てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年07月01日 22時30分05秒 | 定例てつがくカフェ記録
6月22日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。







会場の発言の一部をご紹介致します。

・それでは今日は「私の子育て」というテーマで、まあ、これもあの1月にノンテーマでやった時に皆様から出していただいたテーマの内の一つになっております。どういうテーマにしようかと考えたんですけど、問いの形にしないで、かつもう「子育て」だから。まあ、皆さんの話を聞ければいいかなという事で、さっき言ったように「どう子どもを育てるべきか?」みたいな、そういう「あるべき論」にはしないで、「私の子育て」という形でお互いの経験とかを共有しようかなというふうに思っております。最初に言わせていただくと、まだ自分の子供がいなかった頃に、もう大分前なんですけども、ジブリ映画で「思ひ出ぽろぽろ」という作品があって。あれが現在の女性と、それから小学生時代の女性を行ったり来たりしながらという小学校時代の彼女の経験が普通に色んなエピソードで語られるんだけども。初めてその映画を見た時に、物凄く「えっ‼」て思って。何ていうかその主人公があまりに可哀想で。親の言動とかお姉ちゃんの言動とか、あまりにも可哀想でそれをブログに書いた事があるんですね。昭和の話だから昔の話なんだけども、今の常識から考えて、あまりにも酷く可哀想だったみたいなふうなことを書いたら、物凄い炎上しましてそのブログ記事が。皆さんから色んなふうに「何言ってるんだ」みたいな。「これでいいんだ」みたいなジブリファンの方々から、物凄くお叱りを受けるみたいな、炎上した事があって。その記憶もあって、この哲学カフェでもう一度その映画「思ひ出ぽろぽろ」を題材に話した事もありました。それも皆さんだったらどう思うかというのも伺いたいなと思っておりますが。とにかく皆様の「子育て」について、ご自分の経験であれ、考え方であれ、なんでも自由に発言していただければというふうに思います。

・私三人子供居るんですけど、育てあげてずっと葛藤してる事があって。「子育て」は愛情と教育の葛藤みたいな。常に迷いながら、その愛情と教育のバランスをその都度その都度考えていたんですけど。これってもう本当に人それぞれ千差万別、色んな家庭だったり、ご両親だったり、まあ、あの母親だったりのその人独自のレシピみたいなものだと思うんですよね。そのブレンドの仕方というのは。常にもう迷って迷って、もう今だに何か「これは!」という確信が持てない、とても難しい事だと思うんですよね。私実はワインが好きでして、ワインのブドウを育てる時に、あんまり良い土地、肥えた土地にブドウを植えても良い物が育たない。実が沢山なりすぎちゃったり、薄い味の水ぶくれしたようなブドウになったり、あんまりおいしいブドウが出来ないんです。それはなんでかというと、根っこがですね栄養をすぐ取れる様な状態にしておくと、表面の栄養しか取らなくて、中に根が伸びないんですよね。それってその土地の特徴とか、固有の養分とかを自分から取りに行かないんですね。あんまり栄養を与えないと、その根っこはずっとずっと地下の奥深くにこう潜って、そこからその土地にしかない養分を自分から吸い取るんですよ。だからボルドーとかだともう表面砂利だらけで痩せた土地ですよね。そういう所に良いブドウが育って、本当のその土地を表現する味わいを持つブドウになるんですね。だからそれを考えると、ブドウは天地人のそのバランスでなせる技なんですけれども。「子育て」というのも、その家に伝わる歴史とか親から教えてもらったものとか、そういう縦の軸もかなり影響する訳ですよね。平面的にその時代、時代の社会も勿論影響するし、環境も影響する。だから、とてもそのバランスというのは難しいなといまだに答えが出ない。ずっと多分答えが出ないし、どんどん変わっていくものじゃないかなと思います。

・今の話を聞いて、最近の話と重なるなと思ったんですけども。やっぱり偉い人が子どもをダメにするのはすぐ手に入るようにしちゃってるんではダメにしちゃうんだって。やっぱりある程度忍耐とかそういうのも覚えさせなきゃなんないと、本当に子どもの為にはすぐ与えちゃう事だって。手に入れるものは全てすぐ与えちゃう事がそれが一番子どもを駄目にするんだって。今のもブドウの話も全部すべて整ってる良い土地には出ないっていうので、それと共通するなと思ってね。今の話を聞いてて感じました。

・今日のテーマは「私の子育て」となってるんですが、私は「子育て」一応は終わってるというふうに思いますけど。思い出して振り返ってみると、私の場合は現役の時は仕事、仕事、仕事。女房は専業主婦という事で任せっきりだったというふうに思います。だからなのか、子供達がなんか母親の方にくっついてて、私とあまり親しく無い感じを思ってて。未だに私に対して反抗期を脱していないというか、反抗的な所があると。という事からすると、今になって反省しきりというのが実態です。それと息子はいわきで家庭を持ってるんですが、子供が生まれて孫ですね。この7月に二歳になるんですが、特に目立つのは「スマホ」ね。子供はまだ二歳なのに、もうそれポコポコ打って凄い訳ですけど。そうすると将来「どうなっちゃうのかなと。スマホ依存症になっちゃうんじゃないかなというような気もして気掛かりな所です。

・私の場合はですね、今にしてというか大分前から思ってたんですけど、大分愚かな母親だったなと自分で思うんですけども。子供は親の作品だと言う考えがあって、それで私は長女が生まれた時に「この子を天才にしよう」と。子供を天才にする本とかを買ってそれを実践したりして。そうするとですね、結構案の定賢い子になっていって、「この子天才かな?」と2~3歳ぐらいまで思ったりして。でも、どの子も2~3歳ぐらいまで天才なんですね。そういう事から私は子どもを自分でコントロール出来るもんだと思ったフシがあって。無意識に子供に色んな事をやらせたり、あとこれがいいんだと思えばそれを与えたり教育的に良い事を与えるという事をずっとしてきたんですけれども、後々考えたんですけども、子供は親にそんな事を求めてはいない。ある人が言ったんですけど「子供は愛で育つ。与えるのは愛だけでいい」と。それは大分子供がもう成人した後に聞いた話でもう時既に遅しなんですね。そうこうしている内に三人子供がいて、上二人が娘で、十歳離れて男の子だったんですけど、その子が小学校四年生から不登校になりまして、もう本当にもうアンコントロール。私のコントロール下にはいなくなってしまって。それから色んな葛藤があったんですけれども、私の「子育て」がもうこのままじゃダメだという事を感じまして、色んな教育機関に行きますと「コントロールはもう止めてください。子供との信頼関係が結べてません」と言われてしまって。こんなに一生懸命教えたのになんて事言うんだと思ったんですけど。結局子供が望んでる事を、私は子供にしていないという事だと思いまして。紆余曲折あって、今はもう成人して自立して働いてますけれども、そこに至るまでは凄い大変な思いをしました。それで先ほどちょっと気になったのが、子供に忍耐させることが重要だという話なんですけれども、それはちょっと私的にはどうかなという部分がありまして。「背負わされた荷物は重い、背負った荷物は軽い」という言葉があるんです。自分から自ら進んでやる事には、どんな忍耐でも耐えられる。だけど、与えられた忍耐は耐えられない。誰でもそうだと思うんですけど、だから不登校になった息子を育てる時に気づいたのは、子どもは自分で決めた事はどんなに辛くてもやり遂げるという事。だから今の子供は駄目だというのは、不登校なんかもダメだと言うのはちょっと違うかなっていう感じがします。

・私は三人の子供を育てたんですが、二年ぐらいで転勤を転々としながら三人を生み育てたので。振り返ると、それぞれの子供にかける時間がどうだったのかなという所が反省にあって。それを真ん中の娘についこの前話しましたら、「一人ひとりにかけるエネルギーや時間が少なくて、子供が三人だったっていう事もあって、申し訳なかった」みたいな事を言いましたら、娘が「それでよかったんじゃないの」と言うんですね。「私一人にお母さんのエネルギーがドッとかかってきたら、それはそれで負担だったかもしれないし、嫌だったかもしれないし、三人兄弟がいてちょうどいいバランスだったかもしれないよ」と言われて。ある意味ホッとしたような、そういう事かという気付きを得られたという事がありました。なので、何が正解かというのは全く子育ては無いと思えますので、それぞれの子育て、それぞれの家庭の状況やらがそれはそれで良いのかなというふうにも思えた瞬間でした。

・私も今子供が男の子三人いまして。私が気をつけている事は、浪人してた時に、一緒に浪人してた友達がいて、ソイツの言葉を覚えているんですけども。先生に「お兄ちゃんは出来が良くて、お前は出来が悪いな」と言うことを結構言われてショックというか、偶々同じ母親から生まれてきただけであって、その兄貴と比較されるのは本当腹立たしいという事で。その人はずっと言ってたので、その事を私も出来るだけ三人男なんですけど、三者三様で全くやっぱ違うんですね。生まれる順番も違うんだなという事を感じていて、そこをやっぱり比較をなるべくしないように、でもやっぱり出来が良かったり、きちっとしてたり、真ん中はバランスが良くて。私も二番目なんですけど、そんな所に行ってるなと感じつつ、なるべく比較しないように意識しています。あと、「子育て」なのか、やっぱり親である前に一人の人間なので、自分の人生を楽しむ。うちの連れはあんまり楽しめてない気がするんですけど、やっぱり自分をきちんとしっかり生きているお父さんは「今日、友達と自転車に行くから」「遊びに行くから今日は遊べないよ」
とか。「今日は予定が無いから行けるよ」という事で。私の意識してるのはちゃんと自分の時間を持つ、いずれ子供も離れていくと思うのできちんと自分の楽しみとか、やりたい事をやらないといけないのかなと思って。まだ奥さんの方もあんまり言わないんでしょうね。「私ばっかり我慢して」と言って、私とは全然タイプが違うので「貴方は何が楽しくて生きてるのかな?」と思う感じもするんですね。子供をそんなに好きでもないような感じで、いつも怒ってばっかりで。それを聞いて、私はもう本当苦痛でしかないと。ここで愚痴を言ってもしょうがないんですが、そんな所で私は比較をしないという事と、自分の人生をきちんと生きる事が、子供もそれを見て、どんな風に育つか分かりませんが、そんなふうな所を意識しています。

・今の話を聞いて奥様が子供を怒ってばかりいるみたいな状況の時もあると言うような事でしたけど。それは私の経験からするとね、仕方がない事もあるなと思います。とにかく「子育て」は大変なんです、大変でした。結婚する前は「子育て」がこんなに大変かというふうにも思わなかったし。している最中はもう毎日一日を終わらす事で精一杯だったので。とにかく自分に時間を取れなくて当たり前だったので。三番目下の子が小学校一年生になって帰りの学校帰りが二時頃になった時に、「あー、私の時間が来た」とやっと思えたんですね。その時に「じゃあ、私何やろうかな」と思った時に、あれやりたいな、これやりたいなって言うのが偶々あったので、そこからの勝手に自分のドアが開いたなんて勝手に思ってるんですけど。それまでは、とにかくもう三人でしたので、自分の事は二の次、三の次、四の次、五の次ぐらいしか出来なかったんですね。近所に頼れる親とか知り合いとか兄弟がいれば別だったと思うんですけれども、先ほども話したように二、三年で転勤しながらの子育てだったので、中々そういう状況になれなかったので。自分の時間が取れる人が、取れるという事も人それぞれ違うんだなという事も思いますし。時期とかタイミングとか時間とかも皆違うでしょうし、それはそれぞれの人生の中の学びの一つなのかなとも思うし。この前、偶々子どもの番組を子育ての番組を見ていたらば、専門家の方がお母さん方、お父さんも含めてですけど「子育ては大変なんだから30%出来てれば上等と思う。それぐらいでいいんですよ」というのを聞いて、もう過去の自分を振り返って、なんか肩の荷が下りたというか、楽になったという事がありました。

・「子育て」はやっぱり親は自分の事はもう二の次、三の次って今聞いてその通りと私もそう思ってたからね。もう自分は二の次、その通りだなと思ってね。あたしも三人子供いますけども、三人とも性格違うからね。この子はこのようにやり方が通用したけど、次の子は通用しないし。頭を回転させていかないと。私は羨ましいなと思ったのは、祖母がいる人はね。結構孫の御守だなんだってしてくれるでしょ。私はあれ見てて何程羨ましかったか分からない。私は全部自分でやったから。だからもうね、目の前の事必死になってやってるから、もう子育ての理想がどうのよりも、がむしゃらがむしゃら。自分は一日一日それでも必死になって。その一生懸命さがね、やっぱり「親の背中を見て子供は育つ」と言うけどね。その通りだなと思ってね。「子育て」でこうやってとか、そんな事も考えても、目の前の事で。祖母がいる人は本当に、たっぷり自分の時間を取りたければ取れるしね。だから、どれ位羨ましかったが分かりません。でも、背中を見て育って、三人ともまともに育ってね。「子育て」は全然何の本を読む訳でもなんでもないけども、その必死さその一生懸命さを見てそうだったのかななんて思いました。

・先ほどこちらの方ですけれども、あの「自分の子育て」についてお話しされた時に、自分の人生も楽しいも、それから子供を一緒にしない。そういう事を仰ったんですけれども、とっても良い考えだなと思いました。しかも男の子三人ですよね。やっぱりお父さんがモデルになるので、お父さんが人生を楽しく過ごしてるのを見ると、自分の将来はこうも明るいものと、大人になってからなんか楽しいんだなと大人になるって楽しいんだなというものを感じる事が出来ると思うんですよね。だから、凄く良い子育てをしていらっしゃると思いました。私もそうやって子供を育てる事をもっと楽しめば良かったなと思うんですけれども、ただお母さんの場合は、どうしても「この子を幸せしなくちゃ」とか「きちんと躾をしなくちゃ」とか、「良い子にしなくちゃ」とか、そういうのに結構縛られてて。何が大変って、その躾けとか、そういうものに気持ちを取られがちだった。私の場合はだったと思うんです。お陰様で皆さんから子供はとても良い評価を得られる事になったんですけれども。そうすると本当にその子は自分の生きたいように生きてるのかなという、そういう心配も無きにしも非ずなんですね。だから、別にいい子に育てる必要はなくて、先ほど仰ったように、自分の生きたいように自分の人生を生きるという。親は見守るという、そういうサポートする立場でいれば、そんなに苦しくもないし、大変でもないような気がするんですよね。よく見ると子供は色んな事に興味もって、色んな事をしたりして、凄く親を楽しませてくれる存在なのに、「あれしちゃ駄目」とか「あれは駄目」とか言ってなんか余計な事で忙しい気持ちになって、子供にも良くなかったかなと思う所です。自分の人生を頼んで楽しんで、しっかり生きている姿を見せるっていうのは素晴らしいなと思いました。もう一つ、奥様がキリキリしてるという所は、やっぱりご主人の思いやりが必要なのかなと思うんですね。何かにつけて感謝の気持ちを表したり、「大変だね」とかちょっとした言葉かけとか、そういうものでも大分穏やかになるんじゃないかなと老婆心ながら思いました。

・今のピリピリで思い出したんですけれど、日本はとても日本の社会全体がとても働きすぎだという風な考えがありまして。確かにそうだなというふうには前から思ってたんですけど。ちょっと前に本の紹介でオランダ辺りだったと思うんですけども、労働時間が日本よりは短いんですね。かつ日本だと正社員の様々な社会保障が付きますけれども、その国では日本で言うパートのような短い時間で働いても、ちゃんとそうしたの保障は同じように付くので。給料体系も同じなのでそれぞれが休暇を取りやすいので、「子育て」も「じゃあ、今日私が休み午後から取るから、お父さん明日午後休暇取ってね」というような事も出来るらしいというような事が紹介されていたので。それであればお互いにキリキリする度合いも減るなというふうに思いました。働く時間にゆとりがあるので、どこかに行こうかとか、キャンプに行こうかという事も計画もできるし、心にゆとりができるというそういう社会であってほしいなというふうに、その本の紹介を読んで思いました。

・日本はいつからなんでしょうかね。明治からか戦後からなのか分かりませんが、とても長く働く、働いて当たり前みたいな。最近は変わってきましたけれども、男性が働いて女性が子育てをみたいな時間が結構長い期間ありましたので、それを引きずっている部分もあるし。日本の社会構造的な事も、日本の「子育て」の難しさ、やりづらさみたいな所や、辛さみたいな所にも繋がっているかなというふうに思います。

・私は前の結婚の時は子供は出来なかったんですけど、でも結婚する時には「もしも、子どもが出来たら家事と子育ては半々にしようね」というふうに言ってたんですね。再婚しても「やっぱり家事と子育て半々で行こうね」というふうに言っていて、まあまあ半分ぐらいやってんじゃないかなと思ってこの間妻に今日に向けて聞いてきたんですけども。「半分やっていると、この場で言ってきても大丈夫でしょうか?」と言ったら、「量的にはね」と言われましたね。「量的には寧ろ八割ぐらいやってると言ってもいいよ。ただ、色々気に食わない事が沢山ある」とかという風に言われましたけども。でも、それが出来るのは僕が偶々恵まれてるというか、仕事が凄く時間が割とフレックスというか自由になるという所があって、時間が決まってないという所があるのが一つあるのと。妻も働いて、だから子供を保育園に預ける事が出来たというのも、今は小学校で学童に預けているというのがあって。そうやって預かってくれて、一日の大半はそっちで見てもらってるというのは凄くありがたい事で。やっぱり、それがあってこその半々なんだろうなというふうには思う所があって。やっぱりでも働いていると、どうしてもこう子供優先に出来ない事もあるので、そうするとこう本当に半々と言っても、結局どっちかがやんなきゃいけない。大抵そういう時は女性にみたいになってしまいがちだけど、それをせずに済んでるのは偶々かなというふうには思っています。

・茶々を入れるような話になってしまうかもしれないけれども、今世話人が「保育園」というキーワードを言ったので思い出したんですけれども。仙台市の鳥が「カッコウ」なんですね。あの「カッコー、カッコー」と鳴く。2000年ぐらいに仙台の鳥がその「カッコウ」のままでいいのかというの話が、議会で真面目に議論されていて。その時の論点が「カッコウ」というのは、自分で子供を育ててない托卵する。そのような子育てのあり方を象徴としていいんだろうかと。それを真面目に議論した時期があるというの議事録を読んで初めて知ったんですけども。なので、「さあ、どうやって子育てをするのがいいのか」と言うのは多分、市議会議員やってる方というのは、相対的に年齢が高い男性の方が多くて、やっぱりそういう男性目線の意見が強かったりしているのを見てると、まぁそういうような議論が未だに残ってるんだなあとふと思いました。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月19日 12時41分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
5月18日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは7名の計24名の方にご参加いただきました。






・今日は「宇宙開発」というテーマです。1月にテーマ決めずに、皆さんからテーマ出していただいて、そのテーマの中から決めて話すなんてことやってるんですけども、その1月に出たテーマを参考に一年間の計画を立てていまして。何年も前からずっと「宇宙開発」「宇宙」について話し合いたいと仰っていて。本当申し訳ないですけど、私が何の興味も無くてですね、ずっと先送りしていたんですけども。その都度毎回毎回言われるのでもう早くやっちゃおうということで今日この「宇宙開発」というテーマにさせて頂きましたが。今日はテーマを出した方と僕しかいないんじゃないかと思って心配していたんですけども。結構ここ最近で一番人数いるんじゃないかなと思って、実は待望されていたテーマだったのかなと。皆とこのことを考えたかったんだなと思ってですね、本当に反省しております。本当申し訳ありません。今日は「宇宙開発」というテーマで考えていきたいというふうに思っておりますので、後はもう皆様に任せますので、発言のある方は挙手をお願いいたします。では始めていきましょう。

・「宇宙開発」という言葉を聞くと「開発」というのが、明るい未来があるような気がするんですね。で、それはきっとそういうものも沢山含まれてるいるだろうと思うんですが、アポロ11というのが月に到着して2人の人を宇宙飛行士を降ろして戻ってきて。で、その後に「月の石」を持って帰って、それが万博で非常に賞賛を受けたみたいなとこありますよね。近い所だと「はやぶさ」という日本の衛生ロケットがどっかの石の欠片を持って帰った。ほんで、最初のアポロが降りた頃は僕も「すげえな」と思ったんです。まあ、その程度という感じだけど、ここ最近「開発」というものの、疑問と言うか。ある意味では、どっかの石を盗んできて、その石には何が入ってるのか、それが役に立つものがあるんじゃないかとか、それをいかに持って帰るかみたいな研究をしているとこもあると思うんですけど。それが僕が割と最近気になる事でして。短く言ったら、「地球をここまで潰しといて、宇宙までそれを持って行くのか?」という気がするんですよね。ところが「宇宙」というと、皆「はやぶさ」みたいにもう新聞には大きな記事が出る。僕の知ってるほとんどの人は褒めてたけど。だから、そういう具合に騙してるのかどうか分かんないけど、そういう見方も出てくるんじゃないかと。「宇宙は広いから何してもよろしい」なんて言う人も居るみたいね。で、それは別にそれでいいんじゃないかと思うんですが、ただ僕は地球をここまでのものにして宇宙まで潰すのかというのに気掛かりなんです。

・言葉の確認なんですけれども、今の話を聞いてる限りだと、「宇宙開発」を「宇宙という場所を開発する」というような意味で使っていて、「宇宙に行くための技術を開発する」という話ではないっていう理解で良いですかね。

・勿論宇宙まで行く、乗り物をこしらえるということで含んでいると思ってます。

・あの「宇宙開発」というのが、「どこまで現実的なの話なんだろうか?」というのを考えた時に、要するに「宇宙を開発していく」というような話だと、まだ具体的にはほぼ何もできないのかなというふうに考えていて。かつだからその宇宙が誰のものであるのか自体もよく分からない。それこそ「宇宙人は本当にいるのか」論争みたいなもので。結局、誰から搾取することになるのか、よく分かんないなと思っていて、それに対して「宇宙に行くための技術の開発」という意味であるのならば、すごく世の中住進んでいるのかなと。で、多分それだけの話をしても、なんかすごく時間かかりそうだし、勿論、その前者の話だけしてもすごい時間かかりそうで、どこに焦点がおきたいのかなと。勿論皆の意向で決まってくると思うんですけれども、どういう所に力点を置いて考えればいいんだろうと、ちょっとあやふやだったので質問してみました。

・「宇宙」という言葉ですが、マスコミなんかでは「宇宙開発」という言葉使われるし、宇宙船に滞在している人を宇宙飛行士と言っている訳です。で、その「宇宙」という言葉の問題はともかくとして、私は最近の新聞報道なんかによると、ついこの間中国が月に探査衛星を発射したと。狙いはなんか月の「極北」と言うのかな、月は一面しか見られないんだそうですけど、その裏側。非常に寒冷な所に水があるのではないかと言うようなことを言われてるし、それの確認とかというようなことを言ってるわけですよね。でまあ、月についても今探査衛星なんかやってるのは、アメリカとロシアと中国ぐらいだろうと思うんですが。ただ、気になるのは例えば、どこかに着陸させて、そこをその国の領土にしようというような魂胆もあるのではないかというふうに思います。要するに地球でのアメリカ、中国、ロシアの覇権争いが月にまで持ち込まれつつあるのかなという、そういう心配を私がちょっとしてるし。それと人類は未知のこと絶対に追求して行くという事はもう抜けられないと言うふうに思うんです。「宇宙開発」という言葉を使って言えば、「月への衛星探査の発射」なんて言うのも、要するに宇宙へもっと先に広がっていく手始めみたいな。次の段階は火星ですよね。火星に行ってどういう居住ができるかという真剣に、技術者、政治もそうですけど考えている訳で。月の場合は何十日間で到達するらしいですけど、火星だと五年ぐらいかかかると。そうするとどういう風にしてそこまで到達するか。まあ、衛星だけだと火星にも行っている訳で。ただ、人間を載せた宇宙船を到達させるためにはまだまだ時間がかかるのかなと言う風に思います。それと、もう一つ気になってるのは、今の月への探査衛星の発射なんか、私は地球の14 5世紀の頃、大航海時代があって新大陸を発見した。あの時はスペインやポルトガルが新大陸で領土争いをした訳ですけど。それが今レベルが違うけど、味わっているのかなというような気がしております。

・今の意見で「覇権争い」というのは本当にそう思います。「宇宙開発」と言う以上「開発」と言うと難解なんだけども、結局人間が「住める」か「住めないか」を見てるような気がするね。「開発」なんて言ってて、最終的に人間がそこに行くというのが目的のような、ゆくゆくはそれが目的で覇権争いで早い者勝ち、そんな感じ。それが本音のような気がします。

・「宇宙開発」はなんて言うのかな、イーロンマスクみたいな金儲けが好きな企業家みたいな人がなんかどうも宇宙が好きなんですよね。僕の友達の起業家みたいな人も宇宙だとか言ってて、なんでそうなんだろうというのは不思議なんですけど、まぁそれは置いといてですね。さっきも仰っていてたように、地球上の問題をそのまんま宇宙に持っていく。例えば覇権争いみたいなことであるとか。まぁ「宇宙に核兵器を置きます」とかね、あるいは「月の土地は俺のもんだ」みたいな。そういう風に地球上の問題を宇宙に拡大していくという方向はですね、本当にダメで全く意味がないと思うんですけれども。そうじゃないやり方もきっとあるんじゃないのかなというか、そうじゃない方向に希望が持てるんじゃないのかなという気がします。政治的・経済的に例えば、エネルギーだって太陽光のエネルギーが地球にいっぱいありますけども、なんかどっかで読んだんですけども、上手い事そういうのを利用すればかなり地球のエネルギー問題が解決するんじゃないかと。素人で分からないですけども、そんな話もありますし。なんで、まぁ否定することなんじゃないかと思います。で、それよりも僕は思ったのは、さっきの世話人が「宇宙開発に全然興味ない」と仰っていて、文系の人で特に人文系の人間は、「宇宙開発」と言っても全然ピンとこない人が意外と多いのだろうなと思うんですけど。僕が思ったのは、例えば今人間は地球に住んでるから重力がある訳ですね。それの中で生活せざるを得ないし、空気があるから音が聞こえるわけですよね。それで、そういう意味で僕らの「人」の認識っていうのが、地球上の環境に支えられてる訳ですよね。それで、この中でしか我々の今の認識の形というのはありえない訳ですよね。なんで、例えばそういう意味で宇宙に出るという事は、我々の認識がどういうふうに認識するのかという事が、多分色々変わってこざるを得ない。まぁ、環境が地球上に近い様にされた宇宙ステーションの中とかでさえもですね、そこは明るくて空気があるけれども、重力がほぼないとかですね。あるいは放射線ががんがん来てるとかですね。色んな事がありますので、我々のモノの見方が変わるし、そうすると生き方も変わらざるを得ないということが絶対あると思います。なので、ちょっとそういう意味で「哲学」という事を考えた時に、何かそこで変えなくちゃいけないとか、何とかじゃなくて、もし宇宙に人が出てくるようになるとすると、変わらざるを得ない所が出てくるんではないのかなという気がしました。

・話聞いたら私も本当に同じの感じで。「宇宙開発」というテーマを挙げたのは、ちょっとびっくりしてて、「宇宙は開発できるんですか?」と。宇宙開発は人間には出来ないのではないかと思います。地球でも出来ていないのに、なんで「宇宙開発」が出来ると思っているのかと逆に聞いたんですね。「宇宙」とは結局じゃあ何なのかと皆よく知ってますかと、「宇宙って何?」と。例えば重力のない空気もないというそういう所で人間はどうやって暮らして行くんですかと。同時に開発となると、それが私には理解できません。もし、そのような開発力があったなら地球に回した方がいいと思います。結局「宇宙開発」というのは私は出来ないと思います。

・僕もですね「興味がない」と言いながら、とは言え、今僕がここでGPSを使えばここにいるという事が分かるというのは、人工衛星があって、宇宙が既に開発されているからな訳ですよね。だから、まぁ「開発」と言うのは全ての意味を含んでいると思っていて、やっぱり「行く」技術がなければ「開発」は出来ないから、「行く」技術と「開発する」というのはセットだと思っていて。だから、先ほど「新大陸の発見」の話がありましたけれども、海を越えてどこでも行けるという技術が出来たからこそ、新しい領土を取るという植民地化するみたいな話も出てきた訳で、それが今度宇宙に行くという事はもう可能になった所で、そこから「じゃあ、どうするんだろう」「どうしよう」という話は当然問題として出てくるんだろうなとは思っている所です。

・基本的に人間は幸せになる為に生まれてきて生きてるんだと思うんですね。だけれども、宇宙を開発する事とか、宇宙に移住するとか、そういうこと人間にとって幸せなことなのかなというふうに思うんですね。もう既に宇宙には宇宙のゴミとかがすごい本当に小さなゴミが一杯地球の周りを回ってるって聞いた事があるんですけれども。それがいつ何時、どういう事が起こるか分からない状況というのも聞いたことあるんですね。私は「宇宙開発」とそれから科学とか医学もそうですけど、学者のエゴがあると思うんですよ。さっきどなたか仰っていたように、知らない事を知りたい。出来かった事を出来るようにしたい。だから。宇宙に行きたいとかというのをやれそうだからやりたいと、歯止めがきかないというのは私は怖いと思うんですね。今、地球の温暖化とか色んな問題がある。それを誰も止められないし、なんのいい対策も出してないじゃないかと。先ほどの方もお仰っていましたけど、人間にとっては地球が一番居心地がいい場所だし、そういう生き物はな訳ですよね。私達はそれなのに、地球を捨てて移住をしようとか、とんでもないことだと私は思うんです。それよりも、私たちのこの地球をもっと住み心地の良い安心できる場所にどうしたらできるのか。エネルギーもそうですけれども、原子力に頼らないでもっと自然のエネルギーを活用するとか、もっともっと考えるべき事が沢山あるのにもう地球を捨てて火星に移住とかとんでもないと私は思いました。

・そちらの方も仰っていましたけど、「宇宙開発」はとてつもなく、行くにしても乗り物を開発するにしても、もの凄い時間がかかるっていうふうに仰っていたんですけど、私もずっとそう思ってたんですね。もうとんでもない技術を開発しなきゃなんないし、もの凄い時間がかかるもんだというふうに思ってましたけど、最近のAIは爆速で発展してますよね。それがちょっと、こんなにあっという間に開発されてしまうものなのかというふうに思った時に、これは宇宙を開発するスピードというのがもうどんどんどんどん早くなってくんじゃないかなという。もう地球に住んでいる私達が宇宙に行って、そこのリソースを掘り尽くしてしまうような、そういう時代というのは、もう何年も後の事ではないのかなというふうに私は思ってたんですけど。それがどんどんどんどんそのAIの発達によって、なんかもうあれよあれよという間に開発されちゃったらどうしようというふうに思うように最近なってきて。彼女が仰るようにそういう守るべき地球も守らずに開発を急ぐというのに凄い多分女の人は特にそうなんだと思いますけど凄く危機感、むしろロマンよりも危機感を感じるこの頃です。

