てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第21回てつがくカフェ報告―社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?―

2013年12月24日 19時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
今回のてつがくカフェは『茶色の朝』を材料に、「社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?」を問いました。
参加者は22名。
今回の参加者の年齢層も幅広く、20代から70代と各世代間のやりとりが行われました。

さて、『茶色の朝』は不穏な全体主義が、何気ない日常のなかでいつのまにか貫徹されていってしまう状況をみごとに描いた絵本ですが、まずはこの絵本の感想から述べるところから始まりました。

学校での授業参観の際に、子どもたちが誰も手を挙げて発言しないから、その理由を尋ねられたところ、「いじめられるから」と答えたことを思い出したという意見では、子ども同士で生じる権力を恐れることと、この物語が重なったといいます。
また、この絵本がフランスでベストセラーとなったことはすごいことだし、その背景には自分で考えることを教えるフランス教育の力があるのではないかと言う意見も出されました。
別の参加者からは、絵本の表紙に描かれる色とりどりの花の絵に、文化の多様性をイメージさせられたという意見も出されます。
実は身近なところで多様な文化はあることに、ほとんど私たちは気づかないのだけれでも、その多様さに気づくとき、もっと人は自由な考えが持てるのではないかといいます。むしろ、その違いに気づいくことで人の意識は成長し、発信の仕方も変わり、社会が変わっていくのではないかとのことです。
一方で、現首相が目指している国は北朝鮮ではないだろうかという不安を指摘する声もありました。
それによれば、北朝鮮のような独裁国家が貫徹してしまったとき、果たして社会を変えるなんてできるだろうか、だからこそ、そうなる前の市民による行動が大切なのではないかといいます。
さらに、この絵本の内容は「おもしろくない」と述べた参加者もいます。
それによれば、ここに描かれているのが自分たちの日常そのままであり、あまりのリアルさに「面白さ」を感じられないのだというわけです。
このリアルさとはなんでしょうか。
別の発言者は、たしかに政治的には現首相に対して批判的な意見を持っているが、経営者としてその見解を発信した場合、それが自分の経営にも影響を及ぼすと思うと、軽々に発信できないと言います。
そこには、誰に見られているかわからない、という薄気味悪さを指摘しているように思われましたが、この絵本が描く不気味さというか薄気味悪さとは、実はこの見えない不特定多数者の圧力のことではないでしょうか。

ところで、これらの意見には「権力」に対するイメージが二種類あることに気づかされます。
一つは国家と市民の関係のようなタテ軸としての権力イメージがある一方で、もう一つはいじめのように同輩集団に潜む水平軸としての権力イメージです。
議論では、しばしが市民の行動力が取りざたされましたが、それは往々にして対国家といった実体的な権力に対する行動を意味しました。
とりわけ、学生運動を経験した世代からは、官憲からの監視などと戦った経験であったり、対学校教師への抵抗の経験を経る中で、一度抵抗してみれば意外と相手の仕組みを見透かすこともできたり、必要以上に恐れる必要がないことがわかるなどと言います。

なかなか過激な意見が出されましたが、しかしこの絵本で描かれるのは、どちらかと言えば何気ない日常の中でどんどん権力に浸食されていく世界です。
すると、やはり目に見えない「空気を読むこと」や「世間」という存在が私たちの社会を変える力を奪っているという意見が問題の焦点になりそうです。

これについて、昨年の衆議院選挙や今夏の参議院選挙の際に、周囲の誰もが現政権の選択はありえないとの声しか聞こえないのに、なぜその真逆の選挙結果になってしまったのか理解できなかったという意見が挙げられました。
周囲の実体的な人々の声以上にいるらしい、「圧倒的多数派の見えない人たち」の存在の不気味さ。
いったい、そんな人々は本当にいるのだろうか。
いるとしたら、なぜその姿が見えないのか。
そんな眩暈というか、夢というか、世界の存在そのものまで疑ってしまうような経験をしたものです。
いや、それは実は日本国民のほとんどが二重人格なのだという結論に至ったという過激な意見を述べた参加者もいます。
それによれば、普段は政治批判をしておきながら、実は投票の際にはその批判とは真逆の候補者に投票しているのだ、と確信的に思うのだそうです。
このダブルスタンダードは何によるのか?
最終的にはカネや経済的な問題を握られたとき、人は何も言えなくなることと無関係ではないのかもしれません。
その生きるすべを奪われてまで危険な発言はできないでしょう。

