てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

ラジオ福島で特別編第2弾の開催が告知されます

2012年02月25日 13時27分03秒 | メディア掲載
前回、てつがくカフェ@ふくしまをラジオでご紹介下さったラジオ福島さんのご協力を得て、3月1日(木)17:20より同局番組で特別編の告知が放送されます。
今回は世話人・渡部が録音取材を受けたものが4分ほどの時間で放送されるそうです。
自分の声を聴くことほど恥ずかしいことはありませんので、私自身が番組放送を聴くかどうかは微妙ですが、
皆さんにお聞きいただいたご感想を後でお聞かせいただければ幸いです。

第8回のカフェでは、前回の放送をお聞きになって来られた方もいらっしゃいました。
さすがラジオの力です!
そして、今回もまたこの放送をお聞きになった多くの方々に特別編にご参加いただければ幸いです。
告知のご協力をいただきましたラジオ福島の八木さんには、この場を借りて御礼申し上げます。

第1回「本 de てつがくカフェ」報告

2012年02月19日 09時20分46秒 | 本deてつがくカフェ記録
第1回 「本 de てつがくカフェ」 が昨日、サイトウ洋食店で行われました。
これは指定された本から哲学的テーマを探り当てながら、参加者で語り合うという活動です。
その活動の性格上16名の定員を設定させていただきましたが、今回は12名の方々にご参加いただけました。
福島では初の試みでしたが、与えられたテキストに即しつつはみ出しつつ、様々な哲学的テーマについて話し合いが交わされました。

第1回の指定本は『dream body』。ファシリテータは小野原さんです。
これは漫画なのですが、非売品であるため著者の了解を得た上で事前に参加希望者に配布されました。
たいへん深い作品なので内容を詳細に紹介したいところですが、それについては割愛させていただきます。
あらすじはこちらのブログをご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara/e/0b00162c51c99c5debbcd45b41a23a1f

2×××年。医療技術の進歩は身体の各部位を自由に交換できる「dream body」(以下db)を生み出しました。
この技術によって低価格・短時間手術で若さや美貌など、「夢の身体」を手に入れることが可能になったわけです。
それだけではありません。
生来、手足をもたずに生まれた障がいに対しても、この技術によって欠損部位の補完が可能になります。
これについてファシリテータからは、以前の特別編で挙げられた論点の一つである「障がい者と健常者」、あるいは「ありのままの生命を肯定できないのか」というテーマとの関わりも示されました。
そもそもdbを施術した親からは手足が欠損した子どもが生まれるという問題があるのですが、しかし、これもまた生まれた子どもにdbを施せば問題は克服できるとも考えられます。
その意味で言うと、このdbは「ありのままの生命」を肯定することを可能にした技術と言えなくもないでしょう。
しかし、手足の欠損したdbの子どもとして生まれた主人公百合子の「手足が当たり前にない身体、みんなの身体がそうなること、それが私の夢、夢の身体、dream bodyよ」という言葉からは、単に「ありのままの生命」を肯定しているようには思えません。
果たして、dbが「夢の身体」であるとはいかなる意味なのか。
このことをめぐって、まずは参加者から読んだ感想を挙げてもらうことから始められました。

「作品中ではdb=「夢の身体」の意味が変容していっているが、それは主人公の身体性と存在の受け入れ方の変容ではないか」
「最終的にdbはなくならない方がいいと思う。というのも障がい者にとっては自分が不要になることが最も悲しいことで、そんな目に遭うくらいならdbによって欠損部分を補って存在を認められた方が幸せではないか」
「死の孤独という場面が印象に残った」
「理由はわからないけれど、手をつないだ場面で泣いてしまった」
「身体の不細工な部分をつけ替えるという魅力もあるけれど、過去の傷跡のある身体をみると何か愛着を感じる」
「自分の身体への愛着もさながら、他者の身体への愛着という問題が示されている」
「五体満足な状態であると気づかないけれど、なくなって初めてその欠損部位が欲しいと思うのではないか」
「この世界や人間は不完全だからこそ、それを変えていこうとするもの。不完全性から人は新しい気づきや学びを得られるのではないか」
「このストーリーはハッピーエンド?最後の場面がどうにも収まりが悪い感じがした」
「脳と身体を分離して考えるのは難しいという日本人の感覚があるのではないか」
「自分だったら目を交換したいと思った。どこまでが医療行為なのだろう?作品中の「脳以外の身体を愛すべきではない」という言葉が印象的だった」
「身体のデザインが行き着く果てが想像できない」
「dbは脳死臓器移植の問題と同じ。ファッションのためのdbは認められないが、医療行為によって障がいや病状が回復されるケースならば認められる」