・今日は「宇宙開発」がテーマになってるんですけども、「宇宙」と「開発」というのちょっと分ける必要があるんじゃないかなと僕は思います。なぜかというとですね、「宇宙」と言っても非常に広い空間。「開発」というのは何らかの人為的な作為をするというのが「開発」であって、「宇宙」というのはもしかすると無限かもしれない。あるいは「宇宙」と地球というのはどういう関係で存在するのかという、そういう非常に難しい空間のような気がするんですね。実はちょうど1週間ぐらい前に、私の大切な友人が若くして亡くなってですね。で、その亡くなった事によって、「人間の生存とは一体なんだろうか?」というふうに考えた時に、宇宙における人間の存在みたいなのもちょっと感じたもんですから。今日参加させてもらいました。「宇宙」という無限あるいは存在という空間で捉えるのか、あるいは手が届く宇宙空間という月とかですね、そういうふうな手が届き得る開発エリアと捉えるかによってだいぶ違うんじゃないかなという気がします。私は今の「開発」という言葉の前に、例えば宇宙探索とかですね、探検とかが昔僕等の子供時代にあって。宇宙探検があってこそ今、人工衛星もある。あるいはGPSもあると言う事態に至ってるんで、どういう空間なのかという事を考えることが必要なんじゃないかなと思います。

・「宇宙の問題」と私もこうやって提起されるまで、本当に勉強不足でして。ただ、提起されてみて、やっぱりちょっとかじると、これはもの凄い問題なんですよね。私達人類が生きれるかどうかというような軍事的な問題も絡んできてるいう事が言えるので、もの凄く大切なテーマだなというふうに思いました。それで宇宙法というのが、国際法としてありまして。それは誰の物でもないというね。月なんかも誰の物でもないという事が決まってるんですね。ところがですね、アメリカとかが法律の一部を変えて月で採れた物というのは、その企業がそれを取ったとすればそれは売買も出来る。それで商売が出来るという法律を勝手に作ってるんですね。それで日本も、「宇宙資源法」というものを作って同じような事をやってるわけなんですね。そうすると、「宇宙法」にこれは違反しているのではないかという事がやはり問われる訳なんですね。

・今の話聞かせてもらって、「宇宙開発」が凄いギャンブルみたいなものだなと思って。宇宙に出れば、宇宙という環境が人の環境として広がってくるから、それで人の認識というのも変わってくるというようなところの話が出てきたんですけど、果たして本当に宇宙に出て認識が変わるのか。認識が変わるとして、今まで出てきた問題の領土化とか、あとエネルギー問題や所有権の問題とか、環境の問題とかが、果たして解決に向かうようなものになるのかなと。そこで思うのが今凄い地球の方に目を向けた話が一杯出てきたんです。結局、私達の地球というのも、全然全く今だに解明できて無くて。地下の話もそうだし、海中の話であったりとか大気圏の話とか。更に言うと、凄い私達自身の体や細胞とか、細胞を形作る原子の話とかというのも未知な部分というのは多いにもかかわらず、そうした未知が私達の前に現われた時に、そんなに何か大きくどこ認識が変わったのかと。確かに歴史的に見ると人の考えで変わってるかもしれないけど、結局、領土問題、エネルギー問題とかって昔だと食糧問題になってきますけど、そういうのがずっと(問題として)停滞し続いているようにも見える。果たしてそれを覆すだけの環境というのが宇宙の広さにあるのかなというのは、私は懐疑的ではあります。なので、私が考える宇宙というのは、宇宙が私たちの認識や問題を解決できる程に至るような空間的な広さとか、後は未知というのを持っているのかなというのが、今話を聞いて思いました。


・大分前に戻るんだけども、さっき世話人が「人工衛星が宇宙開発だ」みたいなことを言っていたけれども、本当なんだろうかというのは疑問に思っていて。宇宙を利用してるけれども、要するに例えば船を使って船がその辺を浮いていて、何か我々が使ってる時にこれは「海洋開発」は言わないですよね。海を使ってる、で同じように考えると宇宙と分かってはいるけれども、宇宙自体は開発されていなくて。例えば、月から何か何か持ってきたと。それは開発の方に入るのか入りかけている可能性はあるなと思うんだけれども、本当に開発と言えるようなものなのかと。単に海とかだったら利用としか言わないもの。それとの間のその辺の差とのは考えた方がいいのではないかなという気がしました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年05月05日 13時31分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは5名の計23名の方にご参加いただきました。






・それでは本日のてつがくカフェに入って行きたいと思います。本日は「常識ってなに?」という事で、これは1月にテーマを決めずに話し合いした時に話し合いたいテーマという事で、皆さんから出していただいた中の一つが、「常識について問う」というか「常識について考えたい」という事で。「常識」は良い意味でも使うし、上司とかに「常識に縛られるな」というふうな使い方をされたり、「常識に縛られちゃいけない」みたいなそういうふうにも使います。色んな意味で使うんですけども、ブログの方では「交通ルールを守らない=常識の無い行動」をする人がいるなみたいな例を出していたかと思いますけれども、それらも含めて「常識って何なんだろうか?」あるいは「常識は身に付けるべきなのかどうか?」とか「常識って良いものなのか?それとも常識じゃダメなのか?」とか。そういったような事も含めてですね「常識」について今日は考えていただければと思っております。

・取り敢えず皮切りにありきたりな話ですけど、ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)の「論理的な判断能力」に基づいて行われる理論形成とか、言語とかコミュニケーションのやり取りにおける前提を判断して行く能力みたいなものが、まず具体的な表現として挙がるのかなと思って挙げさせていただきます。

・「論理的前提の判断能力」と言うことですね。

・まぁ「常識」と言っても、「誰にとっての常識か?」というのが一番大本にあると思うので個人の「常識」、その人一人の「常識」というのはその人に限定されると。「社会の常識」というのは、個人個人が集まった社会のそれぞれの人が全て納得するようなものが「常識」であるというように思うんですが。結局、「社会規範」というものが「常識」ではないかなと。社会規範が文(文字)として現れたのが法律では無いのかなという感じで思いますがいかがでしょうか?

・今の発言についての質問ですが、「個人一人ひとりの方は常識ではない」というふうな捉え方でよろしいでしょうか?

・私の考えとしては個人の考えというのは「常識」ではなくて、あくまでも個人個人の考え方、それは「常識」と呼ぶものではないのかと。その人の「常識」と言えるかもしれませんけれども、社会的な「常識」とはかけ離れていると私は思います。

・「常識」という言葉なんですが、これいつ頃からできたのかなと思ったんです。勝手に考えたんですけど、多分明治維新頃、色んな言葉(外国語)を漢字化(日本語化)したんですが、これもその一つかなという感じがします。つまり、「コモンセンス(common sense)」という事から来てるのかなと。「コモン」ということは「共通」という意味で、「センス」は感覚。共通感覚あるいは共通認識と訳された。どこで「共通」かと言うと、コミュニティという共通な一体化された団体というか。ある地域なりコミュニティに行って、共通に認識されるあるいは感覚されるものということが「常識」というものの理解で良いのかなと私は考えたんです。

・いくつかあるんですけど、一番最初の方の仰ってた「論理的前提の判断能力」でしたっけ?えっと、ちょっとこれが良く分からないんですけど。僕が理解するに「論理的前提」というのは、例えば三段論法みたいなものがあったとしたら、それは正しいですよとか。あるいは色々ありますけど、「理学的な功利」みたいなものとか。要は「論理語」で「且つ」や「または」とか、そういうものを使った時にこうなりますよという論理計算をした時の筋道みたいなものだと理解しているんですけれども、そういう意味でしょうかというのが一つ。それから二番目の方と仰っていた「個人の常識は常識では無い」というのは、その通りであって、個人の思ってることを「常識」というのは、それは「常識」と呼べないものだと端的に思います。それは三番目の方も仰っていたんですけれども、「個人の常識」というのは言葉の誤りで「常識」というのは常に「共有されている」という事が前提の話だと理解しています。もう一つ、三番目の方の仰っていた「コモンセンス」の「センス」というのがどういう意味でという所で、一つはやっぱり「感覚」というのがありまして。「コモンセンス」に関して言うと、要するに我々が一般的に言う「常識」、例えば社会的な規範のような意味での「常識」だったりという事ではなくて、ものの感じ方、空を見たら大体皆青く見えますよとか、そういう感覚が人々に共通しているというような意味での「コモンセンス」だと思うんですね。そうすると、それは我々が今、日本語で「常識」と言って問おうとしているものとはちょっと違うのかなという気がします。以上です。まず、「論理的な云々」というところ、もうちょっと詳しく知りたいなと思うのですが、いかがでしょうか?

・僕の件で恐縮ですが、お答えいたします。というのは、今仰ったように論理手段としての論理、三段論法であるとか「且つ」「ならば」とか集合的な関係を整理するにあたって、「ある目的に対しての手段が使えるか?」「ある目的を使ってその論理を使った時、どういう結果が導き出せるか?」というような所を判断していく能力なんじゃないかなと。その目的と結果の因果関係を整理することによって、前の方が仰った「コミュニティの共通認識」というものが出来上がってくる。その「コミュニティの共通認識」を作るにあたって、論理という手段を使っていく。その目的をどう選んでいくかという能力が「常識」になるんじゃないかという考え方です。

・すごく難しくなってて、皆さんぽかんとしてるんじゃないかな?

・ちょっとよく分からないですが、取り敢えずまた機会があれば伺います。

・僕は、「常識」とか「当たり前」という言葉をあまり好きじゃないんですよ。というのは、教師とか上司といった上の立場の人が「お前、これ常識だろ?」とか「それが当たり前なんだよ」みたいな感じで結構𠮟られてきたというか、怒鳴られたという経験があるんです。なので、あんまり好きな言葉じゃ無い訳ですが。自分は言われた際に「これ、当たり前なんですか?」とか「それが常識なんですか?」というふうに聞くと「いや、そうに決まってんだろ!」みたいな感じで答えられて、結局何の説明も無く、具体的な説明も無いままで。「常識だ!」と言ってくる側の語彙力が無いのか、上手く説明できないのか理由は分かりませんが、とにかく「常識」だと言ってくる側から納得いくような説明を受けた経験が無くて。「つまり、こういうことですか?」とか聞くと、「それは、自分で考えろ」というふうに突き放されるという経験が結構ありまして。「常識だろ!」というふうに言ってしまえば、そこで説明終了の免罪符というか、水戸黄門の印籠という感じで、「常識だろ!」と言われた側は黙っちゃう。でも、それって言われた側の自分には共有されていない認識ですから、その部下(先生)と上司(生徒)の間で共有されていないんだから、最早それは「常識」という事にはならないんじゃないかな?ということを先ほどまでの話を聞いていて考えました。改めて「常識って何だろうな?」「どういう事なんだろう」というのが僕の意見です。

・私は「常識」は場所とかコミュニティによって変わるものだと思いました。

・「常識」はですね「破るもの」もしくは「破られるもの」。最初にその常識に触れるのは、決まってる物を受け入れる所から「常識」が「常識」として成り立つんですよね。元々自分がそこに参加した時には、もう常識が決まってて自分が参加して何かを「常識」を決める訳ではなくて、自分が順応するしかない。だから、その先ほど言われたように疑問を持つ訳ですよ。かつて疑問を持って常識を打ち壊して生きてきましたけれども、流石に今の社会に自分が常識に捉われているようになって、誠に残念だなというふうに思っています。

・「常識」が個人の中にあるかどうかという問題なんだけれども、僕は基本的に「常識」というのは個人の中でしかないと思っていて。個人がある社会に参加した時に、その社会を皆がこのように考えているであろうと考えているものという形でしか存在し得なくて、その皆が「これが常識だ」というふうに、皆で共通に決めたものは多分有り得なくて、そもそも無いのではないかとしか思えないところがあり。だから「これ、常識でしょ」というような「常識論争」が起きてしまうのは、誰一人としてその「常識を作る」というところに、積極的に参加して「これが常識だ」ということを作り上げる場に参加したことが無く、ただ皆で「多分こんな感じだよね」「相手もきっとそう思ってるよね」みたいな中で何となく出来上がってしまったものに過ぎないから。恐らくそのような問題があるんだろうと思って。一方で、その「常識」とするものはやはり必要なんだろうなと思うのは、例えば学術的な場で何か議論する時に、皆で共通に「この言葉は常識と認めた上じゃないと話できないよね」ということを無視して、誰かが話し始めたら完全におかしなことが起きてしまうというのは実際起こる話で。その時に、このコミュニティで何かやるのであれば「まぁ最低限これぐらいは共通認識として持ってるとか良さそうだ」というのも、これも別に皆で作った訳ではないような気がするけれども、少なくとも例えば自分が学会に行く時に「これが常識です」なんて決める会議なんて見たことないし。そのようなものであるけれども、でもなんとなく皆がそういうのがあるということを前提にして議論するから、だから議論がまとまる。まぁ、その程度のものなのかなと思ってます。

・「集団」という問題が出てきますと、これまた別なテーマになってしまうので、今のご意見も検証したいんですけれども、私個人としましては、簡単に言えば「常識」というのは皆が知っている事でいいんじゃないかなと。皆さん、この間ちびまる子の声優の「TARAKO(タラコ)」さんが亡くなったのを皆さんご存知ですか?「タラコ」とか「イクラ」とか言ったら、食べる物と通常は思いましたよね、まぁ「常識」として。私、音楽ユニットの「YOASOBI (ヨアソビ)」が好きなんですけれども、そのボーカルが「ikura(イクラ)」だと知ってましたか?音楽好きな方にとっては「常識」ですよね?私ついこの間まで知らなかったんです。あの「YOASOBI(ヨアソビ)」は好きなんですけども、ボーカルが「ikura(イクラ)」だっていうことを知らなかったんです。結局、それは「常識を知らなかった」ということにもなるのかな?だから、「常識」というのは、それぞれの分野とか文化で変わる可能性があるので、皆が知っているか知らないかということもあると言うことを思い出しました。

・私は「常識」については三つに分けて考えてるんですね。まず一つ、例えばこの社会で生活して行くの上で「環境」についての「常識」。二つ目は、この社会で働いていく上での「社会としてのルール」。色んな会社に行くとそこには色んなルールがあって、そのルールに対しての「常識」ではないかなと思っています。三つ目は、人と人の「コミュニケーションを取る」上での「常識」になるかなと思います。「常識」について皆が知っている、ただ知っているということだけでなくて、やはりそこには評価や価値観というものが含まれているのではないかなというふうに思います。だから、「常識」は元々変わりうるもので、時代や社会や人の中で。それらのことを要素として成り立っているから、それらは当然変わる訳で。当然そこで出来上がった「常識」というものが変わっていくであろうということになるんだというのが私の考えです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年03月17日 14時38分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。





・今回のテーマは「てつがく」は平仮名にさせていただいて、ダブルミーニングというかいわゆる「哲学」ですね。哲学という学問に対して何を求めるのかっていうことと、この哲学カフェは福島をここでやってるわけですけども、その「てつがくカフェ」とか「てつがくカフェ@ふくしま」とかに何を求めるのかと。そういうようなことでダブルミーニングで「哲学」に何を求めるのかと言うことで、本日のテーマとさせていただきたいと言うふうに思います。

・あの哲学というものがなぜ必要になるのかということは、人間がまずいろいろ疑問を持つからではない。というのが始まりだと思いますが。「なぜ私がここに居るのか?」「なぜ世界があるのか?」ていう風な意味で疑問を持ち始めたことが哲学の始まりかなと思います。日々何も考えずにその日、その日流されて生きている方には哲学は必要はないのかなと。だから、自分自身が疑問を持つことが一番初めではないかなと思います。

・まず哲学の始まりという話いただきました。

・続けてそうですね、若い頃にいろいろ本読んだり、形而上学とか読みましたがもう五十年前のことでもう忘れました。その後も色々論理学とかチラチラとこう齧っては来たんですけれども。一番疑問に思ったのは「なぜあのこの世の中に悲しいことが多々あるのか?」ということ思って。まあ、若い頃ですから20代ぐらい?それを個人の力ではどうすることもできない。どうすることもできないけど、見てるしかないんだけれども、まあ悩んでどうにかしたいんだけど。多分ですね今回の石川県の被災でも、それなりの個人個人ができることはあると思うんですけれども。でも全世界の人々を救うことはできない。ということは、疑問に思って日々悩んか悩んだこともあります。ということをお伝えしたいと。

・今日は「哲学になにを求めているのか?」っていうことなんですが。要するに「哲学って何だ?」ということだと思うんです。で、色んな学問「哲学」も学問の一つかなということなんですけど、経済学にしろ法律学にしろ(学問の)対象があるんだと思うんですね。で、哲学の対象と何かというと「哲学だよ」って言われると、もうそうかなって気がしないでもないんですけど。まぁ、私はざっくばらんに言って哲学の対象っていうのは考え方っていうか、真相。神の問題も含めて「神ってなんだ?」というか。ちょっと前に神の問題を(てつがくカフェで)話し合いしたんだけど、世話人から「神が存在するのか?しないか?」非常に大きな問題、そういうの考える分野として「唯心論」ってのがあるって言われたんですけど。でそういう意味での神なんかも哲学の対象かなと風に思っているんです。だから大雑把に言葉の使い方として、東洋哲学とか西洋哲学とか、場合によってはギリシャ哲学色んな言われ方をするんですよね。法律学は法律を対象としてる。でも、法哲学っていうのもありますよね。学生時代に習ったような気もしないでも。あるいは経済学にしたって、ものすごく細かく行くと色んな風に分かれてるわけですけど。で、哲学についてはニーチェの哲学とか、マルクスだとか、あるいはスピノザだとかデカルトだとか、カントだとかヘーゲルだとか。まあ、そういうのを取り上げて、ヘーゲル哲学、カント哲学とか個人個人の考え方も含めて、哲学っていう風に呼んだりしてるわけだけど。まあ。大雑把に言って、考え方や思想を対象にしてるのかなというふうに思っているんです。哲学の役割とか哲学の狙いっていうのは、これも非常に曖昧な言葉ですけど「本当の事を追求する」。「本当の事ってなんだ?」っていうことになるとまた問題なんですけど、真実だとか事実とかいろんな形で言い換えられると思うんですけど。要するに「本当の事って何?」っていうことそれを主に追求するのかなというふうに思っております。

・ええ今日の「何を求めるのか」というのが議題になってますけども、結局「何を求める」っていうことは、あのうまぁ哲学の場合は「真理」が一応の究極の目標だと言われてはおります。それであの先ほど。ああ、前回ですか?前々回かその前か「神」についての対話もありましたけれども結局ね、哲学は心理を求めて神の神学、宗教神学は神の存在を求める。結局、それは自分が救われるということにつながる。というか、それを求めているのかなと。結局、哲学は心理を求めて、その心理によって自分自身が、まあ世界も合わせてかもしれませんが、救われるということ。宗教はまぁ、自分自身もまた世界も神によって救われるのではないかということを求めているのではないかと思います。

・私、あの哲学が何を求めるかっていうのはちょっと私お話ししないんだけども。あのー、デジタルクーポンってありますよね。スマホ持ってる人はデジタルクーポンを手続きして5000円で、で1500円とかね。あれさ、スマホ持ってる人は5000円で1500円、1万円で2,500円。それ全部さ、補助はさ税金でやってんだよ。いや、それは別に構わない。こっから私の言いたいことはスマホとかさ無い人ね。わざとそういうのない人ね。全くのゼロだよ。これはひどいじゃないですか?本当にひどい。補助はなんでも税金からやるよ。けどさ、スマホのない人はゼロだよ。ひどいよこれは。そして私もちょっとその話しをしたらば、みんなそれさ不満持ってさ。電話ジャンジャンいったみたいね。そして、初めて2回目にデジタルのあれ紙になったのね。前は紙クーポンだったんだよ。最初この人は二期目だからね今度。最初は紙クーポンだったんだから平等に。そして二期目選挙に受かった途端には、全くのもうこれはひどいよ。すべて税金でしょ?機械の無い人がゼロだって?ちょっとそれでジャンジャン苦情がいっぱいいったみたいね。それで2回目そうなったみたいね。紙クーポンでっていうこと。あれさ、なんにも言わないで黙ってね、お上の言ってることだから何でもハイハイって聞いてみな。そのまま行っちゃうから。あんまりキャンキャン皆が騒いだもんだからそうなったんだ。だからね、我々はね。まともな人選ばないとダメ、本当に。誰とは言わないけれども。野球だって監督が変わればチームも変わっかんね。トップが変われば変わるんだから、なんつったって。そう、私はね、モヤモヤをね。もう本当に私の言ってた事に対してね、あなた達はでどう思うか、そういうのも聞きたいですよ。本当になんでもかんでもうんうん。あのこの人はさあまあ、色々決める人がさ、もういいとこのまあアレだから、もう田舎のこっちに来ては皆逆に舐めて馬鹿にしてんだよね。そんなことしないからね。最後ちゃんと平等に紙クーポンでやったんだ。全くねえダメだまともな人を選ばないと。あとね、とても変だなと思うと騒がなきゃだめ、私一人でどうしようもないけど、みんなでガンガン騒いだからそうなったんだからね。私考えて。まあいろいろ考えて、これでもうすぐあと、あのね、なんか先進国だかなんだかね、日本はねまあ豊かなんだけど。自殺率がナンバーワンのね。自殺率ナンバーワンだよ。先進国だか世界だかなんだかで何か言ってたんだ。ラジオで言ってましたラジオ。結構ね、テレビだとね。案外制限されて本音は言わないんだよ。ラジオだと結構本音で言うんだ。市議会でだっけ?自殺率で言ってた。ねぇ?まあ、政治家はすごいと思う。政治家になって金が入ったら、もうそういう所に頭ばっかり行ってるから、そっちの方ににばっかり政治家は行ってんじゃないの、政治家は?30年間ずっと一般庶民の人がさ、全然戦前から豊かにならなくてね。だからなれの果てそうなったでしょ?政治家はね、もういい加減金取る方にばっかり頭行ってんだ。いかに国民のことを考えててとか、そうじゃないよ。まあ、あの政治の人見てて、分かるでしょ。だから、本当にもうそれを選んでいるのは我々だから、もうちょっと利口になきゃならないと思います。私、今三つ言いましたけど、これに対してまあね、いろいろ考えて。まあそれに対してどう考えているか聞きたいなと思いまして、終わります。

・デジタルクーポンが出てきて、めちゃくちゃ面白いなって思ったんですけど。まあ、実際そのスマホがないと言う点で政策の利益を受けるかどうかが決まってしまうっていうのは、デジタル化を推進していこうっていう政策の不備があるかなっていう。それをまあ、政治主導で行うか、公共の場で行うかわかりませんけども、まあ、スマホの復旧とかデジタル機器の利用を推進して行くという政策も含めて行うべきだったなって言うことは僕も感じております。で、でその後、広くまあ哲学というところに結びつけるのであれば、その政治の進め方ということについても、まあギリシャ哲学も然りですし、あとフランス革命当時ギュスターヴ・ル・ボンとかの辺りの人は民衆と政治の関係ですよね。その辺りもまあ、話してる人も結構いるので、今の話も全く哲学とは無縁ではなくて、関わりのある話かなと思って伺ってました。それで、自殺率が多いというところで、まあそこでもこう社会においてどう生きるかであるとか、社会における人はどういうものを求めているか、何をする人かっていうのを考えるっていうところも、やっぱりその哲学のフィールドにあがってくるのかなというふうに感じています。だからその辺り、ちょっと深めると面白いかなって思うます。

・今回参加は2回目になります。まず私の方から考えとしてお伝えしたいのが、二つ大きくありまして、一つが「哲学をするってどういうことなのかな」っていうことです。私は元々福島大学出身で世話人の倫理学の授業とか、あと哲学の他の先生の授業とかも受けたことがあるんですけど、哲学と倫理学ってなんかどう違うのかなっていうのが私よくわからなくて。哲学も専門で勉強してきたことはないんですが、道徳的なものとかとあと哲学するってどういう?違いがあるのかなっていうのがあんまり分からないので、まあそこを皆さんにお聞きしたいなって思ったっていうことと。あともう一つが、「哲学に何を求めるのか?」っていう今回の議題についてなんですけれども、自分のことについて言った時に考えられるのが、私の話になっちゃうんですけど、私は自分が分からないし、他人のことも分からなくて、自分と他人を理解するため、結局自分って何なんだろうとか、他人がわかんないから。わかることは絶対できないんですけど、でも、その足しにするために哲学するっていう行為、ちょっと本を読んだりとか、そういう本当に勉強ってほどではないんですけど、そういうことをしているんだろうなって。そして今、こういうふうにZoomを通して哲学カフェに参加させていただいて、皆さんのご意見とかを聞かせていただいて。じゃあ自分って何なんだろう、「どういう考えを持ってるんだろうっていうのを深めたいのかな?自分は」って言うふうに思っています。

・今日のテーマ「哲学に何を求めているのか?」ってこれ主語がないじゃないですか?だからいろいろ広いなあと思っているんですけど。まあ、でもやっぱり「誰が」によって答えは結構変わるもんだなぁっていうのが、まず最初に思ったことですで。またですね。この哲学がひらがなになってるっていうところも、まあ学問としての哲学じゃなくて、哲学カフェとかそういった試みについてもあるというお話ありましたけど。そうすると「哲学カフェ」とか、「哲学対話」と呼ばれるものに求めるものっていうのが、哲学に求めてるんじゃない場合っていうのも当然あるのかなと思うんですね。例えば、その人が集まる場を求めているので、別に哲学カフェじゃなくてもよかったとか。あるいは、そういう機会を求めている、そういう哲学的な話とか、ちょっとなんか小洒落た話とか、カッコつけた話とかをしたいな。人にかっこいい、頭いいって思われたいなっていう。そういう機会とか承認とかを求めたりする場合も、あるんじゃなかろうかと思うんですね。純粋にと言っていいのかどうか、分かんないですけど、哲学に求めているそういう気持ち、「哲学やりたい」「哲学的な話に触れたい」というので求めているのは、やっぱり知的な刺激を求めているんじゃないかなと思うんですね。で、それはなんなのかっていうと、やっぱり「分からないことの答えを何かしら求める」っていうのが人間の中には共通してあるんじゃないのかなって気がします。で、「分からないの答えを求める」っていうものなんだとするとですね。俺は分かってんだぞっていう人にはその欲求が多分ないんだと思うんですね。だから、分かってるつもりの人には哲学は多分魅力のないものなんだと思います。でも子供がまあ、三歳とかぐらいの子供が家の中のことがだんだん分かってきて。あっちに行ったらそのお水があるとか、あっちに行ったら遊ぶ場所があると。家の中のこと全部わかったぞといざ外に出てみると、知らない世界がそこに広がってるわけですね。で、幼稚園に行くとか、ご近所が広がっていって、いつも行く場所から今度かなり遠い場所に行く。大人になって見ると、近くのスーパーだったりするんですけど。でもちょっとした冒険だったりしますよね最初の頃。それが市内とか県内とかそういう風に広がっていくと分からないことだらけになっていて。で世界の他の国があるっていうことを知ると、さらに分からないことが広がって分からないことだらけは、もっと広がる。それを分かったつもりにならないっていうことをしないと哲学って何の意味もないのかなって言うような気がします。「哲学に何を求めているのか?」っていうのは、だから、分からないと思うことに対しての答え、純粋なその好奇心を満たすものなんじゃないのかなと思います。

・最初に今日のテーマが「哲学に何を求めるか?」ということだったんで。それは哲学っていうのは、他の学問も色々と対象に思ってるでしょう。だから哲学の対象って何かっていうことを言ったんですが。求めてるもの、哲学の対象は哲学かっていうと、なんか訳分かんなくなるんですけど。物事の本当のこと、真実とか事実とかって言い換えてもいいと、そういうものを求めるのかなと言うふうに思うんですが、今日のテーマ「哲学に何を求めるか?」ということで出されているわけですが、これについてはここに出席する、あるいは参加する人が、哲学それなり哲学というものを考えて、その哲学に何を求めるのかっていうことの意見を求められているのかなというふうに思ったんですが、先ほど終了が出てないんじゃないかということだったんですが、我々出席者が哲学について考えて、その哲学に何を求めるかっていう意見を求められているということ。あるいは視点を変えて、社会から見て哲学はどういうことを求められてるのかっていう、そういう考え方もできると思うんです。まあ、そういうことで主語の問題、哲学とか倫理の人が出てきたんですが。まあ、哲学と倫理の違い、まあ私やっぱり、単純な頭で考えて倫理というのは、いわば哲学の一つの分野と考えていいのかな?中身は人と人との関係で望ましい。それはダメなものも悪い場合も含んでいるわけですが、望ましいあり方を倫理学かなと考えています。ということで、倫理学は哲学の一分野と考えて良いのではないかな?世話人が倫理学の教授ということであれば、その点、哲学と倫理学の違いをどう考えなってるのか、お聞きできればいいなというふうに思ったんです。