いや、そうはいっても二重人格というのは言い過ぎかもしれません。
ある意見によれば、同じ意見をもつ階層と反対意見をもつ階層が分離しているだけではないかと言います。
多様性と対等性を保証する哲学カフェという空間でさえも、実はこの問題はあるかもしれません。
日本では極度に政治の話は、相手の思想を理解していないと軽々に発することができなう文化だと言われます。
だとすると、周囲での政治批判は井の中の蛙であり、現実は別の圧倒的多数の意見と自分の生活世界が乖離しているだけだといった方がよいのかもしれません。
では、そうした状況では社会は変わりようがないのではないか。
それに対して、多様性の経験を得るために外の領域へ出ていく必要があるのではないかという意見と、いや、むしろ自分たちの階層(領域)を出ていく必要はなく自分たちの領域で変えようとするだけで十分なのだという意見が出されました。
2日前に行われたエチカ福島では、ハンナ・アーレントを引き合いに「少数者でいることが大切なのであって、問題は少数者にすらなれないくらい断片化させられることだ」という意見を耳にしました。
自分の意見と対立する他者との対話、交流はもちろん大切ですが、この「少数者でいられること」という考えは以上の議論を考えるうえでも重要であるでしょう。

ところで、そもそもテーマに掲げられている「社会」とは何か?それを変えるとは何か?」という論点に立ち返ります。
家族、地域社会、国家など社会と言ってもどこに焦点を当てるかで、議論も変わってくるでしょう。
これについて、エチカ福島での議論を踏まえて「若者にとって社会がない」という問題をどう考えればよいのか、という問題提起が為されます。
たしかに、学生運動世代からすれば敵対する官憲であろうと実体的な国家=社会は立ち上がっています。
しかし、実は一見してそうした実体的権力を感じさせない今日の社会ではその意識が立ち上がるのは難しいのかもしれません。
それに対して「階級社会」の方がよほど社会を対象化しやすかったのではないかとも言います。
階級の違いが明白に自分の敵-味方集団を識別しやすいからです。
すると、今日、何でも平等化した大衆社会において、それは意識しにくいものなのかもしれません。
一方、昨今のヘイトスピーチのように、暴力性を帯びた排外主義やナショナリズムの風潮は、ある意味で国家を意識した行動だともいえます。
この敵対的な思潮によって立ち上がる国家=社会意識は、排他的=自閉的な意識の現れであり、言い換えれば「自尊心」を失った人々によって立ち上がる社会像と言えるかもしれないでしょう。
(これは「自尊心」というよりは「自己愛」の傷つきやすさなのではないか、と個人的には思うのですが。)
これは「日本人は社会をつくったことがない」という発言と関係するかもしれません。

あるいは、社会はいつのまにか変わるのか?私たちが変えるものなのか?という問いに対して、「どちらともYESだ」と答えた参加者は、国旗国歌法だって制定当時は罰することはしないとしたにもかかわらず、国家斉唱せず国旗に向かって不起立した公務員を厳罰に処する自治体も今では当たり前のようになっています。
当時は大丈夫といったにもかかわらず、時間の経過とともに変化する流れを止められないのは、現状を肯定する私たちの意識が為せる技なのかもしれません。
放射能に関してもそうでしょう。
放射能汚染がひどいあの時期から比べると、いまでも異常な数値であるにもかかわらず、当たり前のものとして私たちは生活しています。
県外から来た知人たちの驚きを見て、はっと我に返りますが、時間と日常とは実に自分を現実に適応させてしまうものです。
自分を変えるというよりも自分が変えられるとも言えるでしょう。
それが自分の中にある凡庸さというものなのでしょう。
慣れていくことの罪とでもいえましょうか。
巨悪に加担するとはこうした内実をもつように思われます。

一方、私たちが社会を変えるものでもある、とはいうものの現状においては危機感がないままいつの間にか社会は変わり、自分たちは何もできないという無力感に陥ってしまうとも言います。
では、何が社会を変えられるのか?

