグラデーション的なものもあるのではないかというふうに言ったんです。それとですね、特にジェンダーの場合は「具体的にこういうものがジェンダーだよ」ということを考えて取り上げていくと非常にいいことだとあちらの方もおっしゃってたけどと思います。具体的にこういうことがジェンダーと。というのは、要するにジェンダー平等ということを叫ばれているわけですけど、そういうことが分からないと「平等って何?」という話になってきてしまいますので。

・セックスに関しては性ですね、その男女二元論的な男女だけじゃない性があるということで、これはもう生物学的にもそういうことがあるわけで、それで前の方仰ったように、ホルモンの分泌量によってグラデーションもあると言うことは、私はこれははっきりしていることだと思います。ただここの議論の中で例えばそういうようなことをきちんと、つまり現在の何ですか?正しい認識っていうんですかね?それが分からないままで、そこの部分を議論しても、あんまり意味がないのかなっていうふうには思います。それでジェンダーというのは、私も社会的性差ということですから、男らしさ、女らしさこれはホルモンからくると言うことではなくて、いわゆる社会的に女らしさ男らしさというものを規定されている部分があるんじゃないかと。そういう部分をジェンダーの社会的性差というふうに私は考えているんですけれども。なんかもう少しその多様な、二元論的なではない部分に関して考えていかなかなくてはということまず言いたいということと。それから性を考えるときは今、性の構成要素とかって言って。先ほど仰ったように性自認をどう考えるかとうことですよね。やっぱり自分の生物学的な性はどうか?それから自分が好みの相手はどういう性であるとか。そこから、また自分がその表現したい性はどうかとか。まあ、そういうのもう四つぐらい構成要素が最低でもあげられて部分があって。どこの国だったかもう50種類ぐらいそういう意味ではですね、構成要素があるんだと。でそれを認めているところもあると。たしかタイは17ぐらいもうすでにその種類を認めているということですので。ちょっと何だろう?そういうような基礎知識みたいなものをきちんと持たないで定義づけるってことは、まずできないことなのかなっていうふうに思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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