作品を読まれていない方には、これだけ読んでも何のことだかさっぱりわからないかもしれませんので、各発言者の意図とずれるかもしれませんが、いくつかの論点を私なりに整理させていただきます。

一つは、身体とアイデンティティの問題です。
作品中では、身体の交換に伴ってその部位が経験によって蓄積した能力はリセットされます。
たとえば腕を交換すると、その身体が馴染むまで字を書くのが下手くそになります。
それだけではありません。
作品の設定では、身体の部位を交換すると、その身体が触れた記憶も失なわれてしまうのです。
これは単純に作品上の設定という以上のことを考えさせられます。
唯脳論者ならずとも常識的に考えれば、脳ではなく身体(腕や足)が経験を記憶しているというのは不可解でしょう。
しかし、少なからぬ意見からは、この身体の記憶ということへのこだわりが示されました。
楽器の操作、金属磨き、自転車乗りなど脳ではなく身体が記憶する経験が示されるとともに、身体こそが世界との通路であるというわけです。
ちなみに、これは「幻肢」の問題にもつなげられる個人的にはとても興味深い問題なのですが、ここはそれについて書くことを禁欲しておきましょう。
意識せずとも身体が動くことを〈慣れ〉と呼びますが、この〈慣れ〉とは一種の世界とのつながりそのものであり、無意識的な〈記憶〉と呼びうるかもしれません。
ところで、〈私〉のアイデンティティ(自己同一性)とは、過去の自分との一貫性を保障するという点で〈記憶〉そのものだといえます。
すると、単に脳内の記憶だけでなく身体とはその人のアイデンティティを構成するといえるのではないでしょうか。
これについては、全身麻痺になった家族を介護する中で、それでも本人が自分の身体を用いて動こうとする姿を見て、身体の自由がその人の尊厳に関わっているのではないかとの意見も出されました。
さらに身体の記憶を構成するのは、親や先祖といった自分に先立つ遺伝上の〈記憶〉も含みこまれているのではないかとの意見も出されました。
こうなると自分を構成しているのはどこからどこまでが自分なのかという問題にもつながっていきます。
逆に、整形が当たり前になり、それがdbのように身体へ拡大していったとして、どこまで身体を交換すれば自分ではなくなるのかという疑問も出されました。
それに対しては、結局その人がその人であるのは自分しかわからないのだから、心がアイデンティティの根源だという話に戻っていきます。もちろん、心はどこにあるのか?という問題は別に論じられなければなりませんが。

さて、こうした身体の問題は次に死の孤独という論点につながっていきました。
ある参加者から、作品最後の場面で百合子が発した「死ぬ孤独はどれほどのものだろう」という台詞をどう思うか、という問いが投げかけられました。
もう少し説明を加えると、百合子はdb推進に反対する安井直人と心が通じ合いながら、彼の死に際して次のような思いを語ります。
「手がなければ顔を覆うことができない、痛いところに手を当てることができない、痛みを和らげることもできないで、温かい人の温度も失い感じられぬまま―」
この作品で「手」はある人の存在を受け入れたり、記憶する象徴として描かれています。
百合子は、最終場面で手足を交換せざるをえなくなるのですが、直人と触れた記憶を残す「手」を失った彼女が思いをめぐらしたのが「死の孤独」だったわけです。
家族の最期の看取りに際して手を握り締めること、腹痛を訴える子どもをさする手。
それぞれがどのような効果を与えているかは判然としなくても、身体が孤独から救うという意味において何がしか力を与えるものではないか。
ハグや握手など身体接触の例について触れる話題が出されながら、そうした文化的記号的なレベルを越えて、他者と通じ合える可能性としての身体について議論が展開されました。