この問いが提起されると必ず出てくるキーワードが「教育」です。
戦時体制に現政権が進めようとしているなば、歴史において事実以上に、なぜ歴史が動くのか、その因果関係を丁寧に教えることが必要だという意見が挙げられます
それに対して、関係よりもなぜその選択が正しいのか、という大義名分を考えさせた方がいいという意見も出されます。
自分で考えることの大切さも説かれます。

しかし、これに対しては何でも教育で解決しようとするのは違うのではないかとの意見も出されました。
知性を育てて変わったためしはあるだろうか。
反知性主義的な意見ですが、昨今の学校教育への期待過剰という意見も出されました。
正しい知識を身につければ正しく変わるというのは、どこかの独裁国家の教育となんら変わらないじゃないか。
論理的にはその通りでしょう。
教育の矛盾は、いつでも「自分で考えなさい」という命題自体が、教師という権力からの命令に従うということにあります。
にもかかわらず、自分で考えることと歴史を知ることとのあいだに、どこか社会の自由な変革を期待する考えはいつの時代にもあるのはなぜなのでしょう。
この問い自体を問い直してみたい気がします。

今回は世話人の不手際で絵本自体の内容を深く吟味するということはできませんでしたが、いずれこの本を本deてつがくカフェにて扱ってみたいものです。
今回はこれまで最高齢の79歳の方にご参加いただけました。
私たちの社会には世代間の対話や伝達文化が失われていることを考えれば、この機会を再生していくことも社会を変えることの大切な要素だと思われます。
また次回多様な方々のご参加をお待ち申し上げます。

第21回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2013年12月18日 17時33分22秒 | 開催予定
【テーマ】社会はいつのまにか変わるのか?
            私たちが変えるものなのか?
 ―F.パヴロフ著・V.ギャロ絵 『茶色の朝』を読みながら―

               

開催日時 : 2013年12月23日 (月・祝日)16:00~18:00

場  所 :A・O・Z(アオウゼ) MAXふくしま4階 大活動室4

参加費 ドリンク代100円

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



「社会は市民が自分たちで作っていくもの」だと言われる。
でも、それって本当なの?
選びたい政党や政治家はいないし、政治的無関心は拡がるばかり。
投票に行ったって、どうせ自分の一票なんて塵みたいなもの。
どうせ社会なんて変わらない。
いや、変えられない。
それでも僕らの日常は相変わらず毎日やってくる。
それでいいじゃないか。
社会なんて人間の手から離れた鵺(ぬえ)みたいなものだ。
自分たちでどうこうなんてできやしないものなんだ。
そして、僕たちの手を離れていつのまにか変わってしまうものなんだ。
まるで『茶色の朝』のように。

今度のてつがくカフェは「社会はいつのまにか変わるのか、私たちが変えるものなのか?」をテーマに、絵本『茶色の朝』を材料として対話を行います。
『茶色の朝』は絵本ですので読みやすい内容になっています。
事前にお読みいただければ幸いですが、読まずに参加されても大丈夫です。
多くの皆様にご参加いただければ幸いです。
なお、前々日に開催される第3回エチカ福島のテーマとも重なります。
両方にご参加いただければ、さらに濃密な思考がもたらされること間違いなし!

≪『茶色の朝』のあらすじ≫
「世界中のどこにでもあるような、とある国の物語。
友人と二人でコーヒーを飲みながらおしゃべりをするのを日課にしている男がいた。
ある日、主人公は、その友人が飼い犬を始末したということを聞かされる。
その理由は、ただ毛色が茶色じゃなかったからだった。
その国の政府は、茶色の犬や猫のほうがより健康で都市生活にもなじむという理由で、茶色以外のペットは飼わないことを奨励する声明を発表したばかり。
主人公は、自分が飼っていた白黒の猫をすでに処分した後であったが、友人がその犬を始末したことに少しショックを受けた。
時は流れ、二人は日課をいつも通りつづけていたが、小さな変化が起こっていた。
人々は話し方を微妙に変え、茶色以外のペットを排除する政策に批判的だった新聞は廃刊になった。
それでもたいして変わらない日々の生活がつづいた。
友人はあたらしく茶色の犬を、主人公も茶色の猫を飼いはじめた。
でもその時には、さらに新しい状況が生まれていた。
友人をはじめ、多くの人々の逮捕がはじまった。そして夜明け前-ある「茶色の朝」-主人公の家のドアをノックする音がする・・・。」
(大月書店HP参照http://www.otsukishoten.co.jp/book/b51933.html)