・それは答えなきゃいけないだろうなと思っておりました。まあ答えるっていうか、僕なりの考え方ということですけども。哲学というのは、先ほど皆さんがおっしゃってくださっているように、その分からないものを求めて行く。だから、正にソクラテスは「無知の知」って言ったわけですけど、自分は知らない、答えを知らないんだと。皆その当時のソフィストと言えば、知恵がある者、知識のある者、知恵を持っている者っていう人たちがソフィストなんですけど、ソフィストたちは「自分たちは答えを知っているぞ」っていうふうに言ってたんだけど、自分は全然答えを知らないのに。それで、とある神殿の信託によってソクラテスが一番知恵があるんだっていう風に、そういう信託があった時にソクラテスは「でも、私は何も知らないのに」と。そこではたと考えて、「自分は知らないということを知っている」「答えを持っていない」「答えを知らないからこそ、知りたくてたまらない」と。だから、哲学は「フィロソフィア」っていうわけですけども、これ要するに知を愛するって何かっていうと知りたくて知りたくてたまらない、自分は知らないので知りたくて知りたくてたまらない。そういう意味じゃ心理とか本当のことを求めていくっていう営みが哲学の出発点にあったんだろうなと。で、僕は哲学っていうのはあまり良い訳語(翻訳)だと思っていなくて。経済学は経済を学ぶし、心理学は心理を学ぶんだけども、哲学の哲って何だろう?「聡い」とか「賢い」とかっていうような言葉なんですけど、もともと「希賢哲学」っていうふうに訳されたのは明治時代に。つまり「希」は希望、「賢哲」は要するには知恵ですね。知恵と賢さ、賢さを望む=「フィロソフィア」。まあ、賢さを望むっていう風に訳して「希賢哲」と訳したんだけど、それがまあ略されて「哲学」になったわけですが。「哲学」って僕意味分からないなっていうふうに思っていて。僕は「フィロソフィア」は「哲学」なんて言う変な言葉じゃなくて、「学問」って訳せば良かったんだと僕は思ってます。実際に18世紀19世紀の初めぐらいまでは全ての学問は「哲学」というふうに呼ばれていて。つまり、「ナチュラルフィロソフィー」「モーラルフィロソフィー」。全ての学問が「フィロソフィー」だったんですね。で、それは何かっていうと、正に皆知らないから、自分で考えて答えを提示するんだけども、その弟子たちはそれを信じるのではなくて、それをまた疑ってかかると。「本当にそうなんですか?違うんじゃないの?」と。で、また自分で考えると。だから、哲学は本当に哲学者の数だけ哲学があって、思想家の数だけ思想はあると。そうすると、その考えた人が沢山いれば、それだけ沢山のデカルトの思想やライプニッツの思想とか色んな人が沢山出てきちゃうわけですけれども、まあ学問をずっとそんな感じで、それまではそうだったんですけど、近代以降、学問がそれでも「皆が勝手に色々言ってるだけじゃダメでしょ」って話になって。やっぱり、データと言うか、つまり、私たちが見たり聞いたりできる私たちの経験によって、きちんと「確かめられる事だけでやっていきましょうね」っていう形になって、それが実証科学っていう話なんですけど、実証的にデータに基づいて観察したり、実験やったり、それに基づいて分かることだけは分かるようにしましょうと。それで、「見えない神様とかなんか、そういうようなもので説明するのはやめましょうね」と。それが実証科学っていう運動が起こって学問のあり方が実証科学によって全然ガラッと変わって、そっからだんだんこう「知」を積み上げていくことができるんです。皆分かってることじゃなくて、段々「知」を積み上げていくことができるようになったっていうのがまあ。16~17世紀ぐらいから始まったのかな。そういうのが、どんどん実証化が進んでいくと、どんどん発見がた沢山あって。で、発見が沢山あるともう昔は、哲学者ってのは全ての学問を全部やったんですね。『アリストテレス全集』なんか見るともう天文学から心理学から生物学から法学から、全部一人でやってるわけです。それはもうずっとカントもそうだし、ヘーゲルもそうで。18~19世紀の初めですかね、ぐらいまでは全ての学問は一人で全部やると。哲学者と呼ばれる人が全ての学問全部やるっていうふうにやっていたんだけども、ただやっぱそのヘーゲルのちょっと前ぐらいから、やっぱその凄く実証化が進むともう知識がどんどん積み重なって、それによってもあの一人でやりきれないっていう風になってて。じゃあ、もう「私はこれだけ専門になります」みたいに段々分かれていって。それが分業化ってことが起こっていて。それはつまり、学問が科目に分かれていく。つまり科学になっていくとで実証科学っていうのは実証できる。事柄や実験を通して実証できることできちんと積み上げていこうということになって。そうすると、その個別の一個が持ってるのが、まあ独立して、まだ全て学問が別だったんだけど、そっからだんだんこう色んな学問が実証化がうまく行ったところは、どんどんまあ哲学が独立して行ったっていう感じだと僕は思っています。で、だから結局今、現代の哲学というのは、その実証化できなかった部分。実証的に研究できなかった部分だけが残ってしまって。で、ついこの間までやっぱ哲学の一番主要な部分は認識論っていう「どうやって私たちは心理を知るのか?」「心理はどうやって知ることができるのか?」っていうことを考える部分だったんですけども、実は最近そこも実証化されてきていて。つまり大脳生理学とか認知心理学とかみたいなものは、どんどんは分かって、脳の中で何が起こっているのかっていうのは、昔は全くブラックボックスで分かんなかったんだけども、脳の中でどういう活動が起こってるかって言う脳の部位とか、その活動とかも分かるようになってきて。その認知の仕方、認識の仕方に関しても、もう結構実証的に分かるようになってきていてっていうような時代になってきて、だからそういう意味では哲学に残されているのは実証できないと言ってるのが、だんだん減ってしまってるんだけど、それでも実証できないと言っても、「神様いるのか?」っていうふうな経験を超えて、前世とか来世とか死んだと魂どうなるのかとか神がいるのかいないのかって話は実証的には分からない。私たちの経験によっては分からないわけで。そういう問いが残っているっていうのと、哲学と倫理学の関係で言うならば、倫理学は「私たちはどう生きるべきか?」とか、「何が正しいことなのかとか?」っていうのもこれも実証できない。つまりアンケートをとって、皆がどういう風に考えてるかっていうのは分かるんだけど。それはアンケートで何パーセント、何が正しいって考えるみたいなことは、実証的にデータを集めることができたとしても、じゃあ70%の人がこれが正しいって考えているからといって、それが正しいと言えるかっていうとそれは言えない。つまり、人間の生き方とかに関わってくることっていうのは、実は実証的には今の現段階においてはまだ「どう生きるべきか?」とか、「何をどんなルールを守るべきか?」とか「どんなルールに従うべきか?」っていうのも、今のところまだ分かっていなくて、そういうまだ実証できていないっていう問いが残っていて。だから、多分哲学の中で倫理学って、やっぱその哲学もも勿論実証ができなかったと意図して一つ大きく残っていて。倫理学も哲学の一部分だけど、「哲学」は別にその人間の生き方とか、それだけにかかってるわけじゃないので、さっきの「心理とは何か?」とか「神がいるのか?」とか、「時間とは何か?」とか、そういったような理論的な哲学問題ってのは、どちらかというと「純粋哲学」とか「理論哲学」と言いますけど。「倫理学」の方は、割とその人間の行動とか行為とかに関わってくるところと思っています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.1.20.「        」

2024年01月24日 11時56分01秒 | 定例てつがくカフェ記録
1月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは4名の計15名の方にご参加いただきました。





ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、年に一回テーマを決めないで、この場でテーマを決めて話し合うというそういう回になっておりますので、まず最初20分ぐらいで、テーマを皆さんからどんどん出して頂いて。それで、その中から今日はどういう話し合いをしようかということを決めたいと思います。あと最近はずっとやってるんですけども、今日いろいろテーマが出た中で、じゃあ来年度っていうか、4月以降まだ何もテーマが決まっておりませんので、今日取り上げなかったテーマを見ながらですね。来年度以降のテーマを決めていきたいというふうに思ってますので、とりあえず何でもたくさん色んなことを話し合ってみたいというテーマを出していきたいというふうに思います。

・世話人が子どもを連れてきたんで思いついたんですけど「子育て」なんてどうかな、あとはそうですね、この頃よく「生きづらさ」とかっていうことを新聞なんかマスコミで取り上げられたんですけど、「生きづらさ」っていうことと、あとはスマホ社会ですけど、「スマホの利用」とかね。

・今の「子育て」をテーマとしては、問いにするとしたらどんな感じなんですか?

・「男の育児休暇」とかね。そういうの非常に少ないということなんですけど、まあ子供の育て方について非常に困ってるっていうか悩んでる人がなんか世の中多いようなんですよね。だから、子育てどういうことに気をつけて、あるいはどういう風にしたらいいのかってことあたり考えたらどうかなと言う風に思います。あと「生きづらさ」ですね。時々、新聞で見るんですけど。生きづらさを抱えている人が多いっていうのは、特に女の人がよくそういうことをおっしゃってるようなんですが。ええ、今あのそれぞれ。生きていて、「どんな生きづらさあるのかな?」とそれはどういうところから来てんのかなと言うようなことです。あと、スマホについては、私はスマホ使ってないんですけど。どこに行ってもバスに乗っても電車に乗ってもどこでもみんな。まあ、昔だったら私の若い頃は電車に乗ってると週刊誌とか新聞の見てたんですけど、今はもうそういう奴ほとんどいなくて。まあ、中学生ぐらいからお年寄りまでみんなスマホを使っているようなことなんですけど、どんな使いかたをしてるのかなというようなことです。

・今年みんなで議論してみたいなと思ってたテーマですが、方向性を絞っての話ではなくて、大きな言葉単位で3分くらいちょっと記載していただければと思います。20ちょっとあの読み上げますのであの書いて頂いてもよろしいでしょうか?「愛」が一つで目す。2つ目が「人生」です。3つ目が「人格」。4つ目が「世界」。

・「世界」っていうのはどういう意味の世界でしょう?

・この世界ですね。まあ地球、まあ、現世でもいいです。この世とかでいいですね。

・色んな国があるっていう世界ではなくてではなく?

・この世で結構です。あと次に「刹那」もしくは「今」と書いていただいても結構です。次が「価値」。次に「宗教観」、「宗教」でも結構です。次に「死生観」「人生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」「光と影」。

・「光と影」というのは、これはどういうニュアンスでしょうか?

・そうですね。生き方についての「光と影」っていうような意味合いで。あと「家族」「仕事」「幸せ」「お金」。最後に「魂」。

・単語的な形でたくさん出していただきました。

・大きく考えて、議論ができればと思っております。

・何回も今まで言ってきたんですが、「宇宙の開発」って。特に今行われてる月面に到着したりして、色々競争してますよね。特にJAXAが昨日かなんかにあの小さなロケットあれを落としたとかね。全くルールらしいルールっていうのがないんですよね。宇宙はベーシックなやつあるみたいだけど、その抜け目みたいなのがたくさんあって。なんとなく遠い世界だけどという気ですよね。それといつも出てくる「多数決」っていうのですよね。

・私も考えてきて、一番目が「天皇」っていうか、まあもうちょっと具体的に言うと「皇位継承問題」。大きく天皇のことでいいと思いますけど。次先ほど収束したみたいな話ありましたけれども、「コロナ」を総括しないわけにはいかないだろうみたいな。この四年間の出来事でこれ憲法問題っていうと、みんなの苦情に直結して考えちゃうんですが、最近ちょっと一部のSNS上のごく一部にしかすぎないと思うんですが、緊急事態条項がどうのこうのって言ってる人たちがいて、どうしても気になってしょうがないんで、まあ。憲法の中でも特にその緊急事態条項。一般的に興味ない人はもう全く興味無いと思うんですが、いわゆる「陰謀論」。これはもうね、なんの興味もない人もね多いと思うんだけど、興味ある人はもうのめり込んじゃって。次広い意味で「日本人論」ですね。もう歴史的な経緯も含めたトータル的な「日本人論」ですよね。今の日本を見ているだけではなくてですね。次「マスコミ論」ですね。メディア論とテレビ論って言ってもいいんだけど、まあ大体こんな感じですね。

・最近読んだ本の中で刑法39条心神耗弱の減刑理由、それが不必要だという学説を拝見しまして、まあそれについてちょっと皆さんのご意見賜れればなぁなんて思います。

・一つは「文春砲の功罪」。マスコミの中に入るのかもしれないですけど、ああいう風になんだろうな特定なものを狙って、あの暴き立てることがもちろんいい面もあるんでしょうけども、問題点もあるだろうし、それが。あの。なんだろうな世の中に蔓延ってるってことはどういう意味があるっていうのは、ネタとして面白そうだなと。あともう一つは、これも時事ネタであのあれですね「派閥」。結社の自由という観点から見ると、禁止っていうのはおかしな話だし、であのあの「派閥が悪いんじゃないとか?」って言ってる政治家もいる。まあ、いろんな立場がありえると思うので、どう見るのかっていうのを考えてみると面白いと思います。

・テーマに「自由」と出てるんですけど、「自由と平等」ということで議論したどうかなと?それともう一つは「社会的格差」。まあ、これは「経済格差」が。一番根っこにあるんだと思いますけど、そういう意味での。社会的格差の実態と、どういう所から出てきてるのか、どうしたらいいのかっていうようなことについて議論したらどうかな?

・「戦争」ですね。「戦争」と何か組み合せようと思うといろんなものが組み合わせられるんで、例えば「戦争と自由」とか、「戦争と平等」とか「戦争と格差」とか、「戦争と憲法」とかっていうのはあるので。「戦争とは何か?」あるいは「戦争はどうして起きるのか?」

・補足的にあのその私が言った「マスコミ」ってのだと「文春砲」とか、まだまだご存じない方多いと思うんですが、あの「キャンセルカルチャー」って言葉があるんですが。「キャンセルカルチャー」というこの言葉がどんな意味なのか聞きなれない言葉だと思うんですが。まあ、一つのテーマとして最近去年起きたジャニーズとか、あと宝塚とか最近では松本人志とかに関係する言葉なので、ちょっとキーワードとして言葉だけちょっと述べさせて頂きます。

・せっかくだから簡単に説明していただけますか?

・「キャンセルカルチャー」っていうのは2010年代ぐらいからアメリカでちょっとこう出てきた、なんというか社会的な風潮みたいなもので。結局キャンセルってのは、取り消すとかね。あの除外するとか削除するとか、いろんな意味があるんですが、結局ズバリ言っちゃうと、大衆やマスコミが自分の気に入らない有名人や成功者にいちゃもんつけて引きずり下ろそうとする。その社会的な風潮みたいなものをウィキペディアでね。あの興味ある方、調べれば出てくると思いますけど。そういうの「キャンセルカルチャー」って言います。だから、去年からのジャニーズから起こっている出来事を、あの社会科学的な用語を使って言えば、「キャンセルカルチャー問題」なのかなっていうことです。とりあえず以上です。

・もう一つ、あの「民間人」っていう言葉よくいろいろ最近戦争を見てると全く無知の人みたいな感じで言われてるんで、ちょっと気になってました。

・「民間人」が出てたら、「一般人」はなんだろう一般じゃない人ってなんだっていうんですね。

・じゃあまぁ、あのだいぶ出るには出たので、ここからはとりあえず今日何をしゃべるかっていうことで絞っていきたいと思いますが、今日お話しするのはどれがいいですかね?あまりにもたくさんありすぎて見えない。

・あの天皇とか憲法の問題はなんか5月とかとあの憲法の日とか、あるいは11月の文化の日も憲法がらみですかね。あるからですかね、なんかそういう風に合わせた方が、話したい人がたくさん来てくれて盛り上がるのかなっていう意味でなるじゃないほうがいいかなと。

・今ですね。あの社会的にクローズアップされているのは、パレスチナの問題とか、あとはハマスの問題だなと思ったんですけど、それだけです。

・先ほどあの「天皇の問題」と「憲法の問題」っていうのがこうなんかこう、まあ一体のものであるみたいな話になっちゃったんだけども。あくまでも私があの「皇位継承問題」って言ったのは、「憲法問題」というよりも、もう純粋に「皇位継承問題」ですっていうこと。天皇の話は天皇の話で一年を通じていつでもいいかなみたいなふうにちょっと思ったもんね。

・最初からずっと読んでいくと「子育て」「生きづらさ」「スマホ」「愛」「人生」「人格」「世界」「今世」「宗教」「宗教観」「死生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」。「自由」には「自由と平等」みたいなのがでてましたね。あとは生き方としての「光と影」。「家族」と「子育て」はまあ半分似てるところもあるかもしれないですね、含まれるという感じがある。「仕事」「幸せ」「お金」。「自由」は昨年確かとりあげていたし。「仕事」だと「お金」なんかも最近やってたかもしれないですね。「魂」というのは話したことがないかもしれませんね。「心はあるのか?」でまあ、「魂」の話を若干だから。「宇宙開発」は確かに前から出てるんですけど、僕が興味なくて。後回しにしちゃうところがあるので、この後また一年間のテーマを組む時に僕が中心になって考えちゃうとまた外れちゃうから今日宇宙開発やっちゃうっていうのがあるかもしれません。「多数決」とかってのは、この物事の決め方っていうのは結構重要な問題で前やってないかな。「天皇」とか「皇位継承皇位継承」ね。皇位継承の話って結構、まさに天皇制ありきですよね。天皇制は認めた上でっていう話で、僕はというと天皇制はアリなのかっていうところから話したくなっちゃうので、まあでも皇位継承に絞ってっていうのもあるかもしれません。「コロナの総括」はしてないのかな?やってないかな。ここから「憲法」で特に「緊急事態条項」ですね。「緊急事態条項」に関してっていう話ですね。ちょっとそういうのが最近話題になってるって知らなかったんですけれども、「陰謀論」ね。これも多分。僕に選ばれたら「陰謀論」とか最初から関係ない思っちゃいがちなので、今日やっちゃうっていうのはあるかもしれません。「日本人」ってなんか去年だか一昨年やったような気がしなくもないですけど、まあ、あの何回でも行ってもいいので。これ「マスコミ」とか「文春砲」の話、これも面白いですね。また「キャンセルカルチャー」っていうそういう側面からとらえていくっていうのはなるほどなと思いました。あと「心神耗弱」ですね。これもそうだね取り上げたことないけれども結構話してもいい問題かもしれませんね。「文春砲」はあの今、非常にホットな話題ではあるかもしれませんが。「派閥の問題」「社会的格差」。「戦争」の定義だったり原因であったり、民間人とか一般人とかからパレスチナの問題というのが出てきます。

・「戦争」についてはちゃんと自分で勉強してきて、「ハマス」でも「パレスチナ」もそうですかね。「パレスチナ」もちょっとやっぱりポットではあるけれども、ちょっともうある程度知識というか、勉強が必要な感じはしなくもないですよね。

・勉強が必要っていう意味で、「宇宙開発」も多分何が行われているのかっていうのをある程度分かってないと話にならない気もするので。だったら事前に勉強の時間が欲しいです。勉強したくないなら知ってる人に話してもらうみたいな。

・どうしようかなどこら辺で落とそうかな?えっと。確かに「パレスチナ」の話。まあこれ、政治のこと、勉強しなきゃなって言うと「派閥」もそうで。もう30分以上時間とっちゃってますので、まあそんなに長く話せないっていうのもあって。まあ、いつもだからこの会話割と軽めのにしましょうねっていう風に行ったりもしなくもないんですが。

・としては、テーマとして「文春砲」とかね「派閥」なんか面白いなと、あとその他いっぱい出てるんですが、全部やってればいいと思うんです。それぞれおもしろいこと話せると思うし、話し合えると思うので。ただ今日話したいということであると、まあ、今申し上げたと「文春砲」とか「派閥」とかかなと。

・まあ、そうですね。僕も「文春砲」の功罪はまあもうこの場で話せるかもしれないなというふうに思っているところもあって。まぁ、マスコミ一般に広げてもいいので、「文春砲」を代表とするまあマスコミみたいな話で今日話していくのはいかがでしょうか?


・結構みんな会場の方はうなずいたいただいた方多いんですけども。ズームの方もよろしいでしょうか?ありがとうございます。じゃあ今日はですね、いろいろ出た中で「マスコミ」。特にその「文春砲」に代表される、現在のマスコミの活動というか、そういうものについて語り合っていきたいと思います。「マスコミの功罪」ということで、「マスコミ」や「文春砲の功罪」ということで話し合っていきたいというふうに思います。









上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.12.16.「心はあるのか?」

2024年01月06日 13時31分08秒 | 定例てつがくカフェ記録
12月16日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは7名の計17名の方にご参加いただきました。








ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは、始めていきたいと思います。本日は「心はあるのか?」というテーマで、普通は人間には心はあるというふうに皆思って当たり前のように常識のように考えて生きている訳ですけれども。しかし、心そのものを見ることは出来ない訳で、本当に心はあるのかと皆さんとも一カ月に一度しかお会いしない訳ですけれども、帰ったらスイッチ切られて皆ただ倉庫に入れられて、寝てたりしないんでしょうかというね。本当にこの一カ月も皆さん生きてらっしゃったんでしょうかね、人間としてとか。色んな事を疑い出せばきりがないんですけれども。「心はあるのか?」というテーマで、あるかないかだけじゃなくって「心って何なんだろう?」ってことで何でもご自由にご発言頂ければというふうに思っております。それでは、どなたからでもどうぞ。

・今世話人の言っていた電源を切った云々かんぬんについて、ちょっと引っ掛かりがあったのでそこから責めようかなと思ったんですが、電源を切って止まっていたとしても心は無くなると考えているとしたら、それはどういう根拠からですか?別にオンオフされたとしても、その後また持続的に繋がればそれは別に心があったと出来そうなもので。我々が本当に生きているかどうか、それがずっと続いているかどうかという問題と、心があるかないかという問題は実は全然独立の別の話なんではないかと思うんですけれども、繋がりがあるとするならどこにあるかそこだけまずは確認させてください。

・物凄く端折ってしまったので、皆ロボットじゃないのという事ですね。ロボットでただの機械で心なんて無いただの機械じゃないんでしょうかねと。ロボットだとするならば、勿論スイッチ入った時の瞬間に受け答えは出来るかもしれないけれども、単にプログラミング通りに受け答えしているだけで。ということは、そこには意識が無い心は無いということもあり得るし。勿論ロボットにだって意識や心は生じるという事は、あり得るとは思うんですけれども。なんにせよ、人間であるならば皆意識があって心があって、毎日寝ている間はそれはどうなってるのかお休みしているのか何なのか分かりませんけど。勿論目が覚めれば同じ心が持続しているというふうに考えられているわけだけれど。実際それを見た人はいませんよねっていうふうなことと。例えば、ここにドラえもんが居たとしたら、ドラえもんが居てあんだけのび太や静香ちゃんや皆とちゃんとコミュニケーションをして、普通にお話しできる相手であるから皆ロボットだということを忘れているけれども、本当にロボットだとすると意識も心も無くただプログラミング通りに、何か「ドラえも~ん」とのび太君に泣きつかれたら、何かしら出すようにただ設定されているだけで、たまたまそういうふうにやっているだけだという様なことも考えられると。つまり、心も意識もないロボットという事を。多分ロボットと言われればそうなんだろうけれども、しかしあんなふうに受け答えが出来てしまえば、心や意識はあるよねっていうふうに思ってしまう。と、同じような事が実は人間同士でも起こっているのかもしれないとかね。まぁ色んな事を考えると。じゃあ、そもそも心って何なのかってそういう事で言わせて頂きました。

・今世話人が仰った「心」とか「意識」という言葉を使いましたけど、今日のテーマは「心はあるのか?」「(それとも)ないのか?」と。だから、「心」ってどういうふうに考えるのかってことがまず始まりかなって思うんですよね。「心って何?」「意識?」。あるいは、色んな言い方「魂」だとか、「霊魂」「霊」だとか、あるいは「精神」だとか。場合によっては発せられる「言葉」も心というふうに「言霊」というふうに言うわけだから。そういう事でやっぱり、「心はあるのか?ないのか?」ことを結論を出すためには、「心をどういうふうに考えるのか?」「心はどういうものなのか?」っていうことをまずしっかり受け止めないて考えないと有る・無しは出てこないのかなというふうに思うんです。

・まず「心はあるのか?」ということで、心の定義が一番重要かと思いますけれども。結局「心」というのはどんな働きをするのかという事を考えれば、我々は心と体を持ってますね。体をもってその中に脳の働きがあって、ある程度行動を決定する意思を持って動くという辺りが心の原点かなと思います。大体我々がここに集って「心はあるのか?」という事を議論していること自体が心の存在を前提としているんじゃないかというふうに思います。

・今の方に質問なんですけれども、もし心の働きを脳の働きとして意思を持って行動を決定する事が出来るとするならば、動物にも心はあると捉えていいという事ですかね?

・「一寸の虫にも五分の魂」ではないですけれども、私は動物にも心はあると、生物全般に心があるんじゃないかと。植物にもそれなりに反応して、音とか話しかけとかに反応して、何かしら行動に起こす能力があるようだという事も何か説明されているのかなというふうに思います。

・今植物の話が出てきましたけれども、少なくとも植物には脳は無い。そうすると、今の話は少なくとも矛盾するような気がしていて。じゃあ、脳の働きっていうのは心とは関係ないと考えれば良いんでしょうかね?

・そこら辺にいくと、結局「ロボットに心はあるのか?」という問題と一緒で、結局植物というのはロボットと近い存在かもしれません。脳的な仕組みと言うか働きは作るけれども、意志とか自覚とか、生命の為に生きるていう自覚が無いのがロボットかなというふうに思います。その辺り、結局人間霊長類が一番なんですけれども、霊長類以下でもある程度自分で判断して生きるために行動を起こして、その結果が跳ね返ってくる。その最たるものが、人間だというふうに。人間は最高潮に脳が発達しましたので、その中で複雑な働きがそれが「心」に近いかなという感じはしますね。

・二つお話しさせて頂きたくて、一つ目「心とは何か?」の所で言ていたかと思うんですけど、私は「感情」だと思いました。テーマが始まった時に、ロボットとか植物の事を頭に浮かべたんですけれども、ドラえもんみたいに喜んだり、起こったりするのは心有ると思えるんですが、自分の中ですぐに出てきたので感情を持っているかどうかかなと思いました。というのと、今の植物の話を聞きながら思いついたのが、心と反するものとして条件反射で動くものがちょっと心とは違うのかなと思いました。

・今の方に質問なんですけど、心=感情というふうに聞こえたんですが、そういう事ですか?心は感情だと仰ったから、感情というのは心の働きの一つかなと私なんかは考えているのね。そこら辺はどうなんでしょう?

・ちょっと、そこまで考えては無かったので、お話ししながら考えていきたいと思います。

・世話人が「心は見えない」と仰っていたけど、その通りだとは思うんだけど。要するに私は今喋っているんですね。動かしている。これってある意味では「見える」んですよね。心が喋っている。つまり、「見えない」という事はそういうふうに思えるけど、心があるか無いかだとやっぱり。例えば、このペットボトルだとここにある。これは「ある」というふうに大体言えると思うんですけど、こういう形では確かに心って無いんだろうと思うんですよね。だから、見えないというふうに言っていいのかもしれないけれども。例えば、楽しくなってランランと始まったりですね、体を動かして飛び回っていると。要するに、それって「見える」訳だし、それって「心」じゃないかなというふうにも思えるんですけど如何でしょう?

・「見える」「見えない」というのも、「有る」「無い」とは関係のない概念かと、関係のない話かと思えていて。要するに、例えば「言葉」って見えないですよね。「言葉」自体は見えないけれども、「言葉」は実在していて我々が喋っている事は少なくともこれは「言葉」なので、「言葉」はある訳ですよ。なので、「見えるか?見えないか?」という事と、「有るか?無いか?」という事はこれまた独立の話なので、「心は見えるか?見えないか?」という事と「心はあるのか?無いのか?」という話は直接は関係ない。だから、「心はあるのか?」という問いに対して「見えない」というのは、直接関係ない話をしているような気がします。

・ここで原点に戻るんですけれども、結局は「物質が主体か?」それとも「心が主体か?」という事になると哲学本来の観念論(現実に基づかず、頭の中で組み立てた考え・論)と物質が基本の、私も一時期傾倒したんですけれども唯物論(宇宙の本質は物質であって、精神は物質に規定されると主張する説)、元々の共産主義社会で言えば「全て物質が基になっている」という事であるので、それから言えば心も物質で出来ているんじゃないかなと。私も最初は観念論から入って唯物論を一応、共産主義・社会主義に傾倒した時期もありましたので、その辺りは唯物論も。今は全体は心主体と言うか、人間物質で出来ている訳ですけれども、心の働きによって穏やかな、豊かな生活が出来ているんじゃないかというふうな意味で心はそういう働きをするんじゃないかなと思います。

・「心は物質で出来ている」と以前は唯物論を信じていたというお話だったかと思うんですけど、「心は物質で出来ている」と言った時に、物質というのはこういう物の集まりで出来ているという事とちょっと違うんではないかなと。要するに、物で物質で出来ていると言った場合、ある塊で化学物質ではなくて、そういう物で出来ていたとしても「働き」だと思うんです。化学物質の働き、機能。「働き」というとさっき喋っているんだけど、「言葉は見えない」と仰られたように「働きは見えない」。だから、そこの「心は物質で出来ている」と言った時になんか塊、原子のね一つひとつ集まってできているというような事とはちょっと違っている。そういうものの「働き」なんだと。「働き」というのは見えない。だと私は思っているんです。

・先程私が申し上げたのは、当時高校生ぐらいの時ですか、唯物論にハマったというだけの事で今現在は全然信じていません。というのは、素粒子の時代ですから。素粒子はどこから来てどこに行くのかという事さえ分かっていない時代。という事は、物質はあるのか無いのかも分からない状態ですから、新しい物質が素粒子以下からまたどんどん出てきている状態ですから、化学はどんどん進んでいくんだけれども科学を超えた物が「心」なのかなと。

・「心」と「意識」は全く同じとも思えないんですが、意識って心の大部分を占めているのかなっていう気はしているんですよ。さっき世話人が眠りから覚める時に、覚醒する時に脳が働きだすんだけれども、その時意識が始まるんですね。だから、要するにそうすると無意識で病人の場合、植物人間意識が無いという状態の場合、呼びかけても反応しない。でも、そういう人に対して「生きている」という事は言うんだけれども、「心がある」というふうに言えるのかなというふうに。あまり家族の方でもね死んではいない植物人間でもね、息もしているし心臓も動いているし、脳もどこか働いているのかなと思うんでしょうけど、意識が無い。何の呼びかけに対しても反応しない。そういう時に、「心はある」って言えるのかなと、思っているのかなと。そこら辺はどう考えるんですかね皆さん。

・意識があるから心は存在するというのも早計かなと。意識があるからその人が存在する、意識があるだけでは。世話人が先程仰られたように家に帰ってパタッと寝て電池が切れたらそこで終わり。私はSF映画大好きなので、『マトリックス』状態を観られた方は思い浮かべれば、こうズラっと並んでいて意識はあるんだけれども、体は拘束されて電圧、電気だけ引かれている状態。そんな感じも、意識があってその中で心もあるのかもしれない。夢の世界の中で、結局『マトリックス』というのは夢の世界の中の話ですから、そういう意識があってもそういう状態もあるのかなと。その『マトリックス』の場合は、体は一応持ってますよ。体もあって脳もあって、その中で意識もあってその中で動いているんだけれども、囚われているという状態もあるのかなと。『マトリックス』に限った事じゃなくて、SF映画では結構そういう、結局ね意識だけを機械に移植してその中で絶対に死ななくて生きていくというような試みというか、そういう映画もありました。

・今のお話の仕方、心は意識にあるいは体のマトリックスにというふうな言い方をされたそのマトリックスと体とかの意識と関連して、マトリックスって言うからそれどういう事なのって聞きたくなっちゃうんですね。それと意識だけを移して死なないようにするっていう事をSFならばそういう事は勿論考えるでしょうね。考えるでしょうけど、それってどういうふうにやるのって質問したくなる。

・初めて来させて頂いたんですが、今日のお題(テーマ)について気になった点があって、私趣味でプログラム組んでおりましてここ最近AIとか出だし初めまして、AIの仕組みとか根本的なものを組んでいく中で今お話になっている記憶の集合体をハードディスク等に収め、個人をコピーする事を可能であると私は思っています。そもそも人間というのはコンピューターというかAIですかね、人は何かを模して物を作っていく中で人間の脳、ニューロンからニューラルネットワークを含めた脳みその構造体をコンピューターのプログラムとして、作り上げましたので基本的な流れは人間の脳みその基本的な構造と変わらない状態だと思っています。今回参加させて頂いたっていうのも、私が有機物であり人であるという中でAIを組んでいく中で、「人間を作りましょう」という考えは絶対しないんですけど。より近い思考を持つ事が可能なのかどうなのかというのが気になっておりまして、今回立ち寄らせて頂いたんですが。その先、AIを組んでいく中でステップをどんどん組み上げていくと自己意志を持たせようとする工程というのが出てくると思うんですが、実際これはプログラムで可能だと思っています。ただ、その根本的に有機物と個体が、草とか人もそうですけど無機物、石であったり物体物質、動かない物質を分ける中で専門家ではないので、効果的に物を言える訳ではないんですが、どこで何が違うのかっていうところになってくると根本的に最初に組み込まれているDNAしかり、子孫繫栄生き抜く事、生存していく事がベースにあると思うんですね。AI作る中で判断というのがイチかゼロの世界から、それが記憶の集合体から重み付けを作って判断するっていう中で絶対的なイチかゼロではない要素から判断値を出す最適値を出すっていう事があるんですが、有機物としての存在をそもそもは電子とかの最小構造から考えれば、石も人も変わらないでしょうけども。そこから有機物であるという部分を含めて考えて、そこから生き残るっている、生存しオリジナルからコピーを作っていって存在を消さないようにするっていう事が、記憶と言うか細胞の記憶の中に埋め込まれていて。それに対して、判断しているのかなって思っております。その中で、心ただそのここでこうここに何しに来たんだという話になるかもしれないんですけれども、今ちょっと気になっているのは恋愛をしない、子どもを作りたいと思わないという若者が増えているとか、少子化って実はお金が無いからじゃないからっていう部分も含めて、恋愛というものがなんか人から離れていくっていうのは、実は心を無くしていっているのではないのかなと思っていまして、ちょっとそこが気になってきたんです。本来であれば、生存生き抜く中で子孫を残すという使命がある中で、そこが感情のもとになるかと思うんですけど、そこを無くしていく現代の人間ってどこに行くのかなっていう問いでした。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

シネマ・本deてつがくカフェ報告2023.11.23.