中盤を過ぎてファシリテータからは特別編の論点であった「障がいと健常」について問題が提起されました。
これについて、明治以前に「必要」という言葉が日本にはなかった事例を紹介したある参加者の意見は、近代日本が有用性・効率性を重視して突き進んできた社会であったことと、障がいの不必要性の問題を浮き彫りにします。
また、障がい有無を判別する出生前診断に関して、それを受診するかどうかの段階で既にその先のストーリーが仕上がっているとの指摘も出されました。
近代社会の根底に「自由とは必然性を認識すること」だとする考えが備わっているのだとすれば、私たちはリスクを予測し、予防することが幸せをもたらすという考え方が身に染みついています。
もちろん科学はその価値に支えられて進歩しました。
けれど、その過程で私たちは「例外」や「偶然」なるものへの受けとめ方を疎かにしてきたのかもしれません。
障がいの予測が可能になった出生前診断をプロメテウス的な構えとすれば、偶然を偶然のものとして事後的に肯定できるようなエピメテウス的な構えを検討してもよいのではないか。

しかし、それではニーチェ流に「いかにひどい人生であろうとも自分の運命を愛せよ!」という、実存主義っぽい解決で済ますのかという問題も出てくるでしょう。
やはり、dbは障がいを軽減するものとして肯定されるべきだ。
そんな議論が最後に交わされました。
そもそも、この議論の発端は「このストーリーはハッピーエンド?」という意見をめぐってのものです。
実はdbは老化とともに接合部分が腐食して、結局は老人になると手足を欠損した生を強いられることになります。
作品上では、それが結果として認知症の老人の徘徊の世話や手間を軽減するという政策的意図がdbに込められていたことが百合子によって暴露されます。
そして、最終場面で百合子は手足を失った老人の身体を、自らの腕で包み込み「死の孤独」を癒す姿が描かれます。
この最終場面に違和感を覚えた参加者の意見によると、冒頭の場面で手足のない姿で生まれた赤ん坊の百合子と、dbの手足をつけて手足のない老人を包み込む百合子の姿が何か一致しない、最後は生まれたままの百合子の身体を肯定する形で終えてもらいたかった、というわけです。
これに対して、ありのままの生を肯定するとは、障がいをそのままにしておくという意味では肯定されない、あくまでよりよい身体の自由を可能にさせる仕方でdbは認められるのだし、その姿でdbの犠牲となった老人を癒す姿はハッピーエンドなのだということになります。
さらにいえば、この理屈は同様に脳死臓器移植でも通じるものだということです。

最後の最後に自分の身体は自分のものなのか?という論点も提起されましたが、残念ながらタイムオーバーとなりました。
一冊の本を読んで哲学的に語り合うというのは初の試みでしたが、時間もあっという間に過ぎ去り、いつも以上に深い議論が交わされたように思われます。
これは『dream body』という一冊の作品の厚みと深さによるものに他なりません。
ご協力いただいた著者にはあらためて感謝申し上げます。
ご本人の希望により著者名は公表いたしませんが、さらなるご活躍をお祈り申し上げます。
ご参加いただいた皆様、お疲れ様でした。
毎度ながらサイトウ洋食店さんにも会場をお貸しいただき、誠にありがとうございました。
第2部のお料理も大変美味しゅうございました。
次回てつがくカフェ@ふくしまは3月10日(土)です。
ビューホテルで会いましょう!

読売新聞夕刊に載りました

2012年02月16日 22時44分16秒 | メディア掲載
第8回てつがくカフェ@ふくしまが読売新聞夕刊(2012年2月16日付)の記事に掲載されました。
夕刊紙は首都圏のみなので福島では入手できませんが、以下のような内容の記事でした。
取材にお越しいただいた針原さん、ありがとうございました。
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=54589&from=yolsp(YOMIURI ONLINEはこちら)

市民が対等な立場で、「生」や「死」など、身近で大切な事柄をテーマに語り合う「哲学カフェ」。東日本大震災の後、特に福島や仙台で活発に行われている。対話によって、人々は何を得ているのだろうか。(針原陽子)

【市民、対等な立場で】
「てつがくカフェ@ふくしま」で「幸せ」について語り合う参加者たち(福島市で) 1月下旬の雪の夜。JR福島駅からほど近いレストランで開かれた「てつがくカフェ@ふくしま」に、約20人が集まった。この日のテーマは「幸せって何だろう?」。

「『幸せ』とはどういうものだと思いますか」。議論の進行役の問いかけに、20歳代の女性が手を挙げた。「自分が一番悪い状態だった時に比べて良い状態であれば幸せ」「過去などと比べなくても、自然に感じる『幸せ』もあると思う」