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人

第20回てつがくカフェ@ふくしま報告―知らなくてもよい真実はあるか?―

2013年12月01日 07時30分42秒 | 定例てつがくカフェ記録
  

第20回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日agatoで開催されました。
参加者は20名。
毎回初参加の方々がいらっしゃいますが、なんと今回は愛知県からこのてつがくカフェを目的にお越し下さった方もいらっしゃいました。
他にも、このテーマには必ず参加しなければと、お仕事を早退して駆けつけて下さった方もいらっしゃいます。
ありがたいことです。
皆さんの本気度に身の引き締まる思いがします。

さて、今回は「知らなくてもよい真実はあるか?」がテーマです。
浮気問題から子供の取り違え問題など、普遍的な私的問題からニュースや映画で取り上げられる問題など、切り口は様々にありますが、やはりこのテーマに関する最近の最大の関心事は特定秘密保護法案でしょう。
そのあたりの展開をファシリテーターは予想していましたが、議論は意外にも原発事故をめぐる展開へ。
いや、意外でもありませんね。
福島で生活する以上、やはりこの問題は皆さんの意識下に沈滞していることをあらためて痛感させられました。

まず、カフェの前半は「真実」の定義をめぐって展開されます。
第一声は、伝える側と聴く側との「信頼関係」によって、伝えられるか否かは規定されるという意見から始まりました。
これに関しては具体的に医療現場での「告知」問題が取り上げられます。
相手に病状の真実を伝えるか否かはその人の性格を知っているか、日ごろから安心して意思疎通が図れているかによって、伝えられる真実は決まってくるということです。
これは伝えられるべき真実が、内容によってではなく人間関係によって決まるという視点を与えるものでした。

では、そこにおいて第三者はどのように関与しうるのか。
「告知」に関して当事者以外の第三者が知ることで、余計なトラブルを生み出す問題があるならば、誰でも知る必要がある真実などないのではないか、との意見も出されます。
それゆえ、真実を知るべきか否かについては「信頼関係」というよりも、むしろ「利害関係」ではないかという意見も出されます。
たとえば、芸能人の不倫や浮気ネタなどはたいていの人にとって興味本位以上の話ではありませんが、その夫婦や家族にとっては重大な問題になるでしょう。
すると、この真実をめぐっては「利害関係」の有無によって知る必要のある内容とその対象の範囲が確定されそうです。

また、この論点に関しては「公共性」の観点から「知るべきか否か」が問われるべきではないかとの意見も出されます。
たとえば、差別の問題に関して「総監」などを企業が入手する場合は、その社員(あるいは入社希望者)の出自という真実を知ることを欲望しているわけですが、それが「公共性」の観点から望ましいとは言えない問題があるというわけです。
ここでの「公共性」とは、人権問題の法的正当性を指していると思われます。
誰しも他者に知られたくないことを持ち合わせているものです。
個人情報保護法は、まさに公に晒されるべきではない個人情報を保護するための法律ですが、しかし「公共性」という言葉には「みんなにとっての」という意味も含まれています。
個人情報や私生活が公に知らされる必要かあるか否かを判定するのは非常美難しい問題ですが、「公共性」を帯びる情報という場合、それは人権のもつ法的正当性を内包しておかなければならないでしょう。
その意味でいうと、やはり「公共的には知らなくてよい真実はない」という意見も出されました。

これはいま話題の特定秘密保護法案の問題と接続するでしょう。
なぜ、国家は国民に知らせる必要のある/ない真実を決めるのか。
そこには実は「誰が知る必要があるか否かを決めるのか」といった問題が含まれています。
国家機密を国民に知らせるべき否かを決めるのは、国家(政府)です。
かつて患者に「告知」するか否かを決めたのは医師です。
そして、そこには相手のことを慮ってそれを決めるという「パターナリズム」的な態度が看取されます。
それは科学者などの専門家集団にもみられる態度ではないでしょうか。
まさに、ここには真実を知る相手に自己決定能力の有無によって、知らされるべきか否かは規定されるという考え方が含まれています。
由らしむべし、知らしむべからず。
ここには「人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。転じて、為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民にわからせる必要はない」という論語の思想が重なります。