2023年12月11日 13時25分48秒 | 定例てつがくカフェ記録
11月23日(木)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは3名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、大体1年分くらいテーマを決めてるんですけど、今月は空けておいて何も決めていなかったんですね。どうしようかと思っていたら、8月に「宗教を問う」というテーマでやった時に、沢山の方が参加してくれて、特に新しい方も参加してくださいまして。多分政治的な状況もあるかもしれませんし、宗教に関して関心が高いのかなと思いまして。この「てつがくカフェ」はいつもはテーマについて話すだけなんですけども、たまに「本deてつがくカフェ」という本を読んできて皆で話し合うとか、「シネマdeてつがくカフェ」など映画を一緒に鑑賞してその映画について語り合うみたいなことをやっておりまして。最近その二つをどちらもやっていなかったので、「シネマdeてつがくカフェ」をやりたいなと思っていまして。それで、宗教で結構人が集まったからそれに気を良くして宗教がらみの何か映画はないかなと思っていくつか探して。この遠藤周作原作の『沈黙』はつい最近ですよね、映画化もされてまして。洋画としてスコセッシ監督のもと映画化されておりまして。いつもはこの場で、15時から始める前の時間に、まだ視ていない方のために映画観賞会というのをやりまして、この場で映画を観てやっていたんですが、借りて観たら物凄く長くてとてもじゃないけど上映会やっていられないと。ということで、上映会は無しにしてその代わりに小説も読んできていいのかなということで、小説でもいいですし映画を観て頂いてもいいですし、この『沈黙』という映画ないしは本を題材に信仰とかあるいは疑いとかについて考えてみたいなと思って選ばせていただきました。どちらも非常に重厚な作品で、テーマも非常に重たいという。僕も高校の教科書だかで読んだっきり、重たい暗い話だなと思ってそれっきり読んでいなくって。僕も読んだことがなくって、今回初めて読んだというか。だけど、とても面白かったですね。色々と語り合いたいこともあるんですけども、ここからは皆様にご自由にお任せ致しますので、発言のある方は手を挙げて頂ければと思います。

・私は本しか読んできていないんですけど、それでここのボードに二つ書いてあるんでね、ちょっとお聞きしたいなと思ったのはこの『沈黙』という小説と映画について、同じような遠藤周作さんが出した重大なテーマとして、追及している事と映画でやろうとしている事、この辺の違いというか。同じような突っ込み方でやられていたのだろうかと、その辺ちょっとお聞きしたいなと思った。両方観た方に。

・私も映画と小説両方観てですね、細部は大分違っているところもあるなという感じはしました。脚本なんかでも、映画の一番最後のところなんかロドリゴが亡くなるところを描かれていて、その時に日本人の妻が小っちゃいロザリオなんだか十字架なんだかを渡してみたいなことが描いてあって。でも、(小説では)一つもそんなことはなかったので、多分いつもというか小説と映画があった場合に、やっぱり小説の方は内面の事は書けるんだけれども、それが映画だと画像でしかあるいは台詞でしか表せない訳ですから、その部分映像化という形で小説とは違う形で映画化しているというところは多々あるかなと。あと、人物の描き方に関してもちょっと違うかなと色々違いはあるかなと思いますけれども。でも、テーマ自体は全く同じであったり、というふうに私は受けとめておりましたが、どなたか他に何か両者比べてみて何か思った事はありますでしょうか。

・私は本で読んで、こういうふうな理解をしたんですけど。ここのテーマというのが宗教、ここでいうキリスト教ですけど、キリスト教の弾圧と拷問に対して信仰あるいは教会、団体を維持する、その問題かなと。要するに弾圧・拷問と信仰の維持を扱ってるのかなと。もう一つは、題名にあります通り「沈黙」なんですね、神の沈黙の問題。それともう一つは、弾圧による訳ですけどその時に起こってきた二人ともフェレイラとロドリゴの二人のパードレが出てくるんだけど、その人たちの信仰の変質というか、そういうことがあったと。そこら辺が、テーマと言えばテーマかなと。そういうふうに理解したんですけど。いかがでしょう。

・何がテーマだったのかということで、いくつか挙げて頂きました。

・私の意見はですね、良い映画というか優れた映画、僕本読んでいないんで映画しか観ていないんですけども、これテーマはですね別に一つという事ではなくて色々ある訳で、色んな方面から色んな角度から語れるし、考えられるというのが優れた作品だと思うんですね。なので、僕思ったこと一つは直接これがテーマだと、大きなテーマだという話とは別として、映画の中で大変印象に残った台詞がですね、「沼に何か植えようとしても育たないんだ」という話をしてましたよね。要するに日本という国に、キリスト教を根付かせようとしていっぱい宣教師がやって来たけども、それに対して奉行の方が言った台詞が、「日本は沼だ。沼に何か植えようとしても育たない」と。「日本にキリスト教は根付かない」という事を言いました。それがとても興味深くてですね、なぜかと言うと当時は鎖国の中でキリスト教の弾圧をしてた訳ですよね。その弾圧の理由については色々と諸説あったりしてよく分からないですけども、いずれにしてもかなりの弾圧をしていた。にもかかわらず、その弾圧される前には結構な数の日本人のカトリック教徒、クリスチャンがいた、特に九州、西日本にはということもある訳ですね。ここでもしも、幕府などによるですねキリスト教の弾圧が無かったら日本にキリスト教が根付いたっていうか。今でも当然クリスチャンはいますけれども、もうちょっと深い意味で日本人の一般的なその考え方に根付くことは出来たのかどうか、どうだったのかという事を考えちゃうですね。僕は意外とちょっと否定的でやっぱり日本は西洋と違うので、キリスト教は根付かせようとしても、沼に何か植えようとしているようなもんだというふうに捉え方で。もしそこで、キリシタンの弾圧が無かったとしてもそんなにキリスト教の国にはならなかっただろうと、当然思う訳なんですけれどもどうなんでしょうねと感想でした。

・今の点に関しまして、ちょっと補足しますと小説の方はその辺詳しく書いてあって、映画だとあんまり出てこなかったんじゃないかなと思いますけども。「日本が沼である」と、日本にはキリスト教が根付かないし、日本には30~40万の数字が出ていたかと思いますが、それは別に本来のヨーロッパでのキリスト教信仰とは違うんだということを。要するに、日本人は自分たちなりの宗教、神観、デウス、神の事も大日と言い換えたりとか、みたいな形に。さっき信仰の形の変質って話もありましたが、それとは別に小説の中でも宗教そのものが変質している、キリスト教が変質してしまったんだということは結構書かれていて、それが一つのテーマになっていたのかなというふうには思いました。

・私今回初めててつがくカフェに参加したんですが、今回の宗教に関するテーマなんですけれども、皆さんは宗教って言葉を使う時にどういった面を考えたりしますか?例えば、自分が「宗教」という言葉を聞くと神様がいるかどうかとか、あるいは死後の世界とかそういうふうなことを考えるんですけれども、その他にも話は出たりしますか?

・私が「宗教」というふうに言われた時に思うのは、宗教って神様だとかいうことは当然なんですけど、「創始者がいる」ってことと「教義がある」ってこと。仏教でいえばお経ですね。その他、やっぱりね集まりというか教会というか集団というか、信者による団体。この三つぐらいが大きな要素なのかなというふうに考えて。要するに「創始者」と「集まる場所」とお経というか「バイブル」的なものね。その三つかなと思っているんです。

・今のに対する質問なんですが、そうすると例えば「神道」。「神道」も例えば、本当に神社の神主さんとかになるために勉強している人は別かと思いますけども、一般に我々、我々というと誰を指すのか不明瞭な言葉になってしまうけれども。「神道」を別に勉強した訳でもなく、取り敢えず正月になったら初詣に行く人、あるいはお葬式の時ぐらいしか仏教の経典なんて聞くことが無くて、ちゃんとそれを読んだことが無いような人って、それは宗教の信者に入らないって理解にはならないですか?

・そこはさっき三つ言ったんですけども、ちょっと「神道」の場合は違うなという感じはします。要するに「神道」だって、祝詞(のりと)とかね言葉で書いたものはあるんですね。あと宮司(ぐうじ)さんとか宮仕えの人とか、それとお社(やしろ)とかありますよね。「神道」の場合は、今は「神道」の集団というか団体が作られているよね。そういう意味では、似たところはあるんじゃないかなという気がしますけど、「神道」の場合自然に力というかそういうものに対する信仰というか重視というか、そこら辺から始まってて、ちょっとキリスト教とか仏教とは違うんじゃないかなというふうには思っています。キリスト教の場合は、まずは「創造者」そしての「神様」というものを考えられたんだと。これはもう旧約聖書の創世記からあるわけだけど、仏教の場合はお釈迦様、仏陀という、まぁこれは歴史的な人間が創始したということでそういう色んな初めから言葉をたれていくことで法華経とかね、「仏様はこういうことを言ったんだ」と初めから言葉は発しているんだけれども、その点はちょっとキリスト教の場合は違うのかなと。バイブル以前の問題もあるんだけれども、初めから言葉があった訳ではないかなというふうには思います。あまり質問への答えではないかもしれないけど。

・ちょっと、ズレるかもしれませんけど「神様」と仰いましたよね。「神様」とかあるいは、デウスのことを日本では「大日如来様」と。要するにもっと自然の多神教みたいな形で自然と結び付けて行われて。だから、違いはあると思うんですよ。宗教がなぜ起きたか、なぜこんなに普遍的になるかといったら根本的に人間に「良心」があるからだと思うんですよ。だから、罪悪感があるからだと思うんですよね。何かやった時に「申し訳なかった」「お天道様に対して申し訳ない」とか。それは日本人の感覚だとそういうかもしれないし、西洋の感覚だったらやっぱり「罪の意識」ってあると思うんですよ。そういうところから、何かもっと大きな絶対者みたいな。日本だったらもっと親しみのある自然の神様だったりするんですけど、自分を見守ってくれたり、あるいは自分を戒めてくれる存在っていうものがあるから人間は人間として、形と言うか心を持っていける。そういう意味で、そう思考するために宗教って作ってきたんじゃないかって私は思うんです。

・今のに対する質問なんですけれども、そうすると例えば無宗教の人とかというのは、人間の良心は無くなってしまい罪悪感が無いという話になってくるんでしょうか?それとも、何か別の理由でそのような人が出てきたというのが説明できるんでしょうか?

・無宗教=良心が無いってことはないと思うんですよ。宗教が無くても良心というのは、無いとは言えないと思うんですよ。ただそういう方便として作ったんじゃないかもしれないけれども、非常に人間の、人って弱い存在ですよね。それを側面から支えるということが、人間個人が知っているんだと思うんですよね。だから、長い歴史の上で一人の人がそう思ってんじゃないから宗教って広まって来たんじゃないかなと思うんですよ。それは宗教じゃなくても個人的にはこの宗教って持っていないんですけど、帰依しているものはないし。ないけれども、やっぱり心のどこかに罪悪感があって、これは良くないんだという気持ちはありますよね。あると思うんですよ、どの方にでも、犯罪者にでもあると思うんですよね。だから、人間の根源みたいなところに必ず良心ってあるんではないかなって思っています。だから、無神論者だから無いってことはないと思います。

・もう一つ質問させてほしいんですけども、皆が良心があるとしてその上で昔ながらの宗教が信じられてきた。なんだけれども、今無神論の人達が出てきているということは、どのように説明できるんでしょうか?

・今申し上げたのは、神を否定するという事ですよね。良心が無いって事ではないって事ですよね。違いますか?どういう人の事か具体的には分からないけれども、よく日本人だと「信仰ありません」とか「無宗教です」とか結構平気に言いますよね。でも、それを海外に行く時に空港で無宗教みたいに書くと「これはアナーキストじゃないか」と海外では思われちゃうという話ですよね。要するに「良心が無い奴」だと海外では思われるかもしれないけど、でも日本人は良心が無いかというと良心はあると思うんです。宗教とは関係なく良心と言うのは人間のどこかに存在している物だと思うんです。それで、宗教のあるかないかと関係なくあると思うんです。

・宗教は何かしら救ってくれる絶対的なものというふうに考えるとしたら、自分は無神論者でスタンスは神様は基本的に信じていないと昔はそうでした。基本的にというのは実際に自分の目で見ないといるかどうか分からないからと。見ない事にはいないって事も言えないから、だから基本的には信じていないというスタンスでいました。そういった無神の状態のまま3年ほど前に、あの限りなくあの世に近づいたんですけどその時に色んな光景があったんですけども、その中に必ず光の玉があったんですね。これが傍にあるととても安心するというか。それまで自分が置かれていた苦悩とか悲しみとか、そういうものが一切無くなって良い状態の空っぽというか、そういうのを感じましたね。確かキリスト教では自殺というのは一番許されない罪と聞いたんですけども、自分はそれを選んでも光の下に行った。今は神様いるかどうかって言われたら、「分からない」と答えます。というのも、光も何も言わなかったんです。神様だ、キリストだ、仏陀だとかそういうことを言わなかったんです。何も言わずにただ光としてそこにあったという感じなので、無神論者でも救われるようなものがあると思います。

・先ほどの話に倫理学者として話を付け足すと、仰られた通り倫理学もそうだし善悪ってことに関しても、長い間基本は宗教を中心に、「神がこう言っているから」とか「聖書に書いてあるから」とか。これはどこの宗教でもそうな訳ですけども、それは宗教の教義の中に善悪に関する教義というのもあって、それに基づいて善悪が教えられて教会とかそういった所で教えられるというのが、長らくあった訳で多分日本もどうなのかな?「神道」なり「仏教」なり、それがその「教義」というのが善悪の判断の基準だったんだろうと思うんですね。ただ、やっぱりそれが近代以降になって倫理学の方も宗教とか神とかが中心ではなく人間中心に考えて、「人間にとってどうか?」とか「人間は幸福か?」とか「人間は自由なのか?」とか、人間の自由や幸福というものに基づいて倫理学を作り直していこうと。つまり、人間の立場から倫理学を作り直していこうという。それは、近年の化学が人間の立場で人間は何を知ることが出来るのかという形でこの世界を知ろうとして様々な化学が発達していったのと同様に倫理学もその方向に来ていて、私たちはその先の世界としてむしろ神を前提としない、聖書とか何かしらの本とか神様の言葉とかを前提にしないで、善悪を考えることが出来る、考えるのが普通になってきている訳ですけれども。永らくヨーロッパはずっとキリスト教の伝統が強くって、それを中心に考えている。小さい頃に洗礼を受けて、教会に毎週通っていてそこで説かれて、それが良い事というふうに考えて生きている訳でそういう宗教が無い人ってのは正に仰られたように無神論者=良心が無い、善悪が無い、見境付かない何するか分からない人という風に思われるところがある訳です。実際そんなことは無いと僕は思っているけれども、未だにそういう観念は強いのかなと思います。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.10.21.「未来に対する責任と希望」

2023年10月24日 14時42分28秒 | 定例てつがくカフェ記録
10月21日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には12名、オンラインでは1名の計13名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日のテーマは「未来に対する責任と希望」ということで、まず「未来に対する責任なんてあるんだろうか?」という問いが2月の時に参加者の方から出されて、それについて話し合おうということで今回のテーマを挙げています。特に「未来に対する責任」というのは環境倫理の問題で、資源とか「この地球をどう残していくのか?」とかSDGsですね、サステナブルな持続可能な発展みたいな話にもかかわってくる訳ですけれども。「未来の為に私たちが何か責任を果たさなければならないのか?」という考えが普通に広がってきている訳ですけれども、そもそも「そんな責任なんてあるのか?」みたいなふうに考えてもいいですし、「どんな責任があるんだろうか?」と考えてもいいと思いますし、「責任」のことだけ考えているとちょっと重苦しくなってしまうかなということで、「希望」という言葉も入れました。未来に対して今本当に何の希望も感じないように思うんですけども、今戦争もやっているし、政治も全然良いように行く様な気もしないし、というところで希望もないんですが。でも「未来に対する希望」というものもあれば、出てくるといいかなと思ってテーマを設定させて頂きました。テーマをどう受け止めて頂いても皆様のご自由ですので、どこからでも何かお考えのことがありましたら、どなたからでも挙手をお願いいたします。Zoomの方はマイクでお声掛け頂ければと思います。

・私の場合は、3.11の原発事故がありましたし、それで色々と勉強してきて、そして、汚染水の問題もありますし、本当に「未来に対して責任と希望」と言った場合に大人として、今子供いますし知り合いのお子さん達なんかも結構症状も出てますし、提訴した方達もいますし。やっぱり凄く子供達を守らなかったというのが、一番最初にあったんですね。それは本当に福島の親達が皆そうだったんで。そして、勉強してくる中で子供達の何を見守らなくちゃならないのかっていうと、子供達というのはこういう事故が起きなかった時、未来に対する希望があった訳です。希望があったと必ず言えると思うんですね。だから、そういったものを奪うような事態があって、それで大人として子供達に対する責任と希望。声を上げられない子供達、まだ力も無い子供達のことを考えると本当に子供達に対する責任と希望があるし。子供達の未来に対する責任があるっていうかね、そこのところなんですね。真剣に皆で考えていくということがあれば、そこに始めて希望というのが生まれるのかなと思いました。

・今仰ったことは分かるんですが、今の方は未来だ、子供達に対する責任、あるいは原発事故、汚染水。そういうことに関する定義や責任と希望について、議論しようということなんですが、その責任についてはどういうふうにお考えなのか。要するに責任は「こうあるからこういうふうにしなければならない」という筋書きになると思うんですが、ちょっとお聞きしててどういうふうに具体的に責任をお感じになっていらっしゃるのかなとそこのところをお聞きしたいのですが。

・具体的には、今回の3.11の原発事故については、国も東電も責任を取ってませんし、その上で六人、七人だったかな子供達が甲状腺がんのために、物凄い苦しんでそれで裁判をやっている訳ですね。そして、その現実というのがやっぱりかなり厳しい。体の調子が厳しいですし、子供達の症状が出ていて親と子が一緒になってやっていて。でも、福島県の知事なんかは「そんな提訴するなんて遺憾である」なんて事を言ってますし。ただ、やっぱり自分も子供の事を考えた時に正直症状が出てますし、私の体の調子は良くないですし。だから、そういう運動ですよね、そのことをやっぱり実際にちゃんと責任を取ってもらうような運動ということをやっていかない限りは、希望というのは持てないだろうと思うんですよね。だから、まず今回のこの被爆した子供達の問題以外にも色々と苦しんでいる人がいる訳であって。そういうことをただ見過ごして、なんて言うのか自分に希望があるということは言えるのかなと思うし、その辺のことですかね。だから、とにかく東電とか国に働き掛けていく。そして、皆に実態を知らせていくということは、やらなくてはいけないことではないかなと思います。

・お話を聞いていて、自分としては責任ですね。特に未来に対する責任って考えた時に全然自由にそもそも考えられるから責任がある訳で。個人的には、人間ってあんまり自由意志って自由に考えて決定することってほとんど出来ないと思っていて。じゃあ、責任なんて言うのはほとんど無いんじゃないかなって個人的には思っていたんですけど。ただ、お話を聞いていてやっぱり未来に対する責任ていうものを取っていくことによって、自分自身が気持ち良く生きていくことが出来るのかなと今感じました。

・今お話しをたことを聞いて思ったんですけど、責任の定義は置いておいて、ここに責任が今あるとしたら、今のこの状態よりも良い状態。気分の良い状態だったり、良い環境の状態だったりっていうのを今思う訳ですよね。想像したり、想像出来るということが希望の望む方ですね、今とは違う別の映像を自分の中から自分の意志とか気持ちから望むことが出来て、「そっちの方が良いよね」って自分の中の選択を出来る、その自分が今の状態よりも違う状態を望めるということが未来があるっていうことでもあるし。じゃあ、自分が望んだ所にアプローチをしていく。色んなやり方があると思うんですね。積極的に組織を作って、行動していったり個人的に何か個人の嘆願書を出すとか、SNSで発信するとか。また身近な所で、ご近所さんと話をするとか様々なやり方はあると思うんです。全てのものの基本に全ては変化している、変化しないものは無いっていう。変化していけるっていうこの世界の仕組みがあるので、未来もあるし希望も描く事は出来るのかなって思いました。

・議論の仕方についてこだわっちゃうんですけど、要するに責任について考えようって場合は何か問題が起こって、問題があるから責任についてどうそれを負うかという事になっていくんだと思うんですが。その問題が何かっていう事を出来るだけ明確にしないと議論は先に進まないのではないかなと思う。問題があって、その問題について解決あるいは改善するために、どういう責任を誰がという問題があるんですけど。どういう責任を取ったら、その問題が解決・改善されるのか。そして、どうすれば希望も生まれるのかっていうような話の展開になるのかなっていうふうに思うんですね。ですから、先ほどの原発事故の場合、「子供達が苦しんでいるよ」と、あるいは「被爆した方々がいるよ」と「体調が悪いよ」と。それは「政府の責任だよ」「東電の責任だよ」という事で問題がある。どういう責任を取らせるのかというふうに、具体的な話になっていかないと具体的な問題解決にもならないし、希望も生まれてこないんじゃないかなというふうに、考えてたんですけど。

・今の点に関して、前に「責任とは何か?」だったかな?「責任」について議論した事があって。「責任」という言葉遣いには、幾通りかの使い方があって過去何かしてしまったていう事に対して、その「責任を問う」という言葉の使い方もあるのと。それから、今私子供がいてその子供の未来に対する責任という言葉でも良いのですけれども、その場合の責任というのは何かしてしまった事を何か償うとかとは違いますよね。その子をちゃんと育てていく責任があるとか。多分今回未来に対する責任という言葉をテーマにした時、どちらかと言うと何か起こってしまった事の責任とか、何に対しての責任とか、過去の何かに対する責任という事よりは、これから未来に向けて自分達の子供という具体的に見える人達でも良いのですけれども、もっともっとずっと未来の遠い地球人に対する責任みたいなものがあるんだろうかと言った時には、「責任を取る」という言い方の責任とは違う責任という、その二つの責任があるという事は今日も頭のどこかに入れながら話していった方が議論がぐちゃぐちゃにならなくて良いのかなというふうに思いました。

・未来があるって事は、過去があっての未来だと思います。

・このテーマを見た時に、私はちょうど日大のアメフト部の問題、大麻所持がニュースでやっていて。それで、その後の大学の対応だとか記者会見を見ていると、「学生ファースト」という言葉が出てきたりしているんですけど、それ(学生ファースト)はどこに行ったんだろうなという感じを受けまして。若者とか学生とか、彼らの未来に対する責任を大学はあるのに、それをすっ飛ばして「学生ファーストはどこ行ったよ」という動きを日大がしているので、凄く自分はモヤモヤしているというか。国からの補助金を早稲田大学に次いで2番目に貰っている日大が、問題が起きたことで補助金を貰えなくなるからという理由で副学長に退陣要求とかして、結局身内のごたごたが日大の学生だったり、日大で働いている職員に被害や損害が及んでいるというのが、「どうしたよ?」と言いたくなる。7万人もの学生を預かっている立場の大学の対応に自分は非常にモヤモヤしていて、「日大の未来は暗いのかな?」って日大出身でも何でもないんですけど。今就職活動している日大の学生だったり、アメフト部でも事件にかかわっていない部員へのケアとか彼らのサポートとか、そういう事を考えると中々どうして厳しい未来なのかなと思った次第です。

・半分ちょっと今のに茶々を入れるような形になってしまうけれども、補助金問題でああやって「辞めろ」と言っているのは、もしかすると大学側を贔屓目に見るとすると、補助金みたいに分かりやすいもので確実に人を落とせそうな所で、落とした方がいいからってあの手を使っている可能性はあるなとみていて、あんまり学生の未来を考えていないってあの辺のやり取りだけを見て言っていると危険なのかなって思いました。絡めて考えていうと、日大の人、学生さん達の未来をどうするかって議論、得意アメフト部の人達をどうするかって議論をする時に、「でも、アメフト部の人達自身知っていたんでしょ?」っていうような話ももっと考える必要があるだろうし。そうすると、勿論アメフト部の中に真面目にやっていた人もいるだろうし、全く知らない人もいただろうと思うんですけれども、でも知っていた人もいるだろうし、そうでもない人もいて。なんかそういうのをまとめて、一緒くたにして議論してしまうと何となくぼやけてしまって、原発事故問題もだから同じような事に行きついてしまう気がしていて。なんかぼんやりと、誰に対して何の責任なのかっていう話をしていると、ちょっと話がぼやけるのかなって。僕ちょっと遅れてきたので、見えていない所もあったかもしれないですけども、最初中々話についていけなかったのは誰に対して何の責任の話をしているのかっていうのが、とっても見えにくくてぼんやりした集団に対する話をしているなと思って、見えていたのが感想です。

・今原発の問題と教育の観点の話が出たかと思うんですよね。全ての問題は繋がっているとは思うんですけども。例えば、大学の問題と言えば大学だけではないんですけれども、1990年代からの所謂「新自由主義政策」っていうかね。その中で、教育なんかはもう競争原理の中に置かれているっていう事をまず私達が意識しなかったら、本当の事って分からないじゃないかなっていうふうに思うんですよね。それで、あの国立大学も法人化っていうか、競争しないと生きていけないような大学にされている中で、学生も今まではもっともっと自由があったんだけれども、何というか一つの会社と同じような形で経営されていて本当の学問が出来るような状況に無いっていうふうに私は見てるんですけれども。何と言うか管理されているっていうか、国家に管理されている点が物凄く強くなっている。それは、全て教育の現場において、小学校それから中学高校でそうなんですよね。そういうような状態の中において、とにかく子供達が苦しんているっていう事があって、実際に問題なんかもそういう事とは無縁では無いっていうか。やっぱり、そこに不正なお金の動きというものがあって、全体として教育の内容というのが自ずと変わってきていて。やっぱり、大人の世界が歪められてる中で、そういう事が起こっているという事はあるんじゃないかなって、ちょっと大雑把な話ですけれども、そのように感じています。

・一番初めに話された女性の話は、子供が原発で被爆して甲状腺がんになったという事は、その子が健康で文化的に生きるっていう権利が原発によって奪われたっていう事に対する国なり東電の責任という事で明確になると思うんですけど、それとは対照的に問題が起こった事に対する、誰が問題を起こしてどういう問題が起きたかに対する責任を取るというのと、先ほど世話人が言った子供を育てる責任ていう所でちょっと考えてみて、私相馬市に住んでいて福島市に来る時に玉野が間にあるんですね、山ん所に。あそこをずっと伊豆でしたっけ?あっちで土砂災害をやった所のそこに絡んでいる人がそこに一枚噛んでて、あそこはほぼほぼ禿山になっていてソーラー発電、メガソーラー作っているんですね。地権者はお金をあげていて、お金を凄い金額を借りて回っているので、その人はお金を貰えるからいいですよね、周りに何を言われようが。果たして終わった後儲かった後、撤退して土砂災害、下流域の相馬とかあの辺多分土砂災害起きると思うんですが、起きた時には明確に責任、その人は撤退しているから責任の所在は誰になるかって問題もあるかと思うんですけども。禿山にしてしまったっていうこと事態が、問題が起これば責任は家が土砂崩れした、氾濫したとかね、問題が起こると思うんですけども起こらない状態であんなふうにしてしまった責任とか。問題は起こらないけど、ああいう状態で色んな所に出来てしまって良いのかっていう。なんでしょうね、起こってしまえば責任問えますけど、起こらない状態であれは良いのかなって、私的にはダメじゃないかと。山梨とかはああいうふうな開発が進むのを嫌って、山梨県知事は作らないっていう宣言出したみたいですけど。ちょっと、すみませんまとめってないんですけど、世話人が言った子供に対する責任という方で考えたいなと思うんですけど、やっぱりぼやけてしまうのかな?問題が起これば誰が責任者で、どういう問題が起こったという事が明確化できるんですけれども。すみません、ちょっと中途半端で。

・今のお話を聞いていて感じたのは、まだ起こっていない問題の責任を考える必要があるんじゃないかってお話しだったんですけど、まだ起こってない事に対して良いとか悪いとか価値判断というのを、今の僕達がやっていかないと、勿論行動に移せないので判断をしていく必要があると思うんですが。実際に害を被ったり、恩恵を受けたりっていう未来の人ってのは、勿論孫とか子供とかの世代だったらまだいるかもしれませんから、想像できるんですけれども、それよりずっと先の時代っていうのは実際に価値観も変わってきているかもしれないし、また色んな科学的知見がまた入って来て、「実はこれは悪くはない」みたいな事が起こるかもしれないと考えた時に、何が良くて何が悪いのかって判断をどういうふうにこれからしていけばいいのかって、結構難しい問題っていうか。未来に対して責任を取るっていうのが、なんか簡単にはできないし、先ほどからの女性の話にもあった通り、過去についての責任というのは実際に皆が考えていって責任を追及するっていう可能ではあると思うんですけど、未来というのは過去とは違ってまだ実在していない事なので、それに対して責任を取っていくというのは難しい事なのかなと感じました。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.9.23.「お金を稼ぐこと」

2023年10月12日 13時27分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
9月23日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には7名、オンラインでは2名の計9名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、テーマはお金を稼ぐことと言うテーマを選びました。これも2月に何もテーマ決めずに、皆さんから色々テーマを出してもらって、そのときに「お金を稼ぐことはいいことか?」みたいなテーマが出されたので、それを取り上げます。お金のことをこの哲学カフェで取り上げたのは2012年の時に「お金は大切か?」というテーマで一回やったことがあります。その時は、お金は大切かですから、勿論お金全体の話をしたんですけど、今回は「お金を稼ぐこと」というふうになってますので、お金全般の話になってもいいと思うんですけども。お金を稼ぐという、特に労働とかそういったような方にも近づけながら話していけたらいいのかなというふうに思っております。それでは、ここからは本当にもう自由な対話を待ちたいと思いますので、どなたからでも発言のある方は手を上げてください。

・じゃあ、お金の定義についてはじめたほうがいいかなと思いまして。「お金とは何か」というここから行った方がいい。今の常識で言えば、お金は貨幣というか、通貨というのは何かということになると。国で流通させている代替物というか、物を買うのに値するものを通貨というんじゃないかなと思うんですけれども。それを得るがために稼ぐという活動が入るんじゃないかなというふうに思いますが、いかがでしょうか?