「自分が『幸せ』と思えば幸せ」という意見が出され、複数が賛同する一方で、「他人から見れば不幸でも、本人が幸せと思えば幸せなのか」「自分と周囲の幸せがぶつかる場合はどうなのか」などの問いも生まれる。

話がストーカーやパレスチナ問題にまで及んだ後、進行役が「東日本大震災以降、不幸せになったと感じますか」と質問を投げかけた。会社員男性が「自分と家族は幸せだと思っているのに、『福島に残っている子どもは不幸だ』と言われる」と発言。教員の男性は「原発の爆発以降、『不幸とは自分の意思でどうにもならないこと』と思うようになった。関与できないところで不幸をつくるのはやめてほしい」と話した。

終了後、参加者からは「いろいろな考え方があるとわかるのがいい」「いつも以上にもやもやした」などの感想が漏れた。会社代表の30歳代女性は「まじめに議論する機会が身近にあるのはありがたい。職場などでは『深刻な話をすると、何か影響が出るかも』とためらってしまう」と話した。

◇ 哲学カフェは、1992年、フランスの哲学者がパリのカフェで始めた。日本では2000年ごろから広まったとされる。哲学カフェのルールは、参加者が肩書抜きの対等な立場で対話することと、ある程度、哲学の知識のある人が進行・整理をすること。できればコーヒーなどを飲める場で開くのが望ましいという。

東北では、昨年3月の東日本大震災を契機に、活発に開かれるようになった。震災後に始まった「@ふくしま」はすでに8回開かれ、初回が10年5月の「てつがくカフェ@せんだい」は、計16回開かれている。

「@ふくしま」世話人の一人である福島大教授(倫理学)の小野原雅夫さんは「『思いを語るだけ』でも意味がある。特に福島は、放射能の問題などについて人々の感じ方の温度差が大きく、『思ったことを話せる場がなかった。話せてよかった』という感想が多い」と指摘する。

「@せんだい」主催者の、東北文化学園大准教授(臨床哲学)の西村高宏さんは「東北には『対話を通じて自分の考えをたくましくしていく』場がなかった。特に震災以降、被災者が自分の言葉で体験を語ることで、震災をとらえ直すことが重要だと思う」と話す。

「てつがくカフェ」は、岩手県と山形県でも昨年12月に第1回を開催。西村さんは「今後も東北の中で活動を広げていきたい」と話している。

てつがくカフェ@ふくしま特別編・第2弾 開催のお知らせ

2012年02月05日 22時03分18秒 | 開催予定
まもなくあれから1年になろうとしていますが、
「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 の第2弾を開催いたします。
10月に開催した 「特別編」 と同様、
法政大学のサステイナビリティ研究教育機構との共催で、
あのきらびやかな部屋で再び開催させていただきます。
テーマは 「あれから1年 〈3.11〉で何が変わったか? ―震災・原発をめぐって―」 です。

あの日以来、私たちの生活は大きな喪失感と不安のなかで一変してしまいました。
しかし同時に私たちは、この未曾有の出来事が、
これまでの私たちの考え方や社会のあり方を根本から変えるかもしれない、
とも予感したのではないでしょうか。
あれから1年、果たして私たちの何が変わり、何が変わらなかったのか。
そして、それは私たちの希望につながるのか。
「てつがくカフェ@ふくしま 特別編」 第2弾では、
こうした問題について参加者の皆さまとお茶を飲みながら語り合ってみたいと思います。

今回は最初小さなグループで話し合ってから全体討議に移るという形で、
できるだけ多くの方々にお話しいただけるようにしたいと思っております。
ぜひとも大勢の皆さまのご参加をお待ち申しあげます。



 てつがくカフェ@ふくしま 特別編 第2弾

テーマ : あれから1年 〈3.11〉で何が変わったか?
          ―震災・原発をめぐって―

日 時 : 3月10日(土) 14:00~17:00

場 所 : 福島ビューホテル 安達太良の間 (福島駅西口正面 ・ 西館3階)


参加費無料、飲み物無料、事前申し込み不要
(当日参加可ですが、準備の都合上あらかじめ下記まで参加の連絡を頂けると助かります)

主催 : てつがくカフェ@ふくしま ・ 法政大学サステイナビリティ研究教育機構

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp (左欄 「メッセージを送る」 よりどうぞ)