ところで、そもそも「真実」とはなんでしょうか?
これまで取り上げてきた事例は、実は「事実」なのであって、「真実」とは異なるのではないか。
そのような問いかけとともに、ここであらためて「真実とは何か?」という論点に立ち返る問いが提起されました。
ある発言者によれば、「単なる情報や事実と真実は別ではないか」とのことです。
たとえば、放射能に汚染されたホットスポットがどこにあるとか、線量がどのくらいの数値なのかといったことは「情報」であって、「真実」とはそれ以上の何かだというわけです。
「それ以上の何か」とは何か?
その発言者によれば、それを知ることで自分の人生が大きく変えられてしまうような何かだと言います。
その意味で、「真実」とは単なる情報や事実以上に、「自分自身を変えられてしまうようなもの」だということですし、突き詰めるとそれは「ワタシにとっての真実」が「真実」に値するということになります。

それに関して別の参加者からは、「未来にわたって正しいもの」が真実に値するといいます。
たとえば、低線量被曝が安全か有害かは現時点において不明確であり、その将来において判明するものだとすれば「真実」に値するということになるでしょう。
これは逆に言えば、現時点では「真実はわからない」ということが、現段階での真実だということになります。
しかし、この意見からは、「真実」に値するというならば、現段階での認識や評価を超えて確立されるもの、あるいは耐久性のあるものだということになるでしょう。

また、別の参加者からは、医療現場の「告知」において「情報・事実・真実」の区別は明確化されており、ある病状の「情報・事実」を患者に伝えることと、その状態を評価することは別であることが示されました。
この病状の評価やどのような生き方を選択するかといった価値が、「真実」に相当するということです。
末期癌という事実を知らされ、その病状の情報を知り、絶望するか、それでもなお人生は生きるに値すると余命を生きるか。
その絶対的な答えは誰も持ち合わせていないからです。
医師は、その病状に関する情報は余命などの可能性を示すことはできるけれど、確定的な余命期間を示すことはできません。
ましてや、それが絶望や不幸を意味するか否かは、誰も知りえないものであり、それ以上にそれはその状況を生きる中で生成されるものでしょう。
ここでの「真実」が価値的なものを指す以上、それは誰にも知りえないものなのです。
ちなみに欧米では「余命〇か月」という提示の仕方はしないそうです。
その病状によって、その生の価値が特定されるわけではないからでしょう。
むしろ我々は生まれた瞬間に、誰もがすでに「余命〇か月」であるわけですから。

ここから、「もしかすると、「知らなくてもよい真実がはあるか?」という問いには、そこに「真実は一つしかない」という前提があるのではないか?」という指摘が為されます。
すでにみたように、「真実」が誰にも知りえないものとして措定されるとき、むしろ「真実」は一つに限定されなません。
すると、このテーマに設定されている「知るべきか否か」という区分そのものが、実は誤謬を含んでいるのではないだろうかということにも気づかされます。
というのも、そこには「真理は誰にも知られない」にもかかわらず、「真実を知る」主体(国家や意志、科学者)と知らない人々という区分が前提されているからです。
むしろこの問いそのものが、実は真実を独占する(とされる)立場から発せられた問いであるかもしれないという疑問も明らかになってきました(ちなみに、このテーマ自体は世話人二人が、いつものように酔っ払いながら決めたものにすぎないのですが…)。
しかし、「真実とは誰にもわからないものである」からこそ、むしろそれは万人にとって平等にあるということを意味するでしょう。

したがって、ここでは「情報・事実」は客観的に共有できるものであり、「真実」は主観的で多様であるものだということが確認されました。
では、「真実」とは他者と共有され得ないものなのでしょうか?
この問いは哲学史上、たいへん重要な問題でした。
その点で、たしかに哲学的(形而上学的)な普遍的真理の探究を議論として展開できそうですが、今回のテーマではそういったレベルで展開しない方がよいのではないかとの意見が提起されます。