・「お金を稼ぐこと」はどういうことか、はっきりした方がいいかなというふうにという思います。通貨に関しては先ほどの方の仰る通りなんですが、お金というのはそれぞれ、我々毎日生きてて、いろんな希望、欲望があるわけ。「何かしたい」とか「何か買いたい」とか。ということで言えば、我々の希望や欲望をか叶える手段ということを考えてもいいのかなと。そのため貨幣が必要という事になっているんだと思うんですが。それともう一つ「稼ぐ」ということは、単純に言うと「働くこと」なのかな?だから、「お金を稼ぐこと」は働いて金を得るというふうに理解していいのかなと思います。

・今の意見を受けて、補足というか結局「お金を稼ぐこと」というのは、「労働の対価を得る」ということでよろしいのかなと。結局、労働しなければ対価としてのお金は貰えないということだと思います。

・「労働の対価」というふうに仰ったけど、普通そうだと思います。でも、言葉の使い方としては、「荒稼ぎ」とかね。詐欺とか労働なんかあんまり関係ない事に使うんで、必ずしも労働の対価だけではないのかなという気持ちがあります。ちょっといちゃもんつけたりしてすいません。

・「お金を稼ぐこと」ということで言うと、このテーマを見て最初に思ったのは「お金を稼ぐこと」がこの社会っていうか、自分が見てる範囲でなんかもう絶対貸してると思ってて。お金を稼がないとダメみたい。お金稼ぐことはいいことという観念が自分の中に取り付いていて結構、これが辛い。拝金主義が辛いってことを言いたかったです。

・繰り返しいなるかもしれませんけど、お金を持ってれば幸せなのかを考えてもらえば、少し分かるかと思うんですが。お金持ちが必ず幸せとは限らないと思うんです。うちなんか超貧乏ですけども、まあそれなりに夫婦と猫一匹で幸せに暮らしているとは思いますが。お金がなくても、それなりの幸せを感じることはできると思います。

・まず「お金とは」の定義の辺りから。もうちょっと深めて定義のあたりを深めてから、価値判断の話に移っていった方がいいかなというふうに思うんですけども。最初「貨幣」という言い方をして、それを「通貨」って言い換えられて。もともとお金の出発点は「貨幣」だったものが、ある時期から「紙幣」になって。つまり、「貨幣」にはそれなりの何かしら金属的な価値があったわけですけれども、どこからかそれがもうただの紙切れでいいと言う風になった。それで、最近本当に思うのはそういう現金がもう要らないとは言わないけども、給料を現金でもらったことが僕はないのかな、あるのか?バイトしていた頃はあったかもしれないけども、もう全部銀行振込で。通帳に印字されている数字が何ていうかまあ。見たこともないお金というか、でもそれは私のお金でいろんな交換できる。もちろん現金にも変えられるし、それを通じて他の物にも変えれるふうになってきていて。もう今、本当に通帳の数字だなと思っていたら、最近さらに携帯とかスマホの中におサイフケータイというアプリが入っていて、それでもう「ピッ」てやって、なんか出来るみたいな風になってきていて。まあそういうそのお金のあり方自体が終わっているかなっていうことも、今日の話に関係あるのかないのか。「稼ぐ」という意味ではあんまり関係ないのかもしれませんけども。なんかお金のあり方が変わることによって、いろんなのが変わるってことはあるのかなというふうに思って聞いていました。できれば「お金とは?」というところで何かまだありましたらお願いいたします。

・「お金」っていうのは、例えば「あの人がお金持ちね」とかっていうふうに言うのが一般的なんですが、もうちょっと広く「財産」という意味合いでもいいのかなと。元々お金は「金」だから、ゴールドですよね。それが今や仮想通貨で、いわゆる「お札」とか「貨幣」という形ではなくなっちゃって。要するにインターネット上に計上された数字だけ見た。ただ、それは特定の人の名義は付いているということで。 お金というのは「通貨」「紙幣」「財産」、それから「仮想通貨」みたいなネット上の数字に名前のくっついた数字ということを考えてみました。

・お金を「通貨」と言いましたが、現在は電子マネーが結構主流になってきまして、給料自体がで電子マネーで振り込まれるっていう企業もあると聞いています。まあ、私も電子マネーをよく使いますけれども、便利なもんで。結局通用すると言うことは信用しているということで成り立っているのではないかなというふうに思います。

・最近読んだ本ですけど、もう世界は「金本位制」で金をいくら持っているかによって「紙幣」を発行できたみたいなんですけど、いつからかそれを辞めてしまって。国ごとにもばら撒きたいだけばら撒けって。なので、今信用とおっしゃいましたけど、金と紙幣が等価で割合で交換できるって言う時代ではもうなくなって、国によっては発行できればバンバン発行できて、まあここ三年間ずっとコロナだったということもあっても、紙幣がもう大量にばら撒かれているような状況で、やっぱりその紙幣が果たして買い物なんかを普通にコロナ前と同じように買物ができるので、紙幣の価値はあると思うんですけれども。それはやっぱりみんなが信用してるっていうか信じているから、その経済活動が成り立っているのかなって。それが破綻したりすることもどうなんでしょうかね?あんまり経済詳しくないですけど。みんながみんな信用していれば、買い物も成り立てば普通に生活できるからいいのかな。これがだんだんインフレとか、そういった形になってくると、やっぱりお金の価値とかも下がってきたりして。どうなのかなっていうふうに、お金に関しては今話してて思いました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.8.19.「宗教を問う」

2023年08月31日 01時10分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
8月19日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは6名の計17名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは対話に入って行きたいと思います。本日のテーマは「宗教を問う」という大きめな問いにしていました。宗教といえばやはり先だっての安倍元首相の暗殺事件でしょうかね、狙撃事件がありまして。それ以来、特にカルト宗教と言われているというか元統一教会の問題なんかも、だんだん分かってきたり。それが政治とどう結びついていたかみたいな話なんかも現状最近あんまり言われなくなってますけれども、結構大きな問題なのかなというふうに思っていたり、それも含めて、昔から古来からある宗教もそうですし、新宗教とか言われる明治以降ですね出来上がってきた新しい宗教の動向とかもあったり、もう古い話になってしまうのかもしれませんが、オウム真理教の事件とかもあったりとかしてですね、宗教って日本人は割と多くの方はあまり積極的にこの宗教に帰依してると言うのを見せる方はいらっしゃらないんですけれども。でも、お盆の時期はやっぱり、自分のお寺にお参りに行ったりとか。でも、年末はクリスチャンじゃないのにクリスマスをお祝いしたりとか。その1週間後には神社に初詣に行くとか、割とそういう割と宗教に関しては世界的には曖昧なと言われるそういう行動が多いんですけれども、世界全体の中で見ると、こんなに宗教とか信仰が非常に薄い民族は本当に稀なわけでして、今だに強い信仰で生きている人々もたくさんいらっしゃる。その中で、日本には日本独特の宗教のあり方っていうのがいろんな形で出てきていて、それがいろんな問題を起こしたりとかことが起こっていると。そういう中で、「宗教を問う」ということで、結構宗教についてはどこまででも問うことはできるわけですから。非常にラディカルな問いでもあるわけですけれども、そこら辺も含めて、ぜひ宗教について色々と考えを深めていければというふうに思っております。それではどなたからでもご発言をお願いいたします。

・初めてこちらの場にさせてもらったんですけれども、行きたい行きたいと思ってても何年にもなるんですが。だいぶ前から行きたいとは思ってたんですけれども、中々機会がなくてっていうか。色々テーマがあると思うんですけれども、今日の限りましては、「宗教」ということで、どうしても参加したいなということできたもんですから、今回参加させていただいて、意見をちょっと述べさせていただきたいなということでやってきました。

・今日のテーマの「宗教を問う」ということなんですが。最初、こういうテーマだから「宗教っちゃなんだ」っていう話が出てくるのかなと思って。まあ大雑把に言って宗教っていうのは。まあ、一つは教祖様がいると言うこと。それから集まりというか、信者がいて信者の集団があるのかな。それからそういう方々が集まる場所。キリスト教の教会だし、イスラムはモスクだし。仏教で言えばお宮さんだとか、お寺さんだということで。教祖様の前提としては、神様みたいなものを想定と言うと叱られるんだけど、神様・心的なものを信じていると。要素としてはそういう三つぐらいかなと。そこで「宗教を問う」と言うことなんですが。困った時の神頼みとかね。イワシの頭も信心からとか、まあ色々出てくるんだけど。宗教の一番単純な事態というか現象というか。人間はお母さんとお父さんから生まれてくるわけだけど、赤ちゃんはお母さんの子宮から出てきますよ。乳児・幼児がだんだん成長してくんだけど、乳幼児の時期って、言わばお母さんは全能の神様みたい。だからお腹が空けば「お母さん、お腹空いたよ」ということで泣き泣いたりするわけで。もう少し成長して困ったことがあると。「パパママ助けて」と。要するに呼びかけみたいなことをして、助けてくれるママやパパが神様みたい。成長して大人になって、いろんなことを悩んだり、苦労したりの場面に出会うんだけれども、非常に苦しくなると赤ちゃんが「ママ助けて」「パパ助けて」と言ったみたいに大人ではあるけど心的なものにすがりたくなると。まあ、そういう事なのかなというふうに考えているんです。

・今のご意見に対してちょっと補足とまでは行かないと思うんですけれども、結局宗教っていうものは救いを与えるものだというふうな意味と解釈したんですが、間違いではないでしょうか?結局、物質的な今では母親はもう全てであると。ただ精神的な意味では、「神が救いを与える」という風な意味の解釈でよろしいのかなと思います。要するに、我々が神様との関係を求めるのは、根本的には不安があるから。やっぱり不安があるがゆえに解消したいといつも思ってるんですよね。だから、「神様に頼むよ」と。物質的なものを得られるかは、普通は無いけど新興宗教みたいなものでは、そういう見返りがあるようなこと言ってるところもあるかもしれませんけれども。要するに、一般的には信じることによって、悩みとか苦しみだとか、そういうものが癒されるというか。安らぎとか老いることの不安を解消できると言うのが根本かなと私は思う。

・私は日本人は典型的な無宗教者と呼ばれるものだろうなと思いながら、今日この間にいるんですが、今までのお話の中で、不安が根源にあるから、人はその宗教を信じたりするというところに、私もとても納得していて。私は信じる宗教はないんですが、ただ本当に自分が気持ちが不安になった時だとかに何かこう導いてくれる、こうしたらいいよっていうなんかレールみたいなものがあったら楽なのになあって思うことがあって。それが人によって占いだったり、宗教だったり。あとは、今はアイドルとかキャラクターアニメとか漫画とかのキャラクターのそういうを「推し」になったりするのかなと思うんですが。私も実際「推し」がいて、その「推し」が「こういう風な生き方っていいよね」ということを発信してくれれば、「そうだよね」と救われる気持ちになることもあって、その宗教は入ってはいないんだけれども、無意識的に何かこう救いを求めるというか、こういう道があったら自分は楽になるのにっていうところが、根源的な自分の感覚としてあるなというふうには思っています。

・何人の方が不安というようなことをおっしゃっていて、それは確かにその通りだと思うんですけれども。「現世利益(仏教用語。仏を信仰した結果がこの世で実り、欲望や望みが叶う事)」みたいなのありますよね、病気にかかりませんようにとかね。大学受験合格みたいな。そういうのを宗教に求める人もいるし、不安だからってこともあると思うんですけれども。例えば、キリスト教であるとすると、それはもう宇宙の創造とか。要するにあらゆるものが最終的には神の国になるみたいな目的性まである。そういうことで全てを説明してくれる。つまり不安だとかっていうような気分的なものっていうのが、実際にその宗教にはまってしまう人たちのその要因としては大きいと思うんですけれども、そこだけ見ててもちょっと違うかなと思うのは、その宗教的な世界観。それの倫理的な正しさとかですね、美しさとかですね。それが真実だと言い切れるようなロジックとかですね、そっちの部分も見逃してはいけないのかなと思います。例えば、僕はオウム真理教の事件の時、私は彼らの主犯格だった人たちと世代が同じなんですね。それで実際に彼らが通ってた学校とかにも出てたりしますんで。それで、どうしてあんな事なっちゃったのかなっていうのを考えた時に、これ僕決して取材したとかなんとかで裏取ってるわけじゃないんですけれども、思ったのは不安とかもあるでしょう。生き方でどうしたらいいかってのもあるでしょう。同時にオウム真理教というのが。一切合切の正しいことを世の中の真実を明かしていると世界がこういう風になってるんだってことを述べているというふうに、彼らは思い込まされてしまったというところがあると思います。なので、不安感とか感情的な部分と同時にその宗教の持ってるその完全性みたいなことを言いはる。そのやり方についても考えた方が良いなと思います。

・今の意見も踏まえてですね。宗教が人間にとって必要なものは心の拠り所であって、その一つが宗教であると私は思うんですけれども。心の拠り所は何でもいい。哲学でも良いし、その反対側にあるのが宗教ですから。または私も音楽を色々好きで聞くんですけれども、音楽でもいいと。ということ、先ほどの方が無宗教だとおっしゃいましたけれど、無宗教だって別に構わないんですよ。生きる上に必要な物は自分が信じるもの、好きなものそれでいいと思うんですけれども、その中に宗教もあるということをちょっと考えてはもらいたいなというふうに思います。人間信じるものがあれば癒されるというようなことで、宗教という信じるものがあるということともう一つ。それを言葉で言うと、信仰と。そして、仰ぎ見るものもないと中々宗教的にはなんないのかなと言うように思うんです。だから、信じるものがあれば宗教かなと。例えば、俗な言い方ですけど仮にマルクスを信じる宗教なんていう言い方をすると、一部の人に怒られるかもしれないけれど。要するに、マルクスからマルクスの考え方、『資本論』を本当に正しいと信じる。いわばマルクスが教祖様で、要するに今の資本主義のありようやいろんな悲惨な所を直して行くには、それを実行して改革をして、そういう共産主義的な社会を創っていくんだと言う。もちろん、共産党というのを作れば組織になるから、そういうものだって宗教的になり得るんだと思うんですよ。するとオウム真理教の場合、言われたらこんな高学歴な人達がなんでこんな嘘っぱちみたいなものを信じるようになったんだと言い方がまあされたんですけど。今もあちらの方で話されたけど、信じさせられちゃった。教祖が空間に浮かび上がるとか色んなことが本当か嘘かわからないような。そういうようなことを行ったりして、信じさせられちゃったという言い方をされたんだけど、実は信者っていうのはそういうこと信じたんですよね。信じさせられた。それは他から見てそうなんだけど、本人は信じたんです。宗教というのは自ら信ずることがないと中々絶対的なものにはならないというふうに思います。それと私は思うのは、こういう例でキリスト教の場合は神が宇宙の創造者ということで、一神教と言っていいと思うんですけど。これって豪雨とかいろんな自然災害など、昔で言えば嵐とかね。自然災害の裏には。それを起こす神様みたいな存在がやってみる。アニミズムっていうふうに自然の背後にそれを打ち出している存在があるというふうに見てるんだと思う。それで、キリスト教との比較で言うと、旧約聖書ができた頃の時のことを考えると、要するにそのアニミズムとデータとかでこれ言うと、信者からは本当に怒られそうなんだけど、要するに自然災害の背後にそういう打ち出す力を持った存在を神だと。要するに祖先崇拝とかあるんだけど、それを遡って行くともう始まりがあるんじゃないか、必ずそこにぶち当たって。「宇宙の始まりは何?」と、それは神が創造したんだ。そこら辺が一神教の神様の始まりなのかなというふうにも思うんです。そういう意味でアニミズムとちょっと似たところがあるな。キリスト教の旅を追うとそういうふうに捉える人とそういう捉え方だと。私が絶対正しいとは思ってるわけではないんですけど、そんなふうにも思います。

・宗教に関しては勉強をしてないのですが、皆さんのお話を聞いてて感じることはオウムとかもそうですけれども。宗教は信じこみなんで、その信じこみとあと観念論ですよね。あとは人との関わり方。人とどれだけ関わっているかっていうことが関係あるのではないかと言うこと思うんですね。そこに大きく影響しているのが物質的な環境ですね。それがあると思うんですね。古代というか、まず狩猟の時にはみんな獲った獲物を平等に分けたんですよね。ところが農業が発達してくる中で貯めることができるようになりますね。一部の人はいっぱい食べる。そうすると平等な分配ができなくなる。そういうところから精神的な問題が出てくるっていうか。なので、環境というのとあと不安ですね。とりわけこの社会が競争社会であると言うことは、もう本当に否めない事実なので。そういうところでね。やっぱり精神的な不安になるのは当たり前のことなんですよね。その時に宗教に救いを求めるというか。

・今回初めて参加させていただきました。皆さんの色んな積極的なお話をお聞きして、大変ありがたいなと思って興味深く拝見しました。今日の議題の中で宗教についてということでしたので、私自身の考えというか、若い頃は色々仏教とかキリスト教とか、あとは新興宗教とか色々勉強をちょっとやってきたんですね。そん中で感じたのはですね、宗教は色々と立派なことを言ってるんですけども。最終的にやっぱりお金ですから。「浄罪」とか言って、そういったの結構今まで多かったです。だから、信仰の為に、俗に献金とかなんかお金が絡んでくるな。一体どれくらいお金かかるんだろうかって思って、今も悶々としながら今まで生きてきました。確かにそういった組織として成り立つためには、やっぱりお金は必要なんですが。統一教会もそうでしょうけども、なんだかんだ言いながら、やっぱりお金がないと組織として成り立っていかない部分もあるんで。でも本当にそのお金自体が、この我々が生きていく上で、潤滑するには必要なんですけども。宗教として捉えた時になんだかんだお金は必要なのかと。神社に行っても賽銭出せとは絶対言わないけど、賽銭を出すのが当たり前みたいになってるけど。でもそれって本当に神様にお金出してるんじゃなくて。当の神主さんが生活する為に必要な生活費入れてんじゃないかなっていうふうに考えるときあります。教会に行っても献金はありますけど、それって司祭さんの生活するためにとか、あるいはその状況だったためにお金出してんのかいと。新興宗教でも、やっぱりなんだかんだで最後はお金。私、いろんな宗教とかに顔出しましたけど、最後にお金の話が出てきたときに、「これは本物じゃない」と、結果を出しまして。琵琶湖とかの方面に立派な神殿建ましたとか、そういう話聞いた時に「じゃあ出したお金ってそういうのに使われたんですか?」って。だから本当に下世話な話ですけど、宗教を考えたときにそんなにお金は必要なのかなって今でも思ってます。逆に最近人間の基本的な根源的な欲求とかの気持ちとしては、本来人間っての人に喜ばれると嬉しいって本能があるって聞いたことあるんですね。自分が人から愛されたり何かものを送られたり、人様の役に立ったり。あとは人から称賛されたりという人様のお役に立てるような生き方は、できればそれはそれ自体がもうすでに宗教なんじゃないかと。お金関係なしに自分が朝方散歩してる間に夫婦で歩いてる方は見かけたことあるんですけども、落ちているゴミを拾っている人を見かけたことあるんですけど。実際、人から見られない中でゴミを拾ったり、人から認められないけども、誰からも見られてないけども。みんなの役に立てるようなことやってる人を見た時、私は手を合わせました、陰ながら。だから宗教の一番はお金ではなくて、みんなに自分が人様から社会の役に立ってうれしいって、思えてもらえるようなその延長とか、その積み重ねじゃないかと思ってます。

・本日は初めて参加させていただいて、「宗教を問う」というタイトルだったので、ちょっとご参加させていただきたいなと思いまして、私歴史がとても好きで、歴史が趣味でこう色々こうして勉強とかするぐらいなので、宗教に対して深く知識とかはないんですが、歴史を勉強している中で、やっぱり宗教の歴史は切り離せないところがあるのかなっていうところで。今回は「宗教を問う」というところで、またこう宗教に関して考えていたところをおさらい程度にお話したいなと思ったんですが。世界には五大宗教がある中で、仏教、キリスト教、イスラムユダヤ教、ヒンドゥー教とある中でキリスト・イスラム・ユダヤはエルサレムに起因して一神教の宗教に基づいて、日本には中々馴染みがない。イスラム教とかユダヤ教は世界的には、ここが一番大きい信者がいるところなのかなってところはあるのかなっていう風に思ってます。仏教とか江戸時代までは儒教の授業として、どちらかという宗教ではないんですが、教えるところですかね。中国で、清国まではずっと儒教ベースにOSとした国づくりが行われていたところで、日本では飛鳥時代に中国から仏教がどちらかというとこう政治OSとしてこう取り入れられて、政治をするための仏教という形で取り入れられた部分が宗教としては大きくて。当初は貴族の中でやっていたものが、段々歴史を編成するにあたって、浄土宗とかそういった曹洞宗とか日蓮宗とか、そういった市民に街の方、市民単位で教えられるものになってきたのが、今の宗教にどんどん繋がってきてるのかなと。根源として考える中で、今の仏教は元々日本に仏教が来た段階でも、どちらかというと政治のための仏教っていうのがどうしても強かったのかなっていうのがあって。元々日本は多神教ですし、800万の神様を信仰していて、どちらかというと教えではなくて、神様を信仰していた民族の多い所に、仏教の考えが入ってきて、それらがミックスされながら、天皇を中心とする国に多くの神を信仰するというのが日本なのかなっていうのが、根底にはやっぱりどうしてもあって。なので、公無宗教というよりは、本当に元々日本は、色んなものをミックスして良い所どりをしていくのが日本の特徴なのかなというふうに思っています。宗教離れというよりは、まあ元々宗教は日本には馴染みが深くて。おそらく今の市役所とか町村があった機能が元々神社にはお寺にあって、お寺の古跡を管理していたと思うので、どちらかというと市民や町民、村民の方がお寺に行く機会が多くて。そういった中で仏教の教えだったりとか、生まれてから死ぬまでもお寺に行って入って教えてくれることがあったので、そういった教えを学ぶ場所が元々あって、そういった考えを元々もう小さい頃から教わっていたのが、昔の考えなのかなというふうに思っています。そういった中で、キリスト教も西洋の国ではだんだんこう離れているっていうのは、やはり科学の進歩がまあ一番大きいところなのかなっていうふうには思っていて。今まではキリスト教とか、イスラムの教えが世界の全てで創造世界が始まったのキリスト教の創造主は初めて全てを生み出して、全てを作り出して、全ての教えというか。全ての根源は『新約聖書』、あるいはユダヤ教であれば、旧約聖書から全て治まっていたんですが。進化論ぐらいから、だんだん科学が発達してきて、キリスト教の教えじゃないのかなっていうところから、だんだん科学の方にスライドしたきた中で。宗教の教えいうのが中々市民の方に受け入れられなくなってきてる部分があるのかなっていうふうに思ってたら、宗教の歴史っていうところを問うというところなんですが、やっぱり問うというところで、やっぱり教えを教わる場所がまずなくなってしまったというところが、まず一つ宗教離れところがまず一つあるのかなっていうところがあるのと。科学を信じ過ぎた結果、科学で説明できない目に見えないものとかなんともこう解決できない問題への作用がやっぱりあって。それが新興宗教とか眼に見えないものとか、スピリチュアルとか、そういった所への説明をスピリチュアルにこじつけて説明なんか、あたかも本当かのように教えているのが新興宗教とかの部分に関わってくるのかなと思って考えています。まだここまでぐらいしか自分の頭の整理できなくて、宗教ってかなり大きいテーマなので。私はどちらかというと歴史が好きなので、今の皆さんの宗教に対する考え方とか、どういう風に考えてるのかなっていうのを、皆さんの意見とかもちょっと聞きながら自分の考えを深めていきたいなというふうに考えていたので、ちょっと分からせていただいたところではありました。

・今までの話の中で、宗教とお金の話が出てきて。確かに現実的には宗教活動するためのお金が必要になっていると思います。でも、これって考えてみると、人間が生存するためには単純に言って衣食住これが必要で我々生きて行くためには、衣食住を確保するためには働いてお金を得る、お金を得ないと生存できない。こういうことだと思うんですよね。縄文時代やもっと前に自給自足社会はともかく、そういう時代でわなくなって、全て働いてお金を得て生存をしていると。要するに宗教団体も同じですよね。団体として存続する為には人間が存続するためにお金が必要であると同様に、やっぱり宗教団体だってお金が必要となってくる。特に、その宗教団体の方々、信者の方々、これぞ真実だよと、こういうことは社会に広めていかなきゃならないというふうな活動しようとすれば当然お金の問題が出てくる。お金を集めると現金を募ると言うようなことになってくる。ただ、ちょっと見損なっていけないのは、やっぱり宗教心の問題。今日の例で言うとイエスさんは貧しき者は幸いなりと。つまり別に金でもって存続させようということではない。根本は違うんだと言うことを押さえておかなきゃいかんなというふうに私は思ってます。

・そうですね。お金の話が出たところで、私が思うのは、今の宗教界の弊害というのは大乗仏教的な考えが蔓延っているというか。まあ教壇の運営するにはお金がいる。そのためには信者からお金を集める。お寺さんにしても、やっぱりお寺を維持するためにはお金がいるので寄付してくださいと言うことだと思うんですが、結局宗教は進めてもいいけど、強要してはいけないというのが私は思うところなんですけれども、異論はあると思うんですが、日本の宗教に限れば、仏教と神道が混在している状態でその宗教も色々あるんですけれども、基本は先祖崇拝なんですよね。仏教にしろ神道にしろ、国家神道という時もありましたけれども、今の神道で言えば、個人の信仰が一番大事で。それをみんなに押し付けることは、宗教の本来の目的から外れているんではないかなと言うふうに思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.7.15.「いじめ」

2023年07月18日 22時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月15日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは5名の計19名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日は「いじめ」というテーマにしてみました。珍しくテーマを問いの形にはしないで、ただ「いじめ」と言うだけになっております。ちょうどこの数日前にも芸能人の方が自殺されたりとかしてですね。どういったことが「いじめ」になるのかどうかといったことも含めてですね、「いじめ」について色んな観点から話し合っていきたいというふうに思います。それで、ここからはご自由に発言してください。発言がある方は会場の方は挙手をお願い致します。そしたらマイクを持って行きますので、マイクを受け取ってからお話ください。

・世話人の方から、事前にてつがくカフェの対話のルールについて説明があったのですが、その中で気になったことが。対等な人間関係という考えで話し合いしてくださいということと、あと上下関係ということを持ち込まないと。例えば、外では上司と部下の関係性、生徒と教師だったり。ということは、普段の社会生活にこういうことが、蔓延ということではないんですけど、かなり、浸透としてるのかなと。対等な人間関係で行きましょうと言うことだけど、中々そうなってない現実の社会があるということと。あと上下関係で、パワハラなんか一種のいじめだと思いますけど、特に上下関係で圧力をかけたりするわけで。こういうのが日本の社会ではかなり蔓延してるというか。蔓延とまで行かないけど、人々の間で意識されてるいうことなんです。それともう一つは、会場に入ってくる時「いじめる側がなんで逃げなきゃいけないの」と書いてあるのを見た訳だけど、ある意味でいじめられた側は逃げて当然だと。だから、いじめられた側がなんで逃げなきゃならないということでしょ?いじめられる側が逃げるっていうのは、ある意味当然だと思う。要するに暴力とかね、圧力がかかってくる訳だから一人でこういう対象になった場合、逃げないと異常に気づく。暴力でやられたら傷ついちゃったわけだから当然逃げていいんじゃないかと。だから、なんでいじめられた側が逃げなきゃいけないのか。だからそういう風にならないような社会を作っていかなきゃなんないということなんで、やっぱり人権意識とかね、そういうのをよく社会の中に、分かるような状況ということが必要なのかな?大変、世話人の話とポスターの文言を見てそんなことちらっと今思いました。

・ポスターに書いてあったセリフはあれはちょっと前にドラマ化されていた。原作は漫画なんですけども、そこに出てくるセリフなんですけど、あれは要するに学校でのいじめを念頭に置いて、いじめられた側が逃げなければならないのか、あるいはいじめられた側を隔離するみたいな、そういうことが行われるんだけど、それはおかしいんじゃないのという。むしろ、いじめる側を隔離すべきなんじゃないのかっていう。そういう文脈で言われているセリフですね。まあ、当然逃げていいし、逃げるべきだと思うんですけども、要するにその学校とか会社もそうかもしれませんけど、やっぱ逃げようがないっていう状況の中で、いじめられた側が逃げなきゃいけないっていうのはおかしいんじゃないのという。逃げるってことは、例えば会社で言うならば、要するにもう仕事がなくなるっていう収入がなくなるってことだし、学校で言うならば、要するに勉学が遅れるっていうことですから、そういうなんでそのいじめられてる被害者側がそういうふうな不利益を被らなきゃいけないのかっていう。そういうちょっと捻った文脈で語られたセリフのかなというふうに思います。

・いじめにあったような時は、状況を正しく理解して逃げるなり、その場の責任を持っている人に対応せまるなり、正しく反応するべきだと思ってたんですけれども、あのテレビを見てびっくりしたのがあの浅田美代子さんっていう女優さんがテレビを見ていて、「ああ、いじめなんてあるのね。大変ね、私の頃はあったのかしら?」みたいなこと言ってたら、お母さんが「あなたいじめられてたじゃないの?学校でひどいいじめが起こってるって大問題になったのよ」って言われて「え、そうなの?」とかいって。浅田美代子さんは周りの人が、「あー、機嫌悪いな」としか思っていなかったという話で。差別とかいじめとか、無視しないで対応すべきだと思うんですけれども、いじめられてる当人が気づかないとかスルーするという状況はどういう意味を持つんだろうと思っていたんですけれども。それで最近のことで、汚染水の海洋放出について、福島の人があまり反応していないのは、自分たちが差別を受けたり、いじめられてるのに、その自覚が無く気づいていないんじゃないのかなっていう状況なんじゃないのかなと、ちょっと結びつけて考えてしまったりしました。

・今の「いじめ」に気が付かなかったって話と繋がるかわかんないんですけど、「いじめ」とあとちょっと笑いにするために「いじり」という言葉もあって。その捉え方って難しいんですよね。本人にとっては「いじり」のつもりでやってるんだけど、受けてる方は「いじめ」に感じてしまう。けど、そこでちょっと笑いが起きちゃったりすると、全体としては笑いとしての答えになっちゃうのってあるなと思って。今、例えばテレビでそういった「いじり」の文化が減ってきてるようです。私もテレビ見なくなっちゃったんで、あれなんですけど。「いじり」で嫌がる人がいたんだなってのは、最近になって風潮で感じるようになりました。

・昔と今が大分違ってるっていうのは、子供が小学校の時にすごく感じたんですけども。昔は近所に駄菓子屋さんがいたり、お店屋さんがあって、学校と家だけでない別な逃げ道があったと。私の知り合いは山で日々過ごしたりとか、逃げ道があったのに今はそれが無くて。学校と家だけの人間関係。そして学校の教師がなんかいじめを見過ごしてしまう。それこそ「いじり」だって言われるけど、やられた方は「いじめ」な訳ですし、そういう世の中が私達が子供の頃とちょっと違うという。親のストレスが子どものはけ口になったり、父親のストレスが母親、母親の陰口が子供にっていうね。それで勝ち組、負け組でいうのがすごく出てきてる感じがすごくあって。お笑いなんかも素直に私はこう全然面白くない人がとっても多いんだけど、こういじって喜んでるみたいな風に感じています。

・先程ありました「いじめ」と「いじり」についてなんですけれども、個人的に高校生の時に、「いじめ」ほどでは「いじり」というか、先ほどおっしゃったように、当時で言うと肩パンと言われるものを受けていた時に、個人的にはそれは「いじめ」ではなく「いじり」なんだと思っていて。でも、今考えるとそれを「いじめ」だっていう風に、例えば先生なり親なりに言ってしまったら、それが本格的な「いじめ」、「いじり」から「いじめ」っていう進化というかというか退化というか、そういう経過を辿ってしまうんじゃないかなっていうふうに思ってしまいまして。だから、当時もその「いじり」なんだと思って。他のその「いじり」の当事者以外のクラスメイトもある意味それを「いじめ」だってこう周りが思ってしまったら、また外から「いじめ」という評価を受けて、自分達がこれいじめられてた、いじめていたんだっていう認識に変わってしまうこともあるのかなと思いまして。だから自分は当事者から「いじめ」という認識が生まれたり、他の第三者から「いじめ」という認識が生まれたり。そして結局、当時はその「いじめ」にしたくなかったっていうところから、何も言わずに過ごしてはいたんですけれども。そういう「いじり」と「いじめ」っていう関係性があるのかなと思います。

・今「いじめ」と「いじり」と言うことを対比的に話が出てきたんですけど。私は思うんだけど、「いじり」っていうのはまあ、何かをいじるっていうのはどういうことなのかなって私が考えたのね。思ったのは「弄る」というのは、人について使う言葉じゃないんじゃない?物について何かを「弄る」ということで。「弄る」というのは物扱いから来てると。要するに、「いじめる」は人間、「弄る」は物扱いなんだけど、それを人間に持ち込んでくるということは、人間は元々物じゃないんだと。それで、物扱いされるの非常に傷つくんですよね。要するにドメスティックバイオレンスなんかもそうなんですよ。例えば、男の人が女の人に暴力する。気に入らないとぶん殴る。要するに物扱いなんですよ。だから、「いじり」と「いじめ」に発展するっていうのは要するに物扱いが段々講じて、いじめになるというのはなるほど、そうだなというふうに思ったんです。

・今のは確かに「いじり」というのは「弄る」から来てんのかなというのは、ちょっとそこまで考えたことなかったんですけども、ただ僕達が子供の頃「いじり」という事は無かったと思うんですね。多分、僕達が子どもの頃は「ふざける」とか「からかう」という言葉があったと思うんです。でもやっぱり、「ふざける」と「からかう」というのは、最初は正に楽しくてというか、お互いにそんなに「いじめてる」「いじめられてる」ということは思ってはないけども、ふざけたりからかったりしてるんだけれども、ただ子供って限度を知らないから、どんどんそれがエスカレートしていってしまって、どっかから要するに別の次元に何か変わってしまうっていうことが僕なんかの頃にもあったような気がしていて。なんか物扱いっていうのかどうかちょっと分からないんですけど、要するに「ふざける」と「からかう」というのは別に「ふざける」「からかう」て言葉は物扱いしている訳ではなくて、友達同士でお互いふざけあったり、からかいあったりっていうのはあったんだろうと思うんだけど、なんかそれがどっかからこう特にある特定の人が常に常にからかわれるそのからかわれるが、もうちょっと段々エスカレートしていくっていう。そういうその正にこの線引きがうまくできないけど、エスカレートしてしまうっていうことはあったような気がしています。

・今、「いじり」という言葉が出たんですけれども、TVなんか見ているとメディアがね、よく「いじる」とかっていう言葉を使うので、そういうところからこの言葉が使われるようになってきたのか。それともどうなのかなと思って、いま考えさせられたんですけれども。やっぱり人間の尊厳っていうものがありますから、そういうことを考えたところ、時に凄く微妙なところがあるだろうと思うんですよね。例えば、「いじり」なのか「いじめ」なのかっていう微妙な他人が見たことと当事者は思ってたことが違うっていうことなんですけれども、その社会って結構勝ち組、負け組っていう話が先ほど出ましたけれども、そういう社会ですので分断して支配するような社会なんですよ。分断しないと支配的できない国家は。なので、こうした回なのであのうやっぱりいじめられてる子が「このいじりはちょっといじめじゃないの?」と思っても、やっぱりいじめられたと思いたくないっていうようなこともあるんじゃないかと。実際、「これいじめじゃないよ」という場合と「いや、そう思いたくない」という人も、もしかしたらいるかもしれないなあって。そういう微妙な大変な大切な心の動きの問題じゃないかなと今感じました。

・私が小学校六年生の時に田舎に母子寮があったんですね。それで、凄く貧しい人がいて、今思えばなんかいじめられてたのかなっていう感じもするんですが、その当時は気がつかなくて。例えば小学校二年くらいの時に「ちびくろさんぼ」っていうお話が国語で取り上げられて、あれはアフリカの人から見るとステレオ化された気分を大変害するものであって、今はもうないんですけども、人権についてとか、その歴史的背景とかを知らないと、自分がいじめてるっていうか、そういうことに気がつかないまますぎるのかなって思いました。だからいろんな人と対話したり、世界を見たり、本を読んだり、何が人権に違反してるのかってのを常に意識しなくちゃいけないのかなと思うんですけど。ちょっと長くなりましたが、うちの子供は小学校一年生の時に、別な子供が「〇〇君がいないから、僕の代わりに叩かれたりしたんだ」ということで、初めて自分の子供がいじめられてたってことに気が付いて、学校の先生がそのいじめる子を暴力振るう訳ですけども。大変なことが起こるんだっていう風に、学校の先生が言ってくれて、その後いじめが続いてかどうかはわからなかったんですけども、小学校五年生で転校して、転校先になじめなくて、空気のような扱いで他の学校の人に「〇〇君はキモイって言われてるよ」というのは、不登校になってから初めて他のお母さんに聞いて、「自分の子供がキモいって言われたの?」みたいな感じで。本当に先生からは「異質だ」と言われたんですね。だから「このままいくと中学校でいじめられるから、今から対策してください」と、その前の学校の学年の先生は勉強ができたので、家庭訪問も5分もかかんないで「〇〇君は問題ないです」と言うから、自分としては変だなと思いながら。まあ、学校の先生がなんかあれば言ってくれると学校を信じてたわけですけど。今の学校というのは昔と違うってのは初めて知りました。もう一言言うと、私が中学生の時にスクールカーストみたいにいじめっ子がいて、「あの子はかわいい。あの子はバカで、あの子はブスで」と全部ランク付けして、いじめる男の子がいたんです。それで、一緒にいじめられてる子と帰っていたので、「どうやったらあいつをやっつけられるんだろう」と毎日話して帰ってて。でもお母さんに言いつけるのは。ちょっと恥ずかしいし、学校の先生に言いつけるっていう気持ちは思いつかなくて、ふっと思いついて次の日、「〇〇を無視する女子の会」を作ったら、そいつが「いや、それはやめてくれ」ということで、いじめが止まって代わりに私がからかわれるようになったんですけども。私もいじめられているのか柱に縛られたりして、最初は遊んでるみたいな感じだったんですけど。そんなあの昔は可愛い「いじめ」みたいなのしかなかったです。ちょっと長くなりましたけど。

・「いじり」というのは、なんとなくあの関西文化なのかなって気がしていて。関西の人達って、とりあえずあの笑い合ってなんぼでがなかった。オチはどこ行ったっていうような世界のような気がするんだけれども、その「いじる」というのは、物扱いかどうかわからないけれども、でも、例えば物なんかでもどういう時に使うかっていうと、何かを引き出そうとするとき、要するになんか計算する時に、「そこのパラメーターいじろうか?」という言葉を使ったりすることを考えると、何かを引き出すことによって、何かを「いじる」ことによって目的に達するための何かを引き出すものが多分「いじる」という。もともとの言葉の使い方で、その関西的なノリから行くと、その笑ってなんぼのものだから、相手の何かをそこから笑いを引き出すために、何か突っ込みを入れる。ていうような話なのかなと思って、その関西のお笑いが関東の方にドッと進出した後に「いじり」文化っていうのはすごく広まったような感覚的に思ってるんです。日本全国で見た時にそういう笑ってなんぼみたいな、お互いにそれをやり合うような文化がないところに、でもその芸人の人達が「いじって」何かするようなものっていうのが、あたかも当たり前かのように入ってしまっているっていうのは、「いじりってのは別にやっても問題ないんじゃない?」みたいな雰囲気で「いじる」という言葉を使って、世話人がさっき言った言葉を使うなら「からかう」とか。多分「からかう」という言葉の方が、その言葉を使う時に自分がやってることが、いいことだとは思わないですね。「からかう」だと明らかに何かを相手の特徴を何かよく引き出すためにの時には「からかう」という言葉は使わないですね。必ず悪いところをあげつらう時に「からかう」という言葉を使っていて。なんだけれども、「いじる」という言葉が手に入ってしまったことによって、「いじる」だと必ずしもだから悪い方に行くわけではない。なんかその言葉が変に、やってることマスクしてしまう。本質をマスクしてしまって、それでその、なんかより「いじめ」がしやすくなってしまった環境にあるのかなって気はして見ています。

・「いじめ」と「いじり」の話になってるんですけど、個人的にはそういった呼び方に違和感を持ってて。「いじめ」という言葉は問題の矮小化というか、問題のレベルを下げているような印象を受けまして。大したことが無いように思わせるというか、そういうことを考えてしまってまして。というのは、学校での「いじめ」とかを子供達同士の悪ふざけだとか、そういうふうに捉えられてしまうっていうところが、僕は危険だなと考えています。学校での「いじめ」とかって、もっと警察とか弁護士とか、そういった人達をどんどん介入させるべきだなというふうには、個人的には思ってます。というのは、未成年者による暴行、器物損壊、侮辱、恐喝、あるいは殺人未遂といったそういったものの総称が、学校だと「いじめ」みたいになるというように感じてまして。これらの犯罪行為に教師だけだとカバーしきれないから、警察とか弁護士とかそういった人達が学校に介入していくべきじゃないかなというふうに私は考えております。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.6.17.「ジェンダー×セックス」

2023年07月14日 13時19分21秒 | 定例てつがくカフェ記録
大変遅くなりましたが、6月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは4名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今月は「ジェンダー×セックス」というような形でテーマを掲げさせていただきました。2月にテーマを決めずに、皆様からどんなテーマで話したいかの意見を出してもらったんですけど、その時に色々とテーマ案が出た中で、ジェンダー問題については語り合いたいと。特に男女の話でもありますし、最近はLGBTQみたいなそういう問題もありますし、そのジェンダーの問題について話し合いたいねとのいうのが一方で出されたものですが、それとは別にセックスに関して、これは提案者は皆さんのセックスに対する考えを聞きたいと。自然的な性とか、そういう話じゃなくて、性交のセックスというふうに言っていたかと思いますが、それも含めてジェンダーのことも含めて話すし、セックスのことも話すし。また、このジェンダー×セックスは別にジェンダーとセックスを両方の話をジェンダーに絡めてセックス、セックスに絡めてジェンダーではなくて、ジェンダーの問題は話しもするし、セックスの問題も話してもいいかなというふうに思っているという形で、今日はむしろ二つのテーマを扱っていると言うぐらいのつもりでテーマを立てさせていただきました。なので、ジェンダーであれセックスであれ、どちらでも構いませんので、皆様の方からご自由にご発言いただければというふうに思います。よろしくお願いします。

・ちょっと言葉の使い分けのところで、はっきりしないなと思ったことがあったので、確認をしておきたいなと思ったんですけれども。LGBTQっていうのはジェンダーの問題なんです?セックスの問題なんですか?これをどう考えるのか、丁寧に考えると難しい問題のような気がしていて、なんかその辺でジェンダーとかセックスという言葉をどうやって使っていこうかっていう話のこの場での仮の合意になるのかなという気もしますので、その辺どう考えるのかっていうのを皆さんにお尋ねしたいです。

・これは私もブログでも、まぁ書いたのは別の世話人さんなんですけども。私はプログをアップする時にチェックしていて。一般的にはジェンダーの話のような気もするけども。トランスジェンダーと言った時にセックスの方というか、自然的性っていうんですか?そちらの問題のような気もするしと思って。どうなんだろうなと思って、自分の中で結論を出さないまま、投げかけてしまっていたところがあるんですけども。一番痛いところ突かれました。

・LGBTは私は単純に両方にかかってくるのかなと。Lはレズで性的には同一の方。Gはゲイでしょ?だからどちらも生物学的に同じ人がカップルを組みたいということで。まず、LGBTがどっちか片方に関わっているということじゃなくて、両方に関わっていると考えて。というふうに私は今お聞きして考えたわけです。それとともに、ジェンダーとセックスということについても、概念というか、どういうふうに考えるかとうのをちょっと整理しておく必要があるのかなと思うんです。ジェンダーって定義になるか?要するに社会的な男らしさ、女らしさというように、社会的に形成される性差といのを書かれたり新聞報道なんか出てるんですけど。これもっと具体的に言うと、ちょっと分からないことが出てきて。セックスについても。通常は男性・女性。肉体的な違いと言うことで分けられることが多いんですが、すぐ思うのはセックスだって。これはどういうふうに分けるのかなという気も起こってくるということで、それともう一つはセックスとジェンダーの関係をこう、ビチっとこう分けてんですが。セックスとジェンダーの間には、グラデーションみたいなセックス的なことからジェンダーの方に流れることもあるのではないかないう風に思ってるんで、まずは ジェンダーとセックスというのをどういうふうに定義的というか概念をはっきりさせることも一つ必要かなというふうに思ってまいりました。

・ちょっと停滞しているようなので、思いつきだけで言いますけど。あのジェンダーだっていうのが、社会的な意味での性別差でありという部分が良いと思うんですね。ただ今回LGBTQの法案が通りましたようですけれども、例えばその中で各党ごとに何案かが出ましたね。それで結局、与党案が通っただけで。例えば自民党与党案がセクシャルアイデンティティとかなんとかとかって言ってたのに対して、確か立憲とか共産党の出していたのが性自認という言い方をしてたわけですよね。その辺が違う。性自認というのは、素直に取れば自分で自分の性をどういうふうにどうなのかと。自分で自分の性がどれだというような話であってですね。非常にその個人的な話というかですね。社会的な性差というよりは、もうちょっと個人的なほうに振ってる案なのかなと思ったわけですね。そんなことを考えると、さっきのおっしゃってたセックスとジェンダーというのが、グラデーションであるかというと、そうではないとそんな感じじゃないんですけれども、切り離せないものだなという気はします。セックスと言った時に、ブログの方に書いてあったのは、いわゆるその性差。生物学的な性差みたいに書いてありましたけれども、日本で普通にセックスというと、性行為のこともいうわけですよね。「セックスしましょう」とか「セックスしました」とか。性行為というのも、例えばLGBTQの人たちって、例えばレズビアンの人だったらば、女同士で性行為をしたいとかするとかね。ゲイの人でしたら男同士で。男でも女でも相手は誰でもいいって、まあそういうふうに性行為の実際の性行為がどういう風になるかというのも、やっぱりlLGBTQの人達にとって非常に大きな問題で、それをジェンダーというような、なんて言うんですかね社会的な意味での彼らの人権であったりとかですね、権利であったりとか、そういうのはどういうふうに保証していくかっていうと、まあ社会的な目から見た話と同時にですね。性行為=性差ということに関しての問題というかですね。いろいろその考えるべき点と言うのも、LGBTQっていうのにもある。そういう意味でもジェンダーとセックスを完全に切り離すっていうことは考えにくいと言うふうに思います。

・今セックスとジェンダーのグラデーション的なことはちょっと考えられないという発言だったかと思うんですが。私が言ったのは、例えばセックスというのは生物学的な性差だよ、ジェンダーは社会的に形成されるんだよと言った時に、生物学的な性差といっても男性、女性それ、よく考えると中身は表面的な外観的なことだけじゃなくて、ホルモンの分泌だとかということで言うと。男性ホルモンあるいは女性ホルモンのその違いでも程度だと。男性と言われる人、女性と言われる人の程度に差があるんじゃないの?それが女らしさ、男らしさに通じていくんじゃないか?肉体的に外観的に要するに、男は男性的なものは筋骨隆々としてる、女性に比べると体格が大きいとか。あるいは筋力が増えやすいとか。それに対して女性は弱いとか、あるいはいろいろ、まあ違いがあるわけですけど。そういう概念的なことだけじゃなくて生理学的なことまで、ジェンダーの方に影響してるんじゃないかなというふうに考えて、それはグラデーション的なものもあるのではないかというふうに言ったんです。それとですね、特にジェンダーの場合は「具体的にこういうものがジェンダーだよ」ということを考えて取り上げていくと非常にいいことだとあちらの方もおっしゃってたけどと思います。具体的にこういうことがジェンダーと。というのは、要するにジェンダー平等ということを叫ばれているわけですけど、そういうことが分からないと「平等って何?」という話になってきてしまいますので。

・セックスに関しては性ですね、その男女二元論的な男女だけじゃない性があるということで、これはもう生物学的にもそういうことがあるわけで、それで前の方仰ったように、ホルモンの分泌量によってグラデーションもあると言うことは、私はこれははっきりしていることだと思います。ただここの議論の中で例えばそういうようなことをきちんと、つまり現在の何ですか?正しい認識っていうんですかね?それが分からないままで、そこの部分を議論しても、あんまり意味がないのかなっていうふうには思います。それでジェンダーというのは、私も社会的性差ということですから、男らしさ、女らしさこれはホルモンからくると言うことではなくて、いわゆる社会的に女らしさ男らしさというものを規定されている部分があるんじゃないかと。そういう部分をジェンダーの社会的性差というふうに私は考えているんですけれども。なんかもう少しその多様な、二元論的なではない部分に関して考えていかなかなくてはということまず言いたいということと。それから性を考えるときは今、性の構成要素とかって言って。先ほど仰ったように性自認をどう考えるかとうことですよね。やっぱり自分の生物学的な性はどうか?それから自分が好みの相手はどういう性であるとか。そこから、また自分がその表現したい性はどうかとか。まあ、そういうのもう四つぐらい構成要素が最低でもあげられて部分があって。どこの国だったかもう50種類ぐらいそういう意味ではですね、構成要素があるんだと。でそれを認めているところもあると。たしかタイは17ぐらいもうすでにその種類を認めているということですので。ちょっと何だろう?そういうような基礎知識みたいなものをきちんと持たないで定義づけるってことは、まずできないことなのかなっていうふうに思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.5.20.「日本国憲法どう変えるか?変えないか?」

2023年06月17日 13時45分44秒 | 定例てつがくカフェ記録
大変遅くなりましたが、5月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には8名、オンラインでは4名の計12名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今月のテーマは憲法記念日もありまして、日本国憲法をどう変える変えないかというテーマにしてみました。日本国憲法に関しましても、皆様いろいろなお考えがあるかなというふうに思っておりますので、ご自由にご発言いただければというふうに思います。

・何から始めたらいいか分からないんですけど、発言が無いようだったので。私たちは「9条の会」ということで、9条を中心に憲法を守って、それを暮らしに活かすってことで、活動してるんですけど。2004年に色々な方と9名で立ち上げたのが、全国的に各々立ち上がって「俳優9条の会」や「演劇人9条の会」とかが色々できて、福島市でも初めて「9条の会」ができたのは2005年で、私たちは福島市の「9条の会」ということで2017年から学び始めました。今のところ合わせて14回ぐらいはやったんですけど、なかなか広がらないし、ちょっと難しい問題があるなと思っています。それで、私も色々学んだ中で一番大きいのは自衛隊が国防軍になるといことで。特別裁判所がつくっていうことが勿論、緊急事態法とか細かいところは一杯あるんですけども。自衛隊の性格が変わっちゃって、国防軍とか特別裁判所っていうのは軍事裁判と同じで軍になるっていうことは、上官の命令には従わなくちゃならないし、基本的には銃殺もありえるっていうような中で今まで自衛隊というのは、災害救助をやってるのを見て「いいな」と思って入ったりする人もいたわけですけど。今度は人を殺すっていうふうなことになってくるし、それに逆らえば、ある程度の処罰を受ける。今だったら国家公務員だからサボタージュくらいで済んだのが、かなりの罰を受け、最悪は銃殺。日本の戦争中も重罰なはずだったんですけども、そういうのが、大きいと思いました。それで、色々な問題が今までは公共の福祉というのが縛りだったのが、今度公益及び公共の秩序に変わりますし、あと緊急事態法で総理が緊急事態だって宣言すれば、全ての人権がストップされるっていうところが大分違うなって言うことですね。

・先ほどの方のお話を伺いしまして、今日は具体的に特定の憲法の中でも特定のテーマに絞ってお話をしてするっていう形ではなくて、自由にということでお話をしていただいてで早速、やっぱり昨今も一番話題になっている9条の話が出るかなと思って。今日の結論を出すということではないということに乗っかって私も話をしたいと思うんですけれども、変えるか変えないかという今回のテーマに沿って言えば、私はどちらを選ぶのかと言えば「変える」というふうになります。なので、先ほどお話しいただいたその方の意見というか、それとは意見が逆の立場になるのかなという風に考えております。といのも、やっぱりこの昨今の国際情勢というのは、どんどんどんどん変化が激しくなってきているで、その中で「変えない」ということで、ずっと70年間動かないでいたけれども、まあどうしてもそこでどんどんどんどん齟齬が出てきている、矛盾も出てきてしまっているというところで。やはり私自身もすごく今までの生活の中でも感じているというところではあります。ちょっと長くなってしまうので、一旦ここで区切ってしまいますが、今日の議論をしていくにあたって、私はもし憲法9条の話をするということであれば、変えていくしかないのか、変えていくというところを考えていきたいと思います。ただ、最後に一点補足するのであれば、それは政治家とか、そういう権力者に任せて変えてもらおうと言うのではなくて、一番大事な話をしておきたいのは憲法というのは上から押し着せられたり、強制されて守るものではなくて、国民の側から私たち一般の国民の側から権力者に対して要請をするものだっていう前提が私の中にあるので、そういうことを踏まえて考えると、自分たちで主体的に変えていくべきであると言うところが私の意見です。こういった立場がここにあるということで、留め置いていただければと思います。あとは、皆さんのこの後のご発言に沿って色々とお話ししたり聞かせていただければと思います。

・今日は「変えるか、変えないか」という話と、さらに「どう変える」という風にテーマにしました。僕も憲法は「変えるべき」だと思ってるんですが、それは多分今ご発言された方とは逆の方向で、要するに議論の余地がないぐらい放棄すると言う方向で、「変える」というふうなことを考えています。僕みたいな人間もいて、皆さん色んなお考えをお持ちだと思いますので、まさにその「変える」と言ったときに、「じゃあどう変えるのか」というのもお話しいただければと思いますし、僕なんかは真っ先にまず1条を変えるべきだと思っていてですね。そこは危ない話でもあるんですけども、もう1条をなくせばいいというふうに思ってるっていう。そういう意味で、色んな変え方があるのかなというふうに思っております。

・今の方が仰った9条を変えるべきだという話、軍備を持つように変える感じじゃなくて、真逆な形でと言う事のような。それと1条については「変える」「変えない」というよりも、よく理解できないところがあって。要するに「象徴」という言葉なんですけど。天皇は日本国および日本国民の統合の「象徴」という事ですよね。これ、「どういうことなのか?」と昔から考えてたんですけど、未だによく分からない。よく例に出されるのが、「鳩は平和の象徴だよ」とか「赤は愛情の象徴だよ」とかということなんですが、「天皇は日本国の象徴」というのがどういう事なのか?具体的に「日本国民の統合の象徴」とかこれもよく分からない。ということで、これは曖昧だから私も「今、変えろ変えろ」ということではないんですが、将来はそこら辺は考えていかなきゃ行けないなと。むしろ、大統領選みたいなことも考えられていいのかなということはチラっと思っております。それと、9条の問題については非常に守る側としては困るというか、答えづらいのが「自衛権」との問題だと思います。要するに、例えばこちらが丸裸でいて、相手側が武力を持って、その武力が持っている側がこちらに、今年にでも攻めてきた場合、どうするのと。その答えなんですよね?「攻めてきてもいいですよ」「死んでもでもいいですけど」とそういう話ならば、大したもんだと思うんですが。命なくなっちゃったらもう終わりだということからすると、そこをどういうふうにするかっていうことが出てくるのかなということで、前文と9条というのは関連があって。前文というのは、国際的に他の国民の、他の平和を愛する心とかね。そういうものを信頼をして、日本国民は武力とかは持たない。それで国の安全と平和を守りますよ。そういった前文の言い方だったかと。そういう覚悟でもって戦争とか考えた時は、武力とか軍隊とかそういうものは持ちませんよと、そういう関連付けだったと思うんですね。これが憲法制定された当初、日本国民全体が戦争はもう、なんとしても起こしてはいけないと言う思いがあって。そういう流れになってきたのかなと言う風にも思うんですが。ただ、憲法設定の経緯を調べますと、かなりアメリカ連合軍の総司令官辺りの考え方や横やりなど色んなことがあって、そういう形になったのかなと考えると、日本国民もは「もう戦争はいいや」という気持ちだけではなかったのかなというふうに思いました。曖昧な言い方ですが、そのように考えてます。

・「9条の会」の方に聞いてみたいですが、「9条の会」の方々は9条をどうしようとしているのかなと。あのまま文言は変えることなく維持すると、そういう考え方なんですか?

・そうです。現実的には今の憲法がまず活かしていくという面を強調して、2012年に自衛隊改憲憲法が出てるんですけれども。それを読むと今の国会の勢力からすると、集団的自衛権がある下で、国防軍にしてしまえば、アメリカの戦争に巻き込まれるわけだし、自衛といっても今の憲法の下でも専守防衛っていうのはずっと認められてきたことですから、今の国会勢力の中で、変えるのはちょっと恐ろしいと思います。私も天皇の象徴性は本当はない方がいいんじゃないかなと思うけども、今の日本国民全体からして、今そこを変えようってなると、話が収集つかなくなるので、とりあえずは今の憲法そのままの方がまだ安全だって思ってます。

・何考えてるのと言われそうなんですが、今の平和維持の状況というのはアメリカと日米安保を結んで。まあ言ってみれば、アメリカ側に立って中国とかロシアとの対立からごちゃごちゃやってるわけだけど。要するに日本は言ってみれば、日米安保条約の日米の協調から離れる方向で外交をすべきじゃないかなというふうに思う。今までの第二次世界大戦後の70年間の経緯があるわけですが、あって今のような世界情勢になっているわけですけど。そうだとしても私は、これからの外交は、夢のようなばかばかしいことを考えてんじゃないよって言われそうなんだけど、結論的に言うと日米安保条約はあってもいいと言うか。それに対して、もう一つ日中安保条約を結ぶ、あるいは日露安保条約を結ぶ。そういう方向考えていいんじゃないかなと。「冗談じゃないよ」と言われそうですが、そんなことはないと。方向としては、永世中立国とかそういうことじゃなくて、今は日中対立や日露対立状態でですね。我が日本は、「ロシアさん、あなたの方に武力なんかで攻めて行ったりしませんよ」ということを、中国に対してもそういうことを言う。それが本当に理解してくれれば、中国だってこっちに攻めるということがないのかと。ロシアだってそうだと。ましてアメリカ、日米安保条約を結んでいるんだから攻めてくることはないだろうと。まあ、そういうような大方からするとバカバカしいと思われるようなことなんだけど、そんなことを思いついたんです。

・まず「憲法9条」と「憲法1条」の話が出たと思うので、両方に言及したいんですけど、結構9条に関しては、先ほどの方が理想的というか、日露あるいは日中の平和条約を結ぶ方向という問題提起されたと思うんですけど。私も非常にそれに賛同する立場でして、この「憲法9条」に関する集団的自衛権であったり、議論っていうのはそこアメリカと、ロシアや中国中の間に日本だからこそ受けている影響というのが非常に大きいと思っていて。もちろん戦後、日本が先進国になれたのは、しっかり力を蓄えられたのもアメリカのおかげですけれども、やはりアメリカに依存しているからこそ、核の話もそうですけどごちゃごちゃしてしまってる。最終的にも自立しなくてはいけないなと。私もこれ理想論だと思いますけど、そういう方向にもっていきたいなと実は思っています。結構9条を変えるべき変えないべきかというところだと、条文をどのように変えるか分からないんですけど、自立するという点では自衛の能力、戦力と呼ぶのかって話で。自衛権はそれなりにこう防衛費を拠出して自国として自立できる程度の自衛権は確保するべきだと思います。自衛権は自立できるまで持つべきだと思います。「憲法1条」について、共産化して議論の余地があるんだっていうのを思ったんですけど。結構1条に対して「変えたい」と言っておられた方がどのように変えたいのか非常に興味があります。私は個人的に天皇制はあくまで今、象徴的な意味合いですけれども、これは軽い言い方をしてしまえば日本らしくて、日本のアイデンティティだと思っていて。特に批判することもないかなと思っているので、結構1条を変えたいという意見ある方について、後ほどで大丈夫ですので、ちょっと伺いたいと思います。

・僕がさっきの「1条」を変えたいといった内の一人なので、それに関してのみと言いますと。まず天皇制に関しては基本的に無くすべきだと思っています。それはなぜかというと、かわいそうだから。「国民じゃないね、かわいそうだ」と。天皇は国民じゃなくって、だから何の権利も日本国憲法が認める上での人権をなんら認められていない人々がいるというのは大変可愛そうな話ですので、ちゃんと国民にしてあげるべきであると言うふうに思っているのが一つ。ただ、あの人たちを何らか象徴的な位置に起き続けたいというであれば、国民にしてあげた上で、なんかうまいこと考えられたら、それはそれで悪くはないけども。少なくとも「憲法1条」で論じるような事柄では全くない。それなぜかというと、国民じゃない人の話を最初から、こうやって日本国憲法というのが、大日本帝国憲法を改訂したという形になっているので、それを引き継いで「1条」がその前の大日本帝国憲法であれば、主権者としての天皇から始まっていて、それは、あれはあれで「1条」が天皇というのは意味があったんだけども、現在の日本のあり方からするならば、天皇制はあってもいいけど、それは別に1条ではないでしょうと。後ろの方のどっかにちょこっとつけといてあげても、あるいはつけなくてもいいかもしれないしっていう形で、とにかくでも国民でないっていうのはひどいんじゃないのかなっていうふうに思っているっていうのが一つです。人間扱いされてないって人権が与えられてないって本当にひどいことかなっていうふうに。それから。ただ野に返してしまった時にあの人たちが政治に出たら、ものすごく票集めちゃうだろうなと思います。その心配はあることはあるんですけれども、それも含めてもやっぱりちゃんと国民として認めてあげなきゃ、あまりにも残酷なんじゃないのかなっていうことがあります。だから最初はやっぱり国民とか何とかから始めればいいんじゃないかなっていうふうに思っているということです。これが私の個人的な1条に対する思いです。

・「1条」を変えるべきだとか、なんとかということでなくて。今おっしゃったことで、大体天皇とか皇族という方は果たして日本国民なのか、日本国民の一人なのかどうか?憲法を読んでも、国民の一人と言う風になんか理解できないんですよね。国民じゃないというのは、それはどういう理由や根拠で?要するに、憲法に書かれてないということからですか?日本国籍が無いというのは。そこがね、天皇あるいは皇族の方々って国民なのかなあということで、分からなかったから聞きたかっただけなんです?