これについて「真実とは現実とイコールであるとした方が話しやすい」との意見も出されました。
これは「真実とはその人にとっての真実である」という見方とは異なります。
「現実」は誰にとっても確認可能なものであり、その点で他者との共有が可能なレベルの「真実」ということになります。
この前提に立てば、それを知らせるか否かという議論は可能になるでしょう。

これに関して、たとえばニンジンが嫌いな子供に、ニンジンが含まれていることをわからないように調理した料理を食べさせることで、知らず知らずのうちにニンジン嫌いを克服させることはよいことではないか、という例が提示されました。
教育上のある目的を達成するためには、子どもに知らされない事実もありうるとのパターナリズムが確認されます。
いや、それはいかに子どもと言えど、自己選択の機会が与えられていないのは問題であるとの意見も出されます。
自分で嫌いなものであるけれど、必要だと判断したうえでニンジンを食べることを選択するか否かは、やはり教育上重要なことではないか、というわけです。

さらに、この問題は性教育の問題に関してその子どもは好奇心から知りたいことをパターナリスティックに知らせないというケースをどう考えるかという問題とも接続します。
自由主義的に考えればできる限りの情報と選択肢を子供に与えることで、自己選択できる力を育てることが大切になるでしょう。
一方、過激な性描写や映像に誰もが接続しやすいネット社会において、なんでもかんでも子供が知りたいからと言って知らせるべきではない情報もあるではないか、ということにもなります。

そこには本人が「知りたいか」/「知りたくないか」という点も重要になってくるでしょう。
では、これに関して福島の人々が「安全神話」を信じて原発を受け入れたという事実をどう評価すればよいのか。
そんな問いかけが為されました。
原発が100%安全だということはありえないことはみんな知っていたはずだけれども、その日の生活や貧しい地域にとっては必要だと考えれば、やむなくそれを選択したというのが実際ではないか。
いや、そもそも安全ではないということを知りたいと思っていなかったのではないか。
もちろん、3.11以前から原発の危険性に警鐘を鳴らしていた人々は少なからず存在していました。
が、それに耳を貸さなかった大多数の人々にとっては、「もしその真実を知ってしまえば不安が生じる」という点で、「原発は安全ではない」というのは「不都合な真実」だったわけです。
もっとも、皮肉なことに原発事故の発生時にSPEEDIのような情報が知らされない状況に直面すると、人々はいっせいに情報隠ぺいへの不信へ反転したわけですが。

それまで日常が安定しているときには目を向けなかった「不都合な真実」が、危機に際して目を向けざるを得なくなったわけです。
しかし、それでも人々は「真実」を知りたいと思う存在なのでしょうか。
さらにいえば、その真理に耐えられるものなのでしょうか
実は原発事故以後、その話題に触れたくないという声は日増しに大きくなっているようにも思われます。
自分の生活や日常を不安にさせるような情報には目を向けたくないという心理はわからなくはありません。
その意味で、「真実を知るには体力がいる」と発言された参加者がいます。
その発言者によれば、「パートナーの浮気の真実を知ることで傷つく」という点では、やはり真実を知るためにはある種の「体力」が必要だといいます。
「原発が危険だ」というケースも同じでしょう。
真実を知るにはある種の「体力」が必要だ。
その「体力」がないときに「真実」を知れば、その力に押しつぶされてしまうかもしれません。

しかし、だからといって、政府や専門家集団がそれをパターナリスティックに情報公開を制限することは間違いだといいます。
これに関して、原発事故が起きた際に、政府が情報を詳らかにしなかったのは、それによって生じるパニックを避けるためだったとも言われます。
しかし、これに対して「どのようなパニックが生じるかは、実は誰も知りえないことではないか」という指摘が為されました。
それを先取りして政府や専門家集団が真実を独占し判断を下すという態度は、やはり誤謬を含んだ判断だと言わざるを得ない。
なぜなら、くり返すようにそのことを知ることによって、誰がどう判断するかはそれらの立場の人々にはわからないという前提が共有されていないからだというわけです。
その点で、「真実」とは、やはり判断に関わる概念だということとして確認されました。
その上で、情報を保有する側は、できるだけその判断が適当に為されるように、できるだけ多くの情報を開示すべきだというわけです。
なぜ、その判断をなぜ自分たちでする必要があるのか。
ある参加者はこれについて、ケースバイケースであるとはいえ、それは「自分で納得したいから」という一点に尽きるからとのことでした。