・私の認識で、多分彼らは戸籍がないね。戸籍がないことによって、いわゆる国民ではないのかなっていうふうに私は思います。

・日本国民の要件は法律で定めるってなってるんですよね。戸籍がないからということで、まあそこら辺は法律の決め方じゃないのかなと。法律があって決めてないから?

・そうではなくて、日本国憲法が最初に天皇と書いてしまっていて、国民というのが後から出てくるから、そこには含みようがないんだと思うんですね。だから、国民ではないですよね?国民ではないし、国民としての権利は何ひとつ与えられないはずですから。

・今の方の意見が、要するに天皇は「憲法第1条」が出てきて、国民の権利義務とかなんか後に出てくるから、要するに順番の問題で国民でないという事ですか?

・イヤ、順番の問題なく。これは僕常識だと思っていて、あの国民じゃないですよね。天皇は国民じゃないですよ。

・そこら辺のね明文規定がないから見つけられなかったから「どうかな?」ということでお聞きしたわけです。

・今のお話にちょっと専門家ではないんですけれども、補足をさせていただくと。まず天皇は国民であるかそうでないかということについてはちょっと三点ほどお話ししますね。一つ目が、天皇は国民であるかどうかということについては、ざっくり言ってしまえば、世話人がおっしゃったように国民という扱いではありません。なので、国民が憲法で認められている国民としての権利っていうものは天皇には基本的に認められていない。じゃあどこにも属さない宙ぶらりんの存在なのかというと、そういうことでもなくて。「皇室典範」という皇室がどういう存在であるかということを定めて、どこまでできて、何ができないかということを憲法を補足する形で定める「皇室典範」という法律が別にあります。それが一つですね。2つ目が戸籍の話だけ補足すると一応、皇室の人たちは戸籍はありません。分わかりやすい例として、皇室の方々は苗字がありません。なので、雅子様も美智子様も結婚したら苗字がなくなったんですね。じゃあ、どこに属してるのかっていうと国民がみんなが持ってる戸籍というものの代わりに、天皇の「皇」に天下統一の「統」に譜代の「譜」と書いて、「皇統譜」というものが用意されていて、そこに名前が書き加えられるんですね。一応、それが国民でいう戸籍簿の代わりになります。「皇統譜」に書かれた人は、「皇室典範」とか憲法に定められた決まりに則って、「じゃあ、皇統譜の人たちが持ってる財産とかはこういう扱いにしますよ」というふうに決められています。なので、一点目と二点目を今お伝えしたかったこととしては、決して宙ぶらりんの存在ではないという事です。三点目がここからのみなさんのお話のフックにしたいと思うんですけれども、「9条」を変えるにしても、「1条」を変えるにしても、憲法というのは一番大事なことから書いていくっていうことは、どの国も同じだと思うんですよ。「1条」に天皇が書かれているっていうふうになっていたのは、世話人がおっしゃったように。もう70年前に当時日本国憲法作った人たちの時代では、まだ天皇という存在が国の中心にすごくあったという時代の背景も大きいと思いますし、世話人と「9条の会」の方もおっしゃったように、70年も経って天皇という言葉がほとんど出てこなくなったわけだし。権利らしい権利というのはほとんどないわけだから、天皇という今のような「象徴」というのを外していいんじゃないのと言うところのお話になってくると思うんですけど。ちょっと答えらしい答えじゃないんですけど、ここ私すごく大事なことだと思っていて。1条に書かれてるとなると、私、皆さんに聞きたいなと思うのは、じゃあ、もし70年前にもうそれだけ酷い戦争があって、当時天皇を恨んで人って沢山いると思うんですけど。なぜ、その天皇を外さずに、当時「1条」にまだ置いたのかということ。もう一つが、じゃあ70年間変えるチャンスはあったと思うんですよ。「9条」を変えるということじゃなくて、「1条」の天皇に関する事を変えるということはチャンスがあったと思うんですけど、なぜそれをやって来なかったのか?最後がもしそれを変えたら、まあどうなっていくかというところです。この質問をした理由は、私の直感ですけど、多分天皇の部分を、大きく変えると「9条」にしても、他の条文にしても良い悪いの話ではなくて、ものすごい影響というか、日本の国として形が変わってくるんじゃないかなと思ったので。そこについては、今すぐでなくてもいいです。あとでも良いし、話が出なくてもいい。ですが、これ、ちょっと皆さんにちょっと聞いてみたいな、話をしてみたいなというところは思った次第です。長くなりましたが以上、補足と問題提起でございます。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.4.22.「この時代をどう生きるか?」

2023年04月23日 10時13分08秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月22日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは1名の計11名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・この時代は割と発言の自由や表現の自由はあるはずなんですが、なんか忖度しちゃって、あまりこう言えない。今いろんな問題が日本も抱えてて、今崖っぷち状態っていうか?食料問題でも原発問題でも戦争関係でも崖っぷちなんだけど、それがわかってるんだか分からないけど、発言ができないっていう人が多いので、私は幸いなことに年金生活だから割と子供のことでも旦那のことでもしがらみがないんで。福島市っていうのは割とフォーラムもあるし、こういう集まりもあって。実際に見聞きすることができるので、その実際にいろんな人と会ったり、見たり聞いたりして、情報を取って発言したいほうです。そういうふうに生きようかなと元気な時はですけど思ってます。

・まあ、この時代をどう生きるかということなんですが。皆さんそれぞれこの時代という時代の認識というものがあるんだろうと。それによって、それぞれ生き方が違ってくると思います。まあ、これから変わっていくと思います。でもまあ、今の生き方というか、個人的なことを申し上げますと、せいぜいというか、みなさんよりちょっと大人で。皆さん多分これからもまだ50年、60年生きると思うんですが、せいぜい私はまあ10年ぐらいかなという感じなんです。ですから、いかに変わっていったとしても、まあそろそろ私の生活の仕方、生き方はそう変わらないなというのが今の気持ちであります。

・この時代をどう生きるかって言うと、個人的な独白になっていけないって書いてありますけど、僕の考えを述べるのであれば、まずは一緒に暮らしてる家族とか現状繋がってる友達とか血縁とかそういうのを大事にしていこうと僕は思ってますね。そうやって生きてきたいなと思いましたという話です。

・「この時代をどう生きるか?」ってテレビとかの討論番組とかのタイトルとかでも作れそうなタイプではあるんだけれども、だから割と手垢が付いたような言葉に一見感じるんだけども、実はなんか意外と難しいなあとさっきから考えていて。例えば自分が学生時代の時に、学生時代はどういう時代だったかっていうのを定義するのって、意外と難しくて。卒業した後で振り返ってみて、その時代ってなんかその時代だっていうような感じになっていてなので。この時代、今の時代って一体いつからいつまでがこの時代であるのかってと、なんか事後的にしか決まらないようなところがあるような気がして。江戸時代っていうのも江戸時代が終わったから、江戸時代っていうふうに分けられたわけですし。それで、自分たちが例えば昭和に生きていた時。決して昭和時代とは言わなかったですよね?だけど、今の昭和時代っていう言葉が出始めていて、さらには平成時代とかっていう言葉も半分冗談で言ってるような気がするんですけども、何か使われていて。それで、さてこの時代って、どこからどこまでをまとめて一つの時代にされるのだろうか?それ自体がなんかすごい関心があって。でもそこからじゃないとどう生きるかに繋がらないとするならば、なんか実はすごい難しい課題なんだなと。だから喋りにくいなと思いました。

・今おっしゃったことと関連するんですが、この時代というのをどう捉えるか?まあ、捉え方によって令和の時代というふうにも解釈できるし、今の時代というふうに解釈できるわけですが。要するに、私は今という時期、時代どう変わっていきつつあるのか?今後どう変わっていくのか?そこら辺を見通した上で、その変化をどう捉えるかということで、それに合わせてどう生きていったらいいのか、それぞれが違うだろうと。それで私、今の時代で社会の変わりよう特徴的なのは、デジタル化かな?インターネットかな?これはますます進んでいくだろうと思う。最近よくまあテレビなんかぎゃあぎゃあ騒いでるんですけど、チャットGPTなんて言うのはね、これは凄まじい勢いでこれから進んでいく。特に教育分野、あるいは学習分野で凄く変わっていくのかな?例えば世話人にも関係してくるけど、今問題になってるのは卒論の書き方とかということで、チャットGPTに「こういうテーマだけど、これについてどんな風に書いたらいいでしょうか?」とか聞いた時に、聞き方にもよるんでしょうけど、いろいろ答えを並べて出てくるという話なんでね。だから、もう教育の仕方、学習の仕方がずいぶん変わっていくんじゃないかなと思います。あとは小中学校だって、もう今はみんなそれぞれタブレット一人ひとりに与えられて学習できるというようなことなので。教育学習は非常に大きく変わっていくんだろう。それとまあ、最近っていうか前からですけど。ダイバーシティとか多様化ということが言われているんですけど。これは一人ひとりを尊重するというような意味合いで使われる場合もあるんですが。これちょっと考えると、なんか人々がてんでんばらばら分散していってしまうんじゃないかというふうにも考えられるんですよね。だから、これだって多様化=OKというふうには私はいかないな。やっぱり多様化と吸収化というか、分散と収束というか、そういうバランスの問題じゃないかなというふうに思っているんです。それとも関連して、家族の在り方、家族がどうなっていくんだろうかいうことですね、それからこの前、これからの哲学カフェの議題として取り上げてほしいという中にも出てましたけど、要するにお金の問題。これもデジタル化とかということで、現金使わないで済むという決済が進むという。色々そういうことと関連して、今世界的に見ると多様化じゃないですけど、ウクライナやロシアが戦争していて米中の対立、それに関連してEUとか日本とか中東とか様々な国々の関係がどうも混乱しているように思います。これからもうちょっと複雑な混乱しているのかなという気がしないでもないんですけど。そういう中で、我々の日本の社会に私が住んでるこの福島県の社会がどう変わっていくのかなということを考えつつ生きているというのが、今のところ私なんであります。

・今の話にすごく私、あの共感するところがありまして。僕から見た視点だったんですけど、今の時代はあのデジタル化によって情報入手がしやすくなって、誰でも取れると。それも、小さなお子さんからご高齢の方から情報は自分から取りに行く時代。とりやすくなってると思っています。その面で、過去と比較をしてもしょうがないですけど、過去においては情報が統制されたので、ま与えられた情報をもとに過ごしてきた部分もあると思います。もちろんそれだけではないけど、今現在、今日現在で見たらその部分がずいぶん変わってきて。自分から情報取りに行く、能動的に動くことができる時代になったと思っています。むしろあの本当に、小さなお子さんから自分発信もしくはあのご高齢の方も自分を発信するということで、世の中は変わってきていると思います。顕著な例で言うと、昔髪の毛の染めたら、異質な目で見られたけど、今は大半の方が髪の毛を先っぽだけ赤く染めたりとか当たり前になってきて、違和感を抱かないような。その分で、能動化になるとともに自分発信というのが大切な時代が加速していく思っています。なので個性を高めて、個性を他人を尊重するとその部分が多様化だと思っています。

・情報化の話が今出ましたけども。私が一番気にしているのはファクトとフェイク。本当のことか偽物のことか。情報でそれを見分けるのって非常に難しいんじゃないかなというふうに思うんですね。要するに、自分が信じていることを発信していると思ってスマホとか使ってんだとも思うし。また逆に、ちょっとごまかしてやろうということで、情報発信してるのがいっぱいあるわけ。犯罪なんか外国でそうやって捕まったりしてますけど、あれは僕から見ると非常に一部で日本国内もいっぱいあるんじゃないかと。詐欺的な事で情報を発信したりして。ということで、まず気をつけなきゃなんないのはファクトとフェイクをどう見分けるかということ。これはね、ものすごく難しいと思います。

・私の仕事が情報産業なんですからあのお客様からあのやっぱりそういう話もよく聞きます。でも正直難しい。かなり難しいところでまあ。騙されるのも含めて、まあ人生なのかなっていうあの僕の変な解釈です。

・私はあの70代なので、先ほど話にでた昭和時代というふうに言えば、昭和時代が基準なんですね。70年生きてると、ある程度こう俯瞰して流れのようなものが自分的に見えるわけです。そうすると変わってきているし、なんか面白い時代になってきているなあっていうのが、この時代の私の感覚なんですね。人それぞれのこの時代の捉え方っていうのはみんな違っていいと思うんですけど。私の場合は昔は本当に情報がラジオか新聞かその後、テレビがほとんどの情報源だったので。今ファクトとフェイクと仰られたけど、これまで真実だと思ってきたわけですよ。私たちの頃はメディアが流したいものを流しているとか、メディアの都合のいいように編集されているというようなことを全く気付かず知らずにいましたが、最近はネット情報にも触れることができるようになったので。そうするとこう、さまざまな角度からの意見が出るわけですね。コロナにしても、その他の情報にしても、そうすると右だよって人もいれば左だよって人もいるし。それで、発信している人にコメントする人たちも、様々な視点でコメントしていると。結局、自分が翻弄されるってことはあるんですけれども、結局は自分がピタッとくるあたり、ピタッと来なくてもあ、この辺の感じかなっていうのを自分で決めることができる。さっきの話だと、もう昔は、マスコミが情報を流すもの、私はすべて真実だとほぼね、ほぼ真実だと思って生活してきましたけれども、ネット情報の時代になって、様々な意見を検索することによって調べることができるので、自分の内面に問いかけたりしたときに、結局は自分を信じていくしかないんだなという。自分っていうものを、自分らしく大切にしていけばいいんだなあっていうふうに思うようになりましたね。さっき教育の変化とおっしゃいましたけど、多分昔だったら私は全く知らなかっただろう情報が教育っていう分野で日本でも校則をなくしましたよとか定期テストやめましたよとか、制服やめましたよとか制服が多様化になりましたよっていう情報もネットだとたくさん入るし。昔は通信簿ですね、通信表も昔から出していない学校もあるんだっていうのを最近知りまして、それもネットだから得られた情報かなと思うし。そういう意味ではなんかとても自分の可能性が私はこっち好きなんだなと思うし。こういう方がいいなと思うんだなあっていうその可能性の広がりを広げてくれてる今、ネットを使える環境に私は非常にこう面白い時代だなと思っていますし、コロナに関しても右と左の意見があって。私の場合は、マスコミが言ってるのはちょっと違うんじゃないかっていう風に思う様になったのも、インターネットでいろいろ情報が得られたからで。東北や全国で色々発信してるのを読んだり見たりしたら、私はこっちだなっていうことで、結局マスクはいらないんじゃないとかね。ワクチンもどうなのっていう方に、自分のあの立ち位置がこっちなんだなあっていう風になりましたけれども。これテレビなどの既存のマスメディアだったら多分、普通にマスクをして、ワクチンをしっかり打ってという風になったんであろうと思うんですね。そういう意味では、自分に入ってくる情報が非常に多くなったので、自分らしく生きられるっていう。自由さっていうのかなは得られたように思います。

・事実、ファクトを見分けるという点でZoomの方でコメントしたんですけれども。どういうふうに分けるかというところで、私は対話を通じて自分の事実が正しいかどうかを認識することが大切だと思います。

・チャットを読み上げますね。AiチャットGPTに関してですが、この流れは避けられません。わたしは教育分野に属しておりますが、拒絶するのではなく共存が必要だと感じています。自動車、インターネットと技術が発展する過程には必ず反発がありました。それでもルール整備などをしながら、人類がその便利さを享受して来ました。しかし、これまでと違うのは、AIは知識を与えてくれるだけでなく、我々から思考の機会を奪いかねません。この点に関しては注視する必要があると考えております。ファクトを見分けるということですが、多様な方々との対話を通じて、多面的批判的思考を養うことが大切だと思います。また特定のコミュニティ、例えば日本に固執することなく、海外の方との対話対話も重要と考えます。

・今日ここで、ネットで参加されてる方がいて、これもこの時代の特徴であって、地域を問わず自分の参加したいコミュニティに参加出来るっていう側面ですごくいいなと思ってますよね。

・あの情報が取りやすいっていうコメントが出てましたけれども、それに関しては僕本当なのかなってずっと思っていて。結局、情報って言葉をどうやって捉えるか、どう定義するかにももちろん寄ってくると思うんですけれども。結局、意味がちゃんと伝わって、何かその意味内容が理解された時に初めて情報が取れたと考えるのであれば、今みたいに何がファクトで、何がフェイクなのかよく分からないような状況で、色々な情報の種になるようなものは、大量に取れるかもしれないけれども。結果として、それが何か意味が伝わったものとして、狭い意味になってしまうかもしれないけど、情報として入ってくるかどうかっていうのは、なんかだいぶ違っていて。むしろあの昔のように情報と呼べるものが極めて少なかった時の方が、数は少ないけれども、それなりにあの何が正しそうなのかっていうのは理解しやすかったという面で行けば、必ずしも今の時代が情報が取りやすいとは言えないような気がしていて。むしろ、だからファクトとかフェイクの話で、まさに今ここに繋がっていると思うんですけれども。それが色んなものが混在してしまったがゆえに、昔とは違った形で情報が取りにくくなったと見ることもできるんじゃないかなと。

・仰る通り、情報が取りにくくなったと言うか。取れるがゆえに、そのファクトをどうやって見分けるかっていうことなんですけど。私の場合は、よく家族ともお喋るんですけど、50:50だよねと。ここで実際にその人が対話していて、その見たり聞いたり、触ったりしたことなら、自分でこれが事実っていう風に判断してもできるんだけど。ネット上の情報なので常にこう50:50で捉えて、それで自分に響くものを自分の中で構成していくってことかな。情報の中から自分で情報の中から自分の真実のようなものに引き寄せて行くってかな。100%どれかの情報を信じちゃうっていうんじゃなくて、常に50:50で見ようねっていうような姿勢ではいます。

・僕も今の方おっしゃったことと感覚が似てまして。僕の感覚だと世の中に正しいというものと、正義っていうのはないと思ってます。それぞれの人の立場から、その接する順番だったり。入ってくる人だったりで、その人の価値基準が変わると思ってるので。情報はもう色んな物がありますけど、自分で偽物を拾いながら経験して、自分の中の判断基準を整えて行くということだと思っています。一律には言えないのかなと思っております。

・パソコンは少ししかやらなくて、こう必要な情報を探してもた辿り着けないんですね。例えば、こないだ郡山の若い子が東京電力の電気を全部稼働すると840Kwになるっていう話なんです。それを検索してもどうやっても見つからない。本当に必要な情報に辿り着くってのがすごく難しいと思ってます。色々あるけど、私は実際、人と会ったり、本にちゃんとなってる情報を一番信用していて。その本も出版社にを選んでっていう感じなんですけど、例えば外国の生活とか聞いたり知りたいなと思ってもテレビではね街角カフェがちょっとあるくらいで。外国の様子も知りたいけど分からない。そういうの本当にテレビで流してくれてれば、本当に一番いいんだけど、知りたいと思う情報には私は辿り着けない。違う情報だったりが多いなと感じています。

・今のことに関して言いますと、知りたい情報に辿り着けないと仰った。それは昔も今も多分これからも変わらないと思いますね。だって今までだって情報を取る場合、色んな信頼してる人から聞くとかね、本を見るとか、色んなテレビとかラジオとか集めてきた訳です。その中から信頼できる情報を見つけてきた訳だと思うのね。だから、それは昔もそれやってたこれからだって情報はものすごく氾濫してる訳だけど、その中から見つけていくしかないんだろうと。それはもう昔だって、今だってこれからだって変わらないと思いますね。

・さっきお仰ったように、正しいも正しくないもないと私も思っていて。自分で手に入れた情報で、もし間違った自分が判断をしても、人生ってさっき最初の頃、仰ってましたけど、それも人生なのでは。必ず100%完璧にっていうことで人生を捉えなくてもいいような感じで、生きた方がいいかななんて思います。

・1億総中流と呼ばれた時代、私の家とあなたの家と同じようにあの高級品をそろえてとか、いい車乗ってとかってまあ、価値基準が同じ時代は過去に有りましたけど、今はそれぞれの価値基準が時代で変わってると思っています。その中で僕の会社の事例というか、やっぱり昔は役職っていうのがあって、社長とか部長とか課長とか部下とか。〇〇課長とか、そんな風に呼び合うことがあった。今はもう社内で、皆さん付けなんです。新人であっても、年が離れてる新人でも〇〇さんっていうふうに言うような文化だったり。あと上の役職の人でも、あのもうかしこまって〇〇部長とかじゃなくて、〇〇さんっていうフラットな時代に。上から目線で業務指示が下りたりとかではなくて、それぞれが考えて、なるべくやりたいように自分が上手く動けるようにやっていくっていう。まあ、もちろん統制はありますけど、昔とは働き方も変わってきたなというところがあります。

・先ほどの方の情報を見つけていくしかないってことに関しては、まず完全に同意で僕もそう思います。なんだけど、昔と今ででもやっぱり最大に違うのは、探せる範囲が圧倒的に広いですよね。それこそ昔とかだったら、例えば、僕が学生の頃とかだったら、まだネット検索とかできなかったので、卒論とか書くときにその図書館とかで調べれる範囲でしか調べられないし。要するに自分の直接属している分野のその研究論文とか、それなりに大学にいれば読めますから、そこは読んでるけども、お隣さんの分野で実は同じようなことやってるんだけどっていう時に全然そんな情報中々入ってこなくて気づかなくて。だから、ある意味平和にやられたと思うんですけど。今もうネットでキーワード入れたら全部できてしまうから、ちゃんとそういうところに目を向けていないと、ちゃんと勉強してないとかって、いろんなところから球が飛んできたりするので、何かその見つけるためにあのしなきゃいけないこと調べなきゃいけない範囲ってのがめちゃくちゃ広くなって来てて。更に色々自由になってるようになったら、どうなっていくんだろうなって感じがします。やっぱりなんか同じようで違うようなと。

・今の話聞いて自分のことを思うと、気になる情報をネットで調べだすと次から次へと色々出てくるので、もうこれで体力が続けば明け方までやっちゃうだろうなみたいなと。でも、流石にこの年なので眠くなってあもう無理ってなりますけども。確かにそうですよねと思いました。

・何が真実で何が虚構か分からないって話で言うと、さっき地縁とか血縁を大事にしていこうって僕言ったんですけど、実際にここに来てることもそうなんですけど、やっぱり自分で見て感じて考えて、調べて自分の仮説を自分で信じることって仰っていましたけど。自分の仮説を検証するっていうこととして、こう常に生きていくってのがいいんじゃないかなみたいなことを思ったりしましたね。

・情報を取る場合に範囲がものすごく広くなっちゃってて。いっぱい取ることができる。どうしたらいいんだか分からなくなっちゃうみたいな事を仰ったんだけど。ただ、そこで情報はあくまでも、私がおるわけですよ。例えばチャットGPTに対して、こういう質問する訳ですよ、ある事に関して。それで帰ってくるでしょ、答えが。答えがいっぱいあるにしても、それを判断するのは依然として私とかそれを調べた人な訳で。判断するのはこのちっちゃな個人な訳で。だから、どうなっちゃうか分からないというのは、主体性がないかなという感じ。そういう意味で、やはりこの場はてつがくカフェ@ふくしまですけど、やっぱり哲学的な心伝美とかね。善悪とか、こういう基本的なことについてどう考えるかっていうのは、どんなに情報が氾濫していようと基本はそこにあると思うけど、やっぱり哲学は必要だとてつがくカフェ@ふくしまのPRにもなるのかなと。

・今回、哲学カフェに初めて来たんですけど、他のも何回か来たことあったんですけど。やっぱり、哲学的な思考が大事だということだと思うんですけど。答えのない問いに自分で答えを出していくってことだと思うんですけど。それで言うと、例えば生きてるってなんだろうと思ったら、googleに生きてるって何なんだろうって打てば、哲学的なウィキペディアとか出てきて、哲学の世界とかに入ってくるわけじゃないですか。だから多分もう一層、もしかしたら僕がそうだった気がするんですけど、もう一生哲学カフェとかに来なかった可能性があるんですよ。あのiphoneとかインターネットがなかったら。一生自分の趣味範囲内に閉じて、同じことを反復して死んでいった気がするんですよね。だからそう思うと、こういうとこあるってことを、本当に考えた人たちにどう伝えていけばいいんだろうなとか思ったりしますね。

・この時代をということではないんですが、今おっしゃった言葉でちょっとあのピンときたので、大昔の時代から今の時代、それから未来においても必要なことは、自分に与えられたご縁を大切にするっていう事だと思いまいした。

・どう生きるかっていうことで言うと、さっきのとちょっとかぶるんですけども、自分の生きたいように生きるのが一番いいなと思いますね。8億いたら8億の人がみんな違うわけだから。自分が思うようにいるのが、それが個性を輝かして生きること、自分を生きるってことなのかなって思うんですね。私が20代の頃は人生でなんだかなと思った時によく駅前の広場が見渡せる二階か三階のカフェに一時間ぐらい座って駅前を道行く人を眺めていると。いろんな人がいて、一人として同じ人がいないわけですよ。そうすると自分を行けばいいんじゃんっていう風に思ったんですね、20代の頃は。そうだ、じゃあ自分の好きなように自分の思うように生きればいいんだっていうふうになって。そんな気付きをもらってっていう感じだったんですけど、今は先ほど話しましたけど、ネット情報が得られる環境にいるので。もう色んな人がいるので。だったら、やっぱりあの自分を生きれば良いんだなあっていうふうに。かつて駅前のカフェで見下ろして、気が気づかされたその自分の大切さみたいなのを、今はネットで気づかされているっていうところですね。自分の生きたいように生きればいいんだっていうところが、この時代をどう生きるかっていうところの問いの私の答えかなと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

5月20日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「日本国憲法どう変えるか?変えないか?」です。

オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.2.18.「        」

2023年02月19日 09時42分58秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月18日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは5名の計15名の方にご参加いただきました。



今回はテーマを決めずに対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・毎年一回ですけれども、テーマを予め決めずに今日何話し合うかということから話し合うという形です。集まった皆さんの中で何か一つのテーマで話し合っていきますけれども、残ったテーマに関しては、この一年間でまた話し合っていくみたいな形で、どっかで使わせていただこうと思ってます。とりあえず今日は何を話すかということで、まずは20分位で今日のテーマを決めていきたいというふうに思います。何かこんなことを話し合いたいとかっていうのがあったらどんどん出していただければというふうに思います。よろしくお願いします。

・先ほど世話人からの説明で、5月からは飲み物を提供するスタイルを再開するかもしれないという朗報がありましたが、それに若干関連するけれども、「カフェを名乗るためには何が必要か?」ということを話したいと思います。

・哲学かどうか分からなかったんですが、今すごい時代の転換にいるのかなという感じがあります。私たちは今どのような時代の転換にいるのかということを皆さんが感じてるのかをお聞きしたいなというふうに思います。。ここ最近すごく変わってるなと思うことをあげてみれば、まさか今の時代にミサイルを勝手に他の国に打ち込むことを始めるといのが、ものすごくびっくりしました。それからSDGSがらみで気候変動の本を読むと、AIは人間を2025年には超えるみたいなこと言ってる人がいて。あとはテクノロジーとか遺伝子の操作で人間があのサイボーグになったり、あるいは生まれてくる子供を選ぶことができたりする時代が来てるということで、従来の人間観が変わってしまうような技術が可能になってるのかなということで。すごい時代が来てるなと思ったので、皆さんの考えを聞くことができればうれしいなあと思いました。

・今日初めて参加させていただきました。あの先ほどのお話と関連するかもしれないんですけれども。最近僕が気になっているのが、「未来に対しての責任とは何があるんだろう」というところがすごくモヤモヤしていて、今日はそれらに関連して話し合えればなと思ってやってきました。

・このテーマが以前にもやったかどうか、分からないんですが「家族とは何か?」というものと、もうひとつ「お金」について、マネーですね。この二つを考えてみたいなと思います。

・世話人からの補足ですが、てつがくカフェはもう十何年やってるので、これまで話してきたテーマがあっても何度でも話してもいいかなと思ってはいます。

・いくつかあるんですけど、今のお金の話もかなり僕も気になるので、「金儲けはいいことなのか」というテーマはちょっと気になりますね。それから一番個人的にも考えているのは、自分もずいぶん年をとってしまった訳で。これはもう事実として、もう還暦だなということでそうなってくると「年をとるということはどういうことなのか」というのはどうしても考えてしまいます。あと、最近では「老害」みたいなことよく言われて、高齢者がまた昨日だったかもドライバー事故を起こしましたよね。で、色々とバッシングがあったりして、まあ実際老害は自分も多分それに含まれてしまっていて。危害を加える側になってくるんだろうと思いつつですね。「老害とはどういうことなんだろう」ということも気になります。あとは「セックスについて」。セックスのタブーとかですね、そういう事が、今僕も本当にずいぶん若い人たちの感覚と離れてしまっているので、若い人たちがどう思っているのかわからないんですけれども、セックス感というのも、時代とともにかなり変化してくるものだと思っています。それでこれを議論したいというのもあるんですけども、若い人たちがいらっしゃれば、若い人たちがセックス観を聞いてみたいなあというふうに思っています。あとは哲学とか倫理学っぽく21世紀のこの時代に「よく生きるということはどういうことなんだろう?」と、さっきの時代の話された方もいらっしゃいましたけれども、やっぱりいろんなことが急速に変りつつある時代で、いろんな意味でこれまでなかった時代を迎えているわけですね。改めてその2000年代の哲学のテーマとして「よく生きるとは何だ?」ということもちょっとありなのかなと。あとは、同じ哲学でも「無限」に関して、私は大変興味があるので、無限とかに関しても話してみたいなと思います。話したいテーマがてんでバラバラですが。

・僕は「宇宙」に非常に興味があります。その物理学的とかそういうのもあるんだけど、誰が所有するかというのが非常に興味があって。今、それらしいルールがあるんだけど、国同士では民間ではほとんどゼロですね。民間が最近こういろいろ飛ばしたりしてると。例えば、「お月さんは誰のもの?」みたいなことに非常に興味があります。それで、アメリカがやり始めるとよその国がまた追随して、そこでここの月はどこどこの土地みたいな、そういうことが言えるものなのかなと。

・過去のテーマにもあったと思いますが、「人生はなんのために生きるか?」ということを一つお願いします。二つ目が「心とは何か?」。そして「幸せとは何か?」。あとはキーワードだけなんですが、「無」とか「無限」とかも興味があるんですけど。「無情」というものにも。あと最後の「希望」と言うことについても話してみたいです。

・「哲学カフェのテーマとして盛り上がるためにはどのような条件が必要か?」というのがとても気になります。

・今日はこれについての話し合いをする感じがしますね。

・哲学カフェにちょこちょこ参加してるんですけど。場所によってはですね、人それぞれですねっていうことが普通に出てくる場合があるんですね。人それぞれでいいんだったら多分哲学は要らないんだと思うんですよね、私は。でも、どうなんだろう?というのがあって。「人それぞれは哲学の答えになるのか?」という問いが最近私の中にありまして。皆さんどうかなということを話し合いたいです。

・「人それぞれは哲学の答えになるのか?」というのは、大体いつも人それぞれ終わってますね、うちもね。これはてつがくカフェの世話人としても、ちょっと考えています。

・「なぜ自衛隊からいじめはなくならないのか?」という具体的かもしれないんですけど、聞いてみたいなと。あとは「日本国憲法について」。他には「私たちはどう生きるか?」という。

・ほんの10分ぐらいでたくさん出てしまいましたね。まだ他に何かありますでしょうか?とりあえず今日は、この中から絞ってなきゃいけないんですけども。まだあるようでしたら出していただいて。

・「日本がジェンダーフリーにならない進まないのはなぜか?」。あと「夫婦は死ぬまで添い遂げなければならないのか?」。

・「倫理とは何か?」ということを聞いてみたいです。あとは「宗教」でいいです。

・これも具体的になっちゃうんですけど、あのいまだに東電は原子力は安全で安いって安定的な電源だって言ってるんですけど、一応「原発」について話す場があってもいいかなと思いました。

・あの来月が3月11日なんですけども、あの来月てつがくカカフェ@ふくしま特別編ということで、「変わる世界と変えてはいけないもの」というテーマで、いろんな原発絡みの問題は来月取り上げようと思っています。

・そろそろ、今日の話をどれにしようかなと。どれもテーマ良いと思いますが、今日話せなかったとしても、あのいずれ話し合いたいなと思うテーマがばっかりかなというふうに思って聞いておりました。この後、他の世話人と作戦会議を開いて、この一年間何を話していくかを決めていくんですけれども、とりあえずまず今日はどれを話そうかなと。もう今日は30分経ってますから残り一時間半ぐらいしかないんですけれども。どれを話しましょうかねということで、何かここまででご質問や、これはいいねっていうのはこの後の90分ぐらいで話していきたいと思います。このテーマは良いかなとかっていうのがありましたら、お願いいたします。まあ、ご自分が出したのは一番語りたいなってのはあるかと思います。今日はちょっと時間短いですので、短い時間で話せるのはどれかなっていうところで。哲学カフェのテーマとしても、「盛り上がる条件は?」というのは非常に興味あるんですけども。まああの。まあ、「それは世話人が考えろよ」というのかもしれないし、皆さんから聞いてもいいのかな。聞いた方がいいのかなと思いました。あと「人それぞれは哲学の答えになるか?」というのは、結構僕はすごく耳が痛い問いではありました。何かご意見ある方いますか?

・テーマを決めるのに方法の一つとして、昨年のように投票形式でもいいかなと。去年も同じようにテーマを決めるのに、一人一票ずつ投票とかやったと思ったんですけど、それでもいいのかなと。

・去年の事、全然覚えてない。投票なんかしたっけ?中々決まらなさそうであれば、投票という手も最終的にはつかわなきゃいけないかと思いますけど、なんとなく今日はこれがいいよねってみんなで話し合いで決まって行くと嬉しいなあと思ってます。

・個人的には哲学カフェのテーマに対して盛り上がる条件っていうので、もっともっと仲間を増やして行きたいという気持ちが僕が強いです。年始に近いので、それをまず話あって、あの今後また盛り上げられたらなと思います。

・私も盛り上がる条件に一票っていう感じでお願いします。

・私は「金儲けはいいことなのか?」などがいいかなと何となく思いました。

・多分セックスはテーマとして全然やったことないので、もうちょっと周辺のあったけど。取り上げることあんまりなかったので話し合いたいけど、別にこれ今日でなくてもいいなと言うか。これは改めてこういうテーマでやりますと、大学の学生とかに周知して若い人を参加させるとか、どういう風にしてるとか若い人たちのセックス観なんかを喋ってもらえるかは分からないけど。

・セックスなんですけども、ジェンダーの話にあんまり行かないでセックスの話したいんですよね。ジェンダーのことを喋りたい人も多分いて、その議論も当然あると思うんですけれども、当然それで絡んでくるんですけれども。ジェンダー論よりはセックス論で話したいというのが私の意見です。色々こうするのはいいことだとかこうするのは倫理的に間違ってるとか。あるいは、あのセックスしたんだから付き合ってるんだろうとか、逆に別にいくら誰とやったってかまわないじゃないかとかって、いろんな奔放な意見が聞けたらいいなと言うのが、そのセックスの話の私の考えているところの話したいことです。

・あのボードに書かれたテーマはみんな面白くて、それぞれ議論していければいいなと思うんですけど。要望なんですけど、今日のテーマはお金にしろセックスにしろカフェにしろ、なんでもいいですが、これいっぱい出てるんで、もったいないなあっていう感じがしました。これ一回の一つだけじゃなくて、テーマを二つぐらい用意して議論してもいいんじゃないかなって。一つで終わっちゃったら終わっちゃったでいいし、盛り上がったら時間を伸ばせばいい。場合によっては、2時間で限ってんですけど、場合によっては10分15分ぐらい伸びてもいいのかなと思います。それがテーマを二つぐらい用意した場合の希望です。

・なるほど。それちょっと考えたことありませんでした。ちょっと質問なんですけど、最初に出した「カフェを名乗るには何が必要か?」というのは、もうちょっとこれどういう意味だったのかっていうか、これなんか一緒に今日やってしまえるなと思いました。

・哲学カフェとこの場で名乗るけれども、以前はもちろん、コーヒー提供していたから「だからカフェなんだ」っていうことが言えたかもしれないけれども。今はそういうのもない中で、でもやはり哲学カフェとわざわざ使いますよね。だからカフェという言葉には、一方でおしゃれなカフェみたいな使い方をしていて、何か昔ながらの喫茶店ではなく、何かちょっとこじゃれたあのお茶を飲むところという意味で使ってる場合もあるけれども。そうではない意味を使っている場合というのは、この哲学カフェだけじゃなくて、ほかの場面でもあるように思うんですね。〇〇カフェとかっていうので、何かその集まっていろんな議論をしたりするとかっていうのは。恐らくハーバーマスが、何かの公共圏あたりからの議論で、カフェという言葉を引用してるんだろうなって想像がつくんだけれども。その言葉自体が少なくとも日本語の語感からすると、よく分かんないんだけど、なんとなくぼんやり使ってるなと思っていて。そうするとじゃあ、僕らがカタカナでカフェと書いた時で、かついわゆるおしゃれカフェも含めてもいいんですけれども、とりあえず話をややこしくしないためには、おしゃれカフェではない。だけどもカフェを名乗るときに一体何をイメージしているのか。ここをどのような場作りしたいと思ってるんだろうかと。それに対してどういう関わり方をしていこうと思ってるんだろうかということを一回言語化してみると面白いなと思ったそういうところです。

・なるほど。これ世話人になっていながら、あまり世話人の立場で答えられるような正式な回答がないので、テーマとして取り上げるにはちょっと厳しい感じもするんですけれども。また、あのこれはこれでなるほどなあと思って聞いてました。

・今のことでちょっと話したいんですが。要するに「哲学カフェ」のカフェって英語ではないですよね?多分、フランスでも。カフェなんて言うネーミングしてのフランス的かなと思って前から思ってたんだ。例えばパリで。 いろんなカフェの前にテーブル出して、議論したりする場面が多い。ああいう感覚で出てきてるのかなという感じがしているんですよね。そういう意味で、こういうネーミングも色んな背景を抱えてるなあと思って前から思っていました。

・仰る通り、正にそのパリが出自でして、だから私たちの喫茶店のイメージとも全然違うんですね。なんかね。やっぱりハーバーマスが言っていたような、何世紀かのあのカフェっていうのが、出発点にはあるんだというふうには思っています。 何人かの方から賛同いただいたので、今日とりあえず「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件は?」というので話し合ったですね。あのもう僕ともう一人の世話人で決めようかと思ってたけども、これは何月やろうみたいなことをこの場で決めてもいいのかもしれないし。年間計画を立てられた形でもいいかもしれないなと。まあ、そこまで決めなくても、まだとりあえず「哲学カフェのテーマで盛り上がる条件は?」ということで考えてみて、それを踏まえてこれをまた今度精査してみるなんてことをやってても、今後一年間とか、もっと何年間でもいいんですけども、こんなふうにっていうのも考えるかもしれないし。例えば、その一つにこだわらなくても良いっていうのが、ちょっと全く考えていなくて目からうろこが落ちたんですけども、これとこれだったら一緒にまとめておいて、どっちかだけ喋っても良いし、両方喋ってもいいよねみたいなふうなのなんかもそんなような具体的な意見なんかもふまえて、そのどう盛り上げていったらいいかっていうような形で話し合っていきたいなというふうに思うんですけども、皆様いかがでしょうか。提案者だけが手を叩いてくれるんですが。何かご異論あれば。大丈夫でしょうか?じゃあ、今日はその「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件は?」ということで話し合ってみたいなというふうに思います。

・ちょっと思ったんですけれども、これまでの哲学カフェの中で、どの回が盛り上がりましたとかっていうのをざっと世話人の方に言ってもらえると、いいんじゃないかなって気がするんですね。というのは「そうか、これが盛り上がったのは何故だろう」とか、そういう風に皆さん考えられるんじゃないかと思って。ちょっとあんまりこう出てきてない人だとピンと来てない人もいるかもしれないんですけれども。なので、これまで「この時はすごい盛り上がったとか」、「この時は予想してたけど、いまいちだったとか」ってざくっとなんか最初に話してもらえると嬉しいような気が。私はしますいかがでしょうか?

・2022年度のここ数回は、結構僕盛り上がってると思っていて。今年はですね「日本人とは何か?」とかも結構、盛り上がって僕は楽しかったですね。大体盛り上がった時っていうのは、世話人が写真撮るの忘れてたりとか、そういう時なんですね。なので、のんびりゆっくりと写真撮れてる時というのは結構盛り上がってないかもしれないね。前回は確か写真撮れなくてあとでやらせの写真を撮らせてもらったみたいなことやったような気がしますね。あと「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というのが、意外とあの盛り上がったんじゃなかったのかなっていうふうに思います。それから、なんだっけ? 誰か覚えてますか?記憶力がね。ここ数回は「反省と謝罪はできるのか?」もそうだったんじゃないかな。あの数回は結構盛り上がってるんじゃないかなっていうふうに思っています。夏頃はちょっとなんかそんなでもなかったのかなっていうふうに思ってるんだけど。どうだったかな?「お墓は必要か?」とかもちょっとなんかこう、あんまりだったような気がする。「戦争と平和を考える」とか、この時はすごい人が集まって、結構会場には17人、オンラインで6人ぐらい人が集まってますよね。2021年の記録だとブログに人数が出てるんですね。あと「翻訳はどこまで可能か?」って結構、Zoomがうまくいかなかった時だけども、結構面白かったし。あの特にこれに興味のある人は集まってきてくれて、いろんな話ができたのかなっていうふうに思っています。 あの「本deてつがくカフェ」とか「シネマdeてつがくカフェ」は大概いまいちだった記憶がありますね。なぜか知らないけど、まあやっぱ僕ともう一人の世話人の趣味って言うのが偏ってんだろうなという気がします。「親の呪いは解けるのか?」とかどうだった?これ、結構面白かったんだったっけ?そうでもない?そうでもないみたいですね。

・今まあ2年分ぐらい振り返ってくれていたので。僕自身もちょっと振り返りで人と発言しようかなと思ったんですけど。一言も発言できなかったんだけれども、一番印象に残ってるのが「自分はどう介護されたいか?」ってテーマだったんですけども、なんで発言できなかったかっていうと、結局のところ自分が真剣に自分の介護のことを考えたことが無かったっていうのが結論だと思うんですけれども。どの方の意見を聞いても納得してしまって、自分はどうされたいかとかそんなこと思ってしまって。それでいろいろ考えを思い巡らせているうちに、結局自分は全く介護について考えてなかったんだってことに気づきまして。それであのとても面白かったってのをすごい記憶しています。僕の中での今年度の一番のヒットはまったく自分が発言しなかったテーマになります。

・ここの問いは「哲学カフェのテーマとして盛り上がる条件」なんで、ライブで盛り上がる条件とかではないわけですよね。哲学カフェのテーマ、哲学カフェで盛り上がるっていうのは、それはどういうことなんでしょうね?哲学カフェで盛り上がるっていうのは、人がたくさん集まれば盛り上がったことになるのか。たくさん意見が出て、俺はこう思う。俺はこう思うっていうのが全然纏まりつかずたくさん出ました。それは盛り上がってことになるんですか?それとも意見の繋がりとかが感じられ、どんどんその深まっていった感じがあれば、静かでも盛り上がったいうことになるんですか?この「盛り上がる」っていうのは何を指してるのかっていうのがちょっと今見えないなと感じてます。

・非常に良いご指摘で。まあ、まずそもそもそこから考えていってもいいのかもしれないし、そこに関する皆様イメージを出してもらってもいいのかもしれないですね。盛り上がるってどういうことなんでしょうね?哲学カフェが盛り上がる。

・テーマによって深く静かに考えることで、内面の充足感や満足感っていうのは得られると思ってます。なので、あの人数とかではなくてテーマで、あの一人ひとりの意見を尊重することによって、自分の考えが深まるっていうのはいいことだと思います。で、もう一つ、新しくどんどん参加していただける方を増やしたら面白いなと思っているところは、まあ二面性両方僕は求めちゃうところです。

・これもやっぱり世話人の立場からすると、やっぱり一つにはこの場に人が集まってくるっていうのは、それはそれで重要なことかなと思っていて。それはもちろん、皆さんそれぞれいろんな事情とかがおありと思うけれども、やっぱり基本テーマを予め開示してそれで「来てくださいね」っていうふうに言ってますから。まあ常連さんでも「とりあえず来るよ」っていうふうに決めてる方はまた別として、割とこうテーマによって、来る来ないという方がいらっしゃって。さっきの「翻訳とは?」みたいなやつは、このテーマだから来たみたいな人がいらっしゃって。新しい人が来るから、それはそれでなんというかこう面白いし。割とそれに関して考えてるからいろいろ深まるっていうこともあるっていうので。そういう意味では世話人としては「みんなに話したくなる」「来て話してみたくなる」ようなテーマっていうふうなのを考えている。そういう意味で人数とか発言数っていうのは、割とバカにできないというか。そういう条件になってるのかもしれないというふうに、僕は思っています。ただ、もちろん参加してる方は別かもしれないですし、特にその常連で、テーマで選り好みせずに来てくださってる人たちからすると、また別の考え方あるのかもしれないなあっていうのは今確かに聞いていて思いましたね。

・もう一つ、僕の方から言わせていただくと。僕の立場からすると、やっぱり大体いつもまあこのテーマだったら、こんなふうな話が出て、こんなふうに進むかなっていう。まあ一応予想は立てます。予想通りに行った事は一回もないんですけど、まあ一応予想は立てるんですけども。この予想をはるかに飛び越えた、全然想定もしていなかったような観点からの議論でそっち盛り上がってしまうと、なんかこっちとしてスカされたような気もしなくもないんだけれども。「おお」って、まさにその目が目から鱗が落ちるじゃないですけど、そういう感じで。自分のこれまでとは違うものの見方を開かされるっていう意味で、すごく印象に残るというか、やっぱ盛り上がったなって僕なんか思うことがあります。だからそれは、先ほどの方の「人それぞれは哲学の答えになるか?」っていうので、そこにも繋がっていくような気もするんですけども。僕はどちらかというと、まさにその自分が思ってもみなかったような、一応哲学の専門家としていろいろ考えて、ここに臨んでいるのに、それをこうガツンと全然違うのでやられてしまうっていう時には、あの僕自身としてはすごく「おお」っていう感じで。これやってて良かったなあっていうふうに思うところがあって。まあ、それが人それぞれっていうふうにやってしまうつもりはないんだけれども。やっぱりいろんな多様性というのが、それに触れるっていうのは、この集まりの僕は楽しみかなと思っております。

・例えばこの部屋でやる場合、みんな座って20人ぐらい座れると思うんだけど、そういうとこで話をし合うと、一人が話してる時間ってものすごく限られてきますよね。だからどれぐらいの数がこう盛り上がる方なのか、そういう気もしますけどね。

・これも世話人の立場からちょっとお答えさせていただきますと。20人ちょいぐらいまでっていうのがいい感じな数字で、人数的にはそのぐらいかなと思っていて。それが割と2011年からの平均人数で、今はもっと少ない数で推移してますけれども。別の世話人も広報に頑張ってくれて、コロナ前は色々と宣伝して20人以上集まるようになっていて、テーマによってもっと30人とか集まったりとか。あと特別編はまあ毎年これも大掛かりに宣伝していた頃は、あの50人とかもっと集まって、そこから定例のてつがくカフェでだんだんと減って20人ぐらいになって、また特別編でわっとみたいな。そういうのをずっと毎年繰り返していたんですけども、ちょっとこのコロナのせいで、あんまり人集まってもらっても困るなと。それで宣伝をあまりしてないんですけれども。そういう中で、まあ、やっぱり20人ぐらいっていうのが、適正規模という意味で言うと20人ぐらいなのかなと思っています。昔哲学カフェを映画館でやった時がありまして。映画をその場で見て、その後てつがくカフェをやるっていうんで、一番多かったのはあのハンナアーレントの映画でしたかね?100人ぐらい集まって100人みんなそこに残って、話したってことがあって、それは当然全員が話せはしないんだけれども。まあ、あれはあれで面白かったかなと。たまにそんな事があってもいいんだけれども、コンスタントに言ってみれば20人ぐらいかなかなというふうに僕なんか思っているところです。

・皆さんの話聞いてて思ったんですけど、哲学カフェということを頭にくっつけて話し合うと、「人とは?」とかね、根本的なことを議論がして噛み合う。そういうことが盛り上がってことじゃないかな。それが対話ということなんですかね。あるいは根本的な事を求めて議論が噛み合って展開していくことじゃないのかなと思うんです。全然別なんですけど今日Zoomに哲学探偵さんって出て名前の表記が出ているんですけど、それを見た時から興味あったんです。哲学探偵という響きは盛り上がりの一つの考えるヒントにもなるのかなと思った次第です。

・あの今、おっしゃっていただいたように、ちょっと興味を引きますよね。多分ね。まあ、なんだこいつって思うわけですよね。まあ、哲学ってものを名前につけてしまうとですね、やっぱり哲学に多少は詳しいんだろうとか、何かしらそういうことである種の敵対的な意識で見て来る人も中にはいるだろうなってところもあってですね。いずれにしろ、まあ盛り上がる要素の一つにはなんじゃないの?っていうようなところもあって、哲学っていうのをつけてます。探偵の方はですね。哲学と言ったら謎を解くなので、謎を解くったら探偵だろうって。ええ、そういうことでですね。あの私はそのなんか思いついたことを、ただだらだらしゃべることは哲学にならなくて、例えば論理だとか何がしかのその方法論思って検証ができるようなことが必要だろうと思ってまして。方法論というのは、つまり道具ですね。考えるための道具。使うものだろうとまあ探偵で言ったら虫眼鏡とか、まあナイフでもなんでもいいんですけど、何かしらその道具を使いながら、アプローチをするんじゃないのっていうことでですね。そういった意味で探偵って付けてます。

・質問いいですか?その観点からいくと。哲学カフェとかすごいダメな感じしませんか?

・いやいや、あの哲学にしろ、まあ対話もそうなんですけどベイビーステップというかですね、本当に。その小さな一歩を重ねていくような形でですね。あっちも気になるし、こっちも気になる。じゃあちょっとまずこれからじっくり見て行くか?みたいな感じでやっていけばですね。哲学カフェも非常に興味深いものになると思いますし、逆にそういうのやらなくてですね。いろんな意見が出ちゃって収集つかねいやってなったらなったで。それはそれでまあ面白いというか、あの自分の視点が変わる。ちょっとこのカードの裏面見てみるかっていうようなことがですね。一人じゃできなかったりするわけですね。それが100枚もあったりすると自分ひとりでは難しいので、いろんな人の意見を聞く。あーなるほど。そういう見方もあるのかって事に気づくっていうことも。まあ、一つ哲学のアプローチというか、要素としては必要なことだろうと思うので、哲学カフェが哲学ではないとは思いません。ただ、これが哲学ですって言われると、それはどうなのかなとも思ってしまいますけどね。一要素としては全然ありというか、意味あるものじゃないかなと思います。

・あの哲学探偵さんに聞いて欲しいですけど、上げ足を取ったりしようということではなくて。そういう意味ではないということで聞いてほしいんですけど、僕だったら哲学探偵とは言わない、名乗らないですね。なぜかっていうと、探偵っていうのは一般的に、例えば隠された真実を暴くみたいなことですよね。真犯人は誰かとか、こいつら不倫をしているのかとかなんかわかんないですけど、要は隠された真実を暴くという仕事だと思うんですけれども、哲学が隠された真実を暴く仕事だと僕は考えていないからなんです。つまり、隠された真実が存在するってことを前提としているのが探偵であるけれども、哲学はそれを前提としちゃいけないだろうと言う考えなんですね。くだらないことでなので私はだとしたらば哲学探偵とは名乗らないだろうなと思っただけです。

・ここで言う必要があるかどうか分からないですけども、もともと、大阪大学でこの哲学が哲学プラクティスとか、まあこういう臨床哲学っていうのが出てきて、この臨床哲学ってのに対してはまあ、まさに哲学プロパーというか、専門家からは当初ものすごい敵対視っていうか、「そんなの哲学じゃない」みたいなのがありました。僕の中でも今でも若干やっぱその学会でやってる哲学を極めるというか、そこでやっている哲学解明と哲学カフェでやってることってなんかぜんぜん違うよなあっていう風に、自分の中でもその二つがうまく、どこまで結びついているのかなっていうのはあの思うところはなく。これは僕のちょっと別の関心から、哲学カフェに関してはすごく楽しくやってるんですけれども、本来僕は倫理学者として倫理学のさまざまな問題を考えて行くっていう時に、それとこれとがどこまでどううまくいってるのかっていうのは結構、きちんと説明しなきゃいけない。実は説明しきれてないところもあるかもしれないっていうところはあるし、そこが僕のこの哲学カフェの運営の仕方、このファシリテートの仕方っていうのとも関わってきて、なんかつい僕なんかも「面白い、面白い」とか、「はい、〇〇さん」みたいな指名係になってしまって、何かこう全然まとめようとしてないっていうのはあって。果てして、それでいいのかっていう問題はある。一度だけ「大人とは何か」っていうテーマで、今回はみんなで合意することを出しましょうっていう回があって。その大阪大学の本場の人の研修を受けてきて、いわゆる哲学カフェとはちょっと違うパターンがあって、それを学びながらみんなで答えを出す方向で行こうぜっていうのをやろうとして、結果全くうまくいかなかったことがあって。もう完全に人それぞれで終わってしまったということがあって、やっぱ哲学カフェはそっちにいかないんだなあっていうの思い知らされたなんてことがあってですね。まあ、それ以来その試みやってないんですけど、またやってみてもいいかもしれないし、これは今後のてつがくカフェの進め方も変わってくる問題かもしれないと思って。ちょっとテーマから凄い離れてしまっているかもしれませんが、まず「盛り上がるとは?」っていうのは、いくつか出てきてこの観点によってなんですけども、いろんな条件があってですね。やっぱり多様な意見が出て拡散して行くっていうことと、やっぱりその深まっていって、できればそのどっかに向かっていくみたいなことっていうのは、ちょっと方向性が違っていて。「てつがくカフェ@ふくしま」では、そんなにみんなの議論が収斂していくっていう方向にこう進めたことがないので。多様な意見が出ておしまいっていうので、いつもやってきたかなというふうに思っていて、果たしてそれが盛り上がったといっていいのかどうかっていうところではありますね。それと、もう一つ。何年前だっけ?2017年だっけ、サンチャイルドがあのでっかいお人形が福島に来て、それに対して福島市民が賛否両論に分かれたことがあってで、これは最初はなんかあのでかいのが飾られたから、それのアートで哲学カフェの一環としてやって。そしたら本当にちょうどその賛否を全く割れる意見になって。あの時はあの50人ぐらいの人が、この半分の部屋に50人が入ったりとかしたことがあったんですけども。作者の方に来ていただいたりとか、それから何回かやってて、僕なんかはサンチャイルド賛成派だったから。推進派だったから、サンチャイルドを戻そうみたいな風にこうなんか持っていけないかなと思ったけど、全然持っていけなかったとかいうようなものもあったりとかしてですね。あれもだからすごく懐かしい思い出というかですねではありますね。 やっぱりそのテーマでみんなの関心があったから、すごく人が集まったと思うけども。賛否両論みんな出て、あれはあれでどうだったんでしょうね?あれはすごく僕の中でもなんかこう消化不良というか。

・今最後に消化不良って言葉が出てきたのが、とってもいいヒントになったなと思ったんだけれども。その人それぞれの方向に話して行っても、その消化不良と感じる時とそうではなくて、「なるほど。それだけ多様な考え方があるのだ」と思えるという。つまり二つに分岐してるような気がするんです。多分盛り上がったかどうかは別として、少なくとも僕自身が面白いなあと思って、帰る時っていうのはだいたい「ああ、そっか。それだけ多様な見方があるんだな」という方向に思えたので。いろんな意見だけど、結局なんか徒労に終わってしまったような消化不良な感じがする時っていうのはあまりあの面白くないよないう感じはするなっていうね。今の言葉で、あの消化不良という言葉が非常に哲学カフェがどうあったらいいんだろうかっていうことを考えると、いいヒントになったなと僕は感じました。

・テーマって一つの問いだと思うんですけど、問いの立て方としてどういうものがあるかなって今考えてみました。一つはイエス・ノー、〇×の二つに分かれること。あとは何かっていう「What」っていうのと、どのように「How」。あとは理由「Why」っていうところがテーマとしては立てられるのかなっていうのをまず考えました。

・私自身は初めて来たので、なんかこうテーマがあってとかではないんですけど。皆さんそれぞれいろいろテーマをたくさん持っておられると思うんですけど、なんかよくそんなに持ってるなんて思うんですけど。なぜそのテーマを持つようになったんだろうと。そもそもの動機って何なんだろうってすごいテーマそのものより、その人自身にこう興味が湧いて来ちゃうのかなって気がして。そこなんか深堀してたら、結局は違う領域のところにもアクセスできるようなところがあるのかななんてふと思いました。

・一つ前の方に質問的なコメントになるんですけれども、「いつ」と「どこ」っていうのがあえて抜いてあると思うんですけれども、そこから始まる哲学的な対話できないでしょうかね?

・「いつ」「どこで」を考えた時に、その時代時代のコメントっていうのが出てくると思うんですけども、そこで時代に縛られちゃうのかなっていうのを思っているので、そこで収束して面白いことだったら「いつ」「どこで」っていうのはありだと思うんですけど、多分僕の好みとしてはまあそうしない方が幅広く議論できるかなと思って、僕はあげなかったです。

・参加して面白いなと思うことはやっぱり、「そういう考えがあるんだ」っていう新しい予想外の意見が出るっていうことだと思います。もっとあの面白いと思うのは、いろんな意見を聞きながら、なんとなく「あ!これが大事だよね」みたいな、大まかな方向がおぼろげにこう感じるっていう時があの面白いと思います。そこまで話すには、始め抽象的な「愛」とかなんか「正義」とかから入っても具体的な困ってる人を見て助けないの素敵じゃないよねとかこう、かなり具体的なところまでみんなが話せるところまでくると、今まで思ってたものが修正されたりするのかなということで。具体的なところを皆さんが出せるところまでくると面白いんだろうなと思います。

・あのだいぶ盛り上がって時間の忘れましたが、一旦ここでちょっと休憩入らせていただきたいと思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓





次回のてつがくカフェは、

3月11日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「変わる世界と変えてはいけないもの-フクシマの未来を想いながら-」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

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会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。