たしかに真実を知ることで衝撃を受けたり、パニックになることはありえることでしょう。
その意味で真実と向き合うある種の「体力」が必要であることは否めません。
(パートナーの浮気の事実を受け入れるには、そのショックに耐えられる体力が必要だというわけです。)
しかし、それによって果たしてまずい結果になるのか、それとも好ましい結果になるのかは、誰にも知り得ません。
その結果がどう転ぶか誰も知りえない以上、それはその非知に晒されながらも、自分自身で納得した選択を引き受けたいというのが、真実に相対する人間の在り方のではないか、ということです。

その点で、情報を保有する側も事実を伝えることで、伝えられた側の判断を信じるというあり方しかできないのではないか、とも言います。
これに関して別の意見では、だからといって情報を無責任に投げっぱなしにしろということではありません。
情報を開示する側も可能な限り、その反応に対してベストの選択肢を同時に講じる努力・責任が必要だということです。
これに関しては、医療における「告知」が、医師が無下に患者の自己決定に責任を転嫁することを意味するわけではなく、それに寄り添い協働でその余命をどう生きるかを、共に考え抜く在り方が目指されていることからも理解できるでしょう。
ただし、それでもなお鍛えられるべきは情報の受け手の真実を知る「体力」であり、まさにそれは教育などにおいて不断に為されるべきものだろうとの意見も挙げられました。

実は、人間は知ることを欲する存在であるという命題は疑わしいのではないかという場面は、3.11以前/以後、さまざまな場面で見てきたような気がします。
3.11以前には生活や生命といった自己保存を優先し、「不都合な真実」に目を背けてきたという事実、というか責任があることを、私たちは今や否定できないでしょう。
では、3.11以後になり、その真実に目を向けられるようになったかといえば、現実の政治を見る限り、それはむしろ真逆へ向かっているとしか思えません。
このひどい現実を見て見ぬ振りするどころか、それを原子炉を石棺で糊塗するかのように「なかったことにしよう」としているようにしか見えないのです。
しかし、実はそれは政府レベルだけではなく、市政の人々のレベルでも同様な傾向があることは否めなくなっています。
東京などの哲学カフェに参加された方の話によれば、もはや県外では原発の話題には触れたくもない雰囲気があるとのことです(本当でしょうか?)。
いや、被災地の外部だけではありません。
内部でも、そのことを考え続けるのはとても疲れるし、周囲で話題にされることはほとんどなくなっている現状があります。
地元新聞紙の一面に「もう震災記事は載せないでほしい」という声があるという話を耳にしたこともあります。
「震災3年目の戦いはこの「忘却」との戦いだ」と語るマスコミ関係者の言葉が印象に残っています。
けっきょく、人間は現在の日常を壊すような真実からは、目を背けることの方が常態だと言わざるを得ないのではないでしょうか。

しかし、そのことが国家に危機的状況をもたらすと警鐘を鳴らしたのは、およそ2500年前に古代ギリシアで生きたソクラテスでした。
市民一人ひとりが真実に目を向けようとすることで、国家は自ずと善いものになると信じたソクラテスの思想と実践は、今こそ大切なことのように思われてなりません。
くり返しますが、ここでの真理とは、イデアのような唯一絶対で誰にも有無を言わせないような強制力を有するものではなく、「誰にも知られていない」がゆえに、皆で目を背けずに探求されるべきものとして措定されるような「真実」です。
それが、まさに今回のカフェでの議論で確認された「真実」でした。
個人的には、それは決して主観的な「真実」に止まるものではなく、普遍性を志向するものとして市民に共有される「真実」と考えてみたいのですが、いかがでしょうか?
それは、まさに3.11以後の日本社会のあるべき姿を「評価」・「判断」・「志向」できるものとして、多くの方々とてつがくカフェで考え合いたいのです。